結局、秋丸にケーキセットを御馳走になってしまったオレたちは、大人しく
彼について店を出て、そのまま駅に向かい電車に乗る。不意をついて逃げる、
という考えもほんの一瞬だけ頭を過ったものの、失敗した時のリスクを思うと
それは得策とも言えず、それに。
「悪いようにはしねェよ、多分」
 ぶっきらぼうに呟いた榛名のそれに、取り敢えずは秋丸の言う通りについて
行ってみようと思った。絶対、じゃなくて多分、て辺りは不安要素ではあった
けど。
 電車を乗り継ぎ、着いた駅からも徒歩で約10分。ここだよ、と秋丸が足を
止めて見上げたのは、川沿いの道から1本入ったところにある、8階建ての
小奇麗なマンションだった。もしかして秋丸の自宅なのか、だとしたら何で
ここにオレたちをと怪訝な顔をしていると。
「不審がる気持ちも分かるけど、取り敢えず入って入って」
 カードキーを取り出し、暗証番号を打ち込んで玄関ホールに入って行く秋丸
と榛名に、慌てて続いて自動ドアを通り抜ける。エレベーターで7階に着くと
通路の一番奥の部屋に、やはりカードキーを使って秋丸はロックを外すと、
開けたドアにどうぞと誘った。
 中は、そう広くはないがモデルハウスのように整然と家具が置かれていて、
あまり生活感というものがない。ということは、自宅じゃないのか。
「親戚が買ったんだけどさー、ちょっと色々あって使わなくなっちゃって」
「・・・・・爺さんが若い女、隠してたんだろーが」
「ま、ぶっちゃけると、そうなんだけどね」
「・・・・・はあ」
 榛名のぶっちゃけに、あははと笑いながら否定もしない秋丸に、だがオレは
笑っていいものかと困惑しつつ、三橋はというと部屋の中をキョロキョロと
落ち着きなく見渡していた。
「爺ちゃんに可愛がられてたこいつが、女に逃げられて使わなくなったここを
好きにしていいからって貰ったんだよ、なあ」
「お爺ちゃん孝行は、しておくもんだよ」
 それなりにヘヴィなことを軽い口調で語りつつ、カーテンを開け放ち、部屋
の備品をチェックしているのを眺めながら、オレはまさかという浮かんだ考え
を、だがすぐに否定する。そんな、都合のいい話が。
「良かったら、ここ使ってよ」
 ある、なんて。
「な、・・・・・」
「電気も水道も止めてないし。コンビニもスーパーも徒歩数分。愛人住ませ
てたくらいだから、立地条件の割には目立たないんだよ、ここ」
「ちょ、・・・待って、下さい・・・そんな・・・オレたちは・・・・・」
「ただし、期限はつけさせて貰うよ」
 スイ、と秋丸が指を1本立ててみせる。
「1週間。その間、ここは好きに使っていい・・・けど、1週間の間に君たち
が、これからどうするのか、ちゃんと相談して考えて決めるんだ」
 1週間。それが長いのか短いのかは分からない。けれど、後先考えずに飛び
出して来たに等しいオレたちが、ゆっくり落ち着いて気持ち諸々を整理する
のには、きっと必要な時間であり、そしてそのための場所なのだと思えた。
 とはいえ。
「あの、・・・オレたちのことで、もしそちらに何か迷惑が・・・」
 もしかしたら、オレの親から何か聞かれることがあるかもしれない。万が一
こうして匿ったことが知れたりしたら。
「その辺は、適当に誤魔化すよ。首突っ込んだのはこっちだし、心配しなくて
大丈夫だから」
「・・・・・済みません」
「ほんとなら、今すぐにでも帰れって怒鳴りつけたいんだよ、オレは」
 はーっと大きく息を吐き出して、榛名が唸る。その表情には、複雑な心境が
垣間見えた。
「けど、それじゃ多分納得出来ねーんだろ?」
「・・・元希さん・・・」
「秋丸の挙げた条件どおりだ。1週間で答え出せ。出せなかったら、グダグタ
言おうが、お前の親に連絡入れるからな」
 ビシッと突き付けられた指、いつもなら少なからずムカついていたであろう
態度だったけれど、オレは極自然に頭を下げていた。
「・・・・・有難う、ございます」
「っ、何、礼なんか言ってんだよ、気色悪ィ!」
 何だかんだと、この人もオレたちのことを本当に心配してくれているのだ。
行き掛り上というか、結局巻き込んでしまったことを申し訳なく思う気持ちと
そして時間を与えてくれたことに対して、感謝している。心から。
「ちゃんと、・・・考えます」
「答えが出たら、ちゃんとオレたちにも連絡すること。いいね?」
「はい」
「あ、あ・・・有難うゴザイマス!」
 勢い良く頭を下げた三橋の頭を、榛名が苦笑しながらクシャリとかき混ぜた。
「じゃ、オレたちは行くぜ。・・・またな」
「は、はいっ!」
 部屋の設備や最寄りの店の簡単な説明をして、秋丸と榛名は帰って行った。
それを、廊下で三橋と並んで頭を下げて見送る。
「いい人、だね」
「そうだな」
 2人の姿が見えなくなると、三橋がしみじみと呟く。それに頷いて、オレは
部屋の中に戻って、隅っこに置いていたバッグを持って来た。
「取り敢えず、すぐ使うものとか整理しとけ」
「せ、整理するほど、持って来て・・・ナイ」
「・・・・・そうみたい、だな」
 覗き込んだ三橋のバッグは、確かに中身がスカスカだった。必要最低限の
モノだけ入れて来いとは言ったけれど、本当にシャツと下着ぐらいしか入って
いないんじゃないか。こいつのことだから、要らねーもんまでゴチャゴチャに
突っ込んで来てるんじゃないかとさえ思ったというのに。
「・・・・・ん?」
「な、何?」
「あ、・・・いや」
 ふと。三橋の持ち物に違和感のようなものを感じる。だが、シャツも下着も
特に変わったものでなく、むしろ見慣れたものばかりだったから、気のせい
だと首を振る。

 その違和感の正体に気付くのは、もう少し後のことになるのだけれど。


 それからは、三橋にも一応一通り備品の使い方を説明したり、最寄りだと
聞いたスーパーやコンビニに行って、取り敢えず数日分の食料やら生活用品を
調達し、2人で大騒ぎしながら作った飯を食って、一緒に風呂に入る。一緒に、
といつても別にナニかするというのでもなく、節約の意味が大きかった。好き
に使っていいと言われているとはいえ、やはり無駄遣いは避けたい。ゆっくり
湯舟に浸かって、さすがに互いの身体を洗いっこした時には、少しだけムラッ
としてしまったけど、理性を総動員して己を宥める。
 風呂上がりに少しだけTVを観たりして、割と早い時間にベッドに入った。
このベッドが、女を囲ってた部屋だけあってか、大層デカいサイズのが寝室の
真ん中に置かれているのを見た時は、さすがにちょっと引いたけど、オレと
三橋が並んで横になっても窮屈じゃない寝心地の良さに感謝しつつ、おやすみ
と告げて目を閉じようとすると。
「あ、あべ、く・・・あの・・・・・・」
「何」
 眠れねーのか、と聞こうとした唇に、ふにゃりと暖かいものが押し宛てられ、
ゆっくりと離れていく。
「み、・・・」
「っ、お、おやすみ、なさい!」
「・・・・・お、おう」
 めったに自分の方からしたことのないキスが照れくさかったのか、毛布を
ぐるぐると身体に巻くようにして、三橋が背を向けて丸まっている。その赤く
なった耳に齧りつきたくなるのを堪えて、三橋に殆ど奪い取られた毛布の端を
足元に掛けて、ようやく目を閉じる。
 妙に煽られてしまったせいか、どうにも寝付けないまま枕元の時計の秒針を
刻む音がやけに耳障りで。そのうち訪れるであろう眠気を待ってみたけれど、
一向にやって来ないそれに少し苛立って、せめてこの時計を離れたところに
置けばマシにはなるだろうかと、隣でどうやらもう寝入ってしまったらしい
三橋を起こしてしまわないように、そっとベッドから抜け出そうとすれば。
「ん、・・・・・」
 漏れた声に動きを止めて、隣を見遣る。目を覚ました気配はない。だけど、
シーツの上を三橋の手が何やらモゾモゾと動いているのが、ベッドサイドの
僅かな灯りの中で見てとれた。
 何だ。
 何かを探して、いるのか。
 気にはなったものの、取り敢えず手にした目覚まし時計を部屋の角に隔離
して、そっとベッドに戻ってから、改めて三橋の様子を観察する。相変わらず
その手はシーツの上を探っている。何か、夢でも見ているんだろうか。
「・・・・・三橋」
 起こさないように、努めて小さな吐息だけのような声で呼び掛けてみる。
すると三橋は、一瞬その動きを止めて何か口の中でモゴモゴと呟いた、後。
 小さくゆるゆると首を振った。
「み、はし・・・?」
 その仕草に、オレはどこか置いていかれたような気分になって、起こしちゃ
ダメだという気持ちに反するように、三橋の身体を抱き寄せていた。
 三橋が目を覚ましたのかどうかは、分からない。けれど、抱き込んだ胸元に
甘えるように鼻先を擦り付けてきたのに安堵して、オレはようやく訪れた眠り
に意識を沈めていった。

 やはり夢は見なかった。