その時は、それしか選択肢はないのだと思っていた。
「オレと逃げよう、・・・三橋」
 逃げて、逃げたその先にあるものなんて、考えていられなかった。
『あ、べく・・・ん』
「着替え少しと、本当に必要なものだけでいい・・・準備して、家から抜け
出せるか?」
 助けて、と三橋は言った。
 猶予はないんだと思ったら、それしか方法は思い付かなかった。
『うん・・・うん、が、んばる・・・!』
「よし、じゃあ・・・こないだ焼き芋食った公園、分かるな? そこで待ち
合わせよう」
『うん、うんっ・・・あ、阿部、く・・・ん、あの・・・』
「ん?」
『・・・・・有難う』
 有難うって何だよ、オレはただお前を。
「・・・・・おう、また後で・・・じゃあ、な」
 三橋を。
 どうしたって、手放せないだけなんだ。
「・・・マジかよ・・・・・」
 通話終了キーを押して、大きく息を吐き出しながら肩の力を抜いていると、
半ば呆れたようなシュンの声がした。すっかりこいつの存在を忘れて話して
いたことに気付いて、少し狼狽える。
「っ、・・・シュン、あのな・・・」
「そーゆーのって、駆け落ちって言うんだよね」
 駆け落ち、か。そう、なるんだろうな。
 それにしても、だ。実の兄がオトコとそーゆーことになって両家で問題に
なっていて、そしてその兄は目の前で相手と駆け落ちの約束までしている。
それこそ、マジかよな状況だというのに、意外にもシュンは呆れている様子
ではあるものの、驚愕したり嫌悪していたりという気配はなく。
 それに。
 こいつは、三橋と連絡を取り合っていた。
 一体、いつの間に。
「シュン、お前と三橋は」
「説明してる余裕はないんじゃない?」
 確かに、そうだけれど。
「三橋さんに聞いてよ。取り敢えず、駆け落ちの準備したら?」
「取り敢えずって、お前・・・・・」
 何でこう、そんなに落ち着いて物事を進めようと出来るんだ。
「朝まで、兄ちゃんが出てったことはバレないよう誤魔化しとく」
「何で、・・・そこまで」
「三橋さん、待ってるよ。早く荷物用意しなよ」
 言いたくないのか聞かれたくないのか。理由はともかく、シュンの考えて
いることを全部聞いている時間はないから、促されるままにいつも使ってる
スポーツバッグの中身を一旦ぶちまけて、必要最低限なものを選り分けつつ
荷物を詰めていく。
 これは、旅行じゃない。けれど、駆け落ちなんて当たり前だけどしたこと
などないから、何が必要で絶対持ってかないといけないとかなんて、分かる
訳もなく、結局は小旅行に出掛けるような荷物が出来上がっていく。
「・・・シュンは」
 手早く荷物をまとめながら、ふと呟く。
「オレと三橋のこと・・・その」
「反対はしてないよ」
「・・・・・そっか」
 賛成、とは言われなくても良い。それだけで、今は。今のオレには充分
だった。何だかちょっとジワリと涙ぐんでしまいそうになるのを、どうにか
堪えていると。
「三橋さん、何かカワイイとこあるし」
「っ、おま・・・」
 今のは、ちょっと聞き捨てならないと振り返れば。
「兄ちゃんのこと、すっげー好きなんだよね。三橋さんって」
「・・・・・」
 ニィ、と。
 どこかで見たことのある笑顔がそこにあって、オレはそれ以上何も追求
出来なくなった。
 やっぱり、こいつはオレの弟だ。


 我ながら手際良く短時間でコンパクトに荷物を仕上げると、ムニムニと
携帯を弄んでいたシュンはおもむろに立ち上がって、ドアの方へと向かう。
「お父さんたちは、居間に引きつけとく。ちょっと癇癪起こして暴れてみる
から、何か大きな音がしたらすぐ抜け出して」
 それ、合図だから。
 そう告げるのに頷くと、シュンは中途半端なウインクをして階段を降りて
いった。その後に、足音を忍ばせつつ付いて行き、廊下の手前で息を潜めて
様子を伺う。
「シ、シュンちゃん、何・・・っどうしたの!?」
「止めろ、シュン・・・っ落ち着け!」
「うるさいなあ、もう! 人の気も知らないで!」
 暴れてみる、との言葉通り、めったに聞かない大きな声がして。
「止めて、シュンちゃん・・・っ!」
 お母さんの悲鳴に続いて、ガシャン、と何かが割れる音が響いた。
 これが、合図か。
 居間の騒動を背に、素早く玄関に向かい、靴を履いて静かにドアを開け、
外に出る。
 ゴメン、お父さん、お母さん。
 シュンも。ゴメンな、有難う。
 心の中で呟きながら、駆け出す。今度ここに戻って来る時には、何もかも
落ち着きを取り戻しているといい。オレも三橋も、そしてどちらの家族も。
 そんな都合の良い展開になんて、ならないかもしれないけれど。
 でも、今は。
 早く三橋のところに行かなければと、待ち合わせに選んだ公園に向かって
もう人通りの途絶えた夜の住宅街を駆け抜けた。



 待ち合わせをすると、三橋が少し遅れてくることの方が多い。もしくは、
やたらと三橋が早くに来て長い時間待っているか、どっちかだ。
「あ、べく・・・んっ」
 だが今回は、オレが公園の敷地に入ろうとしたところで、道の向こうから
同じように息を切らして走って来た三橋が、オレの名前を呼んだ。
「・・・見計らったみてーなタイミングだな」
 苦笑しながら立ち止まって待つと、三橋が頬をほんのり紅く染めながら
駆け寄って来た。
「シ、シュン君に、もうすぐ阿部君、家、出るってメール、貰って・・・っ
い、急いで、にも、つ・・・用意、した!」
「・・・・・あー・・・」
 オレが荷造りしてる時に打ってたメールは、それだったのか。そして、
三橋の言葉にシュンに尋ねようとして出来なかったことを思い出す。
「お前、シュンとどういう関係なんだ」
 もうちょっと違う聞き方があるだろうというか、今かける言葉ならもっと
別のものがあるだろうと思いながら、口をついて出たのはそんなセリフで。
三橋は案の定、キョトンとしながら。だが、何てことはないようにするりと
答えた。
「お、おともだち・・・?」
 聞いてるのは、こっちだ。何で首を傾げて疑問形なんだ。
「じゃなくて、だな・・・」
「し、幸せになって下さい、ってメール、くれた」
 ふんにゃりと表情を弛めながら、携帯の画面をオレに見せて言う。そんな
三橋の顔に、何故か少しだけ胸の辺りがチクリとする。
「何だよ、それ・・・」
「シ、シュン君は、前に阿部君ちに行った時、あ、阿部君がまだお母さんに
頼まれた用事、から戻ってなく、て。その間、オレと色々話とか、してくれ
たんだ、よー」
 その時に、TEL番号とメールアドレスを交換したのだという。我が弟
ながら、ちゃっかりしているというか、でもそのお陰で三橋と連絡が取れた。
「そっか」
 微笑えば、三橋も嬉しそうな笑顔を見せる。
 やっと。
 笑う顔が見られた。
「う、嬉しかった」
「シュンに、礼言わないとな」
 コソコソと2人でやりとりをしていたことは、この際大目に見てやる。
「・・・じゃ、なくて」
 ポンと肩を叩いた手に、三橋の手が添えられる。外は寒いのに、走って
来たからかお互いの手はホカホカと温かい。キュッと握ってやれば、三橋も
同じように握り返して来た。
「何」
「あ、あの・・・阿部君、が・・・」
 促すように覗き込んだ顔が、一層破顔する。
「『オレと逃げよう』、って・・・言ってくれて、オレ・・・嬉しかった」
 嬉しかったんだ、と。
 噛み締めるように、三橋は言った。
「・・・・・そっか」
「・・・うん」
 オレと逃げよう、と。
 半ば勢いに任せて告げたその言葉は、事態を前進させたのか後退させたのか、
その時点では分からなかったけれど。
「一緒に・・・いよう、な」

 三橋と一緒なら。
 この笑顔が見れたのなら。

 それでいい。
 そう、思った。