スカラベ事件 その3 挿し絵・黒田ギイ
「おはよう!」「あっ、おはよう!」
「先生おはようございます!」「やあ、おはよう」
肩からは書板、手からは弁当のパンとビールを下げて、アメン神殿併設の学校には子供たちが次々と登校してくる。
「おはよう、カリム」「あ、おはよう」
カリムと王の馬丁長の息子は、薄紫色した矢車菊の咲き誇る小道を並んで歩いていた。
「なあ、カリム」「・・・ん?」
「お前、昨日記念スカラベが配られたの、知ってるか?」
「ああ、知ってるよ。メンナが知らせに来て分かったんだ」
「いいなあ!僕は釣りに行っててぜんぜん知らなかったんだ。くそっ!あんなバカみたいな魚釣ってるくらいなら、お前たちと遊んでたらよかったなぁ!」
馬面の少年は悲しそうな溜息をついた。
「なぁ、カリム」
「なんだよ」
「お前、今それ持ってるか?持ってたら見せてくれよ!」
だが、黒髪を揺らして肩をすくめたカリムは言った。
「僕のはシャダにやっちゃったよ。見たいんならシャダに言えばいい」
「えーっ?!またぁ?」
あわよくば気前のいいカリムを口説き落として・・・という淡い期待をうち砕かれがっかりした馬面の口からは、すっとんきょうな声が飛び出した。
「おいおいカリム!お前こないだもあいつに何かやってなかった?・・・なんか甘いよなぁ!」
痛いところを突かれてムッとしたカリムは、向こうに見えるアカシアの樹の下で、何やら地面にしゃがみ込んでいる坊主頭の方をくいっとあごでしゃくってみせる。
「ほら、シャダはもう来てるぞ。見せてもらえよ、記念スカラベ」
シャダは細い木の棒で、地面にあいたなにかの虫の巣穴を一心不乱につついていたが、背後に人の気配を感じると驚いてぴょこんと飛び上がった。
「あっ?!あ・・・おはよう」
「シャダ、お前昨日あげたスカラベ、今持ってる?」とカリム。
「・・・え?・・・スカラベ?」一瞬引きつるシャダの表情。
「バパサが見たいって言うんだ」
「なぁ、シャダ、見せてくれよ!」と馬丁長の息子も追い打ちをかける。
だが、シャダはひくひくと口元を引きつらせながら言いよどんだ。
「あ・・・う、うん。ス、スカラベねえ・・・じっ実に残念だなぁ!い、家に置いてきちゃった」
「なんだぁ、見たかったのに!」と残念がる馬面を横目にしながら、カリムは首をひねった。どうもおかしい。
こいつは新しいモノを手に入れるとしばらくは、人に見せびらかそうといつも持ち歩いてるのに・・・何かおかしい。プンプンにおう!
カリムはそわそしているシャダを濃い緑色の瞳で探るように見つめた。
すると見つめれば見つめるほどに、シャダの視線はますます落ち着きなくさまようのである。
「そうだバパサ」
「・・・なんだよ?」
「記念スカラベならメンナやネブアメンも持ってると思うから、あいつらにも聞いてみたら?」
「そう言われればそうだな」
バタバタと走り去る邪魔者の背中を見つめていたカリムは、やがてゆっくりとシャダに向き直った。
その瞬間、びくうっ!と亀の子のように首をすくめるシャダ。
それを見たカリムの疑念は今、はっきりと確信に変わった。
こいつ・・・あれを失くすかなにかしたに違いない!
「おい、シャダ」
「なあに?カリム」
シャダは口元をひくひくさせながら必死で笑顔を作ってみせるが、肝心の視線はふらふら泳いで決してカリムの目を見ようとはしない。
「お前、本当はあれ、どこにやったんだ?」
「・・・本当はって・・・どういうことだよ。さっき『家に置いてる』って言っただろ?」
「ウソつくな!」と思わず大声を出すカリム
「ウソなんかつかないもん!」と相手もむきになる。
「じゃあ学校が終わったら見に行ってもいいか?」
カリムはたたみかけた。
するとぐっと息を呑んだまま、うつむいて黙り込んでしまうシャダ。
「まさか人にやったんじゃないだろうな?」
声を震わせるカリムを上目遣いに睨んだシャダは、一瞬息を止めると大声で言い放った。
「か、亀に食われちゃったんだ!」
「・・・・・・か、カメぇ?!」カリムはクラクラとめまいがした。
「河に落っことして神殿の柱くらい大きなカメが食っちゃったんだ!」
「ウソつけ!」「ウソじゃないもん!」
確かに「大きな亀」の部分は嘘ではないから、罪悪感が多少薄められ、まるでそれが事実であるような錯覚に陥ったシャダは叫んだ。
「ウソだと思うんなら明日見に行こうよ!すごく大きいんだ!」
だが、次の瞬間、シャダは信じられない事態に目を見張った。
カリムの孔雀石色の両の目から、涙がはらはらとこぼれ落ちたのだ。
「・・・大事なスカラベだったのに・・・」
カリムは拳を握りしめた。「お、お前はどうして・・・いっつもそんなんなんだよぉ・・・」
シャダは今までカリムが泣くのを見たことがなかった。
だが今、目の前の友人は、奥歯をぐっと噛みしめたまま大粒の涙をぼろぼろこぼしている。
「な・・・泣くなよ・・・」シャダはおろおろした。
「ボクが悪かったよ・・・」
「・・・うっ・・・うっく・・・」
だがカリムはうなだれたまま静かに涙を流すばかり。
「ねえ、泣かないでよ・・・ねえったらぁ・・・ね?」
困ってカリムの顔を覗きこんだシャダの目からも涙がぽろりと落ちた。
「ボクが・・・悪かった、から・・・許してよ・・・
うっ、うっ・・・うわーーーん!」
次々に登校してきた少年たちは、オンオン泣いているシャダと、声も出さずにただ嗚咽するカリムを目の当たりにして、触らぬ神にたたりなし、とばかりに遠巻きに眺めるばかりであった。
だが、そんな彼らに声をかけた勇気ある者が一人。
「どうしたんですか?二人そろって芝居の練習?」
最近やっと山の訛りがぬけた少年は、黒い方鉛鉱で魔除けの化粧をほどこした細面で、シャダとカリムを覗き込んだ。
「おっす、マハード。こいつらどうも『記念スカラベ』の件でモメてるみたいだぜ?」こっそり忍び寄った馬面のバパサが小声で説明した。
「へぇー・・・」興味なさげに鼻を鳴らしたマハードは、やおら地面にしゃがみ込むと、肩から吊した革袋をなにやらごそごそ探っていたが・・・
「ほら、これでしょ?」と青く光る両手一杯のスカラベを差し出した。「欲しいんなら上げますよ」
「えっ?!」
驚きのあまり泣くことを忘れたシャダとカリムは、真っ赤な目で同時にマハードを見つめた。
「そ、それって・・・どういうこと?」
「昨日いっぱい捕れたんだけど、俺はこんなもの別にいらないから」とマハードは澄まし顔。
記念スカラベが欲しくないなんて!頭おかしいんじゃないか?と顔を見合わせる同級生たちを後目に、泣くことを忘れてぽかんとしたままのシャダとカリムに近づいたマハードは、二人に一つずつスカラベを手渡すと、にっこりと微笑んだ。
「俺はこれよりもっといいもの持ってますから・・・
見たいですか?」
うんうんと頷く一同をぐるり見回すと、鼻高々のマハードは革袋から取り出したものをさも得意げに手のひらに乗せた。
真っ黒に日焼けした少年の手のひらで、夏空よりも青く深く輝いていたのは・・・
「・・・ハトホルの石・・・?すっ・・・すげぇ!」
「トルコ石の貴婦人」ハトホル女神に捧げられる得難いもの、拳ほどにも大きな青緑の石。
「こんな石、一体どこで見つけたんだ?」すっかり泣きやんだシャダが不思議そうに尋ねる。ハトホルの石なんて、そんじょそこらに落ちているものじゃあない。
「はぁ、俺の村の近くではぁ、この石がなんぼでも出るところがあるんです。詳しい場所は俺とねえちゃんしか知らんですけんどね!」自分自身興奮がつのったせいか、思わず訛りが出るマハード。
だが、マハードの言葉は次の瞬間、しわがれた老人の声にさえぎられた。
「おはよう、みんな」
少年たちは声の主を認めると、いっせいに手を膝まで掲げ半身を折って挨拶した。
「おはようございますシモン先生!」
そう、今日は特別講師として王の軍事顧問でもあるシモンが招かれていたのである。
シモンの姿を認めて嬉しそうに駆け寄ったシャダの頭をなでると、シモンはマハードに向き直った。
「ところでマハード」
「は、はいっ!」
マハードはすでにカチカチになっている。どうもこの老人は苦手らしい。
だが、シモンは少年の緊張などお構いなしに、白く豊かなあごひげを撫でながら続けた。
「ワディ・ハンママートでハトホルの石が採れるという記録はない」
「・・・そ、そうですか」マハードはうつむいてしまう。
「ハトホルの石がシナイ半島以外で採れるとなると、これは我が国にとってたいそう重要な話になってくる。分かるね、マハード?」
「は・・・はい・・・」
「その件でお前にはあとからゆっくり話を聞きたいのだが、いいかね?」
だが少年は口ごもりながらも、秘密を知ろうとする者に精一杯の抵抗を見せた。
「・・・だども・・・これは俺とねえちゃん、いや姉との約束で・・・」
「ならば王宮に来てもらう、というのはどうかな?」
とたんにぱあっと輝くマハードの顔。
「ファラオの御前でなら話してくれるだろう?のお、マハード?」
ぶんぶんとうなずくマハードは、小さな老人に手を取られるとイチジクの木立に消えていったのだった。
呆気にとられたまま老人とひょろ長い少年を見送るシャダとカリムは、さっき手渡されたスカラベを握りしめたまま顔を見合わせた。
「ねえ、カリム」
「・・・ん?」
「なんだか悪いことしちゃったね」
カリムはちょっと考えていたが、そうだな、と答える。
「ボクがあんなに騒がなけりゃ、あいつもハトホル石の秘密をばらさずにすんだのに・・・」
「そうだな。あいつの運が悪いのはいつもの事といえ、けっこう可哀想だな」とカリムもうなずいた。
その時、シャダがきらきらと瞳を輝かせる。何か良いことを思いついたときの表情だ。
「マハードが帰ってきたら、ボク、あいつに何か持ってってやろうかなあ」
「何やるんだ?あいつ、物欲はぜんぜんなさそうだけど」
シャダはちょっとためらっていたが、意を決したように顔を上げる
「ジョセル王の物語パピルスにする」
それはシャダ自身がとても大切にしていた宝物であることを知るカリムは、驚いた顔をして友人を見つめた。
でもシャダはなおも続ける。 「あいつ、魔法使いになりたがってるからさ、ジャジャムアンク(※)の出てくるパピルスなら喜ぶと思う」
物欲のものすごく強いお前が一体どうしたんだ?と聞きたい気持ちをぐっと抑えて、カリムはにっこりと微笑んだ。
「うん。それならマハードも嬉しいだろうね」
シャダは今にもくるくると踊り出しそうにはしゃいで、カリムの手を引っ張った。
「ほら、カリム!もう授業が始まる!早く行かなきゃまたイアフメス先生に耳を引っ張られるよ」
「耳を引っ張られるのはお前の役目だろっ!」
「うるさいっ!」
少年たちは軽口をたたき合いながら緑したたる初夏の庭園を駆けていった。
※・・・古代エジプトで人気があった物語に登場するフィクションの人物。ヒマを持てあますファラオがふっかける無理難題を、ズバッと解決する筆頭神官兼魔術師である。
さて、その五ヶ月後のこと。
カルナックのアメン神が神官達のかつぐ聖船に乗って、ルクソールのムトゥ女神のもとを訪ねるオペトの祭り。
この日を待ちわびていた人々は、パピルスの衣装行李の奥からひっぱり出した一張羅でめかしこみ、神殿の奥から漂ってくる香の香りに心を浮き立たせている。
「おにいちゃーん!」
連れだって祭り見物に来ていたシャダとカリムの許に、嬉しそうに駆け寄った愛らしい女の子は、アマネ。
遠くで父母とバクラがシャダに気付いて手を振っている。
だが、アマネの小さな手にしっかと握りしめられていたのが、特徴ある模様の入ったあのスカラベとあっては・・・
「亀に呑まれたって言ったくせに・・・!」
困ったような笑みを浮かべるシャダを、カリムはぎろりっ、と冷たい瞳で睨みつける。
「・・・うっ・・・ちがわい!あのスカラベは別のスカラベだい!」と必死に言いつくろうシャダ。
「苦しいウソつくなよ!女の子にやっちゃうなんて酷いなぁ!」とカリム。
「な、なんだよぉ!ボクより勉強ができるからってボクに命令しないでよっ!」
「当たり前のこと言ってるだけだ!」
「違う!」「違わないっ!」
「違うよ!」「違わないったら!」
「ううっ・・・もうお前とは絶交だ!」
「こっちこそ死ぬまで口もききたくない!」
これでもう二十一回目の絶交をする二人の前を、もうじきアメン神像を乗せたきらびやかな御輿が通り過ぎるだろう。
季節は夏まっさかり。
ナイルの氾濫が終わり、この国が黒い豊かな大地に生まれ変わるのも、もう間もなくの話である。
(おしまい)
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