何も、知らなかった。
 あの頃は。
 与えられる物を、ただ受け入れていた。
 初めて、の。
 秘密、の。
 その甘やかさに縋るように、その背を抱き締め爪を立てた。



「・・・・・平気、か?」
 午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
 3学期ともなると、卒業までの間は授業は有って無いような
もので、自由登校ということで自宅で思い思いに過ごす者も多く、
この日も教室には人は疎らであった。
 午後からの授業はなかったから、皆それぞれに挨拶を交わし
ながら、教室を出て行く。
 それを、ぼんやりと---否、目には映っていなかったのかも
知れない。頬杖をついたまま、席を立とうとしない龍麻の前の
席に、京一は椅子を引いて後ろ向きに---ちょうど龍麻と向かい
合う形で腰を下ろすと、周囲には聞こえぬよう小声で問うた。
 何処か虚ろな目をしていた龍麻は、その囁きのような声には
気がついたようで、ゆるりと京一に視線を向けると、フワリと
柔らかく笑いかける。
「・・・・・何が?」
「何が、って・・・お前、昨日・・・・・」
 まるで。
 創られたような、笑顔に。
 京一は眉を顰め、尚も言いつのろうとして。
 背後から駆け寄る足音に、慌てて言葉を飲み込んだ。
「ねッ、今日は久し振りにみんな揃ったんだし、これからお昼
食べに行こうよッ。僕、ラーメンが良いなー」
「うふふ、小蒔ったら・・・でも、本当に久し振りだもの・・・
ねえ京一君、龍麻君」
 いつの間にか2人を取り巻くように傍らに立っていた彼女等の
言うように、その後ろで困ったように笑っている醍醐も含めて
この5人が、こうして教室に揃うのも一週間振りになる。
 先週は、京一も龍麻も一週間前に登校しただけで。
 それに。
 今日だって、京一としては本当は自主休校にするつもりだった
のだ。

 龍麻の、身体を慮って。



「京一、・・・・・京一」
 昨日。
 龍麻の父親名義で届けられた、真紅の薔薇の花束。添えられた
カードを見た瞬間から、龍麻は様子がおかしかった。
 それでも。
 無理に聞き出す事もせず、京一は花束を取りあえず水を張った
洗面台へと投げ込んで。そして、龍麻のいる寝室へと戻って来た、
途端に。
 一糸纏わぬ、姿のまま。
 ベッドから駆け降り、ぶつかるような勢いで。
 龍麻は、京一に縋り付いてきた。
「ひー、ちゃん・・・?」
 また何かあったのか、と。
 問いかけようとした唇は、その言葉ごと龍麻の唇に飲み込まれて。
 そのまま、床の上に倒れ込むように、肢体を絡めて来る龍麻の熱に
煽られるまま、その身体に溺れそうになりながらも。京一の上に覆い
被さるようにして、唇に首筋に浮かされたように唇を押し当てる龍麻
を、どうにか引き剥がすようにして。
 転がるように身体を反転させ、今度は床の上に龍麻を縫い止めて、
自分がのしかかるような、体勢で。
 真直ぐに、龍麻を見据え。
「・・・・・どうした?」
 あくまで静かな声でもって、問いかければ。
 大きく見開いた深い彩の瞳からは、今にも涙が溢れてしまいそうで。
零れ落ちる、その前に京一は己の舌でもって、そろりと微かに苦い
それを舐め取って。
 乱れた髪を、大きな手でゆっくりと梳いてやりながら、再び龍麻の
瞳を促すように、見つめ返せば。
「・・・・・いつ、か・・・」
 昂らせていた何かを鎮めるように、息を吐き出しながら、その吐息
混じりの掠れた声で。一言一言、京一に、それとも、自分にか言い聞か
せるように。
「いつか、・・・・・話す、から・・・だから、今は・・・」
「・・・・・おぅ」
 絞り出すように、紡がれた言葉に。
 京一は短く応えると、微かに震える唇に、啄むような優しいキス
を与える。熱を煽るものではなく、凍えたような龍麻の唇に温もりを
伝えるように。
 それでも、どうしても抑え切れないものが、龍麻の内に在ったのだ
ろうか。京一の頭を、その腕でかき抱くようにして。もっと深い口付け
を、繋がりを強請って。差し込まれた舌が、腰に回された脚が、京一に
しっとりと絡み付いて。
「抱いて、て」
 ずっと。
 ずっと、俺を抱いていて。
 切なげな、囁きに。
 京一は、甘さだけではないものを感じながらも、深く深く。まだ、
先刻までの情交の余韻覚めやらぬ肢体に、沈み込んで。
 求められるままに。
 冷たかった唇とは裏腹に、既に熱く熟れた龍麻の下肢の中心へと、
己を埋め込んで。
「・・・京、一・・・」
 瞬間、龍麻が垣間見せた笑顔が----本当に幸せそうな、その微笑みに
酷く、息苦しい程の切なさと愛おしさを覚えて。
「・・・・・龍麻」
 ゆるりと。そして、次第に激しさを増す動きでもって、互いの欲を
煽り、昇りつめ。そして解き放つ。
 それ、は。
 再び夜が来て、また朝が訪れるまで。
 微睡んでは、また激しく求め合い。
 繋がりあったまま、濃厚な蜜を分け合った。

 薔薇の香は、もうしない。




「そうだね、ラーメン・・・行こう」
 小蒔たちの誘いに、龍麻は微笑みながら頷くと、京一が一瞬ヒヤリと
したのも気に留めた風も無く、極自然な所作で立ち上がる。
 朝、シャワーを浴びに風呂場へ歩いていくのにも、覚束無い足取りで
あったのに。だからこそ、今日は登校するつもりはなかったのに。
 1日のんびりと過ごそうと、京一の腕を枕にしどけなく横たわる龍麻
の耳元に囁けば。暫し、思案するような素振りを見せ、やがてゆるゆると
頭を振って。
 外に出たい、と。
 散々啼かされ、掠れた声で。
 それでも、はっきりと告げた声の中に微かに滲む、怯えのようなものに、
京一は気付いていたけれども。敢えて、それには触れずに頷くと、もしも
辛くなったら無理はしない事を約束させて。
 そして、1限目には少しばかり遅刻しながらも、こうして登校したのだ。
「行こう、京一」
 さりげなく差し出された手に、京一は肩を竦めて見せながら、それを
掴んだ手に、一瞬力を込めて。
 安心、させるかのように。
 安心したかったのは、自分の方だったのかもしれないけれど。
 確かな温もりを、そこに感じて。
 京一も、ゆっくりと席を立って。
 身体が少しばかり辛かったのは、何も龍麻だけではなく、重く感じる腰を
先に教室を出てようとしている美里たちに気付かれないよう、軽く叩けば。
 振り返った龍麻が、可笑しそうに目を細めた。


 楽しげに談笑しながら先を歩く小蒔たちから、少し遅れ気味に京一と2人
並んで歩いていた龍麻の足が、ふと前に踏み出すのを拒むように震えながら
止まる。
「・・・・・ひーちゃん?」
 立ち止まってしまった龍麻の様子に、やはり無理をしていたのだろうと、
体ごと振り返った京一が、やや身を屈めるようにして龍麻の顔を覗き込めば。
「・・・・・何、で此処に・・・」
「お、い・・・龍麻?」
 その顔色は、すっかり血の気を失って蒼白で。そのまま崩れ落ちてしまう
のでは無いかと、思わず引き寄せるように肩を掴めば。
「あれー?あそこに立ってるの、如月クンじゃない?」
「まあ、本当・・・・・どうしたのかしら」
 既に校門を出た美里たちの上げる声に視線を巡らしつつ、京一は何かに
怯えるように立ち竦む龍麻の肩を抱き寄せた手に、力を込める。
「もしかして、骨董屋に・・・・・会いたくねぇ、とか・・・?」
 小声で問うと、龍麻はそれを否定して首をゆっくりと横に振る。
 半ば、京一が龍麻を抱き締めているような格好に、擦れ違う幾人かは少し
驚いたような、気恥ずかしげな視線を向けていたが、そんなことは京一には
どうでも良かった。
「何なら、保健室で少し休んでいくか?」
 その言葉にも龍麻は頷く事はなく、伏せていた目をそろりと上げ、心配げ
に覗き込む京一のそれと視線が合うと、僅かにではあったが、その緊張を
解いた。
「・・・・・逃げ、ない・・・」
「・・・・・龍麻・・・?」
 何、から。
 龍麻を、ここまで畏縮させるものとは、一体何なのだろうか。そう、昨日
届いた花束と、カード。それを見た龍麻も、丁度今のように怯え震えては
いなかったか。
 その理由を、京一は知りたかったけれども。今すぐにでも、問うてしまい
たかったけれども。いつか話す、と言った龍麻の言葉に、その気持ちを押し
止めた。
「ごめん、・・・・・行こう」
 辛うじて、というように微笑みを浮かべて。
 やや名残惜しげに京一から身を離すと、龍麻は美里たちの待つ校門の方
へと、足を向ける。その後を追って、大きく一歩を踏み出すと、すぐ隣に
肩を並べて、京一もまたゆっくりと歩き出す。
「・・・・・俺が、いるから・・・」
 ふと、口をついて出た言葉に。
 龍麻は、ハッとしたように顔を上げ、そして嬉しそうに微笑ってみせた。
 眩しくて。でも、少しだけ哀しそうな、貌だった。


 門までの僅かな距離が、酷く長く感じられた。
 足が重いのは、明け方までの行為のせいばかりでは、ない。
「何で骨董屋が、こんな所にいるんだよ」
 小蒔たちに追い付き、その背に問いかける京一へと注いでいた視線を、
龍麻は意を決したように、彼らが見つめる先へと泳がせた。
 門から少し離れた塀を背に、如月は立っていた。当然、向こうもこちら
には気付いている様子であったが、特に用があって訪れたわけではないの
であろうか、やや困惑したような何処か堅い表情で、佇むばかりで。
 その、隣。
 唇を固く引き結んだ如月とは全く対照的に、口元に柔らかい笑みをたたえ
つつ、真直ぐにこちらを見つめている、のは。
「・・・・・ケヴィン」
 呻くように、龍麻が声を漏らすと同時。
 金色の髪をした長身の男は嬉しそうに破顔すると、そのまま龍麻たちの
方へ、ゆっくりと歩み寄って来る。スラリとした長身に、無駄のない所作は
何処か気品さえ漂わせて。下校途中の学生達は、男も含め皆その整った貌に
目を奪われていた。
「龍麻君、お知り合いなの・・・?」
 微かに頬を赤らめ、戸惑ったように龍麻と青年に交互に視線を向けながら
美里が問うて来るのに、龍麻は答えず。
「・・・・・ひーちゃん?」
 一瞬。傍らの京一を、眩しそうに仰いで。
 やがて、目の前に立った男をゆっくりと見上げると、その口元をゆるりと
笑みの形に綻ばせた。
「久し振り、・・・・・兄さん」
「やァ、龍麻・・・・・ようやく、君に会えた」
 大きく広げられた腕が、自然な所作で龍麻を抱き締める。愛おしげに髪に
唇を寄せる、その様を美里たちはやや恥ずかしげに。
 京一は、呆然として。
 そして、まだ立っていた場所から微動だにしない如月は。
 何処か苦しげな表情で、それを見つめていた。