やがて、愛する人の心変わりを願う空しい祈りの甲斐なく、その日はやってきた。
東の空が濃紺から紫に変わり、一番早起きな小鳥が眠そうな声でさえずり始めた頃、クーパーは両手をポケットに突っ込んだまま、空っぽになった官舎の一室で最後の準備をしているハーネマンの背中を眺めていた。
愛銃や大きな荷物はすでに先方に送ってあるのだろう、これからちょっと隣の州までドライブに行くとしか思えないほど軽装の男にクーパーは声をかける。
「なあ、ミッヒ......」「......あぁ?」「そのジャケットの色、サイアクだ」「......うるせえ」
この期に及んで間抜けなことしか言えない自分が情けなかったが、何かしら喋っていないと女の子みたいにめそめそ泣き出してしまいそうだったから、クーパーは精一杯何気ない風に続けた。
「ところで何時だっけ?飛行機」「......今夜の9時」
そんなに遅い便ならもっとゆっくりすればいいのに......と喉元まで出かけたものの、大勢の人間に手を振って見送られるセンチメンタリズムは彼の性には合わないであろうことを思い出して、ぐっと言葉を呑み込んだ。
やがて、デスクの引き出しにもロッカーの中にも何一つ残っていないことを確かめると、ハーネマンは椅子の背を抱えて座り、ぼんやりと顎ひげをいじっている青年を見つめて軽く首をかしげた。
「なあ......やっぱハイヤー呼ぶからお前は残れ」
その言葉にクーパーは思わず気色ばむ。
「はぁあ?なんでそんな冷たいこと言うんだよ?クソっ!送って行くってば!」
「けど空港までは結構遠いぜ。行きはよくても帰りは退屈しちまわないか?」
「......べつに......ぜんぜん構わないさ......そんくらい」
その言葉に微かな笑みを浮かべた男は、リュックを肩に掛けると振り返りもせず部屋をあとにしたのだった。
見渡す限り黄褐色の大地の上、地平線の果てまでほぼ真っ直ぐに描かれたハイウェイを、月の女神ディアナが放った銀の矢のようなスピードで一台の車が走り抜ける。
新雪を思わせる純白のコルベットのハンドルを握るのは、太陽の色の髪を持った若い男。
一方、助手席にあるのは、ラップアラウンド型のサングラスで顔を覆った年齢不詳のスキンヘッド男の姿。
空港までは時速85マイルで飛ばして6時間。クーパーとハーネマンは努めていつもと変わらない調子でドライブを続けていた。
「......でさあ、オデッサが餌やってた野良猫......えーっと、何ていったっけ」「ニャミちゃん」「そうそう、そのニャミちゃんがブッチョの鳥かごに飛びついた時の騒動ったら!」「ヒャハハハ!大魔人ブッチョvsSM女王オデッサか!どんなだったか想像するだけで怖くてチビっちまいそうだな」
「......ところで、あれからエジプト軍がベイシュをまとめてお買いあげになったの知ってるか?」「へ?あのおフランス製へっぽこタンクの代わりに?」「そうだ。さすがにあの黒ヒゲおやじも、あいつじゃ使い物にならんと思い知ったんだろうよ」「ふーん、黒ヒゲにしちゃ賢明な決断だよな。でもどうせなら一ダースのベイシュより、ヴィルトファングとギガースをペアで買った方が費用対効果は高いと思うけどね」
そんな軽口を叩き合っているうちに、窓の外の風景はいつの間にやら黄褐色から緑色へと移りゆき、それと時を同じうしてやおら怪しくなってきた空模様。
一転にわかにかき曇ってきた空はまるで、 最後のドライブも残りわずかであることを思い出して、急に重くなってきた青年の心にシンクロしたかのような色だった。
やがて、シャッターをおろした建物が立ち並ぶ殺風景な街にさしかかるとほぼ同時に、フロントガラスにぽつぽつと落ちてきた細かな水滴は、あっという間に大きな雨粒へと姿を変えてコルベットに降り注いだ。
ワイパーのスイッチをひねりながらなにか気の利いたことを言おうとしたが、胸のあたりに大きな固まりがこみ上げてきてクーパーはそのまま固く口を閉ざした。
その時、視界に飛び込んできたのは対向車線側に建てられた細長い平屋。
わざとらしいクリーム色に塗られた壁に、暗褐色の安っぽい扉がいくつも並んでいる建物は、この国のどこにでもあるうら寂れたモーテルである。
その存在に気付くなり、車体がつんのめるほど思い切りブレーキを踏んだクーパーは、武装グループの待ち伏せ攻撃から緊急脱出するドライバーもかくや、といったハンドルさばきで車をターンさせると、目もくらむ勢いで一気に駐車場に突っ込んだ。
「ハァ......ハァ......なあミッヒ......」
これっぽちも暑くないというのにシャツにじっとりと汗がにじむのを感じながら、クーパーはうめいた。 「今、何時だろう?」
唐突な質問に驚いたように運転手を見やったハーネマンだったが、すぐに右腕のルミノックスに目を落とす。
「......11時34分」「......ってことはチェックインまであと7時間ちょっと......」「......ああ、そんな感じだな」
雨はなおも激しい音を立てて車体を打っている。
クーパーはまるでシャワーを浴びているかのようなボンネットを見つめて押し黙っていたが、ようやくハンドルを抱きかかえたまま、胸の奥から言葉を押し出した。
「なあ......ミッヒ......お願いだ......」
「..................何が......」
「最後にもう一回だけ抱かせて欲しい」
重苦しい空気が車内に充満する。
だがやがて長い沈黙を破ったのはハーネマンの方だった。
彼はアスファルトにできた水たまりとそこに描かれる波紋を眺めていたが、運転席に向き直ると翡翠色の大きな目をしばたたかせて言った。
「......カサ、乗っけてるか?」「いや......持ってきてない」
しょーがねえなあ、と呟きながらドアノブに手を掛けたハーネマンは、クーパーが止める間もなく土砂降りの雨の中に飛び出した。
フロントでタブロイド紙を開いていた親父は、ギギーッ......とガラス戸が開く音に作り笑いを浮かべて立ちあがった。
だが、保守的な街では今なおありがちなことなのだろう。びしょ濡れの強面の後ろでしずくを垂らしているのが、女ではなく筋骨たくましい青年なのを認めるや、嫌悪感もあらわにかぶりを振る。
しかし染み一つない白い手が、壁に掲げられた宿泊料の三倍に相当する紙幣を無言のまま差し出すと、親父は苦虫を噛みつぶしたような表情で、黄色いプラスチックプレートの下がった鍵をカウンターに放り投げた。
まだ正午前だというのに真っ暗な部屋に足を踏み入れると、ハーネマンは照明のスイッチをひねった。灯りをつけてもなお薄暗いのは、きっと電気代節約のために蛍光灯のワット数を押さえているからだろう。
ちっぽけな部屋の隅には、寝るためとセックスするための最低限の機能、それ以外は全て無用の長物だと言わんばかりに装飾を極限まで廃したダブルベッド。
その隣に置かれた合板製のサイドテーブルの上には、オレンジ色のシェードを乗せた電気スタンドと旧式の電話機。
窓の外の雨は一向に止む気配がない。
二人の男はショットガンの銃弾のように窓ガラスを叩いている雨音を聞きながら、残り僅かな時間を惜しむかのように、ぐっしょり濡れた服のまま固く抱きしめ合う。
そしてまだ水滴をしたたらせている相手の頬に手を伸ばすと、貪るように口づけて互いの舌を求め合った。
<TO BE
CONTINUED>
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