|
I WANNA HOLD YOUR HAND
彼女は男の手を取った。空気が揺れてほのかなディオリッシモの香りが漂う。
「……あっ…すごい……」
深紅に染められた指先が日に灼けた手の甲を愛撫するようになぞり、金色のうぶ毛に覆われた指と絡み合った。
「やっぱり想像してたとおりね……」
ルージュで妖しく光る唇が薄く開かれ、赤い舌が艶めかしく口の端を舐める。
「ん…ロメオ……すごく……長い。素敵……」
「……だろ?」
トルコブルーの瞳で見つめて優しい微笑を浮かべたとたん、ショベルカーのような力でぐいっと腕を引き寄せられ、ぞりぞりする頬に手の甲を激しく押しつけられた。
「ああんっ!もうたまんないっ!アタシも妊娠させてぇーっ!」
「それは無理っ!!」
クーパーは必死で手を引きはがすと、目の粗いヤスリをかけられたようにヒリヒリする甲に息を吹きかけながら怒ったように言った。「ヒゲぐらいちゃんと剃っとけよ!」
けちんぼ!ちょっとくらい触ったからって減るもんじゃなし、それにヒゲなら今日3回も剃ったわよお!とプンプンしながら、プリシラは空になったグラスに琥珀色の液体を注いだ。
ここは街灯もまばらな薄暗い路地裏にある“白鹿亭”。ハーネマンが時折、思い出したかのように姿を見せるバーである。
いつもならこのすすけたカウンターの中では、顔面に大きな傷の走るいかつい男──こんな場末のバーよりも賭博場の用心棒の方が向いていそうな初老のマスターが、にこりともせずにシェーカーを振っている。
何か話しかけようとも一番シンプルな答えしか返ってこない代わりに、いらないお世辞や詮索もしない無口なマスターが仕切る店。
そのせいだろうか、光に恋する蛾のように“白鹿亭”に引き寄せられる客は男も女も、大抵が人生に倦んだような、もしくは自ら進んで世界に背を向けた隠遁者を思わせる表情を浮かべているものだから、花を盛りの人生を思い切り楽しんでいる明朗活発な青年は、ここのドアをくぐるたびに自分にまで陰の気が移りそうで不安になってくる。
だが、人々の嘆きが沈殿しているかのようなこの薄暗く排他的な雰囲気が、けして人間好きとは言えない彼にとっては心地いいのだろう。
そう思いながらクーパーは、たった一度の濃密な情交以来、自分とまともに向き合ってはくれない上官との“偶然”と称した出会いを期待しつつ、不本意ながらもしばしばこの店に足を運んでいた。
そんな風に顧客を選ぶバー“白鹿亭”だが、ここ二週間というものはちょっと話が違う。ここがあの店とは到底信じがたいほど陽性な空気が、隅から隅まで満ちあふれている。
それもこれも溺愛している太った赤毛のスパニエル犬に引っ張られて足を踏みはずし、急な階段を15段も転げ落ちて入院中のマスターに代わって、カラフルなワンピースに大柄な体を包んだ女性──戸籍の上ではそうではないのだが──がカウンターの中にどっかりと陣取って快活に笑っているせいだろう。
今この店でクーパーは、マスターの甥であるプリシラ、本名マキシマス・F・マックィーンJr.と他愛もない世間話をしながら、今夜こそは姿を見せるかもしれないハーネマンの訪れを、口には出さないものの今か今かと待ちわびていた。
「……なんでもサッカー選手のデータも取ってみたらしいのね」
ペルノ・リカール社からせしめた販促品のグラスをふきふきプリシラが言った。「そしたら、普通の人のグループに比べると長い人の占めるパーセンテージがはるかに高かったんですって」
「へええ、そうなんだ」
「サッカー選手って多少ブサイクでもモテるものねえ…そう言われるとますます当たってるのかなって思っちゃう」
クーパーはカウンターの上に広げた自分の手を、もう一度しげしげと眺めてみる。
その時、古ぼけたチーク材のドアがギギギーッ…と陰気な音を立て、振り返ったクーパーの胸は高鳴った──彼のおでましだ。
蒼ざめた月を思い起こさせる男は、カウンターの自分の定位置のあたりにあまり喜ばしくない先客が陣取っているのを認めて、ギクリとした顔で立ちすくむ。入るべきかそれともこのままドアを閉めて立ち去るべきか、心の中では激しい葛藤が繰り広げられているようだ。
だが、今夜はバッカス神ひきいる酒好きの一団に、よほどしつこく手招きされたとみえる。
落ち着きなく店内を見渡してテーブルが満席と見て取るや、隙のない足取りでこちらへ向かって歩いてくると、口をへの字に結んだままクーパーから一番遠いカウンターの端に座ろうとした。
それと同時にプリシラが巨体をのび上がらせてその名を呼ぶ。
「あらら、ダメよミッヒーちゃん!」
ヒゲの剃り跡が青々と濃い女は満面の笑顔で手招きした。
「そんな隅っこに座らないで、さみしいじゃないのさ…ほらほらこっち!美女と美男に囲まれた“白鹿亭”の特等席ですわよ。ね?嬉しいでしょ」
「チェッ、よく言うぜ……」とハーネマンは苦虫を噛みつぶしたような顔で立ちあがった。「オネエとにやけ男の間のどこが特等席なんだよ……」
だが、そう小さな声で毒づきながらも、スクゥエア型にそろえられた深紅の指先が示す席──自分とひとつスツールをへだてた席にぎごちなく腰をおろしたものだから、思いもよらない素直さにクーパーは驚いた。
もしも自分が同じことを言おうものならよくて無視、虫の居所が悪ければ一、二発ぶん殴られかねないっていうのに、一体なんなんだ?この違いは。
クーパーはいぶかしく思った。ひょっとするとこういうのがサージャント・ハーネマンの好みなのか?
だが、どうやらそれは単なる杞憂にすぎなかったようだ。
琥珀色の液体で満たされたグラスをあっという間に空にして、二杯目のアードベックを注いでもらったハーネマンと、さっきまでのおふざけはどこへやら、急に真剣な横顔を見せているプリシラとの間で交わされる短い会話から、どうやら彼らが昔からの知り合いであると分かって青年は胸をなでおろした。
「アレが表に出るそうね」
「そりゃないだろ、なんせ奴のやることだ」
「でもパートナーがMに代わったんだから」
「M?…ふーん、ならなきにしもあらずだな……」
「……ありえないとも言い切れないでしょ?だって彼のことですもの」
自分にはなんのことやらさっぱり分からない指示代名詞のパレードに軽いいらだちを覚えつつも、しばらくは口を閉ざしてスコッチをちびちびやっていたクーパーだったが、とうとうしびれを切らして二人の間に割って入った。
「あのー、お話中すみませんが…ひょっとしてお二方はお友達なんっスか?」
するとハッとした顔でプリシラはハーネマンをちらりと見やると、オホホホ……とグローブのような手で口元を隠しながら笑った。
「ゴメンなさあい!二人っきりの世界に入っちゃってたわぁ。そうなのよ、もうかれこれ9年…いや10年の付き合いになるかしら、ねっ?」
「……そうだな、そんなもんかな」
若造に乱入されて渋面を作っていたハーネマンも、朗らかな女の微笑に後押しされたのだろうか、ぽつりぽつりと説明を加える。
「こいつ、男だった頃は某銃器メーカーの開発担当でな……」
「へええ、やっぱり。そっち方面のお知り合いだったんっスね」
「それ以外にあるわきゃねえだろ……その上、こう見えても50mライフル伏射のメダリストなんだ」
「ええっ?ライフルの?」
「そう、ゴールドメダリスト、フラウ・プリシラ。ヒャハハ!びっくりしちまうだろ?」
「やっだぁ!それは言わない約束でしょ?」
コロコロと笑ったプリシラはクーパーに向き直ると、いい仕事だったんだけどボスが超サイテーな奴で大喧嘩して辞めちゃったのね、と哀しそうな顔を作ってみせたが、すぐに朗らかさを取り戻してカウンターからぐいっとばかりに身を乗り出した。
「そうだわロメオ、そんな古いことはいいからあの話の続き!ね、ミッヒーちゃんは知ってるかしら」
「……なにを」とけげんそうなハーネマン。
「きのうテレビでやってたの。中指より薬指の方が長い男はモテるんですって」
クーパーの手を引き寄せながらプリシラは言った。
「生物学的に言えばそのワケは、薬指の方が長いオスの方がそうでないのに比べて生殖能力が高いもんだから、メスが無意識的に長い薬指の持ち主を選んじゃうかららしいの」
「……はぁ…生殖能力ねえ」と興味なさそうなハーネマン。
「ね、見て見て!ロメオの薬指もすっごく長いのよ」
「ふーん、そいつはよかったな。おめでとう」
自分には関係ないねとそっぽを向いてウイスキーをあおった男に苦笑すると、クーパーに「安心しろ」と言わんばかりに小さなウインクを投げたプリシラは、「うふっ、ミッヒーちゃんはどうかしらね!」と言うが早いが電光石火のスピードでハーネマンの手も引き寄せた。 「お、おいっ!ちょ、ちょっと待て!」 「あらまあぁーっ!」
素っ頓狂な叫びに驚いたように、丸テーブルで額を付き合わせて何やら密談していた男たちが顔を上げる。
「見てよロメオ、すごいわよこのヒトも!」
手首をがっしり握られて、アールデコ朝のテーブルライトに力づくでかざされたハーネマンの右手は、中指よりも薬指の方が1センチ近く長い。
「あらま…ひょっとしてロメオより長い?」
「悪かったな、俺みたいなのが俗説をくつがえしちまって」
アイラインと付けまつげでこってり隈取られた目を見開いたプリシラに、嫌味たっぷりに答えたハーネマンは思い出したように付け加える。
「悪いがどうであろうと興味ないね、そういうのには」
一方、オレンジ色の光に照らされた血管が透けて見えるほど白い手は、日光の下で見るそれとは全く異質なものに思えて、クーパーは体の奥から強烈な欲情が吹き上がるのを感じていた。
紙のように薄い皮膚、色素欠乏症の蜘蛛の足を思わせる指。
あの夜、深紅のイームスの上で自分と強く絡み合わせた指。
「エロいな……」
無意識のうちに漏らした自分の呟きに、はっと我に返って隣を見ると、怒っているのかそれとも楽しんでいるのだろうか、それすら推し量りがたい色を浮かべた薄灰緑の目と目が合った。
「……ゼール・グート(実に面白い)」
短い沈黙の後、マスターかプリシラの猟の成果なのだろうか、カウンターの奥の壁で太い木の枝に似た角を幾重にも伸ばしている、巨大なエルクの剥製を眺めながらハーネマンは呟いた。
「そうか、『エロい』、か……」
そうゆっくりと繰り返した時、自分の隣りに座っている男は実は人間ではなくて、獲物を前にして喉を鳴らしている、なにかおそろしく獰猛な獣のように思えてきてクーパーの背筋は冷たくなった。
不穏な空気を察知して、ラフロイグのおかわりはいかが?と助け船を出してくれたプリシラも、テーブル席から4人組の客にイライラと手招きされているのに気付くと、あわてて注文を取りに行ってしまった。
カウンターに残されたクーパーとハーネマン、二人の間に静けさが重くのしかかる。
だが、重苦しい沈黙に耐えかねて頭の中で必死で話の接ぎ穂を探していたクーパーは、氷が溶けて薄くなったアードベックを一口をすすった男が次に発した言葉にうろたえた。
「ああ、なにが『エロい』のかは知らんが、言いたいことはなんとなく分かるぜ」
ガラス細工の瞳で自分たちを見下ろしているエルクを見つめたまま、ハーネマンは言った。
「ヤリたいんだろ?俺と」
「……いや、そんな…それは……」
「別にいいぜ」「……えっ?」
「他で探すのも面倒だし今日の俺は機嫌がいい」
どう答えればいいか分からなくて、口をぱくぱくさせるばかりのクーパーの顎に伸びてきた長い指が、黄金色の髭を軽く撫でるように愛撫した。
「たっぷり楽しませてくれるんだろうな」 かすかにビブラートのかかった低いしゃがれ声で歌うようにささやきかけられて、クーパーの首筋には鳥肌が立った。
唇を固く結んだままこくこくと何度もうなずくと、男はちょっと首をかしげてかすかに微笑みを浮かべてみせた。
それは北風のように冷たい微笑み、奥には野生の獣が潜んでいるかのようだ。
目の前の男との間にこれから起こるであろうことを想像するだけで、青年は情欲に焼き尽くされそうになる。
だが、もっと近くで触れようと手を伸ばしたとたん、ハーネマンは優雅に体をひねって立ち上がり、ポケットから何枚か紙幣を出してカウンターの上に置きながら、古い友人に目くばせした。
「勘定、ここ置いとくぜ」
「あら、もう行っちゃうの?」
「ああ」と軽くうなずくハーネマン。
するとプリシラはクーパーに視線を投げながら言った。「ディシプリンもほどほどに。ね、ミッヒ」
Discipline?と驚いて聞き直したクーパーを無視して、ハーネマンはするりと“白鹿亭”のドアをくぐり抜ける。
慌てて男の後を追った青年の背中を、年老いて雪をかぶったように白い被毛となった大きな鹿は、ただ沈黙したまま愁いに満ちた黒い瞳でじっと見つめていた。
<TO BE CONTINUED>
Discipline・・・訓練(training)、教練(drill)と同義語だが、SM界では「調教」の意味で使われることが多い。
|