2018年4月28日(土)

<以下は旅行前に書いたものの、写真を付け加える時間がなくてアップできなかった部分です>

外務省的には渡航先としてお勧めできないせいもあって、2007年を最後に新しい版が出版されていない「地球の歩き方 パキスタン」。その最後の版である2007年〜8年号を開くと、フンザ・ゴジャール地方の最後のページにある地名が記されている。
その町の名はススト。

「フンジャラーブ峠手前にあるパキスタン側最後の町。標高約3000メートルに位置し、周囲は光量とした風景。
ニュー・ススト(別名アフィヤタバード Afiyatabad)とオールド・スストのふたつのエリアからなる町は、中国人の行商人が行き交い、漢字をいたるところに見かけるなど、国境の町を実感する。
カラコルム・ハイウェイ沿いに広がるニュー・スストにはPTDCのモーテルがあるほか、経済的な宿や食堂がある。中国へ抜けるナトコ Natocoのバスもここから出発する」


今をさかのぼること6年前。2012年5月3日から6日、私とヘボピーを含む35名の日本人観光客は、この「寂寥」を絵に描いたような町スストにあるPTDCモーテルで不安な時間を過ごしていた。
クンジュラブ峠を越えて中国に入国するための一夜限りの滞在予定地に、まさかの三泊も縛り付けられることになろうとは一体誰が予想しただろうか!

だが自然のハプニング、ウイグル問題、中国の小役人の思惑などが絡み合った結果、我々はなーんもないにもほどがあるこの町で待機を余儀なくされた末、四日目、ついに国境越えを断念。イスラマバードに向けてもときた道を丸二日かけて戻るという悪夢のような結果に到達したのであった。

待機中はいつ国境越えのOKが出るか分からないから、モーテルからそう遠くには行けない。私とヘボピーはホテルの前で暇そうにしている野良犬を観察したり、全長300メートルに満たないスストのメインストリートを一日2、30回も行ったり来たりして有り余る時間をつぶした。その結果、「ススト・ショッピングマップ」を作れるくらいニュー・スストについて何の役にも立たない知識を深めることができた。

そしてこのたび6年ぶりのパキスタン。一日たりとも有給延長できない貴重なゴールデンウィークを、こんなリスキーな国に捧げたのは、実のところ「あれからスストがどう変わったかこの目で確かめたい!あと、チャイ屋のおじさんが生きてるかどうか知りたい!」というのが一番の動機だった。

これを人に説明すると話が長くなるので、「雄大な自然の中で命の洗濯をしたいんですぅ」なんてあたりさわりのないことを言ってはいるが、本当のところはいつも心のどこかに引っかかっている、定期的にグーグルアースで眺めたりしている、あのつまらないちっぽけな、でもたまらなく郷愁を誘う町が目的なのだ。

6年前、すでに他の町よりも中国の香りが強かった町ススト。町はずれには中国人に肉を食われた野良犬の毛皮がうち捨てられ、風に吹かれていた町ススト。
この6年で漢字はさらに増え、町は赤く染まっているだろうか?そしてチャイ屋のおじさんの店舗は存在しているだろうか?

残念ながら今回のツアーでは、セールスポイントマイナス100の町スストはバスで通り過ぎるだけらしいので(そりゃそうだ)、多くは期待できない。それでもバスの車窓から目をひんむいて、今のスストを目に焼き付けてこようと思う。

国境感あふるる町ススト。名前からして煤けている。

自然満喫しほうだい。

こんなバラック、日本ではまずお目にかかれないよね。

スストのメインストリート。しばしばニワトリ屋さんのトリがスパーンと首を切られている。

煤けた町スストにあってひときわボロっちいおじさんの店舗……ってか掘っ建て小屋。

おじさんの店ではサモサが売りのようだが、さすがに腹がやばそうなので熱を通したチャイを頼んだ。

なんだか達人っぽいが作っているものはミルクティー。

おじさんのチャイを飲むあたくし。
この後、ルピーを持ってなかった日本人に渡されたという500円玉をパキスタンルピーに両替してあげた。

ホテルの前の道ばたに座ってヒマをつぶしていると店じまいしたおじさんとばったり。
スストがパキスタン側最後の町のはず。だがおじさんは何もないはずのクンジュラブ峠側に歩いて行った。
一体どこに家があるのだろう?この時ほどウルドゥー語ができないことをもどかしく思ったことはない。

2018年4月28日(土)

なんとか色々片づけて、ヒマラヤの山々を見に出発します。私の体調もカラコルムハイウェイも崩れずに予定日には元気で帰国できるよう、どうぞ祈ってやってくださいませ。現地からはツイッターを更新するかもしれません。

では、いってきます!

寝心地のいいようにお布団をふみふみするまやちゃん。

2018年4月27日(金)

旅行を控えた今、「なぜ今?!」と絶叫したくなるような各種トラブルの濁流に呑み込まれる寸前である。

50数年生きてきて、なぜ今、歯の「根幹治療」を初経験しなくてはならないのか?20数年今の会社に勤めてきて、なぜ今、最大の取引先の社員がほとんど辞めて、引き継ぎが上手くゆかず現場がわやくちゃになってしまうのか?
この一年間風邪なんかひいたことなかったのに、なぜ今ひいてしまうのか?なぜ今、日常生活もままならないほどに急速に視力が低下して、コンタクトレンズと老眼鏡を買い換える羽目になるのか?そしてなぜ今、便意喪失で便秘になってしまうのか?

考えてみれば取引先のゴタゴタ以外はぜんぶストレス由来のトラブルだ。じゃあそのストレスはどこから来たかといえば、「会社のゴタゴタ」に尽きる。
前任者の仕事を引き継いだはずの取引先の社員とのやりとりに半日を費やした末に、翌朝、アメリカからちんぷんかんぷんなメールが届いた届いていた時の絶望感!まったく、歯も痛くなるってもんだ。

現時点では問題はまだ片づいていない。これから会社に行って銀行からの連絡があるまで正座待機だ。頼むから心残りは少なめで旅立たせてくれ!と天に祈るばかりである。

<追記>ひとつだけ言わせて頂きたい。昨日の日記に書いた「LINEのダウンロード」の件。

寝る前にダウンロードを初めて、朝起きて見たら「ダウンロード中 54%」という表示に絶望することを数回繰り返したせいだろう。データ使用量を見たら2日間で2.9ギガも消費してやんの!
ちなみに私の契約は一ヶ月3.1ギガタイプ。……LINEぶっ殺す。

マンションの八重桜が一気に散る頃には、まやちゃんとさくらまつりをする。
「来年はもうないかもしれない」と思いながらのさくらまつり。今年もできた。うれしいことだ。

風で吹き寄せられたはなびらを集めて冷蔵庫に入れておいて、誰もいない早朝の公園でさくらの絨毯を作るのだ。

朝の散歩で時々会うおじさんが来たから、花びらをまくのを手伝ってもらった。

まや・さくらまぶし。

旅行前に慣れておこうと新しいカメラを使ってみたところ、思ったような写真が撮れていなかった。
せっかく風の強い日のたびにマンションの庭までおりて、一生懸命花びらを集めたのに……とちょっと残念。

これが一番残念な写真。被写体深度の設定を間違っていたせいで、焦点が鼻だけに合っている。
鼻から目までスカッと合っていれば、最高のさくらまつりになってたんだけどなあ。

まあなんでもかんでも上手くいくわけがない。今年もさくらまつりができたことを喜ぼう。

2018年4月26日(木)

寝る前に残量45パーセントだったスマホの電池が目覚めると18%になっていた……。

布団の中でツイッターをいじったわけでもない。バックグラウンドで走っているアプリはウイルスソフトのみ。だというのに寝て起きたらじゅうはちぱーせんと。
その日の昼休みに新しいスマホを買いに走った。

今使っているZTEが使いものにならないことを説明した上で、希望に添いそうな候補を出してもらって5分で選んだスマホはシャープ製。「今使ってるのよりマシですかねえ?」と尋ねたら、「この店にあるどんな商品もそれよりマシです!」という力強い答えが返ってきた。んなもん売んな!(怒)
それにこの中華スマホ、私は1万8千円出したのに、先月楽天モバイルの広告を見たら980円!そしてきのう見たらさらに値下がりしてなっ、なんと880円!!バナナの叩き売りじゃあるまいし、なんぼ2年縛り契約込みの価格といってもひどすぎる。

そんなこんなで期待に胸をふくらませて機種変更したアクオスは、今のところはZTEといい勝負。ナメクジもびっくりの遅さで私を発狂寸前にしてくれている。なんせLINEのダウンロードだけで8時間もかかるんだぜ……。(そして途中で切れるから4,5回やりなおしてようやく成功。ひどい。)

まあ、画面のクリアさと写真のクオリティーだけはマシみたいで、ヒマラヤの山を撮影して現地のホテルからツイッターにアップ、という私がいまだかつて経験したことのない行為が可能になるかもしれない。

まやちゃんのさくらまつりについてはまた明日。

2018年4月20日(金)

ゴールデンウィークなんてまだまだ先の話だと余裕こいているうちに、ハッと気付くと週末に迫った出国日。
2年前に買ったウインドブレーカーを何のために買ったのかさっぱり思い出せなくて、現品を持ってモンベルの店舗へ行き、「これ、雨よけ用でしたっけ?それとも防寒に使えますか?」と質問したり(冬山以外では使える防寒用だった)、ミラーレスカメラの電池が途中で切れるのでは?とものすごく心配になってきて、「朝から夜まで充電できないんですけど、スペアは何本くらい必要でしょうか?」とキャノンに電話したりと(一本5千円のが最低3本は必要とのこと。鬼!)、今になって気付いた地味な問題解決に追われている。

すでに現段階だけでエネルギー切れになりそうだ。人は老いてくるにつれて国内旅行に回帰するというけれど、海外旅行の準備で発狂寸前になるたびにいつもその理由を痛感する。若い頃は楽しさが大変さを上回るが、年とってくると旅行の前段階だけでへばってしまうのだ。

だがぼやいている場合ではない!宅急便のアンちゃんが荷物の集荷に来る日まであと4日。がんばれ私!スーツケースはまだまったくもって空っぽだ!

関係ないけどトプカプ宮殿の正門。

不動の門衛くん。顔、ちっちゃーい!(=´ω`=)

もう片っぽの門衛さん。顔、おっさーん!(=´ω`=)

庭園に突っ立ってた警備くん。かわゆいーん!(=´ω`=)

2018年4月18日(水)

おはようございます。旅行を一週間後にひかえて、「遠足の前日に熱を出すタイプ」のあたくし、きっちり体調をくずし気味。
3ヶ月前に8万円かけて治した歯がまたしても欠けた結果、神経が死亡なさっていることが判明。新たな治療フェーズに突入したのはいいけれど、旅行前までに施術が完了しないことを気に病みすぎた影響だろうか。これまで異常のなかった腰とか目までおかしくなってきてよお……。

加えていきなり便秘になるわ、最も恐ろしい「風邪」の気配まで見え隠れするわで、肉体がいかに精神状態の影響を受けるのか、我が身で人体実験している感じよ。

心配性の性格ってほんとソン。しかしあと一週間で性格は変わらないから、どうかみなさま、帰国するまで身体がもつようオラにパワーをわけてくれ。

子羊みのあるまやちゃん。

ぐいーん。肛門の回りの毛の色がちょっと薄いのが好きなところ。

滅多に撮れない全面からのぐいーん。
犬の気配に目覚めたら隣の部屋でぐいーんをしていたから、枕元のカメラをわしづかみ、望遠レンズで撮ったんだぜ(=´ω`=)

2,3年前のまだまだ気力に満ちあふれていた頃のまやちゃん。
食べ物の入ったリュックを「ぼくのだ!さわるな!」とウーウーうなっている。お前さんのやあらへんちゅーに!

じゃ、みんなきょうもいちにちがんばってね!
ぼくはだらだらしながらみんなががんばるそうぞうをしているよ!

2018年4月16日(月)

あなたには軽い農薬アレルギーがあると指摘されて、クローゼットの防虫剤や虫除けスプレーはオーガニック(高い)、食べ物も可能な限り無農薬、減農薬(高い)に替えなくちゃ!とひどく神経質になった時期が昨年あった。

今は面倒になって気にすることはやめたけれど、「ていねいに生きなきゃ」病だった頃の遺物がぽつぽつ残っている。さっき台所で手に取ったハチミツもそう。室温が低かったわけでもないのに、結晶化して真っ白になってやんの。
それまでに買っていたハチミツの4,5倍の値段がしたのにこのままでは使いにくい。やっぱり自然派ってめんどくささが伴うものだな。固まったハチミツを割り箸でかき出しながら、自分はやっぱりサクラ印の安いハチミツでいーやと思った。

旅行がせまってきて真剣にあせり始めています。穴埋めにマヤちゃんの近況報告。

家でお風呂に入れるのがむつかしくなってきたので、一ヶ月に一回、わんわん美容室で洗ってもらいます。
プロの仕上げはふわっふわ!天国のさわりごこち!
美容代は高くつくけれど、ふわっふわをさわると癒されるから、「癒しグッズ代」として計上しています。

ふわふわのマヤちゃんはパンみたい。

ここから下はすこし古い写真。

去年はこんなこともできてたけれど、今は足の力がなくなってむつかしい。

大好きなネズミしゃんをくわえてウーウー。3,4年前?
今ではおもちゃを見せても興味を示さなくなりました。

若い頃のマヤちゃん。この頃は血気盛んな噛み犬でした。

やっぱり若い。目元なんかキリッとしています。犬も加齢で顔の筋肉が下がってくるものですね。

今のマヤちゃん。日を追って赤ちゃんみたいな顔になってきました。
でも私もヘボピーも、今その時ここにいるマヤちゃんが一番好きなのです。

2018年4月13日(金)

ミラーレスカメラのモードを「おまかせ」にして、ファインダーをのぞきシャッターを切っただけ。
光量不足の場所でもフラッシュをたかずにすむからびっくりした。

中学生の頃、父のオリンパスを借りて近所の猫を撮ってからこれまでに、数十台のフィルムカメラとデジタル一眼レフを経て、先日手にしたミラーレスカメラ。実際に使ったところ、「カメラ」というより「電子機器」という印象を強く受けた。

ニコン、キャノン、コンタックス、オリンパス、ペンタックス。カメラのシャッター音には各社の個性があって、ユーザーには「好みのシャッター音」があったりするのだけれど、ミラーレスのシャッター音にはこれまでのカメラとは異質なものがある。慣れの問題なんだろうけれど、違和感があるというか、押してもいまひとつ気分が上がらない。

この「静かさ」という特性がミラーレスのウリの一つのようで、カタログには「眠っている子供を起こさずに撮れます(・∀・)」なんてあるけど、シャッター音で飛び起きる子供って傭兵かなんかかよ。

桜つながりで花びらとマヤちゃん。2年前の写真。
今年は犬も人も桜スポットまで行く気力がなくて、桜の下での記念撮影はせずじまい。毎年撮っていたのに残念だ。

2018年4月11日(水)

ふとした折りに思い出すエジプトの風景がある。

第二次世界大戦時にイギリス軍が築いた砦の跡を訪ねた時のできごとだった。砂と岩に覆われた風景に還元される寸前の遺跡はさして面白いものではなくて、ガイド氏とヘボピーと私の三人は今来た道をすぐに戻っていた。

その時、砂漠の向こうから吹いてきた一陣の風が、あっ!と驚く間もなくヘボピーの帽子をもぎとった。帽子は風に乗って漂いながら、とても拾いに行く気分にはなれない崖の中腹にふわりと着地した。

その光景を見ながら私とヘボピーがどちらからともなく口ずさんだ「人間の証明」のテーマソング。
♪Mama, Do you remenber♪母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね……。(台詞のもとになったのは西条八十の詩「麦藁帽子」とのこと)

「買ったばかりだったのにもったいない!誰か見つけて拾ってくれるかなあ」「あんなとこ、わざわざ誰も見おろさないでしょ」「帽子はいつまでもあそこにあるんだね」「そうだね。この風景の中で朽ちていくんだよね」「ひとりぼっちでなんだか可哀想」「そうだねえ」こんな会話をかわした記憶がある。

あれから15年。帽子は砂と岩の間で朽ちてゆき、細かいかけらとなってエジプトの風の中を漂っているだろうか。その景色を思い描くたびに、なんともいえず感傷的な気持ちになる。

一応観光スポットに入ってるみたいで、べつに希望してないのにガイド氏に導かれたフォート・なんちゃら(忘れた)。

昔ここで英国軍の若い兵士たちが寝起きしてたんだなあ……と想像の翼をはためかせても、
この他の古代エジプトスポットでは「昔」のレベルが数千年単位なせいか、ぶっちゃけ「ふーん」で済んで10分で去った。わりぃな!

茶色の果てに見えるのはオアシスだ。

母さん、見えますか?あの白いのがぼくの帽子ですよ。

強烈な太陽光線から身を守るためふんぱつしてUVカット帽子を買ったのに、あっという間に失った気の毒なヘボピーさんと、
ろくすっぽかぶってもらえないうちに、強烈な太陽光線に焼かれて塵になる運命に見舞われた気の毒な帽子。

2018年4月10日(火)

パキスタン旅行のためにカメラを新調した。あんなオモチャみたいなのいらんわ!と毛嫌いしていたミラーレス。先月末にキャノンが満を持してEOS Kiss シリーズに投入した機種。
試しに撮ってみたら悪くねえ。いや、悪くねえどころか、軽くてピント合わせが早くてびっくり。メインカメラに据えかねない勢いだ。

新しいカメラのおまかせモードで撮ってみた。コンパクトカメラより遙かにいい。

「かいらしねえ!」と近寄ってきた知らないオバちゃんの手をなめるマヤちゃん。噛み犬も老いて丸くなった。

2018年4月5日(木)

☆☆<トルコの猫>更新しました。

下から見るとでっかいまやちゃん。

テーブルの上に敷いた布団に座るまやちゃん。6才のころ。

どうしてテーブルに布団なんか敷いてるんだって?……それは母のアルツハイマーが最高潮に達していた当時、
畳の上に布団を敷くと母が徘徊中にけつまずいて倒れてくるもんで、私はテーブルの上で寝ていたからだよ!

カニが入っていたトロ箱に詰まったまやちゃん。グラム20円で取り引きされます。

金ダライにはまったまやちゃん。入れたのではない。振り返ると自発的にはまっていた。

金ダライに盛りつけられたまやちゃんを「料理」モードで撮ってみました。

2018年4月4日(水)

MAYA-CHAN IN NATURE……って近所の公園だけどな!

昨日までの死にかけ人形が打って変わって気味が悪いほど気分が軽やか。チョウチョになってひらひら飛び回りたいくらい!
チョウチョといえば思い出すのが、「死の瞬間」の著者として知られる精神科医のキューブラー・ロス。彼女は生から死への移行を芋虫から蝶への変容にたとえていたわ。いや、別に死ぬってわけじゃないけど、さなぎがチョウチョになったくらい劇的なモードの変化が現れている。

なぜこうなったからというと、この数日間ヒマにあかして悩み抜いた末にひとつの発見をしたからで、それは文字にしてしまうと「で?それが?」と聞き返されそうなほど単純なこと。
「ひとりぼっちでもべつにいい」ということだ。


ここをご覧下さっている方がうんざりするほどご存知の通り、家族と親友に相次いで先立たれ、残り少ない友人も親戚も愛犬も10年以内にはそのほぼ全てがお亡くなりになることが確定している私は、死者の不在をなげくと同時に、近い将来独りになることが不安でたまらず発狂寸前だった。

悲しい、寂しい。肉体的、精神的、経済的に未来が不安でたまらない。
死んだ人たちが生前に辛かったであろうことに延々と想像を巡らしては、自分にはもっと彼らの手助けができたのに、何もしなかったという自己嫌悪に苛まされる日々。

誰かの役に立ちたくても、相手はすでにこの世にいない虚脱感。自分は人生の選択を誤ったのではなかろうか?という後悔と無力感。
ありとあらゆる負の感情の渦に飲み込まれて、あっぷあっぷする毎日。まずい。このままではうっかり死んでしまいそうだ!

そこで「なぜ悲しいのか」「なぜ寂しいのか」を腰をすえて自問してみた。すると見えてきたのは、苦しみの源でとぐろを巻いている「自己愛」。

死去した存在は物理的に取り戻せないのだから、今の悩みは完全に自分一人の問題である。外的要因の影響を受けない問題ならば、考え方のスイッチを入れ替えることさえできれば、みずから制御できるのではないか。

また、「日にちぐすり」という言葉もある。死者と暮らした記憶は時間の経過と共に少しづつ薄れてゆき、最終的には苦しみや哀しみが変容した何かが残るのかもしれない。それがいいものか悪いものかは想像もつかないけれど、哀しみの果てにある「何か」を見てみたい。

一方、「寂しさ」「一人でいる未来への不安」を埋めるためには他者の存在が必要だ。しかしこの年になって新たな友人を発見するのはかなり大変なこと。
では、なぜ未来が不安なのだろう。
その原因は、「シングル子なしの中高年女性に肉体的、経済的に困難が生じたとき、セーフティーネットがないとサバイバルが困難になりやすい」ことだと分かった。親近者の他界によってセーフティーネットが壊れたために、私は「親しい人とのつながり」を一から作らねば!とあせりを覚えていたのだ。

しかしよく考えてみて。私は本当に「ひとりぼっちであることで非常に困るのか?」と。
そもそも私は人付き合いがいい方ではない。それなのにぼっちを恐れる心理は、「近い将来、国が老後のめんどうをみてくれなくなるから、困ったときに助け合える友人をたくさん作っておかなくては、ボロボロの老人になって孤独死するのが関の山だよ!」という、昨今広く流布されている脅しじみた言説に惑わされるゆえではないだろうか。

とはいってもまったく寂しくないと言えば嘘になる。なぜなら私は孤独をよしとする「猫タイプ」ではなく、群れで生きる「犬タイプ」だから。家族と近しい人を守りたい!という欲望が非常に強く、群れと共に栄えることに生き甲斐と安堵を見出すタイプなのだ。
ただ、大きな群れは必要としない。血縁か記憶を共有するわずかな人々をとことん大切にすれば満足なのだから。

ならば心から守りたかった家族にも準家族(あかねさん)にも先立たれた今、自分には本当に家族の代替者が必要なのだろうか?
……自問した結果、導き出された答えは「暫定的にノー」だった。

ひどい表現だが、私は「寂しさを埋め、愛情を分かち合うためのパートナー」を求めていたというよりも、まるで株式運用でリスクヘッジするように、「老後のセーフティーネットを築くための友人という資産」を得たいと願っていたのかもしれない。

ならば無理をして「新たな友人」を作る必要はなさそうだ。家族という「群れ」が解散した今、他者と新たな記憶を共に築いてゆくのは一からのスタート。それは巨大なエネルギーを要求されるもので、今の私にはそんなパワーはないし、そこまでの必要性も感じていないから。


「ひとりぼっち」は必ずしも悪いことではない。将来的にやっぱりぼっちは駄目だと思えばその時に考えればいいし、困った時には知らない人の手を借りればいい。今から準備してもどうにもならない。

「アグレッシブで明るく社交的」という過去の自分像を取り戻さねば!と頑なになるあまり、基本的な何かを見失っていたようだ。
孤独と不安に耐えかねて出会い系パーティーに参加したり掲示板に書き込んでみたり、結婚紹介所を探すのはもうやめよう。(そんなことっやっとったんか!……はい、やっとりました∩(´・ω・`)つ―*'``*:.。. .。.:*・゜゚・*(・ω・))

アグレッシブで明るく社交的なかつての自分に囚われず、ネガティブで陰気で人が苦手なもう一人の自分と向かい合おう。世間一般に「好ましい」とされている姿に己をデザインする必要はどこにもない。
そう思い立ってすぐ、孤独を恐れるあまり築いたこの半年の新たな人間関係は、体調不良を理由にいったん全てを白紙に戻させて頂いた。すると嘘のように気分が楽になった。

そうだ、愛すべき存在は人のみにあらず。ひとりぼっちもけっこう忙しい。まずはじっくり自分と対話してみよう。先人の智慧をひもとき、知る愉しみを再発見しよう。
運がよければあと40年ほど生きられるかもしれない。長いようで短い道を、死者たちの記憶をたずさえゆっくりと歩むのだ。

上昇気流に乗って空高く舞い上がるチョウチョになったような気持ちで、そんな風に考えている。

2018年4月3日(火)

精神的に厳しい日々が続いている。青空に腕を伸ばす満開の桜を見上げる瞬間は安らぎに満たされる心も、しみ出してくる黒い流れにすぐに浸される。

愛する人々はなぜこの世にいないのだろう?自分はどうしてここにいるのだろう?油断するとすぐにこのような思いに支配されそうになる。
そんな時にはなぜこう思うのか?自分を分析しようとするものの、いくら論理で整理できても心の闇を晴らすまではいかない。

少し前まで私の心を占めていたのは「哀しみ」だったが、今は「虚無」。そう、正に「虚無」としか名付けようのない、制御しがたい何物ものに覆い尽くされないためだけに生きている。そんな感覚が消えることがなくて苦しい。

先日ピクサー映画の「リメンバー・ユー」を観てからこちら、ここに「後悔」や「迷い」までが加わって、日常生活を送るための最低限の心のバランスを取ることに、全てのエネルギーを注ぎ込んでいる感がある。
音楽を軸にした愛する者たちとの邂逅、それが「リメンバー・ユー」のテーマだが、昔私のために曲を作り、ギターをつまびいてくれた人がいたことや、その人はもう地上にいないことを思い出して、人生のどこかでボタンをかけ違ったのではなかろうか?という、中年期によくある後悔にすらまとわりつかれたりもする。

今日も心が重い。肉体は爽やかな季節を喜んで飛び跳ねようとしているのに、精神がたずなをゆるめてくれない。これではいけないと、気分転換に映画を見に行くことにした。
でも映画館のスケジュールを見てもどれもピンとこない。おととい「リメンバー・ユー」と「グレイテスト・ショーマン」を見てしまったから、他には「これ!」というものがない。

そう思いながらミニシアターのサイトに行くと、「ノスタルジア」という文字が目に入った。私が最も愛する映画、タルコフスキーの作品だ!
このタイミングで「ノスタルジア」を、それも会社を終えてから見に行ける時間帯にたまたま上映されているとは、柳田邦夫の言う「シンクロニシティー」はこういうものだろうか。

世界の滅亡を信じて家族を幽閉する狂人と詩人の邂逅は、何かの示唆を与えてくれるかもしれない。期待を抱いて今夜は映画館に行く。

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