アケトアテンで萌えを極める<1>

日がまだ明けぬアケトアトンの太陽神殿跡をバックに、萌えるオカッパのシルエット。

この旅行の時、私の頭はカリムんもどきの漆黒のオカッパだったのだが、
このスタイルのせいで空港に迎えに来た職員に思いっきり無視され、延々と待ちぼうけする羽目に・・・
あとから聞くと、どうやら私は一インチの疑いもなくヨーロッパからの観光客だと思われていたらしい。

そう言われれてみると、現代日本ではオカッパ頭は絶滅寸前。
今じゃ環境保護団体と磯野家とジョジョ5部くらいにしか生息していないレアな存在かもしれない。
それでも顔見たら東洋人って分かるだろ?フツー。エジプト人ってAWATEが多いのだろうか。
・・・まぁ、パリっ娘だと勘違いされたのなら、それはそれでちょっと嬉しいかも。

「アテンの地平線」を意味するアケトアテンについては、エジプト史をチラ見したことのある方ならば小耳に挟んだことくらいはあるだろう。

残念ながらここはエジプトサイトじゃないので、詳しいお話はエジプト本などで読んでいただくことにするが、エジプト史について全くご存じのないお客様も多いと思われるので、ごくごく手短に説明すると・・・

時は18王朝後期。広大な所有地からのアガリや、王が戦勝を感謝して神へ奉納する神殿奉納物によって、年々肥え太り権力を増大させ、そのうち政治にまで口を挟むようになってきたアメン神官ズ。

その介入をうるさがり、王都をアメン神のしろすめすテーベから、どんな神にも属さない未開地に遷都しようと計画したのが、虫歯王アメンホテップ三世の息子・・・ウマズラでLOVEを説いた古代エジプトのジョン・レノン、古代エジプト史における屈指のエキセントリック王アクエンアテン(=「アテン神の僕」。「アメンホテップ4世=アメン神は満ち足りる」からきっちり改名)であった。

←アクエンアテン王像(ルクソール博物館蔵)。♪顔長〜い 顔長〜い 顔長〜い♪

アクエンアテンはエジプト古来の多神教を廃し、太陽円盤の姿を取るアテン神を唯一の神と奉じたため、現代一神教を信じる人々にたいそう好かれているようだ。そのため「人類最初の個人」なんてすんごいニックネームを付けられちゃったりもしているが、まぁ考えようによっては、思いつきで回りを振り回すトッパなお方だったと言えるかもしれない。

そんなエッジな王様が新しい王都に選んだ処女地、それがナイル中流に位置するアケトアテン(現代名・テル・エル・アマルナ)なのである!

右もルクソール博物館のアクエンアテン。この王の治世に花開いた美術は「アマルナ美術」と呼ばれるが、他の時代のものと比べると「理想化された姿じゃなくって、ブサイクでもいい、ありのままを描くがいい」という姿勢などにおいて、かなり異質らしい。


さて、王都がここに置かれていた時代の前後は、アメンホテップ大王、女傑ティイ、「美女は来たりぬ」ネフェルティティ、イケイケ軍人ホルエムヘブ、少年王ツタンカーメン・・・と派手な役者が揃ってゴージャスこの上ないし、愉快なできごとも一杯なので、アマチュアエジプトファンの間では圧倒的な人気を誇っているようだ。

かく言う私もその一人。ホルエムヘブファンとしても彼の仕えたアクエンアテン王の築いた都は、ミカ・ワルタリやアガサ・クリスティー作品をネタ元に、あらぬ想像をあれこれ巡らせ萌えたぎる上で、どうしても落とせないポイントなのである。

ただ、エジプト中部(中エジプト「なかエジプト」と読む)はテロの可能性がなきにしもあらずだったせいで、つい最近まで渡航延期勧告が出ていた土地。観光客が完全に自由に行動することはできない。

私が最後にアマルナに行ったのは2005年5月ゆえ、情報が若干古いかも知れないが、渡航延期勧告が解除されてかなり経っていたはずの当時でも、警察のガードと事前の行動予定提出無しでは自由に動けないという不便さがあった。

前後を警察車両にガッチリガードされた上、自分の車にまで警察のアンちゃんが乗り込んでくるなんて・・・も、もうお嫁に行けない!

日本から出ているツアーを見ても、ここを訪れるコースはごくわずかである。
とはいえ商売熱心な感光会社のこと、もしここがアビドスのようにゴージャスな遺跡ならば、ツアーの数ももう少し多いんじゃなかろうか。

観光地としてのアケトアテンは、なぜ今ひとつ盛り上がらないのか?
・・・それは「マニア以外にはキツい瓦礫の山だから」。
きっとこの一言で片づけられると私は確信する。

(写真上)アテン神殿跡。どうやらアケトアテンの観光のメインはここらしい。柱は修復が激しく、台座のコンクリっぷりなど余りに身もフタもなさすぎで詫び寂びゼロである。

だが、ガイドブックを開いても、アケトアトンといえばこの場所とアテン神官メリラーの墓(コンディション悪く、番人はがめつい)の写真くらいしか載っていないところからすると、この王都跡がいかにマニアじゃないヒトに厳しい場所なのかお分かり頂けるだろう。一緒に行ったヘボピーも砂塵と瓦礫の波状攻撃に嫌気がさしたのか、あっという間に死にかけ人形と化していたよ。


上のポイントをもっと手前から臨むとこんなカンジよ〜ん。かつては左右に列柱と供物台がずらり並んでいたのだが、今では「取り壊されたかんぽ保養施設」の趣・・・
だが、この神殿跡地を踏みしめ、「ここでアテン神官やアクエンアテンが祈ったのね!」と感動してしまうのが好き者のSAGA。

左の写真から反対側を見るとこんな風景。
中央の白い部分には玉座が置かれ、アクエンアテン王が座していたのだ。ひょっとするとホルホルもこのあたりに立ってたかも・・・と想像するとたまらなく萌え。
左右の泥煉瓦は当時のままのものが残っている。

OH!殺風景!神殿跡の左右に広がる荒涼たる大地。砂フェチの私は萌えるものの、少なくとも観光客向けではないのだけは火を見るより明らかだ。

足下の砂の中には、当時の土器の破片が台風明けの海岸のゴミのように無造作に散らばっている。中には鮮やかな羽根模様が描かれているパーツもあったりしてびびるんだよね。

・・・とまぁ、観光地としては目と心にぜんぜん優しくない風景ゆえ、興味がないヒトには苦行でしかない(ヘボピー談)アケトアテン=テル・エル・アマルナの旅。

だが、2004年9月のクソ暑い中、ここを初めて訪れた私は、この土地の心洗われる荒涼っぷりに爪の先まで魅了されてしまったのだ。

神殿跡の二本の閉花式パピルス柱の間に立ち、視界を分断する山の稜線を眺めてみる。
すると、この場所に立って同じ風景を見つめたアクエンアテンやネフェルティティの視線と自分の視線が重なり合うような気がして、そのうちに自分がどの時代に生きているのか見失いそうな妙な感覚に頭がクラクラしてくる。

「アケト」とは通常「地平線」と訳されるが、厳密には「太陽と大地が接する場所」。そしてアケトアテンの神殿の中心線は、この枯れ谷に向かってまっすぐに伸びている。

そう、この枯れ谷の間から太陽が昇る姿が「アケト」のヒエログリフ(上)そのものであるがゆえ、太陽神殿がこの場所に築かれたのだ。

上の写真の場所にもっと近づいてみると、山の具合はこういうカンジになっていた。
よくもまぁこんな丁度いいポイントが都合良く発見されたもんだと感心。
額に汗してナイスビュー確保にかけずり回る王の臣下を思い浮かべると、宮仕えの厳しさに胸が熱くなる。

アクエンアテン王の死によって打ち捨てられ廃都と化した街アケトアテン。
コンタクトに砂が入って止まらぬ涙を流しながら、ここから「アケト」のヒエログリフそのままに昇る朝日を思い浮かべた私は思った。

「このポイント(太陽神殿跡)でご来光を拝んで萌えを極めたい!」

・・・そしてこの半年後・・・
一介のジャパニーズOLは、願いを現実のものとしちゃったのである。

アケトアテン<2>につづく