阿部君!
 阿部君!
 阿部君!

 ああ、三橋が呼んでる。泣きそうな声。もしかして、もうとっくに泣いてん
のか。泣かしたいわけじゃない。オレはさ、いつだって。
 お前の笑顔が見たかった。
「・・・・・み、はし・・・」
「! あ、阿部君っ!」
 声が出た。ああ何か、背中痛え。ちょっと重い瞼を抉じ開けるように持ち
上げると、思ったとおりそこには三橋の泣き顔があった。鼻の頭、真っ赤っか
にして、すげーブサイク。だけど、可愛くてたまんねェ顔。
「・・・・・こ、こ・・・」
 どこだ。今までの出来事を、ぼんやりとした思考の中で整理しようとして、
視界に広がる景色に違和感を覚える。
 オレ、は。
 ああ、車が凄いスピードで。
 いや、でもそれは。
「あ、あ、頭・・・打った・・・? 痛い?」
 車と激突して頭なんかぶつけてたら、ヤバいだろ。でもちゃんとこうして
意識ははっきりしてて、痛いと感じるのは背中ぐらいで、その痛みだって
そうたいしたことない。
 車に当てられたってのに。
 車、に。
 いや、どうしてここに車が。
「待て、・・・ここ、どこ・・・」
 どう見たって、何度瞬きしてみたって、病室のそれには見えない天井、壁、
家具。ザーという音に顔を傾けると、砂嵐なTVの画面が見えた。
 ああ、そうだ。三橋んちの居間で、ビデオを観ていた。それから。
 それから?
「ご、め・・・ゴメン、なさい・・・っオレ、ゴメ・・・・・」
 謝り続ける三橋。それは、さっきも聞いたような気がする。
 いや。
 さっきって、いつだ。
「・・・・・う」
 重い頭に顔を顰めながら、ゆっくりと身体を起こす。どうやら、床に倒れて
いたらしい。
「オレ、・・・何で」
 どうしてオレが、三橋んちの居間の床に倒れてんだ。オレは河原で、三橋を
追い掛けて、走って、そして車に。
 いや、それは。
 いつ。
 本当に?
「ど、どっか痛い? オレが、オレのせいで・・・あ、あ、阿部君・・・」
「・・・何でお前のせいなの」
 どうなってるんだ。事態が飲み込めない。
「オレが、びっくりして・・・立ち上がったら、阿部君・・・落ちた」
「・・・・・はあ?」
 分かんねー。状況が分からなくて、多分すげーしかめっ面になってたんだ
ろう。三橋がヒッと青ざめながら身を退く。何だよ、駆け落ちまでした恋人
相手に、それはないんじゃね?
 恋人。
 駆け落ち。
 三橋は。
 三橋、と。
「・・・・・してねェ」
 駆け落ちが、というより。そのきっかけになった、三橋との。
「まだ、・・・・・キスだってしてねェっての」
 呻くように呟いた言葉に、青ざめていた三橋の頬が、ポンと赤く染まった。
「き、き、き、きす・・・っ」
 ああ、そうだ。確かにオレと三橋は最近世間一般で多分恋人というだろう
関係になった。けど、まだお互いの気持ちをやっと確認し合ったってだけで、
セックスどころかキスすらしてねェし。
 だから。
「・・・・・あれ、って・・・」
 夢、なのか。夢、だったのか。そうすると、あのめまぐるしい展開にも、
どこか都合の良い流れの部分にも、どうにか納得がいく。
 で、どこからが夢だ。
「花井から借りたビデオ、観ようとしてた・・・んだよな。そっからの記憶
が、いまいちはっきりしねェんだけど」
 半ば独り言のそれに、三橋がまだほんのり頬を朱に染めたまま、辿々しい
口調で説明してくれたところによると。
 ビデオをセットして、ソファに並んで座った。が、始まったビデオは何故か
ドラマが録画されていた。何これと花井に電話して確かめてみると、どうやら
妹が録画してたドラマのビデオテープとケースが同じで、うっかり間違って
入れてしまったというのが判明。しょうがねーからとドラマを見始めたものの
超展開についていけずに、お互いうとうとと眠ってしまったらしい。しばらく
して、三橋が太股の辺りがやたらホカホカするので目を覚ましたところ、オレ
が膝を枕にして寝ていた。それにびっくりして慌てて立ち上がったら、オレが
床に転がり落ちて、背中を打ち付けた。
「・・・・・なるほど」
 そういえば、ドラマの中で恋人が結婚に反対されて、駆け落ちしようとか
いうシーンがあったような気がする。そこか。それか。
 他は夢だけあって、色々と捏造も甚だしい部分もあったが、それにしたって、
やたらと感覚的にはリアリティに溢れていた。食ったもんは旨かったし、手に
触れるものは冷たかったり暖かかったりした。そんで、その-------三橋との
問題のあれとかこれとか、そういうシーンは、やはり捏造の部類に入るんだが。
 全部じゃないけど、一部オレの-----抜きネタだった。その辺りはオレも
健康的な男子高校生だってことで、勘弁して貰いたい。さすがに思い出すと
うっかり前屈みどころか顔から火を噴きそうになるけど。
「・・・・・ゴメン、なさい」
「だから、謝んなくていいよ」
 色々謝んなきゃなんねーのは、むしろこっちなんじゃないのか。まあでも、
目が覚めたらいきなり膝枕な光景じゃ、やっぱビビるんだろ。恋人としては
そのリアクションはそれなりにショックだけど、そうだよな、オレたちまだ
キスすらしてないんだもんな。
「そ、じゃな・・・」
「・・・・・何」
「き、き、・・・キス、しました」
「・・・・・は?」
 何。何、だって?
「あ、阿部君・・・寝てて、み、三橋って・・・オレのこと呼んでて、そんで
・・・お、オレ・・・・・」
「・・・・・キスしたの? オレに?」
 またジワリと涙目になった三橋が、コクコクと頷く。
「め、目つぶってしたら、は、鼻・・・に。そ、したら・・・すごく、恥ずか
しくなって、どうしようって、そんで」
「・・・・・アワアワしてたら、オレが膝から転がった、とか」
「・・・そのとーり、デス」
 そういうわけか。しかし、さすがの9分割も目を瞑ったら狙い外れるんだな。
キスとボールじゃ勝手が違うだろうし、人の顔9分割されても困る。
 っていうか。
「・・・・・寝込み襲ってんじゃねェよ」
 せっかくの、キス。初めてだってのに、それを。人が寝てる間に済ませよう
だなんて。
「ズルイっての」
 低く囁きながら、顔を近付ける。怯えたようにまた退きかけた身体を、肩を
掴んで逃がさないようにして、唇を合わせた。
 これは夢じゃない。
 初めて味わう暖かくて柔らかなその感触は、触れて押し付けるだけの拙い
キスだったけど、夢の中の扇情的なそれよりずっと気持ち良かった。
「・・・・・ふ、あ、あ・・・べ、く・・・」
「ん?」
「キス、・・・う、・・・れし・・・」
 ふんにゃりと笑った顔は、やっぱりガキみてェな色気に欠ける表情だけど、
キスをしてそこに三橋の笑顔があることが、嬉しい。嬉しくて、泣きそうに
なる。
「キス、嬉しいな」
「うん、・・・うん!」
「・・・・・それ以上も、したい・・・けど」
「! し、ししし、してもいい、です、よー」
 そんな、吃りまくって言われても。
 いいって返事は嬉しいけど。ぶっちゃけ、恋人って関係になってから初めて
三橋と2人きりで1つ屋根の下で夜を過ごすことになって、もしかしたらとか
あわよくば、という気持ちがちょっとでもなかったかと聞かれれば、あったと
白状するしかないんだけれど。
「・・・なあ、三橋。オレ・・・お前とずっと一緒にいたい。野球、したい」
「う、うん」
「だから、・・・だからって、そうすることで、全部がうまくいくだとか、
そんな甘くないのかもしれないけど」
 キスを、した。恋人として、一歩先に、足を踏み出した。その先にも進み
たいと思うから。
 決めたんだ、だから。
「お付き合いしてます、って・・・お前んとこの親に、ちゃんと言いたい」
 簡単に認めて貰えるとは思えない。笑い飛ばされるかもしれないし、あの
夢のように反対されまくるのかもしれない。
 そうだ。あの夢は、寝落ちする直前に観ていたドラマのせいだけでなく、
オレの中に漠然とあった不安も滲み出ていたのかもしれない。
 それでも。
 もう、逃げたくない。
 三橋と、ちゃんと前に進むために。
 後ろめたさを抱えたまま、こいつと並んで立ちたくはないんだ。
「反対されっかも・・・だけど、それでもオレは」
「は、反対されなかった、よ」
「・・・・・何ですと?」
 三橋が返した言葉に、声が変に裏返った。
 何。こいつ、今何て言いましたか?
「え、えっと・・・昨日、晩御飯食べてる時、好きな子出来たかって聞かれて
・・・だから、阿部君と恋人同士になったんだよー、って・・・言いました」
「・・・・・マジで?」
「マジ、です」
 何だよ。こいつ、何、サラッと暴露しちゃってんの。オレが散々どうしよう
こうしようって悩んで、決意して、すげー緊張して。なのに。
「・・・・・で、どういう・・・反応・・・」
 反対されなかった、とは言ったけど。それはもしかして、冗談ととられた
だけなんじゃないのか。
「び、びっくり・・・してた、し、冗談でしょって、言われた、ケド」
 そりゃ、そうだろうな。
「ホントにホントだよって、オレ、言ったよ。阿部君が好きなんだ、って。
阿部君も、オレのこと好きって言ってくれたんだよー、って。オレ、それが
すごく嬉しかった、って・・・ちゃんと、話した。そしたら、お父さんたち、
ちょっと難しい顔、してた・・・けど、でも・・・」
 一生懸命、その時のことを説明していた三橋の表情が、やや固いものから
ふわりと柔らかなものに変わる。
「は、反対も賛成も、今は出来ない、けど・・・今の気持ちを大切にしなさい
って。お、お父さん、が」
「・・・・・え」
 それは。
 見守ってくれるのだと。そういう意味にとってしまって、良いんだろうか。
「・・・・・お、お母さん・・・は」
「っ、・・・・・」
 三橋が語ろうとする母親の反応に身構えてしまうのは、あの夢のせいだ。
神妙な面持ちで、三橋の言葉の続きを待っていると。
「お母さんは、ね。廉は、ほんとに阿部君のことが好きなのねえって、笑って
た、よ」
「・・・・・わ、らって・・・?」
 笑っていた。
 笑って、そして。
「す、好きな人と、好きな野球出来て、良かったわねーって。ち、ちょっと
フクザツなシンキョウだ、けど・・・でも、廉が嬉しそうだから、まあいっか
・・・って」
 好きな人と。
 好きな野球が出来て。
 嬉しいんだって、それを。
 それを-------分かって、くれた。
「あ、・・・あああ、あべくん?」
 目の前がぼやける。泣いてんのか、オレ。泣くよな、しょうがないよな。
だって、こんなことってあるのかよって。もしかしたらこっちが夢で、オレ
まだ寝惚けてんじゃないかって。
 諸手を上げて賛成して貰えたわけじゃないけど、頭ごなしに否定されること
を恐れてたし、それなりに覚悟はしてたけれど、でも。
 まさかそんな風に、言って貰えるなんて思ってなかった。
「お、おお、オレ、か、勝手に、親に・・・言っ・・・・・」
「・・・・・ありがとな、三橋」
「う、え・・・」
 涙ボロボロなオレの様子にオロオロキョドキョドする三橋を、頭を抱え込む
ようにして抱き締める。ちょっとキツいかなと思うくらいの力で、だけど三橋
は痛いとも苦しいとも言わずに、オレに身を預けてくれた。おずおずと背中に
回された手が、シャツをキュッと掴むのを感じて、何だかすげー幸せな気持ち
に満たされていた。
「お前、・・・すげェよな」
「す、すご・・・い?」
「ああ、すげェよ・・・オレ、あんなにグルグルしてたってのに」
「グルグル・・・」
「間違えるんじゃないかって、・・・怖かったよ」
 低く漏らせば、三橋が微かに笑った気配がした。

「だいじょ、ぶ・・・だよ」

 大丈夫なんだよ。
 阿部君がいて。
 オレがいて。
 一緒、なら。
 ダイジョブ、なんだ。

 根拠なんて、どこにあんだよって思ったけど。
 三橋がそう言うのなら、きっと大丈夫なんだろう。

 嬉しい時も苦しい時も楽しい時も不安な時も。
 それはいつも、2人で分かち合えるものであればいい。

 三橋には、オレがいる。
 オレには、三橋がいる。

 きっと、ずっと。
 いつも。


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