FLIP FLAP TINY JACK


その子はいつも教室の隅っこの席でぽつんとひとり、本を広げて静かに座っていた。
それがどんな本だかなんてことはクーパーにはどうでもよかったし、そもそもクラスが同じだというだけで、その子自身にもべつに興味も何もなかった。
なにせクーパーは学校で一番、いや、町中で一番と言っていいほどの人気者で、仲良しになりたがる子やいっしょに遊びたがる子は山ほどいたんだから。

けれど教室でふざけまわっている時に、たまたまその子が開いた本のページが目に飛び込んできたりする。
それは小さな文字やむつかしそうな図表でびっしり埋めつくされていることもあったけど、目がやたらと大きな女の子や怪獣が描かれた「マンガ」というやつだったりすることもあって、クーパーは「知ってる?アドリーって『オタク』なんだぜ」という馬鹿にしたような友だちのささやきに、なるほどとうなづいたものだった。

無口なアドリーの肌はココア色で、一目でイギリス人じゃないと分かる。
そりゃ学校には白以外にも、黒や茶色や黄色い肌の子たちもぽつぽついたから、べつだん珍しいことでもないんだけど。
多分みんなが問題にしていたのは、どうやら彼が「あの戦争」のずっと前からじゃなく後になってからイギリスに住みついたって点らしい。
「あいつの家族、『あっち』の国から逃げてきたらしい」
「オヤジが『大量破壊兵器』の研究をしてたらしい」
「あいつの部屋はマンガとビデオとパソコンだらけらしい」
「家にはラボがあって、そこでいろいろ危ない実験をやってるらしい」
「あいつ女のコには興味ないらしい」

らしいーらしいーらしい。みんな「らしい」だけでアドリーのことを気味悪がって仲間はずれにする。
仲間はずれにされればされるほどその子はますます無口になって、いつも悲しそうな顔をしていた。
そんな顔を見た時には、クーパーの胸はちょっぴりちくっとすることもあって、その日の夜にはゲームやマンガで一杯の部屋で、ひとりパソコンのキーボードを叩いているアドリーの姿や、仲がよかった故郷の友だちと離ればなれになることなんかをベッドのなかで想像したりもする。
けれど朝が来るといつもと変わらず世界は楽しみであふれているから、アドリーのことはすっかり忘れてしまう。


そんなある日、クーパーは公園をぶらぶら歩いていた。
今日はひとりで白鳥を見に行くつもりだったから、誰とも遊ぶ約束はしていない。
手に持った袋はパンくずで、上着のポケットは母さんが焼いてくれたフラップジャックでぱんぱんにふくらんでいて、クーパーの胸も幸せでいっぱいになる。パンくずに集まってくる白い鳥たちを見ながら気持ちのいい風に吹かれてフラップジャックをかじるのは、想像するだけでとても楽しい。

その時クーパーの目に、茶色くて大きな固まりが不意に飛び込んできた。
それは子牛ほどの大きさのある垂れ耳の犬。一匹で散歩しているのかと思ったら、よく見ると大きな体の陰から引きひもを持った小柄な子どもがついてくるのが見えた──アドリーだ。

犬を散歩させているというよりも犬に散歩させてもらっているような子に、クーパーは話しかけようかどうしようかちょっと迷ったけれど、無視する理由もないからこう言った。
「やあ、この犬おまえの犬?」

するとアドリーはびくっと立ち止まると、「や、やあクーパー」と言ったきり、必死で次の言葉を探している。だからクーパーはしゃがみ込んで自分の顔のあたりにきた犬の口元に、そっと手を差し出した。

「すごいね、こんな犬見たことない。なんて種類?セントバーナード?」
「……ううん、アナトリアン・カラバッシュ・ドッグ」
「聞いたことないや」
「トルコの牧羊犬で……すごく勇敢なんだ。狼とも闘うんだよ」
「狼と?すごいなあ!で、こいつの名前はなんていうの?」
「……ボンジュー」「ボンジュール?」「ううん、ボンジュー。幸運を呼ぶトルコのお守りのこと」「 へええ!」

オートミールとゴールデンシロップの入り混じったうまそうな匂いがするんだろう。上着のポケットをしきりに嗅ぎまわるボンジューの白くてふかふかの頭をなでながら、ふと思いついてクーパーは誘ってみた。

「あのさ、俺、白鳥にエサやりに行くんだけど、いっしょに来ない?」
「……え?え?はっ…白鳥?」とアドリーはどもった。
「うん、いっぱい集まってきて面白いんだ」
「でも……いいの……?」と視線をさまよわせてとまどうアドリーに、手に持った袋を高くかかげてみせる。
「うん。 見ろよ、こんなにたくさん持ってきてるから大丈夫」


退屈そうにあくびを繰り返す毛むくじゃらのボディガードに見守られながら、クーパーとアドリーは夢中でパンくずを投げた。
緑に濁った水面に黄色いくちばしをひたして、われ先にと押し合いへし合いする鳥たちのせいで、パンくずはあっという間になくなってしまったから、クーパーは芝生の上に腰をおろすとポケットからフラップジャックを取り出して、1,2,3,4,5……と数えてそのうち2枚と半分を差し出した。
「はいこれ、おまえの分」
そのとたんアドリーのココア色の顔には、花が咲くようなほほえみが浮かんだ。

けれどアドリーはすぐに困った顔になって、フラップジャックを握りしめるばかり。
食べないの?と聞くとちょっと考えてから、あと30分くらいはね、という答えが返ってきた。
「どうしてあと30分なんだ?」といぶかしげなクーパーに、「ラマダン中だから」とアドリーは答えた。
「ラマダン?…なにそれ?」
「……断食のこと。夜が明けてから日が暮れるまではなにも食べないんだ」
「それっておまえの家の決まりごと?」
「ううん、ムスリムはみんなやるよ」
「ふうーん、なんかよく分かんないけど色々あるんだなあ」
「……うん…そうだね、色々あるんだ…今日は5時半に終わるんだけど…ボク、時計持ってないから……」
「俺も時計なんか持ってない」
「でも日が暮れて暗くなったら食べられるよ」
「……もうすぐ沈むかなあ」「……うん…多分」

しばらく押し黙っていた二人だったが、やがて小山のように盛り上がった犬の背中をなでながら、クーパーが口を開いた。
「なあ、今度おまえのうちに遊びに行ってもいい?」
「…………えっ?」
「昼休みに読んでたマンガ、ほら、あの白いロボットが出てくるやつ、見せてほしいんだ」
「うん、うん!いいよ!」

そして、太陽が西の空のむこうにすっかり姿を隠したことを何度も確かめてから、クーパーとアドリーは──正確に言うならクーパーとアドリーとボンジューは、待ちかねたようにフラップジャックをほおばった。
紫色から紺色へと移り変わろうとする空では、鳥たちが互いに呼びかわしながら家路をいそいでいた。





それから12年の歳月が経った。
この世界にはアドリーのようにラマダンをする者、自分のようにしない者、キリストの復活を信じる者、信じない者、唯一神アッラーを信じる者、信じない者……とありとあらゆる異なった価値観がせめぎあっていること、そしてそれら価値観の相違は時に人々の間に大きな軋轢と悲惨な結果をもたらすことを、23歳の青年へと成長したクーパーは身をもって学んでいた。

クーパーは今、彼の陣営の考える「正義」で計った尺度によるところでは到底許容することのできない「正義」を掲げる勢力と、終わりの見えない闘争を続けている。
そのことについては時に釈然としない思いを抱くことがないでもないが、軍人という生き方を選んだ以上、自分たちの信奉する「正義」に対する揺らぎは任務遂行の邪魔にしかならないという事も、また痛いほどに分かっていた。

ただ、激しい口調でなにかを糾弾している髭面の男や、天を仰いで嘆き悲しむヴェールをかぶった女達、そして蛇がうねるような文字のテロップが流れるニュース映像を目にした折りにふと、価値観の多様性という問題について、漠然とではあるものの生まれて初めて考えるきっかけを与えてくれたムスリムのアドリー──高名な科学者だったチェティン・アドリー博士の息子が、今どこで何をしているのだろうと考えることはあったけれども。

そして今もまたクーパーは、ある日突然、家族ぐるみでアメリカに移住してしまった少年時代の友人のことを思い出していた。
冬季迷彩をほどこされ、どこかしらあのコミックに登場する「白いロボット」を彷彿とさせる姿で静かに佇んでいる美しいタンク──セルバを見上げながら。

その時、静まりかえった格納庫に響いた足音を耳にして、クーパーは全身で振り返ると背筋を伸ばして敬礼した。
彼の前に現れたのは機甲科のマッコイ少佐とウイラード中尉。
そしてその後ろからは、ひょろりと背の高い見慣れない男が一人……誰だろう……いや、この顔には見覚えがある!

「クーパー伍長、紹介しておく」とマッコイは言った。
「彼はユーロ・ロボティクス社のヤスル・アドリー博士、HTシリーズの開発総指揮者だ。明日からの試験操行中、君に操作方法その他、細かいところを指導願うためにお越しいただいた」

「……やあ、クーパー」
アドリー博士は満面の笑みを浮かべながら右手を差し出した。「久々に君に会えると聞いてフラップジャックを焼いてきたよ」
クーパーもその手を固く握りしめて微笑んだ。「それは嬉しいなアドリー。あとから一緒に食うことにしようぜ」

すると博士は右腕で精緻な時を刻んでいるランゲ&ゾーネに視線を落とす。
「……あと1時間47分後ならね。ラマダン中なんだ」
そう言いながらウインクをひとつしたココア色の顔が、遠く過ぎ去った幼い日の面影を色濃く残しているのに気付いて、クーパーはとても嬉しかった。


<THE END>


マシュマロさん制作の"WARTAN INSTRUCTORS' MEMORIAL SWEETS"とのコラボ2作目には「クーパーママの手作りフラップジャック」を選びました。

私はフラップジャックというものを食べたことはおろか、存在すら知らなかったのですが、どうやら日本で作るにはかなりの難物なようで……写真だけ見るとシンプルなお菓子ですが、実はハーネマンのアッフェルクーヘンとは桁違いに手が掛かっていますので、そのあたりどうぞマシュマロさんの制作メモをご覧下さいね!→

アナトリアン・カラバッシュはトルコ原産の大型犬。主に中部〜東部の山岳地帯で羊を狼から守っている勇猛果敢な犬種です。体毛はベージュ〜茶色で耳と口は黒いのですが、頭部は白い犬が多く、それがトルコ語でカラ=頭、ベヤズ=白い──「カラバッシュ」という名前の由来となっているとのこと。

それにしてもこのシリーズ、お菓子だけではなく犬も必ず登場しますが、犬がいると書きやすいもんで多分次回も絡みます。なんだかもう"MEMORIAL SWEETS AND DOGGIES"って感じですねっ!