震えていた。
 手も、唇も、身体も。
 そして、心も。
 それは、初心故なのだと。
 そう、思っていた。



 『彼』は、恋をしている。
 そのことに気付いたのは、出逢ってから間も無い頃。
 いつも『彼』は、常に傍らに立つ男に、眩しそうな視線を
向けていた。
 それが、単なる『友情』だけのものではないと、確信にも
似た思いで知ったのは。
 自分が----如月自身が、『彼』に恋をしてしまったから。
 だが、如月は『彼』にその想いを伝えようとはしなかった。
 『彼』の想いは、全て傍らに在る男ただ1人に注がれていて。
それが揺るがないものであることを、強く理解していたからかも
しれない。
 自分自身に、置き換えて。
 そして。
 『彼』が、あの男の傍らで微笑っていられるのなら。
 その幸せな笑顔が、続くのなら。
 そう思えば、如月の心は満たされた。

 あの日、までは。

 『彼』は、傷付いていた。
 クラスメイトである仲間が、共謀して『彼』と美里葵との仲を
取り持とうとした、ことに。
 それを計画したのが、『彼』の想い人であった、ことに。
 笑って、躱しながらも。
 その胸の内は。
 傷付いて。
 傷付いて、赤い涙を流していて。
 独り歩いていた所を、不意打ちに敵に襲われ。
 身体もまた、傷付き血を流して。
 それを通りがかりに救ったのか、如月であった。
 身も心も傷付いて。弱っている『彼』に付け入るのは、容易い
ことだった。
 だが、そうしたくはなかった。
 そうして手に入れるものが、どんなに儚いか。
 如月が欲したのは、そんなものではない。
 はず、であった。
 それでも。
 如月の優しさを、『彼』は欲した。
 求められて、その手を拒む事など出来るはずは、なく。
 腕の中で、無意識の内に『彼』が呼ぶのは、自分ではなく。
 そのことに、如月も傷付きながらも。
 手にした儚い夢に、ただ溺れた。

 あの男は、恋をしていた。
 そのことにも、如月は気付いていた。
 『彼』と同じ。
 如月とも、きっと同じ目を、あの男はしていた。
 そして、『彼』もあの男も互いに、ただひとつの事に怯えていた。
 今の優しい関係を、壊したく無い。
 せめて。
 せめて、『親友』という関係だけでも。
 その繋がりだけでも、ふたりは守りたかったのだ。
 互いを、想っていながら。
 想うから、こそ。
 その気持ちに、蓋をして。

 欲しかったのは。
 望んでいたのは、『彼』の幸せだった。
 自分にそれが与えられるなら、どんなに良かっただろう。
 だがしかし、『彼』が本当に求めていたものは。

   僕は、ちゃんと伝えた。
   君も、伝えなければ駄目だよ。

 そう告げて、背を押した。
 もし、『彼』が結果として傷付いたとしても。
 その時は、今度こそ自分が全て受け止めて。
 きっと。
 その時は、訪れることはない。
 『彼』の想いは、届くだろう。
 あの男もまた、自分の想いを告げて。
 そして、抱き締めあうのだろう。

 予感ではなく、確信で。

 そして、如月は手に入れた。
 幸せな、『彼』の笑顔。
 それを見ていられる、位置を。
 望んで、手に入れた。




 夢を、見た。
 『彼』----緋勇龍麻の夢を。
 未練がましいな、と苦笑しながら。
 起き上がり、洗面所に向かうと冷たい水で顔を洗う。
 そうすると、気持ちは幾分落ち着いた。
 タオルで顔を拭きながら、ふと鏡を見つめる。
 そういえば、龍麻は時折如月の顔を見ては、困ったような
曖昧な笑みを浮かべる事が、あった。
 といっても、それは夏あたりまでのことで。
 そんなこともあったなと、ぼんやりと思い起こしつつ。
 理由を、聞いたこともあった。
 やはり困ったような微笑みを浮かべながら、龍麻は何処か
遠くを見つめる瞳で答えたのだ。

   少し・・・・・似てるんだ。

「・・・・・ッ」
 居間の掛け時計の音が、如月の回想を中断させた。
 タオルを洗濯機に放り込むと、足早に台所へと向かう。
 チラリと時計に目をやれば、既に11時。見間違い等では無く
午前11時。寝過ぎ、ではあるが寝過ごした訳では無く。学校は
3学期に入って3年生は自由登校となっていたから。今日も
如月は自主休校のつもりで、朝寝をして。
「とはいえ、やはり寝過ぎだな・・・」
 苦笑しながら、冷蔵庫を探り。朝食兼昼食を手早く用意すると、
ゆっくりとそれを平らげて。後片付けを済ませてしまい、如月は
上着を羽織って店へと向かう。
 あの闘いが終わってから、仲間が武器を始めとするアイテムを
買いに来るということは、少なくなったけれども。
 それでも、気分が向いた時に店を開けるという姿勢は変わらず。
 商い中の札を出し、一旦戸を閉めて店の中に戻れば。
 ガラリ、と。
 すぐに背後で、戸の開けられる音がして。
 早速の来客に、振り返り。
「いらっしゃ、・・・・・」
 以前よりは幾分柔らかくなったらしい接客用の笑顔で、声をかけ
ようとして。
 やや頭を屈めるようにして入って来た、客の。
 その容貌に、慌てて言葉を言い換える。
「Hallo, sir-----May I help you ?」
 サラリとした、金色の髪。
 ゆっくりと如月に向けられた瞳は、涼やかなアイスブルーで。
 年の頃は、20代後半或いは30代前半といった所であろうか。
ストイックにスーツを着こなす長身は、洋画で見る俳優のようでも
あり。
 だから、か。
 ふと過った、既視感は。
 その思いを、押しやって。
 取りあえず英語で、その客に話し掛ければ。
「あァ、日本語で構いませんよ」
 形の良い唇が、フワリと笑みを形どって。
 笑えば、やや冷たい印象だった貌が、柔らかいものとなり。
 流暢な日本語に、如月もホッとしたように笑いかけた。
「そう言って頂けると助かります、ミスター・・・・・」
「宜しければケヴィン、と呼んで下さい。久し振りの日本なので、
リラックスしたい気分だ・・・堅苦しいことは、忘れたい。店主は
如月・・・さん、で宜しいか?」
 差し出された手を、如月は軽く握り返す。
「ええ・・・では、ケヴィン・・・何かお探しの物がありましたら、
お手伝いしますよ」
「そうだな・・・友人が、古伊万里に凝っていてね。良いものが
あれば、見せて貰えるかな」
「絵皿なら、あちらに飾っているものが、お薦めです」
「ほぅ・・・・・これは、見事だ」
 如月が指し示した飾り棚の中の絵皿を、ケヴィンと名乗った青年は
興味深げに見つめ、差し出された手袋を着けると、注意深く手に掲げ
あれこれと検分し出した。
「友人への土産にと思ったが、・・・気に入ってしまったよ。これは
僕の家に飾ろうかな」
 絵皿を如月へと手渡し。
 青年は、肩を竦め笑ってみせる。
「さて、幾らで売って貰えるのかな」
「では、・・・このようなもので、如何でしょう」
 取り出したメモに、如月はサラサラと金額を書き込む。そう安い物
ではないが、この絵皿の骨董価値からすれば、かなり良心的な売り値
だと思えた。
「成る程、・・・・・OK、ではこれを頂くよ。代金はこれで・・・・
ああ、申し訳ないが発送を頼めるかな・・・アメリカなんだが」
「承りますよ、・・・それでは送り先をこちらへ」
 懐から取り出した財布から、青年は全額を現金で支払う。それを
受け取り、如月は海外発送用の送り状をボールペンと共に、机の上へと
置いた。
 随分と、呆気無い商談だ。
 自分よりは明らかに年下である如月の目利きを、彼は信用している
のか、それとも。
 それよりも。
 この店を、選んだ理由。
 都心よりやや外れた北区の、住宅街の中にあるこの店にまで、彼が
わざわざ足を運んだ、その理由が分からない。
 誰か得意先の紹介なのだろうか。それならば、その名を先に出しても
良さそうなもので。
「これで良いかな」
「ッ、有り難うございます・・・領収書のお名前は、こちらの御本人様
のもので宜しいですか? 」
 つい、考え込んでしまっていた。
 接客中の失態を恥じながら、如月は領収書を作るのに、送り状の宛て先
の確認を取る。
「アメリカ、・・・・・シアトルの・・・・・」
「ここには、・・・よく来ているみたいだね、『彼』は」
「・・・・・ッ!?」
 独り言のような、言葉と。
 送り状に書かれた、その宛て名を見て。
 弾かれたように顔を上げた如月は、半ば呆然として青年を見遣る。
「貴方、は・・・・・」
「隠すつもりは、なかったんだが」
 申し訳なさそうな笑みを浮かべつつ。
 青年は、再び如月へと右手を差し出す。
「改めて、・・・・・僕は、『ケヴィン・M・緋勇』」
 まだ唖然としながらも、如月も手を差し出し。
「ッ、・・・・・」
 その手が触れた、瞬間。
 如月の中の何かが、大きく震える。

   何だ、・・・・・これは。

 驚愕に見開いた如月の目を覗き込むようにして。
 青年は----ケヴィンは、ゆっくりと囁くように告げる。

「有難う・・・・・弟を----龍麻を、愛おしんでくれて」

 感謝の言葉を口にしながらも。
 そのアイスブルーの瞳の奥、静かに揺らめくものは。
 冷たい、炎。

「貴方は、・・・彼を・・・・・」

 声にならなかった、如月の問いかけに。
 怜悧な美貌の持ち主は、口元だけで微笑み返した。