ヴィルトファングがみてる  by osugi252

 錆びかけたシャワーヘッドから、熱い湯が勢い良く噴き出す。NDFのシャワールームで、ロメオ・クーパーは、トレーニング後の汗と疲れとを拭い去っていた。窓からのぞく太陽は傾き始め、壁に黄ばんだ光を投げている。普段は大勢の訓練生たちで埋め尽くされる広いシャワールームだが、今日は彼の他に誰の姿もない。マーチアル社初の軍用タンク試作機「フィアズリー・ワン」投入の初日とあって、フィールドの一部を借り切っているためだった。
「……?」
 水栓を止め、クーパーは顔を上げた。誰もいないはずのシャワールームで、どこからか水音が聞こえてくる。気になって水音のする方へ歩みを進めた。
 いちどきに数百人が利用するシャワールームは、申し訳程度の板で仕切られている。その一番片隅をのぞき込んだクーパーは、息をのんで目を見開いた。
 官給のウェアを着たまま、タイル壁にもたれ、流れ落ちる水に身を委ねる男がそこにいたのだ。両手はダラリと垂れ下がり、ドラッグの快楽に侵された中毒患者のようにうすら笑いを浮かべている。 
「サー……ジャント……?」
 かすれる声で問いかけると、落ち窪んだ眼窩に埋まっている大きな目がギョロリと動きクーパーを捕らえた。サージャントと呼ばれた男は、ゆっくりと手を差し伸べる。
「Kommen …Sie ……」
 ──来いよ。
 シャワーノズルからは冷え切った水が降り注ぎ続け、足元を濡らしている。
 クーパーは何を問いかけることもできず、ずぶぬれの姿をさらしているサージャント──ミッヒ・ハーネマンにそっと近づき、誘い込まれるようにして口づけた。

 
初めて出会った夜、どんな言葉を交わしただろう。
 英国バトリング・チャンプであるクーパーがNDFに招聘されて3日。歓迎ムードに飽きて訪れたバーの一角に、その男はいた。目の下を縁取る濃い隈、血が通っていないかのような青白い肌。男は何やらボソボソとつぶやきながら、スローイング・ナイフを弄んでいた。気まぐれにダーツに誘ったクーパーの目の前で、男はターゲットボードめがけてナイフを投げつける。見事にボードの中央を貫いたナイフに、クーパーはヒュウと口笛を鳴らした。
 ダーツとナイフ投げ、2人の変則的な勝負が始まる。
 こんな間近で接していても、その男はクーパーが英国バトリング・チャンプであることに気付かないらしい。それはいささかプライドに触ったが、賞賛のまなざしに飽き飽きしていたクーパーは、対等に接することのできる相手を求めていたことも確かだった。何より、ターゲットに向けてピタリと神経の糸を寄り合わせる男の横顔には、どこか不思議に心惹かれるものがあった。クーパーは目先の勝負よりもその先を見越して3投目をわざと外し、カウンターで男にウオッカを奢った。 

──いいねアンタ、そのミステリアスな感じ。そういう雰囲気に惹かれる女も多いだろうね。
──あいにく女には興味がない。
──へえ、それじゃ俺にもチャンスありかな。
 少し身を乗り出し、いたずらっぽい上目遣いで“お誘い”をかける。
──俺さ、危険に挑みかかるの、大好きなんだ。  
 しかし男は、そんなクーパーをさも見下したかのように嘲りの表情を浮かべたかと思うと、ふたたび自分の世界に入り込んでしまった。自前のナイフを愛でるようにもて遊び、それ以上話しかけてもろくに取り合おうとはしなかった。
 男がNDFの軍人──それも“ウォートラン”の訓練教官、ミッヒ・ハーネマンであると知ったのは、その翌日のことだった。

 ※   ※   ※

──あんなつれない態度をしておきながら、こんな風に触れるチャンスを寄越してくれるなんて……。
 思いながら、冷え切った青い唇に、何度もくちづけを繰り返す。水栓を探りシャワーを止めようとしたが、ハーネマンの手がそれを阻んだため、そのままにした。裸の背中に降り注ぐ水しぶきも、壁に押し付けた教官の体も冷え切っている。こんな状況で男の体を貪るのはなかなかに刺激的だ。体の芯が熱くなるのを感じた。長いキスの後で薄く目を開くと、視線がまともにぶつかった。
「あんたがここの教官だなんて思ってもみなかった」
 囁きながら、いびつに膨れた二の腕を撫で下ろす。細身の体に似合わぬこの腕を見た時から、軍人であることには気付いていたが、まさか教鞭を取る立場であるとは考えてもいなかった。
「本当は……俺のこと、知ってたのか?」
 問いかけてみても答えはない。よどんだブルーグリーンの瞳からは、何も読み取ることができない。濡れたシャツの中に手を滑り込ませると、そこにはからみつく毛が一切なく、指先は皮膚の上をなめらかに這った。脇腹を、胸元をまさぐり、なぞり上げながら、クーパーは、この教官殿に妙に夢中にさせられている自分自身に苦笑した。


「……?」
 痩せぎすの背中に手を回した時、異質な手ごたえを感じる。ハーネマンの体と同じぐらい、いやそれ以上に冷え切ったそれは、硬い金属の質感を有していた。
 刹那、されるがままになっていた教官が、自らの背に手を回して“それ”を取る。防水仕様のセミ・オートマチックガンだ。隠し持っていたそれをクーパーの鼻先に突き付け、ヒャハッ! と笑い声を立てた。
「何だよ、悪い……冗談は──」
 言い終わらないうちに、鼓膜をつき破る炸裂音。ハーネマンが撃った銃弾はクーパーの頬をかすめて彼を黙らせ、シャワールームの壁に穴をうがった。一気に血の気が引き、クーパーは軽く両手を上げて白旗の意向を示す。するとハーネマンはニタリ笑って言った。
「続けろよ……」
 銃で脅された状況で、一体何を続けろというのか。なあ教官、タチの悪いお遊びは止そうぜ……そう告げようとしたが、喉の奥から声が出ない。クーパーの体は本能的に生命の危険を察知してすくんでいた。なかば救いを求めるような目をしてハーネマンを見たが、教官殿は構えた銃を降ろさない。
 おそるおそる手を伸ばし、キスの続きをしようと顔を近づけたが、銃把で横っ面を殴られた。
「そうじゃないだろう?」
 言われて、ようやくのことでクーパーは状況を理解した。気付くのが遅すぎた。まさか自分にそんなことを強いる奴がいるとは思っていなかったせいだ。
 心のうちで何度も悪態をつき、教官殿の前で膝をついた。股ぐらに手を添え、冷え切って震える指で、デニムのジッパーを引き下ろした。中に閉じ込められていたものを口に含むと、不遜な教官殿が満足げに息を吐き出すのが分かった。
 こんな屈辱的な所作をさせられるのは初めてのことだ。半ばヤケクソな気分でぎこちなくしゃぶりたて、快楽を捧げた。シャワーの音に混じって、ハーネマンの荒い息遣いと愉悦の声音とが聞こえてくる。上目遣いにハーネマンの表情を伺ったクーパーは、唖然とした。
 ハーネマンは甘いうめき声をもらしながら、クーパーにつきつけた銃をうっとりと眺めていたのだ。クーパーの姿など目にも映らぬかのように、銃と自分だけの蜜月の世界に入り込んでいる。
 恍惚の表情を浮かべたまま、左手の指を伸ばし、濡れた銃の先に触れた。そのままゆっくりと銃身をなぞり立てる。何かぬめぬめとした白い生き物が黒光りする銃身を這い上がるかのようだ。その動きに合わせて、ハーネマンの愉悦の表情は徐々に絶頂へと近づいていく。やがて彼は、感極まったように声を上げた。

 ──イカれてやがる!!
 クーパーはむせたフリをして咳き込んだ。相手がにわかに躊躇したスキに即、手を伸ばし、つきつけられた銃の方向を変えさせる。すぐさま己の口を一物から引き離し、空いた手で銃を叩き落そうとした瞬間、眼前に靴の裏が迫った。
「ぐおっ!!」
 顔面に前蹴りを食らわされ、クラッシュした車のオンボードカメラのごとく視界がグルリ回る。仰向けに倒れ、後頭部を思いきり床に打ちつけた。かすむ目をすがめて見れば、鼻先に銃口が据えられている。
「お…おい、待てって、嘘だろ、おい────!」
「Wiedersehen,babi(ごきげんよう、坊や)!」
 爆音と振動がクーパーの全身をドッと貫き、世界から音が消え、視界が真っ白になる。
 永遠とも思える一瞬が過ぎ、ロメオ・クーパーは、己自身がまだ生きていると示してくれる福音──水浸しのタイルに薬莢が転がる音を聞いた。
 最高にイカれた教官殿は、クーパーの脳天からわずか数ミリ離れたタイルの床に、銃弾をブチ込んだのだった。

※       ※       ※


「冗談じゃないスよ!」
 翌朝、怒り心頭のロメオ・クーパーは、教官主任ジェイク・テリーのオフィスで机を叩いた。ほかのスタッフたちは何事かと興味津々の様子で、ガラス越しに部屋を覗き込んでいる。
「テリー教官も見たんでしょう、あの弾痕! なのにおとがめナシってどういうことですか! 俺はいろんな場所に招かれちゃいるが、こんな歓迎を受けたことは一度だってない!」
 オフィスの椅子にかけて腕組みをしたテリーは訴えを聞きながら、さも大儀そうにため息をついた。
「……で、俺にどうしろって言うんだ」
「決まってるでしょう! あのサイコ野郎を軍法会議にかけるなり、営倉に入れるなり、謹慎にするなり、相応の処分を……」
 俄かに周りが騒がしくなり振り返ると、問題の張本人が姿を現した。ミッヒ・ハーネマン軍曹だ。クーパーは一瞬我が目を疑った。背筋を伸ばして敬礼したその姿はいかにも教官然として、昨日見た姿とあまりにも違いすぎたのだ。
「チーフ。2130時の演習の件だが、予定していた2機の修理に遅れが出ている。代替機の使用許可を」
「それはいいがな。“とある候補生”から苦情が出てるぞ。フィールド外で発砲したらしいな」
 テリーは差し出された申請書にサインをしながらハーネマンを軽く睨む。するとハーネマンの表情に“サイコ野郎”を思わせる笑みがにわかに浮かんだ。
「……新入りの坊やに少しばかり挨拶してやったのさ」
「事情はどうでもいい。責任もって処理しとけ。兵にやらせるなよ。上には報告しないでおく。……それから」
「それから?」
「……“ほどほど”にしておけ」
「Yes,Sir!」
 敬礼し、何事もなかったようにハーネマンは出て行こうとする。彼らのやり取りを見ていたクーパーは開いた口がふさがらない。テリーはハーネマンに懲罰を与えるどころか、発砲事件そのものを“なかったこと”にしてしまったのだ。
「坊やはチーフに泣きつけるとでも思ったかな?」
 すれ違いざまハーネマンは耳元でささやき、複合装甲の入ったブーツのつま先でクーパーの脛を思い切り蹴りつけた。脳天まで達する激痛を堪えなんとか踏みとどまるクーパーを尻目に、キヒヒヒ!と笑い声を立てて去っていく。
「い、今の見たでしょう、テリー教官! なんであんな野郎を野放しに……!」
 しかしテリーは事なかれ主義的な態度を崩さない。
「いいか、クーパー候補生。ここは軍隊であって学校じゃあない。誰々くんがひどいことしました、先生! 誰々くんに蹴られました、先生! ……そうやって逐一報告に来てなんでも解決してもらえる学生時代は終わったんだ。ここではな、小さなイザコザってのは日常茶飯事なんだ。くだらんいさかいは当事者同士で解決しろ」
「くだらんいさかい!? 発砲事件のどこが──」
「転属願ならいつでも受理してやるぞ」
 取り付く島もない態度に、クーパーはこれ以上の口論は無駄と分かって歯噛みした。軍内部には、クーパーのようなタンクレーシング出身者の招聘を毛嫌いする者も多い。このいかにもガンコ親父といった風情の教官主任もまた、そういう人間なのだろう。
「クソッ!」
 上官に対する憤りを隠せず、クーパーは再び机を叩いた。敬礼さえせず、無礼きわまりない態度で部屋を去っていく。
 見送ったテリーはひとつため息をついた。
「……やれやれだ」
 

<TO BE CONTINUED>