ハッピーサマーウエディング
…コン、コン、コンコンコン……
倒しても倒しても山の向こうから続々と湧きだしてくるマトリョーシカ。
恐るべきロシア人形の軍勢と絶望的な戦闘を交えていたハーネマンは、激しいビートを刻むノックの音に恐ろしい夢から引き戻されて、毛布をガバッとはねのけると額の冷たい汗をぬぐった。
…コン、コン、コンコンコン、コンコンコン……
「サージャント!サージャント・ハーネマン!?」
ノックの音に続いて響いてきたのは、聞き慣れたアルトの声。そう、彼女だ。
ぼんやり焦点の合わない目でしばらくドアを眺めていたハーネマンは、眼底で乱舞するマトリョーシカ人形のカラフルな残像を振り払うかのように小さなくしゃみを一つすると、のろのろと立ちあがってドアを開ける。
「ハイ!ミッヒ、ご機嫌いかが?……あらま、まだ寝てたの?」
ドアの向こうで不機嫌そうに腕組みしていたブルネット美女は、寝起きのドラキュラよりも人相の悪い男を数秒間、あきれ顔でながめていたが、すぐに気を取り直してこう言った。
「睡眠の邪魔しちゃって悪いけど確認に来させてもらったの。で、準備はとっくにできてるんでしょうね?」
「……はあ?準備?……なんの?」
「馬鹿言わないでよ!決まってるじゃない、結婚式の準備よ」
何の話だと中空に視線をさまよわせたハーネマンだったが、ようやくターナーの言わんとするところを理解したらしい。馬鹿にするなとばかりに眉間にしわを寄せて鼻先で笑った。
「へっ、俺にはお構いなく!アンタに心配してもらわなくてもブラックスーツの一着くらい持ってるさ、お節介のミス・ターナー!」
だが、用事は済んだだろと言わんばかりに荒っぽく閉じられようとしたドアのすき間に、つま先に鉄板を仕込んだブーツを光の速さでねじ込んだ女軍曹。「なら見せてちょうだい、そのスーツってやつを」と微笑みながら、殺風景極まりない部屋の中へシャム猫のなめらかさでするりと滑り込む。
腰に手をあててターナーは言った。
「あのね、さっきロメオから連絡があったの。『飛行機が遅れてて時間ぎりぎりになるから、ミッヒのファッションチェックをくれぐれも・よろしく・たのむ』って。珍しくパニくってたわねえ、彼」
そして、俺はそんなに信用がないのかよ…とブツブツ言いながらパジャマ姿のまま突っ立っているスキンヘッド男を振り返ると、いかにもスタッフサージャントらしい威圧感を以てきっぱり命じたのだった。
「さあ、さっさとスーツに着替えてくるのよ、ミッヒ・ハーネマン!」
ほどなくしてターナーは、空港から国際電話までかけてきた英国青年の切羽詰まった声音を、胸の中でしみじみと咀嚼していた──「くれぐれも・よろしく・たのむ!」
まったくクーパーは賢明だ。 好む好まざるにかかわらず人目を引く種類の人間にこんな格好で列席されては、新郎新婦どころかNDF自体の株が下がりかねないところだった。
まったく……軍装にはやたらとうるさいくせして私服感覚がここまでズレていたとは!
狂ったように頭をかきむしりたくなったターナーの目の前で、銃器マニアのドイツ男は、悪魔に魅入られたアル中の喜劇役者を思わせるなんとも珍妙な姿で突っ立っていた。
ひょろ長い腕に対してそではつんつるてん。その一方でズボンのすそは長すぎる。
肩はといえば分厚いパットのお陰でフランケンシュタインのようにいかつく盛り上がり、だぶだぶのウエストの中ではスリムな体が泳いでいる。
サイズだけではない。マルキ・ド・サドが好みそうな布地は世紀末的な妖しい光沢をまとい、ダブルの胸元には田舎のおばさんが焼いた無骨なクッキーを思わせる巨大なボタンが光っている。
20年前ならひょっとするとイケていたのかもしれないが、今となっては時代遅れとしか言いようのないいでたちの男は、女軍曹の射るような視線にさらされてさすがに不安を覚えたのだろう。落ち着かなく足を踏みかえながら悲しげにつぶやいた。
「……やっぱ…ダメか?」
「…………」
「……なんせもらいもんだしなあ!」
「…………」
「着るんならサイズ直せと言われた気もする」
「…………」
「でもこれ、『ベルセルク』とかいってえらく高いらしい」
「……馬鹿。それを言うなら『ヴェルサーチ』でしょ?」
「……そうか…なるほど……」
「一体いつもらったのよ?」
「……あ?…ああ、15年ほど前かな」
古いものでも繰り返し大切に使うドイツ魂に感服しつつ、右腕のルミノックスに目を落としたターナーは、時計の針が9時を指しているのを確認するとぽってりセクシーな唇を開いて重々しく言った。
「大丈夫、まだ時間はあるわ。今からすぐに“ブルーマウンテン”でひとそろい買ってくるべきね。私がついて行ければいいんだけど、自分の準備もあるから……」
そして大股で部屋から歩み出ると、振り返って念を押すのも忘れなかった。
「くれぐれも一人で選ばずに、必ず店の人に見てもらうこと。いい?分かった?」
「いらっしゃいませ!」「いらっしゃいませえ!」
ここはアメリカ全土にチェーン網を張りめぐらせる、巨大紳士服ショップ・ブルーマウンテン。
広大な店内のあちこちから、寸分の隙もなく自社のPB商品を着こなした店員たちの爽やかな挨拶を投げかけられて、ハーネマンはベトコンの巣窟に迷い込んだ米兵のように2,3歩あとずさりした。
畜生!俺はこういうとこが苦手なんだ。さっさと用事を済ませて一刻も早くここから出たい!
そんな悲鳴まじりの電波をいち早く受信したのだろう、挙動不審のスキンヘッド男に颯爽と近づいてきたのは、少年のようなショートカットに濃紺のパンツスーツと純白のボタンダウンシャツがよく似合っている小柄な娘。
彼女は若さではち切れそうな丸顔に満面の笑みを浮かべながら、とび色の瞳でハーネマンを見つめると、ウォートランの新兵顔負けのはきはきした口調で言った。
「いらっしゃいませお客様!今日はどういったものをお探しでしょうか?」
その元気さに気押されて、またしても1歩あとずさりする男。
とはいえ特殊部隊の鬼教官たるもの、こんな場面で小娘なんぞに負けているわけにはいかない。気を取り直して背筋をしゃんと伸ばすと、ハーネマンは小さな咳払いをひとつした。
「コホン……その、スーツが欲しいんだが」
「ビジネス用でございますか?それともナイトライフ用?」「いや、結婚式用だ」
「まぁああ!!」
“結婚”という言葉に娘の顔がぱあっと輝いた。
「ご結婚でございますか!それはおめでとうござ……」「……いや!結婚するのは俺じゃなくて友人だけどな」とハーネマンはあわてて言い添える。
「なんでもいいから結婚式に参列しても恥ずかしくないようなやつを、スーツにワイシャツにタイ、それから靴までひとそろい出してくれ」
“なんでもいいからひとそろい”──カモがネギをしょってきた台詞に娘の丸顔はますます輝いたが、そんなことにハーネマンが気付くはずはなかった。
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……
寝起きの小鳥のさえずりのような愛らしい音を立てながら、タグのバーコードが次々と読み取られてゆく。
そばかすだらけのレジ係は液晶画面から目を上げると、矯正器具に固く守られた白い歯を見せた。
「お客様、タキシード上下3組とシャツ、カマーバンド、蝶ネクタイ、カフスリングとシューズの計8点で、税込み3128ドル45セントでございます」
うーむ、さすが価格破壊で名高い“洋服のブルーマウンテン”だけある、これだけ買ってこの値段?……と言いたいところだが、ミリタリー関連以外の知識は今ひとつおぼつかない男には、洋服の相場なんぞてんで分からない。
かなり予算をオーバーしちまったなと思いつつもアメックスのプラチナカードを取り出して、レジ係の隣でウキウキと商品を包装している娘のまん丸な顔をチラリと盗み見たものの、にっこり返ってきた笑顔には「お安いでしょう?」と書いてあったものだから口をつぐんだ。
まあ仕方ないかな、と売上伝票に癖の強いサインをしながら彼は思う。
暗視ゴーグルひとつで3700ドルはするんだから、スーツの値段もきっとこんなものなのだろう。
だがその一時間後……怒れる牝獅子と化したターナーを前にして、ハーネマンは自分の読みが甘かったことをほとほと思い知らされていた。
「3128ドル45セントぉ?」
悲鳴まじりの咆哮が部屋中に響き渡る。「ミッヒあなた、どうして一気に3着も買っちゃうのよお!?」
「……いや、2着買えばおまけに1着付いてくるって勧められてつい……」
「このオタンコナスのスカポンタン!」ターナーは吠えた。「よりによってタキシードばかり3着だなんて、一体これから何十回結婚式に参列するつもり?」
「いや、その……店員に相談しろってアンタが言うし……」
「カマーバンドも蝶ネクタイもカフスリングも不必要!あなたみたいなめんどくさがり屋の出不精は、着回しがきく普通のシングルスーツ一着で十分なのに!」
だが、窮鼠かえって猫を噛む。 「じゃあ……一体どうすりゃいいんだよっ!? 」追いつめられたハーネマンのこめかみがぴくぴくと引きつりはじめる。
「ナニか?裸で行けってか?それともバリバリのフル装備で参列した方がいいか?RPGしょってよぉ、ヒャハハハ!」……とキレる兆候を示しはじめた危険きわまりない男を前にして、ターナーは少し語調を和らげた。
「ま、まあ、途中で放りだした私も悪かったわ……さあ、早く商品を袋につめて!あなたに任せてたら日が暮れちゃうからこれから車ブッ飛ばして交換してくる!」
言われるがままにまだタグが付いたままの礼服一式を袋に詰め込むと、ハーネマンはゲートからロケット弾のように飛び出した青いスバルのレガシィを、ただなすすべもなく見送るのだった。
ざわざわ……ざわざわ……
徐々に人々が集まり始めた教会。ステンドグラスからおだやかな光が射し込む礼拝堂は、ジョージア訛り、アイルランド訛り、オージー訛り……とさまざまなアクセントの英語でざわめいている。
参列者の多くは同業なのだろう、無難な衣装に身を包んではいるものの、皆一様に触れなば撃つぞといわんばかりの隙のない空気をまとっているからすぐ分かる。
一方、揃いも揃って頭を短く刈り込んだ男たちとは対照的に、ドレッドヘアやカーリーヘア、大きなサングラスや派手なスーツに身を固めた一群も見えるが、彼や彼女らはきっと新郎新婦の古い“ダチ公”──音楽業界やレジャー産業に籍を置く業界人にちがいない。
そんな種々雑多な人々の中、ハーネマンは教会の椅子の一番後ろの隅っこで、膝に手を置き目を閉じて独り静かに座っていた。
ターナーにはえらい面倒かけちまった。
眠っているかに見えるハーネマンの頭の中では、午前中のごたごたの光景が次々と思い起こされている。
スーツを交換して帰ってきてからオデッサと大騒ぎで美容院にすっ飛んで行ったが、二人ともまだ来ていない……。髪やら服やらの準備は間に合ったんだろうか、まったく俺があんな下手こいて……。
「ひゃあーっ!ぎりぎりセーフーっ!」
その時ハーネマンの耳に届いたのは、賑やかしいクイーンズ・イングリッシュ。
目を開けて入り口あたりを見れば、そこには大勢の人々に囲まれて快活に笑い、次々に握手や抱擁を交わしている華やかな青年──ロメオ・クーパー。
チャコールグレーの粋なスーツに身を包んだクーパーは、薄暗い礼拝堂の隅っこにひっそりと座した青白い姿を認めるや否や、宙を飛ぶようにこちらへと向かってきた。
「ひゃっほうミッヒ!会いたかったぜえ!……こんな隅っこでなにたそがれてんの?」
ハーネマンの隣にすとんと腰を下ろしたクーパーは、自分の浮かれた挨拶に照れたようにぼりぼり頭を掻くと、返事の代わりにただ無言でうなずいた相手に矢継ぎ早やに話しかける。
「参ったよ、離陸直前だってのにケータイしまおうとしない馬鹿がいてさあ、そいつ、モメにモメたあげく引きずり降ろされたんだけど、お陰でスキポールのトランジットに遅れてあぶないとこだった。搭乗口が死ぬほど遠くてさあ……いやー、走った走った!……あ、ターナーに電話したんだけどそのスーツだね!彼女、ちゃんとチェックしといてくれたんだ。うん、なかなかいいじゃん、似合ってる。どこで買った?ブルーマウンテン?へええ、安い店にしちゃあ意外にちゃんとした仕立てじゃないの」
相変わらず騒々しい奴だ!ハーネマンはため息をつく。
一方、そんなあきれ顔にはお構いなしに一気にまくし立てたと思ったら、急に押し黙ってキャラメル色の髭をいじりながら、相手の胸元をじっと見つめたクーパー。これじゃちょっと寂しいかなとつぶやくや否や、若いセッター犬のように外へ飛び出した。
そして間もなく戻ってきた青年の手の中で揺れていたのは小さな花。濃紺のビロードのような花びらの中心に太陽の色の花弁を配した一輪のアイリス。
クーパーは仏頂面をした愛しい人の胸元にアイリスを差すと、なんともいえず人懐っこい笑顔を浮かべてみせた。
「ほら、一丁上がり!これで完璧!」
ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
その時、おごそかに空気を震わせた鐘の音に、人々は息を呑んで会話を止める──そう、結婚式のはじまりを告げる鐘だ。間もなく神父、それからブッチョと花嫁が手に手を取り合って登場することだろう。
「よかった!間に合ったあ!」
そこへ見違えるほどあでやかに装ったターナーとオデッサも、息をはずませながら駆けこんできた。
How the life goes on──広い世界に散りばめられたさまざまな人生、さまざまな記憶、さまざまな繋がり。
それらがたまたま一つに縒り合わされたこの場所で今、ささやかな幸せに満ちた人々の顔を、天窓から射し込む光は明るく照らし出していた。
<THE END>
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