それは、突然の事のように思えた。
 だがしかし、『予兆』とも言えるものは、確かに存在
していたのかもしれない。
 そう、それに。

     待っていて

 囁いて微笑った、薄い唇。
 涼やかな目元とは裏腹に、その瞳の奥に揺らめいていた
蒼い炎。
 頷きは、しなかった。
 忘れようと、した。忘れろと、自分に言い聞かせた。
 これから、自分は新しい人生を歩む。
 過去は、切り捨てるのだと。
 思い起こす余裕も、実際にありはしなかった。
 見知らぬ土地。
 宛てがわれた住まい。
 そして。
 出逢った、仲間。
 闘って、闘って。
 沢山の、出会いと別れ。その中で、密やかに育まれていた
もの。
 大切な。
 大切な、人。

 本当に、1度も思い出す事はなかったのかというと、それは
嘘になる。夏に『仲間』として加わった男が、その涼しげな
面差しの中に、記憶の奥に封じ込めていた彼の人の貌を、
微かに浮かび上がらせて。
 向けられる穏やかな笑みに、時折肩を揺らすことも、あった
のだけれど、今となってはもう慣れたようなもので。
 今の自分には。
 その胸の内には、もっともっと存在を大きくする人がいて。
 大丈夫。
 何も、おびえる事などない。
 その、大きな手で髪を撫でられ。
 逞しい腕に、抱き締められれば。
 胸の内に巣食っていた黒い影が、嘘のように消える。
 怖くない。
 きっと。



「・・・・・どうしたの?」
 自分を抱いていた温もりが、ふと離れていくのに。
 腕の中、微睡んでいた龍麻は、覚醒したばかりの眠たげな
瞳を怪訝そうに、ベッド脇に立つ男に向けた。
「玄関のチャイム、鳴ってたみてェだからよ」
「・・・・・気付かなかった」
 寝起き故か。やや掠れた声で、ぼんやりと呟けば、寝乱れた髪を、
暖かい大きな手が慣れた手付きで梳いてくる。
「ちょっと、見てくっからよ」
 掠めるようなキスを頬に残し。傍らに脱ぎ捨ててあったGパンを
履くと、シャツを羽織ながら寝室を出て、足早に玄関へと向かう。
 その広い背を、ベッドに裸体を横たえたまま見送り。
 離れていった温もりを惜しむように、引き寄せた毛布に身を
包むようにして。
「・・・・・京一」
 そっと。
 大切な者の名を、呟く。
「京一・・・」
「どうした、ひーちゃん」
 それに応えるように、閉じられたばかりの扉が開かれて。
 ハッとして、顔を向けようとした、瞬間。
 目に飛び込む、真紅と。
 濃厚な、香り。
「な、・・・・・ッ」
 呼び起こされる。
 記憶。
「ひーちゃんに、だってよ」
 瞳に焼き付く、真紅の薔薇。
 そのひと抱え程もある、大きな花束の後ろから覗く京一の顔に、
龍麻はようやく緊張を解いて。
 不自然には見えないよう、ゆるりと笑みを浮かべ応えながら、
ベッドの上ゆっくりと上体を起こす。
「ど、うしたの・・・それ」
「緋勇龍麻さんに、お届けものだとさ・・・・・ほい、伝票」
 ヒラヒラと手で泳がせていた紙片を差し出し、京一は抱えていた
花束を、その膝の辺りにそろりと下ろす。
「・・・有難う」
 伝票を受け取ろうと伸ばした手が、微かに震えてしまっていたのは
失態だった。不審に思われたのではないかと、そっと京一を仰ぎ見れ
ば、その視線は興味津々といった輝きを帯びて、龍麻の膝の上の花束
に注がれていたから。
 見られてはいなかったのだと、そろりと息を吐いて。
 手にした伝票に記された送り主の欄に、おそるおそる目を向ければ。
「・・・・・父さん?」
 そこに流麗な字で書かれていた名前は、龍麻の父-----現在、海を
越えたアメリカはシアトルに住む、養父のもので。
「親父さん?」
「うん、・・・・・突然、何だろうね」
 京一には、不思議そうに首を傾げ、笑ってみせながら。
 真紅の薔薇の花束を見た瞬間、頭の中に浮かんだ、『その名』では
なかったことに対する、安堵と。
 そして、まだ胸に澱んで消えない、昏い影にに震える心を押し隠して
膝の上に置かれた花束に目を遣れば、そこには。
 1通の、白い封筒。
「・・・・・」
 無言で、ゆっくりとそれを手に取る。
 まさかという思いに、酷く喉が乾きを訴え、早くなる鼓動が耳鳴りの
ようにガンガンと頭に響く。
「祝いか、何かか?」
 さあ、と肩を竦めて見せながら、周到に差し出されたペーパーナイフ
で封を切る。
 手は、今度は震えてはいない。
 そして中には、メッセージカードが1枚。
 取り出して開けば、たった一行で綴られた-----流れるような文字で
記されたそれを、チラリと見た瞬間。
 龍麻の瞳が、大きく揺れた。
「・・・・・ッひーちゃん!?」
 あからさまな動揺を、見て取ったのだろうか。驚いたような京一の声が、
龍麻には何処か遠くに聞こえる。
 大丈夫だから。
 心配しないで。
 何も恐れる事はないと、声にはならない言葉で、必死に言い聞かせてる
のは、自分自身に。
「・・・・・何でもないよ」
 困惑をあらわにした表情で覗き込んで来る京一を仰ぎ見て、フワリと
微笑みかけて。
 何事もなかったようにカードを元の封筒にしまい、花束を抱え上げると、
物言いたげに見下ろす京一の目の前に、それを押し付けるようにして。
「誕生日おめでとう、だって。・・・とっくに過ぎてるのにね」
 ああ、驚いた。
 そう言って笑う龍麻から、花束を受け取って。
「・・・取りあえず、洗面所に水張っておいとくぜ」
「うん、後で花瓶探すよ」
 頷き、背を向けて。
 寝室を出る、間際に。京一がこっそりと伺い見た、龍麻の顔は。
 視線を落とし、俯き加減のそれは、カーテン越しの朝日の中、何処か白く
青ざめているようで。
 一瞬、足を止めかけたけれども。それでも、どうにか見なかった振りを
して、そのまま洗面所へと足を踏み入れ。
「・・・・・誕生日、だって?」
 蛇口を捻れば、勢いよく飛び出した水が、飛沫を辺りに散らしながら、
栓をした内にすぐに溜まっていく。やや乱暴な所作で華美なラッピングを
取り去り、放り込むようにして茎の切り口を水に浸しながら、京一は低く
呟いた。
 盗み見た、カードの文字。
 それは、どうやら英語のようで、咄嗟には読み取れず。
 普段ろくに勉強をしていないツケかと、溜め息を付いて。
 それでも。
「ハッピーバースディ、の綴りくらいは知ってらぁ」
 その短いメッセージの中に、そんな単語は記されていなかった。
 だとしたら、何故。龍麻は、あんな嘘を付いたのか。
 溜め息を漏らしつつ洗面台に手を付き俯けば、目の前に広がる薔薇の濃い
紅は、まるで血溜まりのようで。
 鼻腔をくすぐる甘美な香が、生々しい血臭に変わる。そんな錯覚さえ、
起こさせる程に。
 紅く。禍々しく。
 瞳に。




「・・・・・大丈夫、怖くない・・・・・」
 ベッドの上、封筒を握りしめながら、独り残された部屋で龍麻は呟く。
 確かめるように。自分に、言い聞かせるように。
「引き戻されたり、しない・・・・・」
 何も知らなかった、あの頃とは違う。
 あの頃の自分では、ない。
 もう思い通りには、ならない。
「・・・・・京一」
 その名を口にするだけで、暖かいものが胸一杯に広がる。
 大切な、ひと。
 大好きな、ひと。
「京一・・・・・」
 彼が、いるから。
 きっと、大丈夫。

 何度も、呟きながら。
 それでも、甘い残り香に。
 目に焼き付いた、紅に。
 忍び寄る、闇に。

 引きずり出される。
 記憶。