スカラベ事件 その1




この軍は無事に帰ってきた
砂漠の住民の国を叩きつけて
この軍は無事に帰ってきた
そこの砦をうち壊して
この軍勢は無事に帰ってきた
そこの無花果と葡萄の樹をきりたおして


見上げると首が痛くなるくらい高い高い擁壁に守られた壮麗なる王宮の正門前。
凱旋するファラオの姿が描かれた鮮やかな彩色レリーフや、風にはためく色とりどりの旗に見おろされながら、七、八人の少年たちが大声で歌いながらあたりを練り歩いて遊んでいる。

この軍は無事に帰ってきた
そこの軍勢をことごとくやっつけて
この軍は無事に帰ってきた
多くの軍勢を生け捕りにしてつれてきた


「おい・・・おいっ!シャダ!」
軍隊ごっこの行列の先頭に立って、得意顔でヤシの葉っぱを振り立てていた少年に、後ろ手に縛られた色黒のおかっぱがたまらず声をかけた。

「ぜんたぁーい、とまれぇーっ!」
部隊に号令をかけて停まらせると、坊主頭の少年は将校鞭のつもりのヤシの葉をぺしぺしやりながら、威厳にみちた足どりでゆっくりとおかっぱ頭に歩み寄る。

「一体どうしたというのだ?『捕虜壱』よ」
「ちょ、ちょっと縄をゆるめてくれよ。息が苦しい・・・お前きつく縛りすぎた」
「ふんっ!なんだよカリム、忍耐がないなあ!『捕虜弐』はなにも文句言ってないのに」
シャダはふふん、と鼻をそびやかすと、もう一人の捕虜役、手足が長く筋張った長身の少年をふり返った。
「ねぇ、マハード、お前はどうだい?苦しい?」

マハードと呼ばれた少年は後ろ手に縛られたまま、城壁にとまってカァカァ鳴いているカラスを、さも珍奇な鳥ででもあるようにじっと見つめていたが、シャダの言葉にはっと我に返ると困ったように口をもごもごさせた。
「・・・は、はぁ。俺は別に・・・」
それを聞いたとたん、我が意を得たりとばかりにくるりと振り返ったシャダは、
「ほら、マハードもああ言ってる。ハッティ(ヒッタイト)の捕虜はこのくらいがっちり縛り上げなきゃ、逆にこっちが危険だからね」と息まいた。

「まったくいっつもボクばっか捕虜役なんだから。たまにはお前にも縛られる苦しみを味わってもらわなきゃ!」
上目づかいにそう言いながら、汗で黒髪の束をべったりとはりつけているカリムの頬を、ヤシの葉っぱでいたぶるようにさわさわと撫でる。
その仕草はいったいどこで見知ったのやら、街頭で内気な童貞をからかうあまり品のよろしくない女そっくりだ。

「ならせめてもうちょっと下で縛ってくれっ!息ができない。僕はお前より体が固いんだよ・・・」
はぁはぁと息をはずませるカリムにそう哀願されて、なら仕方ないねとシャダが渋々ながら縄に手をかけたその時・・・

「おおぉおーいー!たいへんだぁ!たいへんだぁああー!」
少年たちはいっせいに声の主を振り返った。

年の割にでっぷりとした太鼓腹をつきだし、太短い足を精一杯動かして一目散に駆けてくるのは、父親そっくりの穀物倉庫長の息子。

「『お姿の窓』のところでなんか配ってるよぉー!早く来ないとなくなっちまうぞぉー!」
肩でぜいぜいと息をする太っちょに、皆は口々に尋ねる。
「いったい何を配ってるんだ?」
「そんなにいいものなのか?」
「パンや麦の小袋なら僕らは要らないもん。なぁ?」
いっせいにふんふんとうなずく少年たちは、皆そろって食うには困らぬ良家の子息。食べ物なんぞべつだん欲しくはない。

だが、呼吸をするのも辛そうな太っちょの口からは、驚くべき言葉が飛び出した。
「そんな・・・しょぼいもんじゃ・・・ないよ・・・
スカラベ・・・記念スカラベだよ!」
「ええーーーっ?!」
少年たちはその報告にびっくり飛び上がる。

「記念スカラベ?!すっげえ!」と目をぐりぐりさせる港湾局長の息子。
「おい、早く行こうぜ!もらい損ねたらおおごとだ!」と叫ぶなり子鹿のようにダッシュしたのはテーベ市長の息子。

それにつられるようにいっせいに駆けだした少年たちの姿は、あっという間に砂ぼこりの舞い上がる果てに小さくなった。

あとに残されたのは、わけが分からず口をぽかんと開けたままのシャダとマハード。
それから、がっちりと縛り上げられたまま、汗だくでハァハァと息の上がったカリムだけ・・・

「・・・ねえ、『記念スカラベ』って、いったい何なの?」
カリムをけげんそうに振り返ったシャダは、「なんでもいいからとりあえずほどけっ!」と怒鳴られて、あわてて縄をほどこうとする。
だが、祖母に代わってハッティへの恨みを晴らそうとしたわけでもなかろうが、やみくもに絡ませた結び目はいざほどこうとすると固すぎて、あせりばかりがつのるシャダはもうすでに半泣き。

・・・そして、苦心惨憺の末、やっとのことでいましめから解かれた色黒な少年は、両手を広げてぐーんと伸びをしたかと思うと、「説明はあとからだっ!」と叫ぶやいなや脱兎のごとく駆け出した。

「あああっ?!待ってよぉーカリムぅー!」
残るマハードの縄目と格闘していたシャダの喉からは悲鳴が上がる。
だが悲痛な叫びなんかにはお構いなしに、黒髪をなびかせてあっという間に小さくなるカリムの姿・・・

やっとの思いで最後の結び目をほどき終わったシャダは、走り去る友達のあとを転がるように追いかけるのであった。


さて、ここは王宮に設けられた「お姿の窓」。(※1)

すでに噂を聞きつけて集まってきた人々は、真っ黒に日焼けした港の荷担ぎ人から、立派なカツラをかぶった警察署長まで、貴賤入り乱れて大騒ぎ。

「お姿の窓」の向こうにいる人影が、なにか小さな石つぶてのようなものをバラバラっ・・・と放り投げるたびに、群衆の間から上がるのはわぁわぁという歓声と、耳が痛くなるような悲鳴、そしてお互いを口汚くののしり合う大音声。

空中でうまくキャッチしたそれをほくほく顔でふところにしまいこむのは、ぼろぼろの格好をした目が見えないはずの物乞い。
「キイィ!このスベタぁ!こりゃアタシのだよ!」
「何言ってんだよ?アタシが先だよ、このドブス!」と地面に落ちたやつを巡って、髪の毛を引っ張りあっての争奪戦を繰り広げている職人の奥方たち。
あちらの方では肘があたったあたらないので、若い男たちが取っ組み合いの喧嘩を始めている。

初めて目にする上を下への大騒動に、奪い合いなんぞとは縁もなくすくすく育ってきた下エジプト宰相の長男は、ただただ呆気にとられて立ちすくむばかり。

「ほら!何やってるんだよ?ぼんやりしてないでキャッチしろよ!」
カリムに大声で促されてハッと我に返ったシャダは、ぶるぶるっと頭を振ってありったけの勇気を奮い起こすと、「お姿の窓」からの次の一投を気合いを入れて待ち受けた。

キャアアアアァアーーーっ!
興奮した女たちの金切り声と共に、石つぶてが続々と飛んでくる。
シャダは両腕をせいいっぱい伸ばして天に向かって高く差し上げると、小石の飛んでくる方向に全神経を集中した。

だが・・・小柄な少年がいくら懸命にぴょんぴょん飛び上がったとて、ばらばらと降ってくる獲物は、あっという間に大人たちの大きな手のひらに吸い込まれてしまうのだ。
ダメだ・・・子供にははなっから無理なんだ!

やがて記念品の配布も終わりに近づき、飛びはねるのにも疲れ果てたシャダが諦めかけたその時・・・

コォオーーーーーーーーーン!

目の前に青や黄色の火花が散って、シャダは地面にうずくまった。
綺麗にひいでた額に、見事石つぶてが命中したのだ。
頭がクラクラ回って足がよろめく。が、カッと目を見開いたシャダは、足元に落ちているものをあわてて拾い上げた。

うわーっ!きれいだなぁっ!
青い釉薬をかけられて、手のひらの中でつやつやと光っていたものは立派なスカラベ。(※2)
裏を返すと細かなヒエログリフが、何行にもわたって彫り込まれている。

だが次の瞬間、うっとりと見つめる手のひらからそれは乱暴に奪い取られた。
はじかれたように振り返ると、ひょろっとした鷲鼻の男がにやにやしながらそれを太陽にかざして眺めていた。
「なにするんだよぉ!」
「おい、ボーズ。これは俺によこしときな!」意地悪そうな目をぎらつかせてすごむ男。
「返せ!ボクのスカラベだ!」
大声で叫んだシャダは、怖さも忘れて夢中で飛びかかる。

・・・だが、小さな子供の力が大人に勝るはずなどないというもの。
非力な少年はあっという間に地面に叩きつけられた。

「ふん!バーカ。ガキがこんなもん持ってても豚に真珠だよーっ。ハハハハっ!」
乱暴に突き飛ばされて階段でしこたま背中を打ったシャダは、涼しい顔で去ってゆく男の後ろ姿を、ただ呆然と見つめるばかりであった。



すでに人もまばらな王宮の中庭。
予定数を配り終えた「お姿の窓」の向こうの人影も、今はもう見えない。
すりむいて血のにじんだ肩の痛みをこらえて、シャダはよろよろと立ちあがった。肩も腰も強く打ったせいでじんじんする。

ぼんやりと視線を上げると、そこにあったのは浅黒いカリムの姿。
「取れなかったの?」
無言でうなずく友達をカリムは困った顔で見つめる。
「馬鹿だなぁ。あんなに一杯あったのに!」
「・・・一回だけ取れたんだけど・・・大人に取られちゃった」
「・・・ええっ?」とカリムは驚いた。
「ひどい大人もいるもんだなぁ!そんなやつワニに食われちゃえばいいのに!」そして切れ長の目をつり上げて、憤懣やるかたない様子でさらにつけ加える。
「・・・いや、ワニなんかじゃ足りない。サソリとコブラに噛まれれば・・・いや、そんなやつはオシリスの審判でアメミットに食われてしまえ!」

だがその時、向こうのほうで一般人の退出をうながす衛兵に気付いたカリムは、取りあえず王宮を出よう、とシャダを手招きしたのだった。


(2)へつづく


※1・・・王宮には「臨御窓」と呼ばれる小さな窓が王宮内の広場に向かって設けられていた。
王や王妃は折に触れこの窓の向こうに姿を現しては、廷臣たちに黄金や小さな宝飾品を投げ与えたそうだ。
だが、これは廷臣に対する報償のための行為であって、ここで書いたように一般人までが恩恵の対象になることはなかっただろうが・・・
だいいち、大神殿の中庭であれば一般人でも入ることができたが、王宮の擁壁内には足を踏み入れることは許されなかっただろう。

※2・・・神聖なスカラベ甲虫(フンコロガシ)をかたどったスカラベ印章は、古くから護符や印章として石やガラス、ファイアンスを用いて制作された。
ファイアンスとは、砕いた石英と石灰、ナトロンなどを混ぜ合わせたものに釉薬をかけて焼いた陶器素材。
安価なので貴石の代替物として貧困層でも持つことができた。色は主に青か緑だが、赤や紫のものも作られた。
もちろんそういった色は、誰しもが憧れた高価なラピスラズリやトルコ石、紅玉随(カーネリアン)やアメジストのイメージである。

ただ、この話の中のように記念スカラベを放り投げることは実際には考えられない。なぜなら、裏に細かい文字を彫り込むため、記念スカラベはかなりサイズが大きくなるからだ。そんなものを地面に落とそうものなら砕け散ってしまうだろう。
第一、記念スカラベを投げるなんて不敬である。実際には大切に手渡しされのだろう。