2019年3月30日(土)

街を歩いていてふと空を見上げると視界に龍みたいな枯れ木が飛び込んできた。

 日曜日の朝、目を開けると視界いっぱいに茶色い物体がいた。
静かに上下するおなか。16年と2ヶ月目のめでたい朝のはじまりだ。

掃除中に座椅子をちょっと移動させたらわざわざ座る。いつもは座椅子なんかには目もくれないのに!

「布団に寝るぞ!」という確固たる意志のあらわれ。だが体勢が厳しかったのだろう、間もなく去っていった。

2019年3月29日(金)

このごろマヤを散歩させていると近所のお年寄りによく声を掛けられる。私はここに住んで45年、マヤは16年近くになるから「以前から時々見かけるコンビ」なはずなのに、なぜ話しかけられることが増えたのかは、よく分からない。
「昔から見かけたコンビ」の人間の髪の毛はいつの間にやら白くなり、犬も老いておぼつかない足どりでヨタヨタ歩くようになったのが「ああ、年月は過ぎてゆくものなんだなあ。あの人と犬も老けたけど、自分も同じように年を取ったんだな」と感慨深くて、つい声を掛けてしまうのかもしれない。

「この子、まだ元気なんやね。おじいちゃんがよく散歩させてたね」と父が健在だった頃の話が出るのが一番多いが、こんな風に言われることもしばしばである。
「まあ!お久しぶり!お元気だっ?……あらあごめんなさい!娘さん?!そっくりだから間違えたわあ!」
そんな時、何年も前に世を去った家族の記憶が、突然泡のように水面に浮き上がってパチンとはぜる。そして愛しい記憶に思わず微笑みを浮かべて答えるのだ。「ええ、ありがたいことに、家族の分までこの犬が長生きしてくれてるんですよ。」

そんなある日、いつもとはちょっと違った記憶が甦った。両手にスーパーの袋を提げた中年女性が、マヤを見て話しかけてきたのだ。
「この子、まだ元気なんやねえ!」「そうなんです。16才にもなるのにまだ歩いてくれてるんです」「そういえばこの子、昔よくマンホールのふたの上に座ってたよね。おじいちゃんが『水の音を聞くのが好きなんです』って言ってたわ。今はもうあのあたりには犬は入れないから残念だけどねえ」

それを聞いて父が話していたのを思い出した。散歩に連れて行くとマヤは好んでマンホールのふたの上に腹ばいになるから、犬が飽きて立ち上がるまで付き合ってやるのだと。

「マヤはな、水が流れる音を聞くのが好きなんや。だからマンホールのふたの上に座って耳を澄ましてるんやで」
そう言う父に私は「いや、マヤは単にマンホールがひんやりして気持ちいいから座るだけだよ」と木で花をくくったような答えを返したものだが、今思えば何とも父らしい発想だと笑ってしまう。

うららかな陽気の日、マンホールの上に腹を付けて横たわるコッカースパニエルと、その横で犬に付き合って所在なげに座っている父の姿を思い描く。あの時のマヤは父が言った通り、地の底から聞こえてくる不思議な物音にじっと耳を澄ましていたのかもしれない。

2019年3月25日(月)

いつもの公園でマヤを散歩させていると、小さな女の子がふたり、駈け寄ってきた。「わんちゃんだ!」「かわいい!」
小さな子は3才、大きな子は小学3年生くらいだろうか。「顔の方はこわがるからダメだけど、お尻をさわってみなよ。ふわふわだよ」と抱っこした犬のお尻を指し示すと、大きい子がそおっと優しくなでてやり、はじめは怖がっていた小さい子も、わたしもわたしも!となで始めた。

「うわっーっ!ふわふわ!」「きもちいい!」かわるがわるマヤのもんもに顔をうずめる子供たち。マヤは撫でられるがままにボーっとしている。しばらく洗っていなかったから、「くさい!」なんて言われたらイヤだなあと心配したが、匂いは気にならない様子。
姉妹らしい二人をよく見ると薄汚れたパジャマ姿で、小さい方なんか今日びの子には珍しく、鼻の下が乾いた鼻水でガビガビだ。

こんな小汚い子、パキスタンとかバングラデシュ以外では久々に見た。そもそもどうしてパジャマのままなのか。「ネグレクト」という単語が頭をよぎる。でもネグレクトにしては二人とも至って明るくものおじせず、矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。

「どうして顔をなでちゃだめなの?」「おじいちゃんでよく目が見えないから、にゅっと手が出てきたらこわがるからだよ」「わんちゃん、おじいちゃんなの?」「そうだよ、人間だと80才くらいのおじいちゃんだよ」

「ねえ、おばあちゃんハカセなの?」
お姉ちゃんから唐突に発された質問に目が点になった。「???」「だってほら」と私の顔を指さした子が言った。「メガネ!」

なるほど、きっとアニメのキャラクターに白髪で丸メガネの博士がいるんだろう。だからサービス精神で答えてやった。「そうだよ、ハカセだよ」
「ほんと?!どこで働いてるの?」「……ポートアイランドの病院だよ」(ここで即座にアイセンターが浮かぶのがMyイメージの限界である)「どんなことするの?」「新しいすごい薬を作ってるんだよ」「くすり!!!(喜)」……私の頭の中では「なんとなくすごいバイオ研究」のイメージが浮かんでいるものの、たぶん内容的には小学生の知識と大差なかろう。

「おばあちゃん、どうして髪、むすんでるの!」……と突然3歳児が斜めから球を投げてきた。「……ぐっ……じゃ、じゃまだからだよ!それにおばあちゃんじゃないよ、おばちゃんだよ。きっとあなたのお母さんよりは上だけど……。」とまで答えて言い添えた。「まあ、おばあちゃんだねえ」50代なんて、幼児からすれば立派に祖母の年代だわな。

しばし楽しくおしゃべりする私の腕の中で、マヤは惚けたようにボーっ。そろそろおねむの時間なのだろう。
「おじいちゃんわんちゃんが眠いみたいだから、もう帰るね」と去る私たちの後ろ姿に、「ばいばーい!」「またあそぼうね!」といつまでも手を振っていた小さな姉妹。どうなんだろう、あれはネグレクトなんだろうか。どっちにしてもまた会いたい。絵本とか読んであげたいな。

……と思っていると、早速翌週の土曜日に姉妹に会った。そしてそのまた次の日も。薄汚れたパジャマ姿ではなく、こぎれいな服を着て他の子たちと元気いっぱい遊んでいて、マヤを見つけて駈け寄ってきた。どうやら下にさらに二人のきょうだいがいて、お母さんがパジャマの洗濯にまで手が回っていなかったみたい。

「きもちいい!」「ふわふわ!」とマヤのお尻に頬を寄せる子供たちを眺めながら、ネグレクトじゃなさそうでよかった、でも次はこの公園に本を持っていってみようと思ったのだった。

2019年3月20日(水)

認知症でシャンプーカット中に暴れるせいで、わんわん美容室に断られたまやちゃん。
仕方なくプラスチックの衣装ケースを浴槽にして家でシャンプー、
私とヘボピーのWドライヤーでブンブンするが、やっぱりプロのふんわり仕上げにはならない。
 もう二度とふわっとした「もんも」を見られないのが、現時点における私の最大の哀しみである。

プロのテクニックが発揮された理想的もんも。

 ペルム紀とか三畳紀にこんな生き物いた気がする。

2019年3月11日(月)

3.11といえば真っ先にある人のことを思い出す。直接お会いしたことはない。風貌はおろか、名前すら知らない。大槌町が津波に飲み込まれた日、西日が差す時間までは確かにこの世に生きて立っていた、ただそれだけしか知り得ない人のことを。

「3.11 慟哭の記録」という本がある。人生の流れがこちらとあちらに分かたれた日に、ほんのわずかな運の差で「生」の岸辺に泳ぎ着いた人たちが、あの日の体験を綴った本だ。

私の心にいつでもいる人のことは、その本におさめられていた。白澤良一という方の手記である。
以下、長くなるが手記の一部を引用させていただきたい。地震発生から30分後、家までは絶対に来ないと信じていた津波に襲われた白澤さんの体験談である。

「その時、次男の嫁が当時11ヶ月になる男の子──私たちにとっては孫にあたる──を乗せて駐車場に停まったのが一階の居間からガラス越しに見えたので、妻が、慌てて外に出た。そのとたん、「大変だ!津波だ!お父さん、タロ頼む」と妻の大きな声が聞こえた。さらに、「車はダメ!走れ……!」と長男の叫び声が聞こえた。

私はそれでも「津波なんかここまで来るものか……。」と思いながら、玄関脇の窓を開けて、初めて見た光景に不思議な感じがした。何と、二階建ての家が幅数百メートルに渡り将棋倒しのように、バリバリと凄まじい音を立てて50〜60メートル先から押し寄せてくるのが目に入った。その光景を見た瞬間、「午後2時46分に地震があったのに、何故、その時に倒れないで、30分も経ってから家が倒れるのか」と思ったのもつかの間、向かってくる倒壊家屋の地面から1メートル程の高さでドス黒い泥水が見えたので「津波だ!」と直感した。

とっさに二階に駆け上がり、クローゼットの隅でブルブル震えていたタロを見つけ、抱きかかえ一階に戻ろうとしたが、あっと言う間に泥水が二階の廊下を覆い尽くしたので、急いで二階の廊下から屋根に這い上がった。屋根に登っていれば、まさか流されることはないと考えたが、みるみるうちに水かさが増してきた。

屋根に上がった瞬間、泥水が私の家の一階の屋根の高さまで達した。私の家の屋根にドーンとぶつかった後、泥水の中に沈んでいく家、波の力で家々がバリバリと砕け散る音、おびただしい数の家が倒壊してギシギシと擦り合う音、プロパンガスのボンベが「ボン」と、鈍い爆発音とともにガスがシューシュー漏れ出す音と臭い、車の電気系統がショートしてビービーと鳴るクラクションの音。そういう光景を目前にして、右手でテレビのアンテナを支えている針金をつかみ、左脇にタロを抱え「あれッ!あれッ!どうしよう」と呆然となった。

屋根の上で見たものはそれだけではなかった。姿が見えないが、あちこちから「助けてくれー!助けてくれー!」と叫ぶ声。さらに、40〜50メートル離れたところでは、40歳代の男性が家の屋根に立っていながら流されていた。紺のジーンズに青いヤッケ、デイバッグを背負い青い帽子をかぶり、私の方を見ながら右手を挙げ、西日に照らされながらにっこりと笑っていた。私の姿を見て「あいつも逃げ遅れたのか」と思ったに違いない。ちょうどその時、私の家から三軒ほど離れた家のプロパンガスボンベが爆発し、黒煙と共に火柱が見えたので、一瞬、そっちの方に目をそらした直後、その家も彼の姿もなくなっていた。

今冷静になって考えるに、あのような状況の中で笑えるというのは、神か仏になりきった者でなければそのような心境になれるものではないと思っている。プロパンガスによって炎が「バリバリ」と音を立てて燃え上がり、黒煙を立ち上げ私の家の二階に延焼した瞬間、「ギイッ。ギイッ」と鈍い音をたてながら、さらに足下には「ゴトッ。ゴトッ」と鈍い振動を感じながら、少しずつ家が流されはじめた。」

家族や友人を幾度か見送ってきた私自身にも、近い将来死は確実に訪れる。長い旅の最終地点で、自分はいったいどんな風景を見るだろう。視界には誰か微笑みかける者はいるのだろうか。
3.11が巡り来るたび、黒く濁った濁流の上、西日に照らされながら右手を挙げてにっこり笑う彼の姿を思い浮かべる。

2019年3月11日(月)

東北大震災から8年が経った。8年前のあの日あの時間のことを思い出す。
こちらでも体感できるくらいには揺れたそうだが、私は気付いていなかった。異常を感じたのはにらめっこしていたパソコンの画面。ドル円の為替チャートが突然円安方向に跳ね上がり、「えっ?北朝鮮のミサイルが国内にでも落ちたか?!」と度肝を抜かれた一瞬後、今度はチャートがまっすぐに奈落の底──円高方向に振れたのだった。

「地震?」「震源地はどこだったの?」「東北みたいだよ」
ざわめく私たちは事態をそれほど重くはとらえておらず、少し間をおいて休憩室のテレビを付けると、画面には海に飲み込まれる田畑、ミニカーのように軽々と波に運ばれる車両が写っていて、それでもまだ本当のところは全く分かっていなかった。

だが、断続的に入ってくる情報は刻一刻と悲惨なものとなり、テレビから流れるコマーシャルはやがてAC(公共広告機構)だけになった。

もう8年、まだ8年。忘れられてゆくものと染みついて離れないものとのせめぎ合いのなかで暮らしているであろう被災地の方々にエールを送り、道半ばにして人生を断たれた人々に、心からの祈りを捧げます。

2019年3月8日(金)

ある晩、風呂に入っているとどこからともなく不思議な歌が聞こえてきた。
薄暗い聖堂で低く深く空気を震わせる合唱を思わせる音。このオラトリオはどこから聞こえてくるのだろう?隣りの家の人がお湯につかって気持ちよく歌っているのだろうか?
でも、隣家の風呂場はそんな位置にはなかったはずだし、いくら息をこらし耳をすましても、隣のおじさんが歌うような種類の歌(演歌とか)には聞こえない。どうしたってこれはカトリックの坊主が歌う歌だ。

風呂場とイタリアの聖堂がリンクしたの?なんてあり得ない想像をしながら湯船から出て扉を開けてみると、謎めいた歌い手はマヤだった。マヤが玄関で高いびきをかいていた。オラトリオみたいないびきをかくわんちゃん、なかなかのものだ。

ぜんまいじかけのワンちゃんみたいにヨタヨタ歩く。

時々ぜんまいが切れてボーっと立っている。

 犬も16才にもなるとトンちゃん(故村山前首相)みたいに眉毛が白くなる。

先日、初期不良で返品したCANON EOS 6D MARK2で撮影。さすがフルサイズ。ボケ味がいい。
「初期不良」だと確認できるまで200枚くらい試し撮りできたから結果オーライ。むしろラッキー!

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