I WILL
財産の受託者:ロメオ・クーパー 法定相続人:ロメオ・クーパー 死亡保険金受取人:ロメオ・クーパー
地元ハンバーガーショップがおまけとして配っていたボールペンのペン先が、象牙色をした重厚な紙の上を厳かにすべってゆく。
クソッ、 使い始めなはずなのに、こいつさっきからかすれっぱなし!こんな大事な書類、販促品なんかじゃなくてせめてモンブランで署名させればいいのに......
安っぽい筆記具に苛立ったクーパーは、眉間に皺を寄せると同意を求めるように目の前の男に一瞥を投げかけてみた。
だが、相手はといえばさっきから木々の間を飛び移りながらかん高い鳴き声を上げている、何かよく分からない鳥にすっかり心を奪われているらしい。
今しがた署名を求めた相手の存在なんぞすっかり忘れ去った様子で、窓の外を見つめている横顔が目に入ったとたんに青年は、またかよ......と、この3年間でようやく会得した忍従の溜息を漏らしながら、メモ用紙に大きな螺旋を3つ4つ描いた。
やがて、保険引受人が被ると想定される、ありとあらゆる場面での保険会社側の不利益を回避すべく、裏面に虫のように小さな文字がびっしりと印刷された書類へのサインを終えて、バハマの海よりも鮮やかなブルーの瞳は、ハーネマンを恨みを込めて睨み付ける。
「さあ、全部サインしたぜ。これでいいんだろ?!」
いきなり現実世界に引き戻されて驚いたように、ハーネマンは大きな灰緑色の目を2,3度またたかせると、口を閉ざしたままアルビノのジョロウグモを思わせる指先で書類をつまみ上げた。
それと同時に人々を以てして「異相」と称さしめる細面に出現したのは、さっきまでの夢の中を彷徨っているかのようなそれとはうって代わった鋭い表情。
あまり歓迎できない客に接する時に銀行の融資担当者が見せるのと同じ抜け目のなさで、彼は堅苦しい条項が印刷された何枚もの書類を繰っていたが、やがておもむろに口を開いた。
「オーケー、これでいい」
私は以上の記載事項に同意するものである。
預託者:ミッヒ・ハーネマン
癖の強い筆跡で自分のサインを加えた書類をフォルダにしまい込みながら、まるでお天気の話でもするようにハーネマンは続けた。
「じゃ、こいつは公証人役場で証明を済ませてから弁護士に預けとく。何かあったら直接連絡が行くからな」
「ふん、一生連絡がないことを祈るね」
精一杯努力してはみたが、ようやく吐き出せたのはこの台詞だけだった。
彼がここを去る。それは何ヶ月も前から分かっていたこと。
だが、まだ先の話だと自分を誤魔化していたし、人並みはずれて気まぐれな男のこと、ひょっとするとそれまでに気を変えてくれるかもしれない、というすがるような気持ちもあった。
だからこそ一ヶ月前、自分を遺産や保険金の受取人に指名しておきたいのだが、という提案をされた時も、そんな縁起でもない......と激しくかぶりを振ったのだが。
「そもそもなんで俺なんだよ?血縁者を指名すりゃ済む話じゃないか」
怒りと哀しみとがないまぜになって、怒鳴り散らしたくなるのをかろうじて押さえたクーパーは、代わりに固く拳を握りしめた。
「アンタが死んではじめて転がり込むような金なんか、たったの1シリングだって欲しくない」
だが、「血縁者なんぞクソ食らえだ」と吐き捨てたハーネマンは、一口吸っただけのジタン・カポラルを灰皿に押しつけると、「そりゃ、金額がちっぽけならパーっと使っちまってもいいさ。けど、キャッシュで百万ドルとなるとそうもいかんだろ?」と世間知らずの若造をなだめすかすような表情を浮かべた。
「それだけじゃない。昔買ったままうっちゃってある株や債券もそこそこの値段になってるみたいだし生命保険もある......いや、俺は結構心配性だからな......そいつを居場所すら分かんねえお袋やツラも見たくねえ親戚どもに遺すくらいなら、クソむかつく奴だがお前の方がまだマシってわけだ」
「嫌だ、そんなこと聞きたくない」
だが、忍耐強い教師のようにハーネマンは続ける。
「いや、聞くんだロメオ。お前はまだ若くて元気だからイマイチ分からんかもしれんが、金はいくらあったって邪魔にはならんぜ......多分な......なに、嫌なら好きなとこに寄付しようとどうしようとお前の自由だし、なんならキャンプファイヤーで派手に燃やしてくれたっていい」
やがて、一度言い出したことはまず曲げない頑固者の前に、渋々ながらヒザを折ったクーパーは、今こうして何枚もの公的書類への署名を終えたのである。
それと同時に、これまでずっと目をそらしてきた避けがたい現実が、にわかにまっ黒な雲となって垂れ込めて、やんわりと、だがぞっとするような無慈悲さでもってまとわり付くのを感じていた。
一体どうしてあんな所に行きたいんだ。よりによって今、地球上で一番危険なあの場所へ。
それはテリーもターナーも、ブッチョもポーもオデッサすらもが、驚きに目を見開いて漏らした問いである。
PMC(民間軍事会社)に戻るというが、いくら年収20万ドルになるといったって、お前の場合、問題はゼニカネなんかじゃないはずだ。なにを好きこのんでたった一つしかない命を、あんな砂と埃にまみれた国に放り投げに行くのかさっぱり理解できない。そういう奴のことを世間じゃ「クレイジー」って呼ぶんだぜ、と誰もがあきれ顔で言ったものだ。
銃器に触ってたいんなら別にここだって構わないじゃないか、演習とはいっても実弾を使った実戦形式なんだから。危険は少ないにこしたことないだろう?それに、兵器のエキスパートにとってあらゆるメーカーの試験モデルが投入されるここは、金を払ってでも働きたい場所だと思うがね。
それともなにかい、ここのシステムがそんなに性に合わないのか?NDFに必要欠くべからざる人材として求められることはそんなに重荷なのかい?
そんな質問に対して、ハーネマンは多くを語らなかった。
いや、辞意を表明した直後は、「こんなヌルいとこもう沢山だ」と青白い顔に冷笑を貼り付けてはいたものの、日を追うごとに憎まれ口を叩くことがだんだん少なくなって、テーブルの上に置いた自分の指先や、時には足元の床の模様をぼんやり眺めながら、「いろいろ考えて決めたことだから」とまるで人ごとのように呟くばかりだったのである。
セックスで得られるエクスタシーよりも、己の命を危険にさらした時に感じる強烈なエクスタシーを好むタイプ。そういう人間は、数はけして多くはないものの世の中には確実に存在する。
クーパーも彼と関係を持ってまだ日が浅いうちこそ、自分の新しい恋人もそんな物騒な嗜好を持つ人種...... 耳を聾する爆発音や絶え間なく響く銃声、硝煙のすっぱい香りと血なまぐさい光景が触媒となってアドレナリンが全身を駆けめぐる、いわゆる「戦争フリーク」なんだと頭から決めつけていた。
だが、晴れやかな真夏の青空に似たまなざしで、人々から「変わり者」と吐き捨てられる男をじっと見つめるうちに、彼をそんな単純な言葉でくくるのは間違いかもしれない、と考え始めたのである。
時折発作的に現れる精神の高揚、それは狂熱と呼んでもいい。
それと同時に、燃えさかる炎の底に見え隠れする、深い哀しみと静かな諦観。
ハーネマンが人前で貼り付けたがる異形の仮面の下の、何とも言いしれぬ側面。 それを一体どう言い表せばいいのか、自分の心を捕らえて離さない不思議な磁力の源がどこにあるのかは、もっと文学的素養のある思索的な人物......たとえばユーリ・エック・ポーならうまく表現できたかもしれない。
だが、それまでの20数年の人生をスポーツと女とありとあらゆる楽しいこと、そして何よりも英国空軍の精鋭たる修練を積み増すことに費やして、哲学的思索なんぞにはとんと縁がなかった若者にとっては、ハーネマンのかもし出す奇妙な雰囲気の正体は、手が届きそうだと思ったとたん、ふいと姿を消してしまう蜃気楼のようなものだった。
ただ、ゲイというよりも限りなくストレートに近い自分が、今までに出会ったどんな女性よりも同性であるハーネマンを慕わしく思うわけは、兵士としての己を凌ぐ能力もさることながら、優しさと残酷さ、情熱と冷徹、皮肉っぽい冷笑と少年じみた素朴さの間で危ういバランスを保っている、繊細な人間性ゆえであることに気付いてはいたのだが。
<TO
BE CONTINUED>
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