三橋が目を覚ましたのは、正午前だった。丸々12時間は眠っていたことに
なるのだが、その一因というか原因の大半はオレにある。あそこまで無茶な
抱き方をしたことは、今までなかった。翌日のこととだか練習のことだとか、
こいつの体調をいつも第一に考えて、それなりに自制していたのだから。
 だけど、昨夜は。
 2人とも、何かに憑かれたかのように、それこそ燃料が切れるまで互いに
貪り合った。
 理由、なんてきっと分からなくて良い。

 三橋が昏々と眠り続ける間に、オレは慌ただしく動き回っていた。殆ど睡眠
はとっていなかったが、どうせ横になってみたところで眠れそうにもなかった。
 三橋が起きるまでに、やらなくてはならないことがあった。一度マンション
を出て、オレが戻って来て一息ついた頃に、ようやく三橋は目覚めた。
「はよ、・・・ってか、おそよ、かな」
「・・・・・べ、く・・・」
「あー、喉痛いか?」
「ん、・・・へーき」
 散々喘いだからか、三橋の声は寝起きのせいだけでなく掠れていて、まだ
身体も少しだるそうではあったが、起き上がるのに手を貸してやれば、甘える
ように擦り寄ってきた。そして、そのままの姿勢でまたうとうとしかけるのに。
「こら、起きんだぞ」
「うー・・・あ、れ?」
 肩口に顔を乗せるようにしてフゴフゴいっていた三橋が、ふと怪訝な声を
上げる。
「どした?」
「・・・阿部君、どっか・・・行ってた?」
 外の匂いがする、と三橋が鼻をクンクンと鳴らす。子犬のような仕草に苦笑
しつつ、オレはその指摘を否定するでもなく、部屋の角に置いた紙袋を指で
指し示した。
「ちょい、買い出し」
「え・・・昨日、行ったのに?」
「忘れ物、あったから。取り敢えず、朝飯・・・には遅いけど、何か食うか」
 尋ねれば、即座にプリン! という言葉が返ってきた。やっぱ覚えてたか。
「プリンはデザートだろ。食えそうなら、煮付けとか色々あるから温めるか」
「うん」
 三橋が頷くと同時に、互いの腹がデカい音で空腹を主張して、オレたちは
ひとしきり笑った。笑い合った。
 まだ寝惚け気味の三橋はソファに座らせておいて、オレが飯を作る。昨日
買い足した食材と、まだ少し残っていた買い置きの分。それらを全部使って
作った朝飯兼昼飯は結構なボリュームになってしまったが、そこは育ち盛りの
男子高校生2人、ちょっと多かったかなと作った本人のオレが盛り付けながら
苦笑いしたおかずは、きれいにオレたちの胃袋に収まった。デザートのプリン
も忘れることなく平らげた。三橋は勿論、2個ぺろりと。旨そうに幸せそうに
プリンを口に運ぶ様子を眺めていると、何を思ったのかやや思案げにオレと
プリンとを見比べていた三橋が、スプーンにすくったプリンを差し出してきた。
「・・・・・へ?」
「だ、って・・・見てた、でしょ?」
「・・・・・あ」
 先に食い終わったオレが見ているのを、三橋の分を狙ってると勘違いした
のか。プリンは1個で充分だっての。
 もう入らねェよと言いかけて、だがオレは向かい合って座る三橋の方に身を
乗り出しながら、大きく口を開けた。
「・・・・・あ、あーん・・・」
 誰も見てないってのに、落ち着かなくキョロキョロと辺りを見渡してから、
頬を朱に染めた三橋が、スプーンごとプリンをオレの口の中に突っ込む。甘い
それを受け取って、オレは身を乗り出したまま手を伸ばして、三橋の後頭部を
引き寄せた。
「ん、・・・・・っ」
 舌の上に乗せたプリンは、驚いて咄嗟に口を開けていた三橋の舌へと受け
渡される。それだけでは少し物足りなくて、柔らかいプリンを押しつぶすよう
に舌を絡めると、見開かれていた三橋の瞳がゆっくりと閉じられた。
 しばらく甘い舌を堪能して口を解放すれば、すっかり形を無くしたプリンを
こくりと飲み込んだ三橋が、何とも言えないような潤んだ瞳を向けてくる。
「すげー旨かった。ごちそーさん」
「・・・・・うう」
「まだ足んねー?」
「・・・・・た、足りた・・・デス」
 オレはまだ足りない。まだまだ足りない。けれど、きっとキリがない。
「うっし、満腹だな・・・ちょっと食休みとって、出掛けるぞ」
「ど、どこに?」
 改めて「出掛ける」という言葉を使ったオレに、三橋は不安げな表情になる。
「ちょっと、な。お前も行くんだぞ、三橋」
「・・・一緒」
「ああ、一緒にだ」
 告げてやれば、あからさまにホッとした様子に、少しだけ胸の辺りが疼いた。


 小1時間まったりと過ごして、そろそろイイ頃合かなとソファから立ち上が
り、部屋の角に置いていた紙袋を手にする。何だろうと首を傾げる三橋に、袋
の中のものを三橋に差し出す。
「っ、・・・・・」
 オレが手にしたそれを見て、三橋が息を飲む。その反応は、大方の予想通り
ではあったけれど。
「そ、れ・・・」
「ほんとは、手に馴染んだヤツのが良いんだけどな」
 呆然と立ち尽くす三橋の手を取り、それをしっかりと持たせてやる。そして
もう1つ。
「ほら」
 放り投げれば、反射的に手にしたもので受け止める。半ば俯き加減に自分の
手元を見つめる三橋に、オレは努めて明るく声を掛けた。
「キャッチボール、すっぞ」
 真新しいグローブとボールを手に、三橋はまだ固い表情をしていた。


 草野球のグラウンドから少し離れた草っ原まで、ゆっくりと歩いていく。
やや遅れ気味にオレの後をついてくる三橋は、何故、どうして、と聞いては
来ない。だが、この状況に戸惑っているのは明らかだった。
「この辺でいいか」
 一旦立ち止まり、三橋にこの位置で待つように言って、オレは小走りにそこ
から少し離れた場所に移動し、振り返る。三橋はまだ、強張った表情のままだ。
「・・・・・こい、三橋!」
 掛けた声に、項垂れ気味だった肩が揺れる。右手に持ったボールを何度か
確かめるように握り替え、そしてややスローな動作で振りかぶると、オレの
構えたミットに向けてボールを投げた。
 パスッと音を立てて収まるボール。軽いキャッチボールだから、勿論球威は
ない。けれど、変わらぬそのコントロールには、やはり惚れ惚れしてしまう。
 最高の投手だ。
 オレの。
 オレだけの。
 なのに。
 だから。
「・・・・・っ」
 もう1球、と。返球しようとして握り締めたボールは、だけどオレの手から
するりとこぼれるように草の上に落ちて転がった。
「・・・・・あべく・・・ん」
 三橋の、声。微かに震えてる。
「どう、して・・・何、考えてる、のか・・・分かんな・・・いよ」
「・・・・・ゴメン」
 ゴメン。ゴメンな、三橋。
「・・・・・ガキで、ゴメン・・・」
 何の力もない子供で。
 本当に、ゴメン。
「ど、して・・・謝る、の・・・?」
「三橋、・・・・・帰ろう」
 絞り出すように告げたその声は、みっともなく震えて掠れていて。それでも
ちゃんと聞こえていたんだろう、何かから逃れるように三橋が一歩、後ずさる。
「このままじゃ、・・・ダメなんだ。分かるだろ?」
「どうし、て・・・どうして、あ・・・阿部君・・・」
「このままじゃ、お前・・・ダメになっちまう。野球、お前から・・・そんな
のは、ダメなんだ・・・三橋、三橋・・・オレは・・・・・」
 ああどうして、オレはこんなにも口下手で気持ちをうまく伝えることが出来
ないままなんだろう。もどかしさに、涙が込み上げてくる。情けない。
「そんな、こと・・・誰が決めた、の、っダメ、だとか・・・帰る、ことも」
「み、はし・・・オレは、お前の----------」
「決めさせた、の・・・オレだ、ね」
 涙で歪んだ視界のせいだろうか、酷く三橋を、三橋の姿を遠く感じる。
「阿部君が苦しいの、・・・オレのせいだ、ね」
「そ、・・・三橋、そうじゃない、そうじゃなくて」
「オレの全部、阿部君に押し付けた・・・ゴメン、ね・・・ゴメンナサ、イ」
「違うんだ、三橋!」
「ゴメン・・・ゴメ、なさ・・・」
 呼んでる、のに。
 叫んでる、のに。
 オレの声、言葉、お前に届かないのか。
 届いてない、のかよ。
「阿部君、が・・・苦しくなくなる、なら・・・オレ・・・・・、よ」
 届かない。
 三橋は、今、何て言った。
「三橋!」
 くるりと踵を返して駆け出した背に手を伸ばす。
 追い掛けたくて、追い掛けようとして、なのに脚が動かない。
 膝か。違う、痛みはない。
「みはし・・・みは、し・・・三橋いいいいっ!」
 動け、動いてくれと。重い脚を引き摺るようにして、三橋の後を追う。
「オレは・・・お前が、いないと・・・お前かいる、から・・・オレは・・・
三橋、三橋・・・っ!」
 手を離そうとしたのはオレで、なのに。結局やっぱり、その手を離せなくて
縋ってしまうのも、オレで。だって、でも三橋から野球を奪おうとしていた
のは、オレじゃないか。あいつがいつも肌身離さず持っていたボールを置いて
来させてしまったのは。分かってるのに、分かっていても、オレはあいつが
好きで大切で。
 野球だって。
 好きで。大切で。
 離れたくなんてない。
 それは、あいつだって同じなはずなのに。
 オレは。
「お前と、・・・・・野球・・・・っ」
 お前と。
 三橋、オレは。
「・・・・・間違って、ないよ」
 土手の上、三橋が立ち止まる。振り返って、ズルズルと脚を引き摺って歩み
寄ろうとするオレを見下ろしている。
「間違ってなんか、ない」
 ゆっくりと、三橋の手がこちらの差し伸べられるのが見える。
「オレは・・・オレたちは、大好きな人が、いて・・・その人とずっと一緒に
野球、したいって・・・そう思った・・・・・間違いなんかじゃ、ないよ」
 その手を掴みたい。そうだよ、オレだって、そう思ってんだって伝えたい。
伝えなきゃならないことが、沢山あるんだ。聞いて欲しいことが、沢山。
 ちゃんと2人で、一緒に。
 ふと、脚に纏わりつくように感じていた重みが消える。
「三橋!」
 そこにいてくれ。今、行くから。お前のところに。だから。
 逃げないよ。だから、三橋。
「あべ、くん」
 三橋が一歩踏み出して、オレも駆け出す。もうすぐ届くと思った、その時。
 耳障りなエンジン音。派手なクラクションがビリビリと鼓膜を震わせる。
「阿部君・・・っ!」
「っ、三橋・・・!」
 手を伸ばす。
 三橋に触れたと感じた、次の瞬間。

 身体に鈍い衝撃が走った。