それからの数十分は、まともな記憶がない。初めて聞いた、三橋の母親の
泣き叫ぶ声。その後ろで呆然と立ち尽くしていた三橋の父親が、ハッとした
ように駆け寄り肩を抱いて、いかにも今までコトの真っ最中でしたな風体の
オレ達に、すぐにシャワーを浴びて着替えて来なさいと、ただ泣くばかりの
妻を支えながら絞り出すような声で告げてきたのに従ったのだろう、元々
泊まる予定で着替えは持参していたから、多分身を清めてそれを着て、オレ
は気がつけば三橋宅の居間のソファに座っていた。両脇には、三橋の両親が
呼びつけたらしいオレの父と母とか座り、その向かいにやはり両親に挟まれ
る形で三橋が座っている。
 青ざめた表情。膝の上で握り締めた拳が微かに震えている。きっと冷たく
なっているだろうそれを、この手でギュッと握ってやりたいと思うのに、今
の状況はそれを許してはくれない。
 それに。
 同じようにオレの手も酷く冷たくなっていて、いつものように三橋に分け
てやれるはずの温もりは、そこにはなかった。
「う、うちのタ、・・・息子が・・・み、・・廉君、に・・・っも、申し訳
ござい、ません!」
 半ば悲鳴のような声でそう言って、お母さんが頭を下げる。難しい顔を
して座っていた親父もゆっくりと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「タカ・・・隆也、何してるの・・・っあなたもちゃんと謝・・・」
「どうして」
 オレが口を開くより前に、真っ青な顔でやや俯き加減のまま三橋がぽつり
と呟く。
「阿部君は、何も悪いことして、ない」
「廉!」
 三橋の言葉に、三橋の母親が引き攣った顔で向き直る。
「あ、あんたって子は・・・あああ、あの子に、何された、のか分か・・・
っ・・・・・」
 言いかけて。唇を戦慄かせて言葉に詰まる。きっと、それを見てしまった
時のことを思い出したのだろう。ブルブルと身体を震わせながら、オレを
映した視線は見たこともない憎悪に満ちていた。
「された、とかじゃ、ない・・・オレだって、し、たかった、んだ・・・
カラ」
「廉・・・っ!」
 もう聞きたくない、というように耳を塞いで泣き崩れる三橋の母親を、
親父さんが痛ましげに見つめている。
「・・・・・じゃあ、三橋さんの息子さんが・・・うちの隆也を、さ・・・
誘った、んじゃないんですか」
「っ、お母さん!」
 自分の母親が呆然としながらも告げた言葉に鳥肌が立った。
 そうじゃない。どうしてそうなるんだ。
「な、・・・廉が悪いとおっしゃるんですか!?」
「一方的にこちらに非があるように伺いましたけど・・・うちの子はそりゃ
ちょっと乱暴なところはあります。けど、だからって友達にそんなバカな
真似するような子じゃありません!」
 バカな真似。そんな言葉で片付けられるモノなのか。オレと三橋の、あの
行為は。
「う、うちの子だって・・・!」
「・・・・・とにかく」
 自分の子はそんなことをする子じゃない、という互いの果てしなく続き
そうな主張に、やんわりと割って入ったのは三橋の親父さんだった。
「2人とも、まだ・・・未成年だ」
 まだ子供なんだ、と。その言葉には、教育に関わる職にある者の響きを
伴って耳に届く。
「一時の感情に流されて、そういう過ちを犯してしまったとして、君達は
そのせ・・・・・」
「ちが、う!」
 ダン、と激しく床を蹴るようにして三橋が立ち上がる。
「過ち、って何・・・? 間違ってる、って言う、の? オレ、と阿部君が
・・・せ、セックスしてたの、が、間違ったことだって!」
 三橋の口から出たセックスという生々しい響きに、大人たちの顔が強張る。
オレは、三橋の剥き出しの激しい感情に、ただ言葉を失ってまだ青白いその
顔を見つめていた。
「か、勝手に・・・決める、な!」
 言い放って。
 ようやく、三橋の視線がオレを捕らえる。
 真直ぐに。
 強く。
「オレと阿部君は、アイシアッテル、んだ!」
 そうだよね、と。
 訴える瞳に、オレは深く頷いた。愛、という言葉にどれほどの重さがある
のか分からない。けれど、オレたちにとって身体を重ねることは、とても
自然な流れで。与え、与えられる快楽に溺れていないとは言えないのかも
しれない。けれど、気持ち良いからと、ただそれだけの理由でここまできた
わけじゃなない。まだ拙くて手探りで、だけど相手を愛おしいという気持ち
が、確かにそこにはあった。
「・・・・・君達は・・・男同士、なんだよ」
 未成年だから、ということだけではなく。そこが問題なんだよ、とでも
言いたいのか。
 だから、何だ。そんなこと、最初から分かってる。三橋もオレも紛れも
なく男で、オレは三橋を女と看做したことなんて1度だってありゃしない。
「思春期の青少年には、同性に強く惹かれ、それを恋愛だと錯覚することも、
ある・・・そういう事例は知っている」
 錯覚。そう言ってしまうなら、恋愛なんて同性であろうと異性であろうと、
全て錯覚なんじゃないのか。
「錯覚だろうと何だろうと、廉は・・・廉は・・・あ、あんな目に・・・っ」
「あ、阿部君は、優しくして、くれたよ! オレ、キモチよ・・・」
「止めて止めて止めて・・・っ!」
 息子の口から、そんなセリフは聞きたくないのだと。三橋の母親は全身で
拒絶していた。
 そう。
 この現実を受け入れることなど出来ないのだと。
「あの子といたら、廉はますますおかしくなってしまう! 廉・・・廉、
もう学校には行かなくていいから・・・野球だって、もう」
「おばさん!」
 野球を。
 野球は。
 三橋にとって。
「三橋を・・・三橋から野球を奪わないで下さい! お願いします!」
 それだけはどうか、と。訴えるのに、だけど返ってきたのは酷く冷えた
言葉で。
「全部、あなたのせいなのに・・・よくも、そんな・・・」
「オレのせいで構いません! どうか、三橋に・・・このまま西浦で野球を
続けさせてやって下さい! もし、・・・オレがいちゃいけないというん
なら・・・オレが」
「い、やだあああああああああああ・・・っ!」
 勢いのまま、その先に続けようとした言葉を感じ取ったのだろうか。
三橋の悲鳴に、オレは頭に上りかけた血がスッと引いていくのを感じた。
「み、はし・・・」
「いやだ、いやだ、いやだ・・・阿部君、あ、べく・・・っ・・・」
「三橋・・・っ」
 泣くな。頼むから。こんな風に、泣かせたくなんかなかったのに。
 オレは。
「・・・・・三橋さん」
 ふーっ、と。大きく息を吐き出しながら、親父がやや身を乗り出す。
「このままでは落ち着いて話し合いが出来るとは思いません。また、日を
改めて・・・ということにしちゃいけませんかね」
「ええ、・・・ええ、そうですね・・・」
 どこかホッとしたように、親父さんが頷く。取り乱すばかりの妻と、
そしてオレが告げようとした言葉を拒絶しようとした三橋の尋常でない
様子に、事態の収拾がつかなくなりつつあるのを悟ったのだろう。
「いやだ! 阿部君、行かないで・・・行かないでえ・・・っ!」
 両親に促されてソファから立ち上がり一礼して踵を返したオレの背に
三橋の悲痛な声が追い縋る。
「・・・家に帰るだけ、だから」
「阿部君、阿部君、阿部君・・・・・」
「また、な」
 ちゃんと笑顔で告げることが出来ただろうか。確かめる余裕すらなく
親父に背を叩かれ、居間を出る。
「信じてた、のに・・・どうして・・・・・」
 三橋の母親が呟いた声に、苦いものが込み上げる。
 どうして。
 オレだって、聞きたい。

 あなたが信じていたモノは。
 どんなオレ、ですか。
 三橋が誰よりも大事で、大切で、どうしようもなく愛しいと。
 そう思っているオレは、信頼には値しないモノですか。