2018年11月30日(金)

老化による膀胱の筋肉の弱体化と冷えとまだらボケの影響で、このごろ♪マヤ・キャント・ストップOMORASHI 尿意が止まら〜な〜い♪ 人間はほとほと困り果てている。

私とヘボピーが会社に行っている間は独りで留守番だから、エブリタイム、エブリフェアでおしっこしたい放題!部屋にはペットシーツ・クッション材・新聞紙・ペットシーツを敷き詰めて、四重構造で最下層のコンクリートと絨毯(はがせない)を守っているのだが、後始末が必要なことには変わらない。

会社から帰って玄関のドアを開けるや否や、すぐに犬をおしっこに連れて行き、帰ってご飯を食べさせてから、次は放尿で汚れた部屋の後始末。自分の晩ご飯も食べないまま、平気で1時間かかかったりする。

当のマヤはとことことこ……と歩いていたと思ったら、唐突に「ジャー」。「あぁーっ!やったあ!」と言うと、「どうしましたか?」と嬉しそうに人間を見上げて尻尾を振ったりするから脱力する。

それでも寝たきりでおむつをつけて、お尻がいつもべとべとになってるよりはまだいいよね……と達観しながら、今日も大量にペットシーツを消費するのであった。

おしっこたれトーナメント・関西Aブロック代表選手。

ご覧ください、この部屋を!通常はこの上に新聞紙とペットシーツがびっしり敷かれている。
マヤを見送るまでは綺麗な家には住めないな、とヘボピーと話している。

気が向いたらベランダでトイレをしてくれるようになったから、段差でけつまずかないようにスロープを作成。
既製品だと5千円くらいするから、段ボールとダイソー製品で作ったら上手くできたよ。(制作費200円)

たすたすたす……と上がったり下がったり。
サーカスの犬みたいで、見るたびに「たまらん!かわいい!」と愛に震えるのだ。

2018年11月24日(金)

飼い主の方にはそこそこいろいろありますが、マヤちゃんはひとまず元気です。
まだらボケと膀胱の筋力の低下のせいで、今さっきおしっこしたと思ったら、またこっちでジャーとやっていて、人間たちは犬のお尻を追いかけ回す毎日ですが、何をやっても叱られない、我が家はわんわんパラダイスと化しています。

平日には一日最低30回、休日になると一日ゆうに100回は「かわいい」と言われている老犬マヤちゃん。
座布団に飛び乗っただけで目を細められ、たすたすたす……と足音を立てれば「たまらん!かわいい!」と誉められながら、残り少ない犬生を一日一日ゆっくりと過ごしているのです。

若い頃にはよくここでこうして寝ていたものだが、年を取ってからやることはなかった。
でも、最近またこうやって眠る姿を目にするようになった。犬も長い旅路の末に、古い記憶が甦るのだろうか?

おしっこいきたいです。おなかがすきました。
決まった時間になるとトコトコやってきて、眠っている人間にひんやりした鼻を押し当てる。

人間と起こすとトコトコ去ってゆく。この後ろ姿を見るたびに、愛しくて胸がぎゅっと苦しくなるよ。

2018年11月21日(水)

また夢にカナが出てきた。父も出てきた。父は私が優しく丁寧に心を込めて接したから「はしゃいでいる」と言ってもいいくらい嬉しそうで、私も楽しくなって「ああ、父のこと、大好きだなあ」としみじみ思っていた。

一方カナは悲しげだった。いや、悲しげというよりもただ、静謐だった。
カナとの会話は一言一句覚えている。「なにか食べに行こう!なんでも好きなものをご馳走するよ」(考えてみると夢の中で私はいつもカナと食事に行きたがっているな。「食」とは人生の根幹をなすものだからだろうか。そういえば「誰かとごはんを食べること」は人生の基本で、自分が「トリコ」で描きたかったのはそこなんだとしまぶーも言っていたな。)でもカナは困ったように微笑んで、「特に食べたいものはないなあ」とつぶやいた。

それでも何か、と促すと「うーん、じゃあ野菜も食べられるから鉄板焼きがいい」とカナ。何かを「食べたい」と言ってくれたのが嬉しくて、必死で鉄板焼き屋を探したが、心当たりのある店はどこも休み。
あそこなら大丈夫だろうと思って向かった店まで「閉店」の札がかかっているのを見て、カナが「なかなかのものやな!」と笑ったところで目が覚めた。目覚めた時には鉄板焼き屋を求めて閉まりかけのエレベーターの扉の隙間に足先を突っ込んだり(はさまれて痛かった)、雑居ビルの階段を上り下りしたせいで、くたくたに疲れていた。

また、夢の中のカナはこうも言っていた。
喫茶店で向かい合って座りながら、ちょっと迷った末に「やっぱりこれは言っとかなきゃならないなあ」と独り言のように口を開いたカナ。「実はお医者さんに、私は○○症候群にかかっていて(○○がなんだか忘れてしまった)、あと3,4年しか生きられないそうやねん」

3,4年!それを聞いた時、妹と暮らせる時間が区切られた事実に愕然とすると同時に、3,4年もあるなら十分だ!という奇妙な安堵も覚えていた。
喜んだり悲しんだり、感情のアップダウンが激しくて、カナの出てくる夢はとにかく疲れる。だからといって見ないよりはマシかなと思ったりもする。

2018年11月16日(金)

久しぶりにカナが夢に出てきた。夢の中で私はデパートにある美術工芸品の催し物会場と、そこで甲斐甲斐しく働くカナを眺めている。
カナは最後の職場を「リストカットの跡が気味が悪い」という客のクレームで辞めさせられた。それはきっと彼女の心を深く傷つけたことだろう。だから元気に働いている妹を見ると、それだけで嬉しさに飛びあがりそうだった。

そして会場に問い合わせの電話をかけるとカナにつながった。「もしもし」。
受話器に耳をあてる姿を見ながら、同時に相手の声が鼓膜を震わせる。わずかに舌っ足らずの声のなんと懐かしいこと!

「今日は早めに終わりそう?ごはんを一緒に食べようよ」「ほんと?いいねえ!」と嬉しそうなカナを見ながら、私の心は幸福感と未来への希望ではちきれそうだった。またカナと一緒に暮らせるんだ!今度こそ失敗しないでおこう。カナの話をじっくり聞いてやって、一緒にいろんなところに行くんだ!

妹がいる人生をもう一度やり直せる。これからは妹と共にゆっくりと老いていけるのだ。深い安堵が静かに身体を満たしてゆく。
またその一方で、これは夢であって、自分の生きる世界においては4年と3ヶ月前の夏、妹は灼熱の部屋で死んでいたという事実は揺るがしがたいものであることも知っている。

完璧な幸福感と一抹の寂しさとあきらめが共存する奇妙な夢。目覚めた時にはいつものように「夢でもカナに会えてよかった!」とはどうしても思えなかった。ただ寂しくてしばらく呆然としていた。

去る5月のヒマラヤへの旅を経て、「愛する人々との離別」に伴う苦悩を腹に落とし込み、消化できたと感じている。後悔も苦しみも今は風に乗って塵のように飛び去った。
それでも「哀しみ」だけは水底に沈澱する泥のように、心の奥底に沈んだまま流れ去ることはない。
「哀しみ」は私を構成する大きな要素になってしまった。それは良くも悪くもなく、無理にぬぐい去る必要もないと思っているし、これから先の人生は死者たちと手をたずさえ、哀しみを自分の一部として歩んでゆこうとさえ思っている。

だがそこまで納得ずくの哀しみとの共存であっても、こういう風にふとした夢で「カナがいた世界」の幸福感を味わってしまうと、あとには何とも言いしれない空虚さが残るものだ。そしてこの虚しさは静かに私の心身を蝕んでいる気がする。

2018年11月10日(土)

Pの文字にご注目。ちょっとした工夫がかわゆぃ〜ん!(=´ω`=)

まだかろうじて「要介護」になっていないのに、フライングで購入した「寝たきり犬用ベッド」でたゆたう老犬。
だが、たゆたっていたのも最初の数日間のみ。今はおしっこすらひっかけない無用の長物と化している。

いや、ベッドカバー込みで1万8千円もしたのに!と嘆かずに、寝たきりにならないことを喜ぶべきなのだろう……。
……と優しい瞳になったのも束の間。やっぱり1万8千円はボリすぎだろ!
老犬介護用品は、なんにつけ足元を見られてる気しかしない。

頭の毛がこういう感じで伸びてくる。
父もこういう頭だったから「お父さんはマヤちゃんが大好きだったよなあ!」とヘボピーと二人、亡き人を偲ぶのだ。

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