『Hold』


 トンと軽く床を蹴れば、浮いた身体は流れるように前方へと移動していく。
トレミー内のそう広くはない通路の曲り角手前でバーに手を掛けスピードを
殺しながら、アレルヤは自室へと向かう通路とは反対側の突き辺りにある
食堂へと視線を泳がせた。
 王留美から、良いものが手に入りましたのでお裾分けですわ、と贈られた
かなり希少価値の高いらしい古酒にスメラギが瞳を輝かせ、急遽クルーを
集めての宴会開始となったのは、数刻前。ジュース限定でならとフェルトや
未成年のマイスターたちも酒宴に加わらないかと誘われはしたものの、刹那
とティエリアはそういう場は余り好きではないようで、それぞれエクシアが
ヴェーダがと大真面目な顔で理由をつけて、苦笑するスメラギたちに背を向け
ていた。そしてアレルヤはというと、少しだけ迷いはしたものの賑やかな酒の
席に素面の自分がいても気を遣わせてしまうかもしれないと、やはりそんな風
に理由をつけて先に立ち去った刹那たちに続いて食堂を出ようとすれば、20
になったら一緒に飲もうぜとグラス片手に微笑むロックオンに声を掛けられた。
ええ是非、とこちらも小さく笑って返し、開いたドアの外へと身を滑らせる。
その後は、ひとりトレーニングルームで軽く身体を動かして、シャワーを浴び
サッパリとしたところで、真直ぐ個々に割り当てられた自室へと戻る。
 その、途中だった。
 食堂へ続く通路へと向けていた視線を、ゆっくりと身体ごと反対の通路へと
向ければ、その先にうずくまる人影をアレルヤの灰色の瞳が捉える。
「・・・・・ロックオン?」
 やや強く床を蹴って、うずくまった背に駆け寄る。
「どうしたんですか、ロックオン・・・どこか具合でも」
 気遣うようにそっと肩に手を掛けて俯き加減の顔を覗き込めば、アルコール
の強い香りが鼻孔を掠める。白い頬もうっすらと朱をさしていて、ゆっくりと
アレルヤを見上げる瞳もどこかユラユラと頼りなく潤んで見えた。
(随分と色っぽい顔、してんじゃねえか)
(ハレルヤ、・・・そういう言い方は)
(男にそそられたのは初めてだぜ。なあ、アレルヤ?)
(・・・・・彼を、そんな目で見ないでくれ)
(・・・ふーん・・・)
 意味ありげに笑った気配を残してハレルヤが沈黙する。小さく溜息をついて
改めてロックオンの様子を伺えば、唇が乾くのか赤い舌が何度か舐めては湿ら
せているのが視界に映り、不意に鼓動が跳ねた。
「もしかしなくても、すごく酔ってる・・・?」
 僅かな動揺が悟られないように、そんなこと聞くまでもないだろうと思い
つつもそう問えば、けだるげに肩を竦めてみせながらロックオンはアレルヤの
言葉を肯定して頷いた。
「珍しいですね。あなたがこんなになるまで・・・」
 アレルヤが知る限り、彼は今までにも決して無茶な飲み方をするようなこと
はなかったし、それにスメラギ程ではなくてもそこそこ酒には強かったはずだ。
「いや、・・・量はたいして飲んでない・・・けど、ありゃ恐ろしい酒だ」
 グラス1杯で、ほんのりと酔いが回って良い気分になった。機嫌良く2杯目
に口をつけたところで、いきなり酷い倦怠感に襲われて、こいつはヤバいなと
宴席を抜け出したのだと言う。
「旨い酒だったが、・・・どうやら俺とは相性が良くなかったらしい、な」
 たったグラス1杯でロックオンをこんな状態にしてしまった酒だというのに
スメラギもクリスティナでさえも涼しい顔で杯を重ねていたのだと溜息混じり
に告げながら、ロックオンは力の入らない身体を支えるように差し出された
アレルヤの腕におとなしく委ねた。
「・・・悪いな。甘えさせて貰う」
「いいえ。気分は、・・・吐き気とかありませんか?」
「ああ、・・・すっげー眠い・・・だけ・・・・・」
 本当に今すぐにでもこの場で寝てしまいそうだ。ロックオンの部屋までは
そう遠くはないし、何とか意識のあるうちに支えて連れて行けるだろうと判断
しつつ、もし眠ってしまうようなことになっても、通路はほぼ無重力だし部屋
に入っても自分の腕力なら抱き上げてベッドまで運ぶくらい、どうということ
はない。
(ああでも、その場合どんな抱き方をすれば良いんだろう。肩に担ぎ上げると
ロックオンが苦しいだろうし、やっぱり両腕で前に・・・)
 そんなことに考えを巡らせながら、足元の覚束ないロックオンに肩を貸して
ゆっくりと通路を進む。辛うじて意識を保ちながらの歩調に合わせてだから、
これならいっそ本当に抱き上げて連れて行った方が早いんじゃないだろうか。
そうすれば、すぐにベッドに横になれてロックオンにとっても良いのではない
だろうか。
「ねえ、ロックオン。その、嫌じゃなければ僕が----------」
 抱いて運びましょうか、と聞こうとしたところで肩に掛けられていた腕が
急に滑り落ちた。
「う、わ・・・」
 慌てて掬い上げた身体は、すっかり弛緩していて。まだ僅かに意識はある
のか、伏せられた瞼がどうにかして開こうとして睫毛を震わせていた。
「・・・運ぶ、ね」
 一応宣言すると、屈み込むようにしてロックオンの膝裏に腕を通して立ち
上がる。ふわりと抱き上げられて、伏せられていたロックオンの瞳が状況を
怪訝に思ってかゆっくりと開き、不思議そうにアレルヤを見つめた。その表情
が、どこか不安げな子供のようで、アレルヤは知らず口元を弛める。
「大丈夫だから・・・寝ていて下さい。僕がちゃんと---------」
 あなたの部屋のベッドまで運ぶから、と。告げようとした言葉は不自然に
途切れた。
(な、に・・・?)
 状況を把握するのに、どれだけの時間を要しただろう。実際にはそれほど
ブランクはなかったのだろうけど、その一瞬は時間が止まったような錯覚さえ
した。
「・・・・・ん、っ」
 唇に触れた、酒精の香る吐息。そして、柔らかく暖かな感触。見開いた視界
いっぱいに広がるのは、白い肌をほんのりと赤く染めたロックオンの顔。
 キス、されているのだと。どこかぼんやりと、どうにか現実を把握する。
 何故。
 どうして。
 そう問い掛けたいのに出来なかったのは、唇を塞がれているからだけじゃ
ない。だって、いきなりキスされて、相手は男で、なのに。
(ちっともイヤじゃ、ない)
 むしろ、啄むように触れてくるそのキスが、心地良い。
(イヤなどころか、むしろ)
 もっと触れていたい。そんな風にさえ、思ってしまうのに。
(じゃあ、そうしちまえよ)
 背中を押すようなその声は、そう大きくはなかった。けしかける響きこそ
あったけれど、アレルヤを突き動かしたのは違う部分から沸き起こった衝動。
「ん、ん・・・っ・・・・・」
 抱き上げた身体を、押し付けるようにして壁に挟み込む。やや宙に浮いた
身体を抱き込むように支え、アレルヤは一方的に押し付けられるだけだった
キスを、普段の彼らしからぬ所作で深いものに変えた。
「ア、・・・ルヤ」
 掠れた声で名を呼ぼうとするのに誘われるように、抵抗なく開いた唇へと
舌を差し入れれば、待っていたかのようにロックオンの熱いそれが絡みついて
くる。目眩すら感じるのは、息を継ぐ間もないくらいに口付けに夢中になって
いるせいなのだろうか、口腔に残る酒の香りに酔ったせいか、それとも。
(ロックオンのせい、だ)
 キスがこんなに気持ち良いのも。
 酷く身体が熱いのも。
 全部。
「ふ、ぁ・・・・・」
 頼りなくアレルヤの肩を掴んでいた指が、腕を辿るように滑り落ちていく。
そのままプツリと糸が切れたように崩れ落ちた身体を、アレルヤはしっかりと
抱きとめた。
「・・・・・寝ちゃったの、ロックオン・・・?」
 問い掛けに反応はない。覗き込んだ寝顔は感情が見えない分、どこか整い過ぎ
ていて、まるで童話の眠り姫みたいだな、なんてうっかり言ってしまいそうに
なるのに、濡れた唇だけが酷く淫靡で生々しく映った。
「さて、と」
 取り敢えず、この酔っ払いのお姫様を部屋に運んでベッドに寝かし付けよう。
枕元に水と二日酔いに効く薬を置いておけば、自身で対処出来るだろう。
(はあ? そんだけで済ませるのかよ)
「何がだい、ハレルヤ?」
(見てのとおりの据え膳だぜ? 食っちまえよ)
「しないよ、そんなこと」
(誘ってきたのは、こいつだろ?)
「そうかな。そうだとしても、僕はね・・・ハレルヤ・・・寝ていて意識のない
人に、どうこうする気はないんだよ」
(・・・紳士ぶりやがって)
「そんなつもりはないけど。彼に、確かめたいこともあるしね」
(何だよ・・・楽しそうじゃねえか、アレルヤ)
「うん、・・・楽しみだよ」

 小さく微笑んで、腕の中で眠るロックオンに囁きかける。

「あなたは、どう出るかな」

 大方の予想はつくけれど。
 どうあっても。
 逃がすつもりは、ないから。