なぜなのか聞いてくれたら


「裏切り者め!俺の前に二度と姿を現すなこの薄汚い売笑夫め!!お前なんぞナイルの河馬にでも喰われてしまうがいい!」

握りしめた拳を激しい怒りに震わせる相手から罵声を浴びせかけられ、青年は身を震わせてアカシア材の寝台の上で飛び起きた。
冷たい汗は額に描かれた優美な流線から若いガゼルを思わせるすんなりした首筋に沿って流れ、くしゃくしゃに乱れたリンネルの敷物にはたはたと落ちている。

夢だったか・・・
シャダは大きな溜息をひとつ付いた。
激しい動悸はまだ収まらない。
なぜなら夢であってもカリムが怒る姿を見るのは初めてだったから。


温厚で口数少ない彼の恋人。
我慢強く意志強固で雄牛のように逞しく、溢れんばかりの人望に恵まれ輝かしい未来を約束された男。
自分にとっては出来すぎた相手の彫りの深い男らしい横顔をうっとりと見つめては、シャダはいつも己の幸運を神に感謝してしまう。

取っかえ引っかえ貴族から平民まで様々な男や女とつき合っては誰とも長続きせず、どの相手ともしっくり来ないとぼやいていたシャダだったが、一番身近な人間が一番いい男だとふと気付いたのはいつのことだったろう。
幼い頃からの親友をそんな目で見るようになるとは夢にも思ってみなかった彼の、内心の戸惑いは大変なものだった。

カリムと恋人関係になったのはほんの一年前のこと。
まさか男同士でこうなる事を、お堅いカリムが受け入れてくれるとは想像だにしていなかったものだから、初めの頃は長い夢でも見ているのではなかろうかとふと不安に駆られたりしたものだ。

おだやかで献身的な理想的な恋人であるカリムが声を荒立てる姿などシャダは見たことがない。
その彼がまるで人が変わったように激高するのを見るのは、夢のなかであってもけして気持ちのいいものではなかった。


夢で良かった、そう安堵しながら綺麗に剃り上げた形よい頭に手をやったシャダを、次の瞬間激しい頭痛が襲う。
頭の割れるような痛みで眉間に皺を寄せながら、今自分がある場所を特定するためゆっくりと周りを見回した彼は思わず背筋を寒くした。


竣工から一度も塗り直されていないような薄汚れた壁。
漆喰がところどころはげ落ち、頼み込まれたとてけして由来を聞きたくないような正体不明の染みもそこかしこに見受けられる。
家具はといえば、部屋の主は清貧をこれ見よがしに誇っているのではと勘ぐってしまうほど少なく、犬も喜ばないような固そうな敷物の上にはぎしぎしと耳障りな音を立てる官給の質素な寝台。

そして・・・
寝台の上に自分以外の人間の姿を認めた時、シャダは殴られるような痛みでぼんやりした頭の隅で思い出した。

昨夜この胸のむかつくような寝台を、派手にきしませていたのは他ならぬ自分そして、掛け布を頭からかぶったまま大いびきをかいているこの男であることを。


シャダは必死で祈った。
アメン神よどうかわたしの言葉に耳をお貸し下さい。
彼がこれほどまでに真剣に神に祈るのはこれが生まれて初めてのことだったろう。
お願いです・・・どうぞすべてが悪い夢でありますように!明日からは真面目になりますからどうぞ御慈悲を!

だが、大エジプトの国家神アメンはそのような下世話な願いに耳を貸すほど時間を持て余してはいなかったようだ。
せめてもう少し庶民的な・・・たとえばベス神であるとかトゥエリス神であるとかに両腕一杯の供物を持って頼み込めば、ひょっとすると聞き届けられた祈りだったのかもしれないが。

シャダはさっき引いたはずの冷たい汗をあらためて全身に浴び、ぶつぶつと祈りの言葉を口にしながら息を殺して男が頭からかぶっている掛け布にそっと手を伸ばした。
布の隙間から覗くのが見慣れたおかっぱであることを祈りつつ、 漂白もされていない糸をざっくりと織っただけの安い布きれを恐る恐るつまみ上げる。
だが、そこに姿を現したのは祈りの甲斐なく、手入れの行き届いた艶やかな長髪ではなくて乱暴に短く刈り込まれた白髪混じりの黒髪であった。

その時眠っていた男が細く目を開けてむにゃむにゃ言う。
「ああん?なんだシャダ。もう朝かぁ?」
その瞬間、絶望した心とは裏腹に思わず体を熱くした彼の頭には、昨夜のなりゆきが鮮やかに蘇ってきて・・・シャダは思わず息を呑んだ。


またやってしまった。





テーベ総督レクミレが盛大に催した昨夜の宴会。
贅を尽くした宴会にどれだけ多くの名士を呼べるかは、上流階級の人間の勢力をはかる物差しである。
ファラオが貴族や官僚主催の宴会に顔を見せることは絶対にないことであったが、ファラオに次ぐ有力者として上エジプト宰相シモンとその愛弟子が真っ先に招待者のリストに上がったのは当然のこと。

もちろんカルナックの神官長アクナディンとまだ幼い息子セト、加えて若手官僚の出世頭であるカリムとマハード、そしてファラオ直々にブバスティスから招聘された有能なる女神官・アイシスも招待されたこの宴会は、吝嗇家のレクミレらしくない、一体どういう風の吹き回しかと思わず勘ぐるほど豪奢なものであった。

芳香を放つブルーロータスの花を手渡すため、招待客の間を縫って蜂のように飛び回る腰ひも一本の若い娘。彼女らの剥き出しの胸の谷間に目尻を下げながら、好々爺レクミレは愉快でたまらないといった様子で太鼓腹を揺らす。

「さあさあ、皆様、今日はビールだけではなくファイユーム産の新酒もたっぷりと用意しておりますぞ。
今夜は遠慮なく棒のように酔っぱらってください。あなた方の健康はわたしの健康、どうぞ今日は日頃の憂さを忘れて楽しいひとときをお過ごし下さい。
では皆様方、乾杯を!あなたがたのカーのために!(※1)」

そんなレクミレの口上をそのまま受け取ったわけでもなかろうが、余興がテーベ一番人気の三人組女楽師の登場とあいなった頃にはすでに、酒好きな割には酒に弱いシャダはすっかり酩酊していた。

カリムもマハードも仕事が押してるからって断らずに、遅くなっても来ればよかったのに・・・
給仕の少年の捧げ持つ瓶から、トルコブルーと鮮やかな黄色で彩られたガラスの酒杯に深紅の酒をなみなみと注がれながらシャダは不満顔である。
少し離れた場所では、気付かぬ内に自分の隣からレクミレの横に移動したシモンが、なにやら深刻そうな顔をして内緒話の真最中。

もちろんシャダとて上流階級の一員。招待客の半分以上は見知った顔であったが、振ったり振られたりしたかつての火遊びの相手とこういう場所で会うのは余り愉快なものではない。
同郷のメンフィス出身で気の合うアイシスも、男女では席を分けるのがエジプトの風習ゆえ、今はシャダの遙か彼方で貴婦人同士さも楽しげに笑いあっている。

けして人見知りする性格ではなかったはずなのに、今夜はなぜか見知らぬ相手と世間話をする気になれないシャダは、ただ無言でぐいぐいと杯を空けては給仕の少年に溜息をつかせるばかりであった。


「おいお前、今夜は杯を干すのが速いじゃないか。大丈夫か?」
その時シャダの隣に立ったのは、ファラオから下賜された金の鎖を誇らしげに光らせているがっしりした長身の男。
「ああ、ホルエムヘブか。ずいぶん久しぶりだね」
「冷たい奴だな。忘れたのか?先月会ったばかりじゃないか」
男は短く刈り込んだ白髪交じりの頭をぼりぼり掻きながら、どっかとシャダの隣に座った。
「へえ、わたしはまた去年のことかと思っていた」
酒杯で揺らめく赤い水面を見つめながら、気のない返事をするシャダにはお構いなしにホルエムヘブは続ける。
「で、お前、あの話だが・・・」
「あなたにお前呼ばわりされる筋合いはない」
「そんなことどうだっていい。俺の言ってたこと考えてくれたか?」
「・・・こたえは今までと同じだ」

シャダはこの粗暴な戦車隊長に二年越しで口説かれている。
だがシャダは繊細という言葉を知っているとは到底思えないような、野性的すぎるこの軍人の荒々しさがあまり好きではなかった。


元はオアシスからオアシスへと渡り歩いて乞食同然の暮らしをしていたホルエムヘブ。
その軍才を見抜き、軍で重用するよう指示したのは他ならぬアクナムカノン王であった。
それからというものめきめき頭角を現しファラオの期待以上の手柄を立てた彼は、今では数百の兵を率いる戦車隊の隊長にまでのし上がっている。

将軍になるのもそう先の話ではなかろうと囁かれるホルエムヘブは、大した教育こそ受けていなかったものの、鋼の精神力と戦地で研ぎ澄まされた鋭い洞察力、そして鍛え上げた筋肉質の体を持つまさに軍人そのものといった風情の男であった。
その強面が少年といっていいほど幼さのある軟派な若者の、一体どこを気に入ったのか・・・

とにかくホルエムヘブは断っても断ってもしつこくシャダを口説き続け、その情熱は相手が建設省のおかっぱとおおっぴらに付き合うようになってからもけして変わることはなかったのだ。

誘惑に弱いシャダゆえ、戦車隊長の押しの強さに正直なところ心がぐらついたこともなきにしもあらずであったが、カリムと付き合うようになってからは一度の例外を除いては誰の誘惑にも乗っていなかった。

その一度だけ犯した過ちの時、二度としないという固い誓いの言葉を取り付けたカリムは、これで最後にするならばと黙って許してくれたのだ。
だが、その「無言で許されること」の恐ろしさに震えあがったシャダは、金輪際カリム以外とは臥所を共にするまいと固く心に誓ったのである。


だが今夜の夜空に輝く月は、人の心を嫌が応にも浮き立たせる満月。
そしてシャダの酒量は彼としては記録的なものであり、ホルエムヘブは今から大軍勢を率いてハットウシャシュ(※2)に攻め入らんばかりに気合い満々だった。

加えてより悪いことにこの一ヶ月というもの、シャダの愛しい人はカルナック大神殿の至聖所に出入りするため身を清らかに保っていたのである。



「おい坊主!ぼんやりしとらんとさっさとこっちにも杯を持ってこんか!」
黙って飲むばかりの若い法官にどんどん酒を注いでおきさえすればいいものだから、今夜の宴席は楽な仕事だとばかりにのんびり顔でいた給仕の少年は、突然席を移ってきた恐ろしげな客の叱責に飛び上がるようにして酒杯を取りに走っていった。

三つ数えるより早く手に酒杯を掲げて戻ってきた少年は、ホルエムヘブにうやうやしくそれを差し出すと、金細工の施された濃紺の酒杯に深紅の酒をなみなみと注ぐ。
「ほお、なかなかいい酒杯だな。この細工からすると・・・ミタンニ産かね、これは」
口には出さねど、ものの善し悪しなんて分からないくせに・・・と毒づくシャダの心を知って知らずか、いいところを見せようと通ぶってひとしきり陶器の蘊蓄を披露したホルエムヘブは、一気に空けた酒杯を足つきの膳の上に音を立てて置いた。
慌ててお代わりを注ぐ給仕の少年の手は、緊張の余り小刻みに震えんばかり。

ホルエムヘブは二杯目をもあっという間に飲み干すと、少年に命じる。
「おい坊主、ワインはもういいからビールをどんどん持ってこい」
そして振り向くと「俺はワインみたいな気取った酒よりもビールをたらふく飲む方が性に合ってるんだ(※3)」と笑いかけてシャダに溜息をつかせるのだった。

立て続けにビールをあおったホルエムヘブは一息つくと突然シャダに問うた。
「なあ、建設省のおかっぱの姿が見えないがどうしたんだ?」
「・・・彼はまだ仕事中だ。誰かさんと違って忙しいんでね」
「ふふん、能力が劣る奴に限って残業するという見方もできるぜ。仕事するときはする、遊ぶときは遊ぶ。それが俺のやり方だ」

馴れ馴れしく相手の肩に手を回そうとしてぴしゃりとはたかれた戦車隊長だったが、全く懲りていない様子でビールをぐいぐい飲みながらなおも続ける。。
「シャダお前、今夜はミタンニから来た女王みたいに綺麗だな。女に生まれてればすぐさま嫁に貰ってやったのに残念だな、わははははは」
「よけいなお世話だ。好きでこういう顔に生まれたんじゃない。そんな話をするならあっちへ行ってくれ」
「じゃあ外国の話はどうだ?聞きたくないか?俺が行ったいろんな国の話」
「・・・・・・」
「お前知ってるか?ヒッタイトでは一日中雨が降ってるんだぜ」
「一日中?」
「それにエジプトとは違って森の木がな、背が高くて鬱蒼として・・・とにかくあすこの冬は暗いんだ。暗くて寒い陰気なところだ。お陰で俺の兵隊の半分は風邪と神経衰弱で使い物にならなかった」
「へ、へえ、書物で読んだことはあるけど本当にそうなんだ?」

幼い頃には「大きくなったら外交官になる」と宣言していたほど、諸外国に関心を持っていたシャダ。
彼の興味を引き寄せることにまんまと成功したホルエムヘブは、投げた餌に思惑通り魚が食いついてきたことに、してやったりと心の中でにやりとする。
監視係のカリム不在の今夜、彼の想い人は都合良くしこたまきこしめしている。
今夜決めなくていったいいつ行動を起こすというのだ?

「反対にエジプトより熱くてきつかったのはバビロニアだった。だがな、バビロニアにはな、お前の犬と同じようなやつが山ほどいたぜ」
「え?サルーキが?バビロニアに?」
いつもの取り澄ました表情はどこへやら、子供のように瞳を輝かせて身を乗り出す相手の表情に、思わず笑みを漏らしたホルエムヘブは言った。
「お前の犬みたいな耳と尻尾の綺麗な飾り毛はなかったが、それ以外は全く同じだった(※4)」
「それは知らなかった。サルーキはエジプト固有の種かと思ってた」と素直に感心するシャダ。
「だろ?ところでお前の犬はどうしてる?訓練は大分入ったか?」
「あ、うん。鷹と組む訓練をはじめたところ(※5)」
「あれはいい犬だ。俺も獣猟が趣味だから人並み以上には犬に詳しいんだ。俺が保証するがあれはいい猟犬になる」

愛犬を手放しで誉められて嬉しくない人間がいようはずがない。
一番弱いところを攻められてすっかり警戒心を解いたのか、はたまた酒がひどく回っていたせいか、シャダは背中に回されたホルエムヘブの手を今度は拒むことがなかった。

背中を撫でる手を徐々に腰の方に下ろしても気付かない様子で、ぼんやりと盲目の竪琴弾きの奏でる哀しい調べに耳を傾けているシャダ。
その横顔の描く華麗な曲線に思わず背筋をざわつかせながら、ホルエムヘブはつとめて気のないそぶりで話しかける。
「シャダ、お前この歌が好きなのか?」
「あ?・・・うん、嫌いじゃないけどぉ・・・」
「俺は嫌いだな。鬱陶しくて気が滅入る。そう思わないか?」
「・・・・・・・今考えたくない」
ふてくされたようにうつむいてしまうシャダ。
「なぁシャダ、庭に出ないか?」
「ニワに?」
「ここは暑い。お前今日はちょっと飲み過ぎだから頭を冷やさなきゃな」
「・・・う、うん・・・そうだねぇ」

すっかりろれつの回らなくなったシャダに肩を貸したホルエムヘブは、盆を掲げて忙しく立ち働く召使いの間に隠れるようにして宴会場を後にした。
その様子に気付いたのは、シャダの老師でも宴会の主催者レクミレでもなく、先ほどから父の隣でじっとホルエムヘブ語る遠い国の話に耳を澄ましていた幼いセトそして、10人の話を一度に聞くと噂される卓越した女神官アイシスだけであった。


「父上、父上!」(※6)
父アクナディンの衣の裾を引っ張ってセトは出口のほうを指さした。
「どうした、可愛いセトや」
「戦車隊長がこっそり出ていったよ」
「飲み過ぎで頭を冷やしに行ったんだろう」
「でもシャダも一緒だったよ」

それを聞いた瞬間、痴話喧嘩を職場に持ち込んでくれるなよシャダ、と眉間を曇らせたアクナディンであったが、すぐに気を取り直したようにつとめて明るく答えた。
「悪酔いしたシャダを屋敷まで送っていくのだろう。大人にはすることが沢山あるのだから人のことに構わなくてよろしい」
「・・・でもシャダは良くわかってないみたいだったよ」
「ほら、いいからレクミレがくれた粉ひき人形で遊んでおおき」
「・・・は、はい・・・分かりました・・・」

こんなもの貰っても困るんだけど、取りあえず遊んでみせなきゃならないかな。
セトは大人びた表情でそう呟くと、ひもを引っ張るとカクカク動く粉ひき人形(※7)を気乗りしない様子で動かしてみせるのだった。



(つづく)

続きはオフ本「ラヴァーズ・ビフォア・クライスト」に掲載。


※1・・・古代エジプトの「乾杯」の挨拶
※2・・・ヒッタイトの首都。
※3・・・当時ワインは高級品で、ファラオの宴席はともかく、貴族レベルではふんだんにワインがふるまわれることは少なかったようです。「招待客はビールでさっさと酔っぱらわせて、ワインを出す量を押さえるように!」という給仕への主催者のメモ書きが残っているくらいなんですから。
※4・・・エジプトからアラビア半島を原産とするサルーキであるが、ここではサルーキの亜種である、全身短毛の現在スルーギと呼ばれている品種を指してみました。
※5・・・二頭のサルーキと一羽の鷹でチームを組ませるのは現代の狩猟法であって、古代エジプトではどういう風に犬を使っていたかまでは詳細には分かってません。
※6・・・この時点でセトがアクナディンを父と呼ぶのはおかしいとは承知の上で・・・このSSの舞台は「最後のたたかい」から8,9年前というつもりで書いたのですが、アクナディンがセトに父としての別れを告げたのは「最後のたたかい」から15年前と原作にありますよね。それを考慮するとセトをアクナディンの弟子と表現するべきだったものの、父と呼ぶ方がぴったりくる気がして時系列を無視しております。
※7・・・カクカク人形についてはカイロ博物館収蔵物を参照ください→