スカラベ事件 その3 挿し絵・黒田ギイ
そこはシャダが生まれてこのかた、近寄ることなぞ考えてもみなかった場所。
いまにも崩れ落ちそうな壁、犬小屋かと思うほど小さな掘っ建て小屋。
どろどろにぬかるんだ道の脇には山のようにごみが積み上げられ、塀の中では人と家畜が一緒に住んでおぞましい臭気を発している。
いつもなら顔をしかめてさっさと逃げ出すような恐ろしい場所。
だが、今のシャダの頭にあるのは、ただ大切なスカラベを取り戻す事のみであった。
慣れたこの路地ならまかせとけと言わんばかりに、すいすいと壁と壁との狭い隙間を走りぬける泥棒の後ろ姿を、しばらくはなんとか捕らえていたシャダだったが、何本にも分かれた路地の奥まで来て不意に姿を見失った。
彼は立ち止まると、きょろきょろ辺りを見回した。
・・・どうしよう、ああどうしよう・・・
冷たい汗がたらたらと背中を伝う。走りすぎたせいで足は震え、心臓がしくしく痛くて息が止まりそう。
落ち着け・・・落ち着くんだ。
シャダは呼吸を整えて必死で自分に言い聞かせた。
自分がシモンの目に留まってテーベまで連れて来られたわけを思い出せ!それは持って生まれた強い透視力のせいではなかったのか。
息を大きく吸って・・・心を静めてどこに光が見えるのか体の深いところで感じるんだ。
目を閉じたシャダは、周囲の雑音、家畜の鳴き声や路地のあちこちから聞こえてくる低い話し声、ゴミがたてるガサガサいう音から心を切り離すと、スカラベの青さ、ただそれだけに全神経を集中した。
・・・すると・・・
不意に遠くから呼び掛ける声が心に響いたのだ。「こっちだ、こっちの道を行け」と。
シャダは家畜の糞で汚れた道を、真新しいパピルスのサンダルで一歩一歩ゆっくり踏みしめながら進んでいった。
道の脇には猫の頭蓋骨が転がり、放し飼いのアヒルがぐわっぐわっと鳴きながら、尻をふりふり歩いている。あたりに漂っているのは、安い油で魚を揚げる胸のむかむかするような匂い。
そんな貧民窟の住人たち、パン釜の前で小麦をふるいにかけているしわくちゃの小さな老婆や、胸からぶら下げた赤ん坊をあやしながらイナゴマメの皮をむいている母親は、こんな所には場違いな育ちの良さそうな少年を目にして、ただ驚いたように黙ってシャダを見つめるのであった。
やがて彼は一軒の小さな家の前で足を止めた。
崩れ落ちそうな日干し煉瓦の塀、イチジク材のぼろぼろの扉は木枠に打った釘がはずれて傾いている。
狭くて暗くてほこりっぽい家の裏手でそよいでいるのは、金持ちならばとっくに捨てていそうな漂白もしていない古い亜麻の着物。
木杭のように突っ立ったままのシャダの頭には、誰かが「ここだ、この家だ」としきりと囁きかけている。
だが、これからどうすればいいんだろう?
お宅に泥棒がいると思うんですけど・・・なんて言ったらカンカンに怒ったおじさんにつまみ出されるのが関の山だ。虫のいどころが悪けりゃあ、頭の一つでも殴られるかもしれない。
じゃあ「これこれこういうスカラベを探しているんですけど」って聞いてみるのは?
・・・いやいや、素直にあれを返すようなヤツなら、最初から泥棒なんかするはずないじゃないか!
だが、次の瞬間、逡巡するシャダの悩みはしごく簡単に解決した。
ぼろぼろの扉がギギィーッツ、とぞっとするような音を立てたと思うと、その中から洗濯したばかりの亜麻布を両腕いっぱいに抱えた、あの少年が姿を現したのだ。
「ああああぁーーーっ!」
「わぁあああーーっつ!」
シャダと泥棒はほぼ同時に大きな叫び声を上げた。
シャダの顔を見たとたん、慌てて家の中へ引っ込もうとする少年の腕をつかむと、シャダは叫んだ。
「返せ!盗んだスカラベを返せよ!」
少年は目をぎらぎらさせた。
「なんのはなしだよ!?離しやがれぇ!」
「お前が川辺で盗ったスカラベだ!」
「何のことか分かんねぇよ」
少年はぼさぼさ頭を振り乱してつかまれた腕をふりほどこうとじたばたするが、ひ弱とはいえ、なんといってもシャダの方がかなり年上。さすがにこんなチビ助に力負けはしない。
しばらく無茶苦茶に両手両足をバタバタさせていた少年は、やがて観念したようにふてくされて地べたに座り込んだ。
「さあ、どうにでもしろ!」
だが、こうしていざ開き直られてみると、まるで自分に非があるとでも言われているようで、シャダはちょっとたじろいでしまう。
そこで、ちょっと声のトーンを落として下手に出てみることにした。
「ねえ、聞いてくれよ」「ふんっ!」
「聞けったら!」「事と次第によるなあ」
「君が盗ったスカラベ、あれはすごく大事なものなんだ。お願いだから返してくれよ」
「ふん、バーカ。変ないいがかりしやがったら承知しねえぞ。俺はずっと家で父ちゃんの手伝いしてたんだ。ここにあるってんなら自分で探してみろよお」
ぐいっと腕で鼻をぬぐったぼさぼさ頭は、自分の家を顎でしゃくった。
ぬすっと猛々しいとは正にこのこと。
シャダは怒りのあまり体がぶるぶる震えたが、貧民窟の知らない人間の家にのこのこ入って行って、家捜しするような勇気はとてもない。
でも、確かにこの家の中にある、シャダの直感はそう告げていた。
そこで、シャダは呼吸を整えて目を閉じる。
「お、おい、なんだよぉ、なんか文句あんのかよぉ!なにするつもりだよぉ?」
びくついた泥棒が噛みついてくるのにはお構いなしに、息をお腹全体で深く吸って・・・吐いて・・・
だが、神経を集中してみると・・・おかしなこともあるものだ。じっとしているはずのスカラベの青い光が、自分からどんどん近づいてくる。
目の前にある泥小屋の奥から手前の部屋・・・扉を抜けて・・・すぐそばに・・・
「バクラにいたーん。なにちてるの?」
すぐそばで聞こえた可愛らしい声に、シャダは驚いて目を開いた。
だが、もっと泡を食ったのは、地べたにあぐらをかいてふてぶてしく開き直っていた泥棒少年。
はじかれたように飛び上がると、大慌てて声の主の方へ走り寄った。
少年にしがみついて驚いたような顔をしているのは、小さな女の子。
裸足に簡単なワンピースだけをまとい、そのふっくらした手にしっかりと握られていたのは・・・まごうことなきシャダのスカラベであった。
女の子はくるんとした大きな目で泥棒を見上げると、甘えるように言った。
「バクラにーたぁん、おあそびちてるの?アマネもおあそびするよぉ」
泥棒少年はしまった!という顔をして、せわしなくシャダと女の子を交互に見つめていたが、最後の悪あがき、どもりながらもすごんでみせた。
「こ、これがお前のスカラベって、い、いったいど・・・どこに証拠があるんでぇ!」
だが、シャダは静かに答える。
「それの頭の部分、釉薬が垂れて青が星形に濃くなってる。それに裏を返してみなよ。ヒエログリフの上から三行目にあるライオンの鼻の上に、黄色い斑点がついてるはずだ」
そしてそれらの特徴は、まさに目の前のスカラベにあてはまったのである。
「ぐっ・・・」
そこまで分かっていてはもうこれ以上しらを切れない。バクラと呼ばれた泥棒少年は、観念したように肩を落としてうなだれた。
「ちぇっ、お前らボンボンにとっちゃあ、スカラベなんぞ有り難くもなんともないくせしやがって・・・」
悲しそうに眉間にしわを寄せたバクラは、何やらぶつぶつと憎まれ口をききながら、事態が分からずまん丸な目をしている女の子の小さな手のひらを、無理矢理開かせようとする。
「ほら、アマネ、それは返さなきゃなんないんだ。離せ」
だが、女の子は泣きそうになりながらも、スカラベをしっかりと握りしめて離そうとしない。
「やだ、やだぁ!これアマネのんだもん!にーたんがアマネにくれたんだもん!」
「ダメだ。返すことになったんだ。ほら、渡しなさい」
「やだ!やだ!」
「言うこと聞かなかったら、父ちゃんに言いつけるぞ?」
「やだ!」
「オペトのお祭りに連れてってもらえないぞ?(※)」
・・・だが、楽しい祭りに連れて行ってもらえなくなるぞ、という脅しは小さな子には逆効果だったようである。
「やだ!やだよぉ!アマネもおまちゅりいくよぉー!
うわぁぁああーーーーーん!!」
スカラベを失った上祭りにも行けなくなるのだ、と受け取った少女は、悲しみのあまり地団駄をふんで火のついたように泣き出した。
すっかり困ってしまったのは二人の少年。
泣きじゃくる妹を必死でなだめるバクラ、どうすればいいのか分からなくておろおろするばかりのシャダ。
事態は最悪だ。一旦泣き出した小さな女の子は、ある意味手負いのライオンより恐ろしいものである。
「どーすりゃいーんだ!アマネはいったん泣き出したら小一時間は泣きっぱなしなんだ!」と頭を抱えるバクラに、シャダはおずおず提案した。
「オペト祭に連れて行かないっていうのは冗談だった、って言えば?」
「んなもんこいつが今さら聞くかよ!」
「・・・・・・」シャダはしばらく考えていたが、やがてきっぱりと意を決したしたように顔を上げる。
「じゃあスカラベはこの子のものだ、って言えばいい」
「・・・えっ?・・・」バクラが信じられない、という顔をしたその時・・・
あたりの空気を揺るがせて、子供たちを呼ぶ重低音が響き渡った。
「バクラぁ!アマネぇ!ご飯だよぉ!さっさとおいで!」
玄関の扉をギギィーッツと開けて姿を現したのは、背が高く豊かな体つきの女性であった。
粗末な亜麻のスカートから覗く立派な両足は、樹齢百年のアカシアのようにしっかりと大地を踏みしめ、きりりと眉の太い男顔はバクラにそっくり。
母親の顔を見たとたん、あっさり泣きやんでその足にしがみつくアマネ。それをひょいっと片手で抱き上げながら彼女は言った。
「バクラ、早くごはんを運ぶのを手伝っとくれ・・・おや・・・?友達かい?」
彼女はこの界隈では見ることのないような小綺麗な少年を、頭からつま先までしげしげと観察していたが、すぐに感じのいい笑みを満面に浮かべて言った。
「バクラの友達にしちゃあ、珍しいタイプだねえ・・・ところで、ねえ、あんた」
「は、はいっ?」いきなり気さくに話しかけられてシャダは戸惑った。
「あんた、もうごはん食べたの?」
「・・・いえ・・・まだ、です」とかぶりを振る。
「じゃああんたも皿運びを手伝っておくれ。なんでも王家に第一王子が生まれたそうだから、こんなうちでもちょっとしたご馳走を作ったんだよ。よかったらあんたも一緒に食べていきゃいいよ」
そう言い残した彼女は、アマネを抱いてすたすたと屋内へ戻る。
その後にバクラが続き・・・あとに残されたのは、どうしたらいいのかさっぱり分からず、棒のように突っ立ったままのシャダ。
「おい、何ぐずぐずしてんだよ?」
そんなシャダに、扉からぼさぼさ頭をひょこっと覗かせたバクラが顎をしゃくってみせる。
「ぼんやりしてるとなくなっちまうぜ!ほら、これ持ってくれ」
有無を言わせずに料理が山盛りにされた素焼きの皿を手渡されたシャダは、急転直下の展開に呆気にとられながらも、バクラの後について足を踏み外さぬよう一足一足、家の外側に設けられた屋上への階段を上るのだった。
※・・・テーベで行われた代表的宗教行事。
テーベの三柱神像(アメン、ムトゥ、コンス)が、カルナック神殿からルクソール神殿まで行列を作って運ばれた。二〜四週間かけて行われるこの祭りの際には、大神殿の中庭が開放され、神に供えられた大量の供物の余剰分は民衆に配られたので、老若男女がこの祭りを楽しみにしていた。
それは久しぶりに楽しい食事だった。
バクラと妹と両親、それからシャダの五人は、屋上に広げられた葦のマットに並んだ料理を囲む。
「やりぃ!肉!肉だぁ!」 皿に盛られた骨付きの肉を見た瞬間、躍り上がらんばかりに喜ぶバクラ。「うおっ!うめぇうめぇ!やっぱ肉はうまいっ!」
ソースも何もかかっていないシンプルな焼き肉を、ろくすっぽ噛みもせずに次々と呑み込むバクラの勢いにつられて、シャダも恐る恐る小さな肉片に手を伸ばした。
骨を持って一口かじると、プン・・と鼻をつく獣の臭み。その上固くて筋張っている。
最高の料理人の手になる牛のヒレ肉や柔らかい子羊料理に慣れた舌にとっては、お世辞にも美味しいとはいえないその肉を、シャダは何度もしがんでやっとの思いで飲み下した。
両親の間に座ったアマネは、久々のご馳走と珍しい客に興奮してキャッキャッとはしゃぎ回り、初めはシャダを避けるようだったバクラもその内うちとけてきては、砂漠にいる変な生き物や、街の人々の滑稽なものまねをして皆を笑わせた。
また、ミイラ職人である父親が語る、ふんだんに子供向けの脚色がなされた世にも珍奇な体験談は、少年たちを感心させたり、震え上がらせたりしたのである。
「こらバクラ!ニンニクばかり食べるんじゃない。目が悪くなっちまうぞ」
肉を平らげると、お次にニンニクの丸焼きにばかりに手を伸ばすバクラを父親が叱る。
「だって母ちゃんがいっつも『お腹の虫を下してくれるから食べろ』って言うんだもんな」
「薬代わりならちょっとでいい。好きな物ばっか食べてちゃ大きくなれないぞ」
「ふわぁーい」
「アマネのお魚パン、にーたんが取ったあ!うわーん!」
「ほら、ビービー泣くんじゃねえ!こっちの鳥パンを食べときな!」
「ほら、坊や、アジュ魚のフライも食べな、美味しいよ。メヒト魚もアブドゥ魚もあるよ」と母親はさりげなく小さな客人に気を遣ってくれる。
ビールは薄いうえに濁っていたけれど、せっかく魚や小鳥の形に焼いたパンも、粉が粗くてざらざらと舌触りは悪かったし卵もミルクも入っていなかったけれど、肉は牛でも鴨でも鳩でもなくて、筋張った年寄りヤギの肉だったけれど・・・
テーベに来てから食べたなかで、これが一番美味しいごはんだ、とシャダは思った。
やがて太陽が西岸の山向こうに姿を隠すその少し前。
「じゃ、な」貧民窟の入り口まで送ってくれたバクラは、大人じみた顔で挨拶する。
「うん。ごちそうさま。すごく楽しかった」
シャダは心から礼を言った。
それを聞いたバクラは地面を見つめて何やらもごもご言っていたが、やがてぎゅっと口を結んで顔を上げた。
「・・・スカラベのこと、悪かったな」
「・・・・・・・・・」口を閉ざしたままのシャダ。
「やっぱ返さなきゃあ、な」
シャダはしばらく何か考えていたが、やがてゆっくりとかぶりを振った。
「・・・いや・・・いいよ」
「え?・・・」バクラの目がまん丸になる。
「妹に上げるといい」
「・・・・・・・・・」
「妹、喜んでたものね。ここはキミの顔を立てとくことにするよ」
一瞬泣き出しそうにゆがむバクラの顔。
だが彼はすぐに元の強気な表情を取り戻すと、ニヤッと口の端をゆがめて笑ってみせた。
「じゃあこれは借りにしとくぜ!」そして疾風のように走り去りながら大声で叫ぶ。
「いつかすっごい金持ちになって千倍にして返してやるからなぁ!」
小さな子にそんな約束をされて思わず苦笑したシャダは、バクラのぼさぼさ頭が薄暗い建物の向こうに消えるのをじっと見送ってから、ゆっくりきびすを返したのだった。
ナイルの川面は青紫に染まり、お屋敷町に続く道には明るい火がぽつぽつと灯されている。
色々あった一日。初めてのもので溢れていた日。
なんだか今日だけで自分がちょっと大人になったような気がする。
あれこれ思い出すだけで無性に楽しくなってきて、シャダはくすくすと笑いながら邸宅への家路を急ぐのだった。
だが、そのまん丸く形よい頭に、スカラベをくれた子・・・カリムの姿が浮かぶのは、まだもう少し後のことなのである。
(4)へつづく
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