「私、・・・酷いことを言ったかもしれないわ」
 連絡を受け、慌てて三橋の家まで駆け付けることとなった両親は、自家用車
ではなくタクシーを使ったらしい。そしてオレも加わって3人の帰り道は、
誰がそうしようと言い出したわけでもなく、並んで歩く両親のやや後ろをオレ
が自転車を押しながらついていくという感じになっていた。歩けば、それなり
の距離にはなるのだろうけど、車内での気詰まりな空間よりは、きっとずっと
良い。
 そうして歩き始めてしばらくして、お母さんがぽつりと呟いた。後ろを歩く
オレからはその表情は見えなかったけれど、弱々しい声から沈んだ顔をしてる
のだろうと思うと、酷く苦い気持ちになる。
「私・・・私・・・・・」
「あの状況じゃ、まあ・・・しょうがないだろ。お互い様だな」
 親父がフーッと大きく息を吐きながら、俯いてしまったお母さんの背を軽く
叩きながら言う。確かに、母親同士お互いに頭に血が上っていたというか、
まず冷静ではなかっただろうとは思う。その原因はオレにあるわけだから、
気にするなよとも言い辛い。
「あちらの奥さんは・・・こう言っちゃなんだが、かなりヒステリックに
なってたから、ちょっと・・・心配だな」
 現場を目撃しちまったんなら無理もないか、とチラリとオレに視線を向けて
親父がまた溜息混じりに言う。相当ショックだったんだろうよ、と。
 そう、なのかもしれない。だけど、だからといって。
 帰り際の三橋の泣き顔が浮かんで、チリリと胸が痛む。無意識に胸元に手を
やったその時、カバンの中の携帯が着信を知らせるメロディーを奏でた。
 この着信音は。
 慌てて肩に掛けたカバンから取り出したそれは、だが開こうとしてすぐに
親父の手に奪い取られた。
「な、にす・・・」
「・・・・・しばらく、これは預かっておくぞ」
 そう告げて、勝手に電源を切ってしまう。ディスプレイに表示された名前
を見れば、三橋からの着信だったことが分かっただろう。
 連絡を取り合うな、ということか。
 プツリと音を止めてしまった携帯が親父の尻ポケットにしまわれてしまう
のを、オレは結局抗議することも出来ないまま、ただそのデカい背を睨む
ように、また歩き始めた。

 家までの道のりは、その距離よりもずっと長く感じられた。
そしてようやく辿り着いた玄関でオレたちを出迎えたのは、不機嫌をありあり
と顔に滲ませた弟だった。
「た、ただいま、シュンちゃん・・・ゴメンなさいね、御留守番・・・遅く
なっちゃって・・・・・」
 お母さんがぎごちなく笑いながら、いそいそと靴を脱いで駆け寄るのに。
「オレ、兄ちゃんに話があんだけど」
「・・・・・何」
 コイツは。正面からマジマジ見ると、ほんと中坊の頃のオレにそっくりで
時々意味もなくムカつくことがある。だけどその中身は、オレとは違って
それなりに愛想も良くて可愛げがあるらしく、その辺りが母親の溺愛の要因
にもなっているのだが、それはさておき。
 話、というとやはり今回のこと、なんだろうな。
「部屋、行こ」
 促されるままにシュンの後に続こうとして。
「し、シュンちゃん・・・あの、あのね」
「全部、兄ちゃんから聞くから」
 そのいつになく素っ気無い可愛い次男坊の様子に、お母さんが切なげに
見つめてくるけれど。
「まあ、・・・こういうことは男兄弟でじっくり話し合うのも良いのかも
しれんから・・・」
 あいつらに任せておこう、と親父がお母さんの肩をポンと叩く。それに
ゆっくりと頷いて、それでもこちらが気になるのか何度も振り返りながら、
2人で居間の方へと歩いていった。
「兄ちゃんの部屋でいいよね」
 オレの返事を待たずに、シュンはスタスタと歩くと階段を上り、オレの
部屋のドアを開けて、勝手知ったるとばかりに中に入っていった。抗議
する気にもなれず、オレも後に続く。ドアを閉めると、既にベッドに腰掛け
ているシュンを一瞥して、オレはデスクに備え付けの椅子に腰を降ろした。
「・・・・・どこまで聞いてる?」
 どこから話せば良いか分からず、取り敢えず親父かお母さんから既に
聞いているかもしれない部分を問えば。
「全部知ってるよ。さっき、聞いたし」
「・・・・・は?」
 その物言いに返した声に怪訝をあらわにすれば、シュンは何かを言い
掛けて開いた口を一旦噤んで。
「ん、あれ? ちょっと待って」
 ポケットに入れていたらしい携帯が震える音が微かに聞こえる。それを
手にしたシュンは、こっちから掛けるって言ったのにと呟きながら、通話
ボタンを押した。
「はい、シュンです・・・はい、・・・え、あ・・・っ、ちょ・・・今、
兄ちゃんに代わります、から!」
 オレに?
 どこか焦った様子のシュンが差し出した携帯に、耳を押し当てると。
『あ、あ、あべ、く・・・ん?』
「っ、三橋・・・!?」
 思わず上げてしまった声に、シュンがシーッと立てた指を口元に当て
ながら、ドアの方を顎で示す。あまり大声を出すと、親父達に聞こえて
しまうかもしれないのに気付いて、オレは声を潜めた。
「な、・・・どうして、お前・・・・・」
 何故シュンが、とか。色々聞きたいことはあったけれど、電話越しにも
三橋の焦燥した様子が伝わってきて、それはまた後でと思い直す。
「で、どうしたんだ」
『ふ、・・・あ、あべく、・・・っど、どうしよう・・・オレ、オレっ、
う・・・く・・・っ』
「落ち着け・・・落ち着いて、ゆっくり話すんだ。いいな?」
 静かに。出来る限り優しく促してやれば、何度か深呼吸するような吐息
が聞こえて、やがてさっきよりはやや落ち着きを取り戻したらしい三橋が
それでも止まらないらしい嗚咽混じりに言葉を紡ぐ。
『お、かあさ、・・・んっ、オレ・・・み、みほし、か・・・どっか別の
が、っこ・・・に・・・っ』
「・・・・・ほ、んき・・・なのか・・・おばさんは」
 三橋宅でのやりとりでも、西浦を辞めさせるようなことを言っていた。
でも、あれは気持ちが昂っていたからの言葉で、鎮まればきっと考えを
改めてくれるって。三橋が嫌がるようなことはしないだろうって。
 そう、思っていた、のに。
『う、あ、明日、もう・・・群馬、に・・・連れて、く・・・って』
「っ、そんな急に・・・!」
「兄ちゃん、声デカいよ」
 またシュンに咎められてしまい、オレも何度か深呼吸をしてから三橋に
話し掛ける。
「親父さんは、何て・・・」
『お、おと、さ・・・も、その方がいい、のかも、って・・・っ』
「・・・・・マジ、かよ・・・」
 どうして。何で。握り締めた拳、少し伸びかけた爪が手の平に食い込ん
で、鈍い痛みを感じたけれど、今はそんなことはどうでも良かった。
『イヤ、だ・・・っ、・・・た・・・け、てっ・・・』
 弱々しい、声。
『っ、・・・たす、けて・・・阿部く、ん・・・』
 縋る。
 声。
「・・・三橋」
 オレに。
「・・・・・逃げよう」
 出来ることは。
『阿部君・・・』
「オレと逃げよう、・・・三橋」

 それしか。
 なかったんだろうか。