葦の野の涯てまで



セベアが死んだ。

朝起きると仰向けになって籠の中に転がってた。

きのうの朝まではいつもみたいに頭にとまってさえずってたのに、
夜になると餌も食べずに体をふくらませて震えてた。
変だなとは思ったんだけど、明日になったらまた元気になるだろうってそのまま寝てしまったんだ。
何てだらしなくていい加減で薄情な奴なんだろう、僕は。
セベアが苦しいのについていてやりさえしなかった。

一人でさぞ怖かったろうに。

艶のある綺麗な羽が自慢でいつもくちばしでお化粧してたのに、
まぶたを固く閉じたままのセベアの羽は乾いてばさばさになってる。
手のひらで包むと暖かくて小さな心臓の音が聞こえるようだったのに、
死んだ体は石みたいに冷たい。

「ミイラ師に言ってミイラにしてもらえば来世でまた会えるじゃろうから心配するでない。
きちんと護符と一緒に屍衣に包んで・・・お前が望むなら綺麗な棺も注文してやればよかろう。
それにほれ、儂が人間並みの特別な葬送の呪文で送ってやるでそんなに泣くな」
そうシモン様は言って下さったが、僕は悲しみで心が一杯でただ泣くしかなかった。

それから三日間は泣き続けたろうか。
人間の涙はここまで泣いても枯れないんだなと我ながら感心するほど、泣いても泣いても涙が止まらなかった。まるで目の奥でハピ(※1)が水壺をひっくり返したのかと思うほどだ。
いつまでも泣いている僕をシモン様もしまいにはただ、困った顔で見つめるばかりだった。

それから一週間ほどして少し落ち着いたころ、授業中にふと庭園を眺めると野生のタゲリ(※2)が枝から枝へ飛び移って楽しそうに遊んでいるのが目に入った。
すると急に悲しくなってまた涙が出た。

小さなパピルスの籠のなかで死んでしまったセベア。
鳥の友達も作らず黙って僕と一緒にいてくれたのに、僕は最後を見取ってやりさえしなかったんだ。
級友の前で泣くのは恥ずかしかったんだけど寂しくて情けなくてたまらず涙が溢れて困った。


セベアの死は僕が初めて経験した近しい者の死だった。
昨日までは生きて動いていたものが今日になると冷たくなって返事もしない。

人も動物も死んでからきちんと手続きすると彼岸で蘇れる。
ヒッタイト人やクレタ人はいざしらずエジプト人なら誰でもそう信じてるだろうし、学校でも復活に際しての儀式の手順や呪文を勉強してるくらいだ。

だけれど・・・セベアの死から僕の心に少しづつ疑いの心が透みいってきた。
死んでから行くところなんて本当にあるんだろうか、って疑い。
だってほら、竪琴弾きも歌ってるじゃないか。『あの世を見て帰ってきた者は誰もいない。ゆえに現世で心を楽しませよ』って。
もし本当に来世がないとしたら・・・
死ぬと誰にも再会できずに真っ暗闇の中でひとりぼっちになってしまうんじゃなかろうか?
そんな考えに取り憑かれた僕の心は、それからずっと何か暗いものに覆われていた。


「シャダ、お前一体どうしたんだ?この頃ちょっと暗すぎるぞ」
ある日幼なじみのカリムが話しかけてきた。
ああ、そういえばセベアが死んだときにはカリムもずいぶん慰めてくれて。
ヒナから餌付けしたセベアを僕にくれたのはカリムだったから・・・カリムも随分と悲しかったろうに。
でも自分のことは放って僕のことばかり慰めてくれたんだ。
あの時自分の悲しみで一杯でカリムのことなんか考えられなかった余裕のない僕とは大違いだ。

僕はカリムに言った。
「怖いんだよ、カリム。すごく怖いんだ」
「何が」
おかっぱ頭を揺らしてちょっと怪訝そうな顔をするカリム。
「死んだらどうなってしまうのか考えるとさ」
「・・・・・・大丈夫だろ、お前がいくら悪童だといってもオシリスの審判で再死(※3)になるまでのことはやってないさ」
「いや・・・うん、もっと根本的な問題でさ・・・・・・ねえ、どう思う?本当にあるのかな・・・来世って」
「・・・・・・・・」
カリムは黙ったまま。
「もし来世がなくって・・・家族やシモン様やお前と二度と会えないんじゃないかと思うと僕は怖くてたまらないんだよ」
「・・・・・・・・」
深い緑色の瞳でこっちをじっと見つめていたカリムは何も答えずに腕を伸ばすと・・・ただ僕の手をぎゅっと握りしめた。

その時のカリムの目の色、僕は一生忘れられない。

僕らはしばらく手を握り合ったまま黙って庭園に出る階段に座ってたが、やがてカリムがぼそっと呟いた。
「・・・でもそんな事言ったら、今墓を準備してる奴らが気の毒だろ?」


ああ、なんだ。カリムも僕と同じ事考えてたんだな。
なおもカリムは続ける。
「それに・・・誰も見たことがないものなら、ないかもしれないけどあるかもしれないじゃないか。
ならあると考えた方が楽しいんじゃないか?・・・な、そうだろ?シャダ」

そのカリムの言葉を聞いたとたん、心に乗っかっていた大きな石が取れたみたいな気がして、僕は返事の代わりにカリムの手を強く握り返した。

大きくて暖かいカリムの手。
昔から変わらないカリムのこの手に触れると僕の心は落ち着く。
僕がテーベに来たばかりの頃は、手の大きさも背丈もそれほどは変わらなかったのに、いつの間にかカリムの方が僕よりずっと大きくなってる。

気持ちいい北風にさらさらと頭をなでられながら頬骨の高いきりっとしたカリムの横顔を眺めていると、急にあれこれ悩む気が吹き飛んで、僕は冗談めかして言ったんだ。

「なら僕らももうちょっと大人になったら来世のための家を準備しなきゃね」
「そうだな。色々高くついて大変みたいだけど仕方ないな」
「・・・ならさ、カリムさえよかったらさ、僕と一緒の墓に入ろうよ。節約になるしさ。ね、どうだい?」
一瞬まん丸な目をして驚いたように僕を見たカリムだったけど、灯火のような赤い花を咲かせるザクロの木を見つめたまま黙ってこっくりうなずいてくれた。


その時、聞き慣れた啼き声と共に、青々と生い茂るアカシアの枝を揺らしたのは二羽のタゲリ。
小鳥たちは楽しげに黒い縞模様の入った尻尾を上下させながら、枝から枝へと軽やかに飛び移っては時折首をかしげてる。
セベアと同じ可愛いしぐさ。
でも僕はもう他のタゲリを見ても悲しくはなくて・・・ただ泣きたくなるほど懐かしい気がしただけだった。


手をつないだまま並んで座っている僕らの頭上には、じっと見つめていると目が痛くなるくらい青い青い空が広がっている。
気付かない内に木々が地面に落とす影はほら、もうあんなに長くなった。

僕とカリムは何を話すでもなくずっとそのまま・・・金色の夕日が西岸の山向こうに姿を隠すまでそよそよと頬をなでる心地いい風に吹かれてた。






あれから十年がたった。
それは瞬きする間のことだったように思える。
時はまるで野兎を見つけたハヤブサの如く素早に背中の後ろへと飛び去ってしまった。

わたしたちは学校を卒業し書記試験に受かり、それぞれの専門職の見習いを経て今ではマアトの守り手である偉大なるファラオーアクナムカノン王を微力ながらもお助けすべく、神官職兼任の官僚として働いている。

十年という月日は未来にあっては随分先に感じるものだが、過ぎてしまえば瞬きする間のこと。
わたしもカリムもそれなりに分別くさい大人になった。



カルナックの聖池のほとりにしつらえられた砂岩のベンチに座って、わたしたちはあの日のように今まさに沈まんとする夕日を眺めている。

頭上からは風にしなやかな枝を揺らす柳の葉擦れの音、どこだろう遠くからは家路を急ぐ鳥たちの互いを呼び合う声。太陽は黄金に燃え、対岸の椰子の木々の輪郭を黒く浮き立たせながらナイルのあちらに姿を隠そうとしている。
薄紫の空を凝視していると、微かにラーの船を漕ぎ進める櫂の音が耳に届くかのようだ。

朱に染まった死者の都の剥き出しの岩山を、沈思的な表情で見つめているカリムの彫りの深い横顔にわたしは話しかける。
「ここから見る夕日はテーベ一かもしれないな。塔門に夕日が生えてとても綺麗だ」
「ああ・・・そうだな」
「ほら、見なよあのテーベ峰(※4)の色。今日は微妙な紫が混じって特に素敵だと思わないか」
「・・・そうだな」

「ところでカリム」
何も言わず横顔で答えるカリムにわたしは問うてみる。
「ずいぶん唐突なんだが・・・その・・・昔したあの話、君は覚えてくれてるかな」
「・・・どの話だ」
「ラモーゼの墓をやったレリーフ職人は引く手あまたでね、早めに頼まないと駄目なんだ」
「それで?」
わたしは立ちあがると、カリムに背を向けたまま朱色に染まった対岸の山々を指さした。
「・・・あそこに作る来世の家は・・・君と兼用ということでいいのかな」

横顔を夕日に照らされたまましばらく押し黙っていたカリムはやがて重々しく口を開く。
「お前のことだ、すっかり忘れているに違いないと思っていたが・・・」
「忘れるはずないだろ」
「お前こそどう思うんだシャダ。回りを見てみろ、親子でも兄弟でもない他人、ましてやよりによって男同士だぞ」

わたしは金色にさざめく聖池の水面を見つめながら口ごもった。
「だけどサッカラのニアンククヌムとクヌムホテプとか・・・先例は色々あるさ」
「サッカラのあれは千年も前の話だ。現代に通じるか、どうかな」
思わず溜息が漏れる。
「・・・やっぱりむつかしいかな。わたしは・・・来世も君と一緒にいたいと思ったんだが」

カリムは口を閉ざしたまま、静かにベンチから立ちあがると134本のパピルス柱が林立する大列柱室に向かってゆっくりと歩き出した。
十年前よりもさらにがっしり背が高くなった彼の広い歩幅について行くのに、小柄なままのわたしはいつも小走りになる。

駆け足まじりにカリムを追うわたしに向かって、彼は白衣の裾をはためかしながら肩越しに言った。
「お前がいいと思うならラモーゼの職人には明日にでも頼んでおくといい。まぁ、男同士のレリーフなんぞ親方にとって面白くない仕事だろうから多少気の毒ではあるがな」

そしてやおら立ち止まり黒髪を揺らして振り返ると、いつもの癖で口の端を歪めてにやりとする。
「それにしてもお前、信じるようになったのか」
「何を?」
「西の空の下にある来世をだ」

その時のカリムの不思議な色味を帯びた深い目の色。

彼の目の色が、幼い頃記憶に焼き付いたそれと何一つ変わってはいないのを認めたとき、わたしの胸はなぜだかひどく苦しくなったが、すぐににっこり微笑んで答えた。

「そうだな。どっちか分からないなら明るく見える方を信じる、その方がいいと思い知ったのさ。
わたしも十年前より少しは利口になったということだよ」

カリムは微かに口角を上げると、顎をしゃくってわたしにもっと速く歩くよう促し再び大股で歩き出す。
「カリム、いつも言ってるだろう?もう少しゆっくり歩いてくれよ!」
わたしはそう叫ぶと慌てて彼を追いかけた。

死者の国に沈む太陽はその日最後の金色の光をただひたすらに投げかけていた。
数年後急速に崩壊に向かうこの世界とそれを知る由もないわたしたちに向かって、とても静かに。




※1・・・垂れ下がった乳房とふくれた腹を持つ両性具有のナイルの象徴。ナイルの水源はハピの傾けた水壷にあると考えられた。
※2・・・古代エジプトの壁画やレリーフには頻繁に現れるチドリの一種。体長30cm程度で黒い冠毛と隈取りのある顔が特徴。
※3・・・遊戯王読者には馴染み深い「オシリスの前の心臓の計量による審判」。この審判で無罪とされた死者は「葦の野」(「供物の野」)で甦り、生前と同じ生活をより安楽におくることができる。一方、有罪とされると心臓を怪物アメミットに食われ、炎に焼き尽くされて永遠の死を迎える。復活が望めないこの永遠の死を「再死」と呼ぶ。
※4・・・別名エル・クルン。ピラミッド型のこの山が西岸にあったからこそ、新王国のファラオはこのふもとを王墓造営のための地として選定したと言われる。


題名の「葦の野」(イアル野)」とは古代エジプトの来世。まるきりオリジナル設定ですが愛鳥セベア(=星の意)のことは「大人はわかってくれない」で少し書いてます。

それにしても「一緒の墓に入らないか」なんて抹香臭い口説き文句だな(笑)

・・・とここまで書いて気付いたんですが、三千年前のカルナック大神殿では、現在ではまばらにしか残っていない高い外壁がぐるっと神域を取り囲んでいたんですよね。なら聖池のほとりからは西岸の山は見えなかったかな?あと、エル・クルン山を眺めるのも聖池からは角度的に無理かも。このあたりけっこういい加減ですがスルー願います・・・すいません。