スカラベ事件 その2
高い王宮の擁壁の前で、クフ王の昔から枝を広げている大きなアカシアの樹。
風にざわめく枝の下にカリムと並んで腰を下ろすと、シャダは改めて尋ねた。
「ねえ、『記念スカラベ』ってなんなの?」
「ああ、その話だったな」
「見せてよ、カリムの取ったやつ」
カリムは腰から下げた袋から戦利品を大切そうに取り出すと、亜麻の腰布でごしごしこすりながら大人びた口調で言った。
「記念スカラベとは・・・呼んで名の如し、『記念のスカラベ』さ」
「だから『記念のスカラベ』ってなに?」
「王室のお祝いごとや戦勝の記念にこういうスカラベが配られるんだよ。前のやつは、なんでも王妃様がファラオの元へお輿入れなすったのを記念して配られたらしい。」
「じゃあ今度は何の記念なの?」
色黒の少年は目をすがめると、スカラベを腹側にひっくり返した。
「僕もまだ読んでないんだけど・・・えーっと・・・」
つやつや光る青い聖甲虫の腹に刻印された細かい文字を、カリムは声を出して読み始めた。シャダは興味深そうに腕組みして、カリムの音読に耳を澄ましている
「第八年収穫季第一月十一日・・・」「五日前のことだね」
「えー、『法を定め、両国を・・・』」「ふむふむ」
「えーっと・・・『鎮める者』、かな」「ふむふむ」
「『上下・・・エジプト王、アクナムカノン』えー、『テーベの』、えーっとお・・・」
どもったカリムは、教師のように悠々と腕組みしたまま人の解読を待つシャダをぎろりとにらみ付けた。
「おいシャダっ!ヒエログリフの勉強してるならお前も一緒に読めよっ!」
そこで二人の少年たちは、ふさふさしたおかっぱ頭とつるつるした坊主頭を突き合わせて、一生懸命スカラベに目を凝らす。
ああでもないこうでもない、と日頃の学習の成果を披露しあう少年たちに、優しいアカシアの樹は風に枝をざわつかせながら、涼しい木陰を差し出してやるのであった。
やがて・・・二人はスカラベから顔を上げると、思わず顔を見あわせた。
「・・・王子がお生まれになったのか」
「ファラオには王子はいらっしゃらなかったの?」とシャダは不思議そう。
「確かそうだったと思う」
「ふうぅーん、ならその王子が次のファラオにおなりなの?」
「普通に行けばそうだろ。その方がこれからずっと先に、僕らがお仕えすることになるかもしれない方ってことだよね」
「君は今のファラオのお姿を見たことがあるの?」
テーベに来てまだ日の浅いシャダはカリムを質問攻めにした。
「今日『お姿の窓』からスカラベをまいていた方がファラオなの?」
だが、カリムはかぶりを振った。
「いや、あの方はファラオじゃない。あの方はアメン神殿の大神官アクナディン様。お姿はちょっと似ていらっしゃるけどね」
「・・・へぇえー・・・」
だが、その時すでにシャダの興味はファラオではなく、カリムの手の中でぴかぴか光っている素敵なスカラベに移っていたようである。
「ねえ・・・カリム・・・」
シャダはおずおず切り出した。
「・・・君はスカラベ、好き?」
「う、うん・・・そりゃ嫌いではないさ」
「・・・・・・すごく好き?」
「・・・そりゃまあ・・・なぁ・・・?ふつうの護符にはべつだん興味ないけど・・・」
嫌な予感がしたカリムはとっさに防御線を張った。
「だけど、なんたってレアな記念品だからね!お父様は記念品のコレクションがお好きなんだよ。あーあ、今日は家に帰ってこれをお見せするのが楽しみだなぁ!」
カリムはそそくさとスカラベをしまうとわざとらしい大きなのびをしてみせる。
だが、カリムは背中に感じている。ちくちくと突き刺さるシャダの羨望のまなざしを。
流れる黒髪に隠れたカリムの耳はとらえている。ひっそりと吐き出される小さな溜息を。
「さ、シャダ、僕はもう行くよ?もうすぐ日が暮れるからね」
いたたまれない気持ちになったカリムは、情けを振り切るように勢いよく立ちあがると、座り込んだまま微動だにしない友人をうながした。
「お前も早く帰らなきゃ、シモン様も待ってるよ、ね?!」
腰布についた砂をバタバタ払いながらちらっと盗み見ると、シャダは細い肩を落としたまま、しょんぼりうなだれている。
「・・・ううん、シモン様はおとといからお出かけ。だから急いで帰っても仕方ないの」
その寂しげな丸い頭を見たとたん、カリムの胸にはいつもと同じあの・・・なにか居ても立ってもいられないような奇妙な気持ちがわき上がる。
彼は必死で自分に言い聞かせた。
・・・ダメだダメだ!どんなに悲しそうな顔したってダメだ!このスカラベだけは譲れない。だってお前には、こないだ手乗りの小鳥までやったばかりじゃないか!
だが、自分の悲しみにどっぷりと浸りきったシャダは、どぎまぎする友人の心なぞお構いなし、なおも悲しげに溜息をつく。
「ボクがぼやっとしてて横から取られちゃったもんだから・・・
ああ、ボクはどうしてこう要領が悪いんだろう・・・・姉さまたちに王子誕生のスカラベを見せて差し上げたかったのになぁ!」
今にも涙があふれ出しそうなくるんとしたアーモンド型の瞳・・・いや、葦ペンが乗りそうなほど長いまつげには、もうすでに一粒二粒涙が光っている。
・・・ううっ・・・!
あと一押しでオイオイ泣き出されそうな予感がして、カリムはたじろんだ。
アスワンの赤色花崗岩よりも固かったはずの決意に反して、右手は腰の袋にしまったスカラベにじわじわと伸びている。
・・・ああ、俺はどうしてこいつにはこうなんだ!
おかっぱの少年は、ふがいない自分に腹を立てながらぐっと息を止めると天を仰いだ。
・・・でももういい。ここは負けといてやる。
得がたいスカラベをぎゅっと握りしめ、恋人に最後の別れを告げるかのようにさわさわと撫で回すと、カリムは泣きべそをかいている友人に、決然とした表情でそれを差し出した。
「ほら、そんなに欲しけりゃお前が持ってろよ」
「・・・・・・え・・・?」
一瞬けげんな顔をしたものの、次の瞬間には高窓から差し込む光に照らされた神殿の石像のように、ぱああっ、と明るくなるシャダの顔。
「・・・・・・ホントに?」とまどうシャダ。
「ウソついたって仕方ないだろ」
「でも・・・でも、カリムも要るんだろ?せっかくキミが取ったものをボクが貰えないよ」シャダは困惑した顔で一応は辞退する。
だが、アメジスト色の両眼はボール遊びをねだる仔犬のようにキラキラ輝いて、もう欲しくて欲しくてたまらないのは一目瞭然。
「・・・いいんだよ。僕はそれほどまでには欲しくないから」
まったく単純なヤツだとカリムは苦笑いした。
「それに、うちには結婚スカラベもあるからね・・・うん。別にいいんだ。お前が持っとけばいい」
前回配られた王妃の輿入れの記念スカラベがある、というのはとっさに思いついた嘘であった。だが、こうでも言わないとシャダは素直に受け取りそうになかったから。
「・・・ありがとう・・・」
シャダはカリムの手のひらで鮮やかに輝く青いスカラベを、ためらいながらも受け取ると、ぎゅっと胸に抱き締めた。
その瞬間、卵型の小さな顔にうかんだのは花のように愛らしい笑顔。
自分の顔がなぜだか赤くなるのを感じて、カリムはあわてて背を向けた。
「じゃあ僕はうちに帰るよ。もう帰らなきゃみんな待ってる!」
「うん。ほんとにありがとうカリム!」
パタパタと走り去るカリムを、スカラベを握りしめたシャダはすこし寂しげに見送っていた。
(挿し絵 黒田ギイ)
ナイルのほとりに青々と生い茂った背の高いパピルスの茂み。
白い石の上に座ったシャダは、冷たい水をつま先でばちゃばちゃと跳ね上げながら記念スカラベを太陽にかざしている。
「・・・神々の主を見ること・・・許されし・・・よき・・・魂として・・・地に・・・あらわれし・・・」
聖なる文字の刻まれた青いスカラベは、角度を変えると黒みを増したり白っぽく見えたり・・・頭の部分には釉薬が垂れたせいで放射状の模様が浮き出ている。
ファイアンスの護符なんてべつだん珍しくはなかったものの、これだけ立派な自分自身のスカラベを持つのは初めてだった。その上、これは滅多に手にできぬレア物ときている!
シャダは気前のいいカリムに心から感謝した。
今度あいつの欲しがっていた剣術用の剣を上げちゃおうかな、とまで考える。
このスカラベ、今度里帰りする時に見せてあげたら、お母様たちどうおっしゃるかしらん!
遠くメンフィスに暮らす両親や姉たちの驚き顔を想像するだけで、シャダの心臓は踊り出しそう。
・・・しかし、その楽しくふくらんだ浮かれ気分も、次に帰省できるのはまだ半年も先だと思い出したとたん、みじめにしょぼしょぼと縮んでしまった。
そうだ、お母様たちにはまだまだ会えないんだっけ・・・
自宅通いの同級生たちは、もちろん家族そろって仲良く暮らしている。
だのに実家から遠く離れ、老宰相シモンの邸宅に寄宿している自分。
まだまだ甘えたい年頃だというのに、早々に親から離してしまった少年へのせめてものつぐないとでも言いたげに、シモンは何くれとなくシャダに気を遣った。
幼い少年にかしづくたくさんの召使い。
ミルクと蜂蜜たっぷりの美味しいお菓子や外国から輸入された珍しいご馳走、それから美しく希少な物語パピルス。
だが、いくら祖父のように優しくシャダに接するシモンであっても、オリエントに並ぶ者なき大国エジプトを治める神の子ファラオの片腕としては、始終小さな男の子の相手をしているわけにもいかない。
そして今夜もシャダは、駆けっこできるほどの大邸宅で一人寂しくお留守番だったのだ。
・・・どうせ家に帰っても、一人でごはんを食べなきゃなんないんだもの。帰ったって仕方ないや。
今頃家族で仲良く食事しているであろうカリムを思い浮かべたとたん、シャダはますます寂しくなり、思わず涙がぽろぽろこぼれてくるのであった。
だがその時のこと。
涙にうるんだ瞳にぼんやり写ったのは、川面からひょっこり顔を出した変な顔。
・・・な、なんだあいつは?!
シャダの目はまん丸くなった。
さっきから一人でしくしく泣いていたシャダを、何を考えているやらさっぱり分からぬ黄色い瞳でじっと観察していたのは・・・アメン神殿の列柱の土台石ほどに大きな甲羅の亀であった。
浅瀬の土の上に登ってゆったりくつろぐ生き物と、泣いて鼻をまっかにした人間の子供は、互いをじっと見つめ合う。
突然目の前に現れた自然の驚異に心を奪われ、シャダの心臓は跳ね上がった。
すごい!あんな大きいやつ見たことない!
頭からはさっきまでの憂鬱などあっさり消え去り、代わりに突拍子もないアイデアが浮かんでいた。
あいつの甲羅の上に乗っかって、ぷかぷかナイルに浮かんだらさぞ楽しかろうなあ!
素敵な思いつきに心を躍らせた少年は、手に握っていた記念スカラベを大切そうにかたわらの石の上に置くと、のんびり甲羅干しをしている亀に抜き足差し足で近づいた。
だが、シャダは気付いていなかったのだ。
彼をじっと観察していたのは、なにもナイルの呑気な亀一匹だけではなかったことに。
パピルスのサンダルを几帳面に揃えて脱ぐと、シャダは亀とじっと目を合わせたまま、一足、一足・・・ちゃぷちゃぷと小さな音を立てて河に入っていった。
少年が近づいてきても逃げるそぶりも見せない亀は、首をぐーんと伸ばしてしばしばと眠そうにまばたきしてみたり、時折左、右・・・と交互に足を踏み替えたりしている。
しめしめ・・・その調子でじっとしといてくれよカメ公、と呟きながら、じわりじわりと亀に近寄るシャダ。
その時。
パピルスの影からこっそりシャダの様子をうかがっていた人影は、相手が十分に岸辺から離れるのを見計らって、ざざぁっ!と土を蹴立ててスカラベに飛びついた。
「ああっ!?」
シャダが後ろを振り返った時には、すでに時遅し。
カリムにもらった大事な大事なスカラベは、ぼさぼさの茶色い髪を振り乱した幼い少年の真っ黒に汚れた手に、しっかりと握りしめられていたのだ。
「やーいやーいマヌケ野郎!」
スカラベを手にした子ネズミのような少年は、ぴょんぴょん飛び跳ねながら大声でシャダをあざけった。
「ぎゃはははは!バーカ、アーホ、オタンコナスめぇ!これは俺さまがもらっとくぜぇ!」
「ボクのスカラベだ!返せえっ!」
シャダはばしゃばしゃ水を掻き分け岸に戻ると、サンダルをつっかけ必死で泥棒の後を追う。
だが、少年の小さな体はまるでつむじ風になったよう。シャダよりずっと小さいのに、どれだけ走っても追いつけない。
「待てぇ!泥棒!待てぇ!」
必死で叫びながら少年を追うシャダは、やがて川辺にほど近い貧民窟の、迷路のように入り組んだ薄汚い路地に飛び込んだ。
(3)へつづく
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