葦船
マハードはパピルスのサンダルで足元の土を一歩、また一歩踏みしめた。 こうやってしっかり意識を保たないことには立ったまま眠ってしまいそうだ。 彼はここしばらくほとんど眠っていない、いや、眠ることが出来ない。床に入る時間があっても不安で一杯の彼の心は眠りに逃げることを許してはくれはしない。 いつもなら若く力に溢れた体も、さすがにここまで酷使しては強情なロバのように言うことを聞かないのだ。
最近になって堰を切ったように荒らされる王墓、その監視を強化するため、王墓警護統括者である彼はセヘト・アーアト(大平原)と呼ばれるナイル西岸の谷に入り浸りであった。
死者が埋葬されるナイル西岸。
太陽の沈む西の空の下には彼岸があるという。 そこには死者の家に供え物をする神官やミイラ職人、死者の家を造る職人達も住んではいたが、ほとんどすべての生者の活動は東岸に集約されており、普通の人々が西岸へ渡ることはさして多くなかった。
生を楽しんでいる人間には余り縁のない場所・ネクロポリス・テーベ。
ざらざらした茶褐色の山肌を剥き出しにしている谷ー「ファラオのテーベの西方にて何百万年続く偉大なかつ荘厳な墓地」と呼ばれる谷。 遮るものが何一つない、太陽に焼かれ砂埃の舞い散る荒涼とした地。 眺めていると心の潤いを奪い尽くされるかのようなその厳しさ。
だがマハードはこの場所が決して嫌いではなかった。むしろ神殿や王宮にいる時よりも心は安らいだかもしれない。 ここに立って小高い丘の果てに広がる紺碧の空を見上げていると、まるで生まれ故郷である渓谷の小さな村に帰ってきたような気持ちになっていつも胸が苦しくなる。 峻厳な面持ちをして人間を寄せ付けない赤茶けた大地、不要な物はすべて風と太陽に削り取られた孤高の姿ゆえに、彼はネクロポリス・テーベを愛した。
足元の赤茶色の土が次第に黒みを増して来ると同時に鼻腔をくすぐる水の匂い。 短く切ったマハードの黒髪をさわさわと撫でていくまだ頬に冷たい早朝の風。
「お早うさんでごぜぇます」 すでに川辺に小さなパピルスの渡し船を用意して待っていた船頭は、客の姿を認めるとぴょこんと立ちあがって挨拶した。
「ああ、お早う」 マハードは毎朝ここで律儀に彼を待っていてくれる船頭ににっこり笑って答える。
裸足に粗末な亜麻布の腰布一枚だけといったいでたちの男は、黒く縮れた髪を無造作に額に垂らし、 南方の出身らしい厚い唇に縁取られいつも少し微笑んでいるかのようなその口元は、彼のお喋り好きで陽気な性質を示している。
「近頃こっちに渡ってきなさることが多くなっとりますが、神官さまのお仕事はさぞかしお忙しいんでございましょうなあ」
彼は船の舫を解きながら気軽な調子でマハードに話しかけた。
この素朴な男の渡し船で西岸と東岸を行き来するようになってからかなりの月日がたった。 素朴さという点でお互い似たところのある二人は、今や短い船旅の間、害のない世間話や家族のこと、時には故郷のことー大概はマハードが聞き役に回るのであったがーなどを随分とくだけた調子で話すのだ。
「こっち岸のことちゅうたら」 船頭は葦船の真ん中に据え付けられた小さな木製の台に立ってそう続ける。 「なんでも偉い方々の永遠の家を荒らすとんでもねぇ輩が増えているちゅうことですな。まったく役立たずの警官どもは一体何をしとるんでしょう!」
男は庶民らしい素直な憤りを隠そうともせず腹立たしげに眉間に皺を寄せてみせた。
「あいつらも警備をほっぽり出してぐーすか眠っとるわけでもないんでしょうが、真面目に仕事しとるっちゅう割には泥棒どもに好き勝手させるたぁけしからんこって」 マハードはぐらぐらする葦船にバランスを取って乗り込みながら、背中でその言葉を聞いている。
『俺がその役立たずの警察というやつなんだよ』
そう口にこそ出さなかったが、マハードは自分の本職を知らない船頭の悪気のない言葉に思わず苦笑した。 彼の言葉は気分を害される調子のものではなかった、ただ、こんな所で働く人間の耳にまで盗掘の噂が届いているのか・・・そう感じられてますます早く何とかしなくては、と居ても立ってもいられない焦燥に捕らわれるのである。
船頭はマハードを乗せた小さな葦船を巧みに操ってアメン神殿のある川上へと漕ぎ出した。 どこか遠くから聞こえてくるなにかの鳥の甲高い鳴き声が、互いに呼び合いながらまだ明けぬ朝の空気を鋭く震わせる。
櫂を握る船頭は、鳥たちの声に誘われるように流行の歌を口ずさみはじめた。
あの娘は蓮の蕾 胸は果実 腕は蔓草 あの娘の顔は魔法の罠 じっと見つめて心をとろかす 餌を付けられ 罠にかけられ ガチョウみたいなこの男(※1)
高く低くその調子を変えながら、薄明かりに照らされて静かにさざ波を立てるナイルの川面をすべってゆく歌声。 マハードは時折そっと頬に息を吹きかけては通り過ぎてゆくまだ冷たい早朝の風を感じながら、 両岸に遠く広がる椰子の木立を眺めていた。
濃紺から薄墨色、そして今や金色を帯びた薄紫に変わった東の空の色は、間もなく太陽が今日も変わらぬその姿を現すことを示していた。 岸に住む人々はもうすでに起きだして日々の生業の用意を始めているのだろう。家々の釜からはパンを焼く香りが立ち上り、神殿では日当の神官が聖池に水を汲みに行ったり、道を掃き清めたりしているに違いない。
こうしてナイルの川面から死者と生者の都、その双方を見渡すといつも、マハードは自分を取り巻く日々の営みーその大概は彼の心を激しく責め立て悩ませるものであったがーそういった生活のすべてが風の前の塵芥のごとくはかない物に思えてくる。 またそれと同時に、そういった些末なーとさえ言える生きとし生ける者の営みがそのはかなさゆえに何となく愛しくなってくるのが常であった。
その時不意に船頭の歌声が途切れた。 何事かと振り返ると、男は目玉がこぼれ落ちるかと思うほど両眼を見開き、口をぽかんと開けたまま船の行く手を凝視している。
恐怖に満ちた視線の先には、腐臭を放ち浮き沈みしつつ近づいてくる信じられないほど大きな黒い固まり。
「『しるし』でさ」
船頭はやっとの思いで口を開いた。
「それもどう見たってていい『しるし』じゃねぇときてる」
川上からゆっくりと流れてくるものは・・・破壊と混沌の主人であるセト神を示す・・・巨大な河馬、であった。 腐乱し始めた体は生きていた頃の倍以上に膨らみ、鳥や魚についばまれてところどころ破けたぶ厚い皮膚の間からは汚らしい黄色い脂肪と赤黒い肉が顔をのぞかせている。
船頭は激しく動揺する心を落ち着かせるかのように唇を舌で湿らせながら続けた。
「それにしてもあんなでけぇ奴は見たことも聞いたこともねぇ!」
男の胸にはその後に続く「・・・よほど大きな災厄がやって来るに違いない」という言葉があったことをマハードは見て取ったが、高位の王室関係者の前でそれを言うのははばかられたらしい。
船頭は肩をすくめてそれきり口をつぐむと、河馬の死体の方に目をやらぬように注意しながら一心に船を漕ぐのであった。
マハードは船の脇を流れゆく巨体を見つめる。 どんよりと灰色に濁り今まさに腐れ落ちんとする河馬の眼球は、愁いに満ち、じっとマハードの瞳を見つめ返す。
「我が名はセト」
その時彼の耳にどこか遙か彼方から呼びかける声が聞こえた。
「我が名はセト」
低く暗く、だが逃れることの叶わぬ強大な力を孕むその声は、憂鬱な、不吉な色彩を帯びてマハードの胸に呼び掛けてくる。
「我は嵐と暴風の領主。混迷と恐怖とを以てこの世界を破壊せんとするものなり」
その時脳裏に沸き上るヴィジョンは、人間ではない、いや、この世に存在するどの生き物にも似ていないセト神の姿。
人間の根元的恐怖心を呼び覚ます不安の立像。
「無駄なのだ」
セト神は右手にウアス笏(※2)を持ち、威厳に満ち直立した姿勢のまま、いかなる感情も表さない瞳でマハードをじっと見下ろす。
「無駄なのだ、全てが。 人の手によって運命が変えられるなどとは思わぬがよい、小さき者よ。 道は時のはじまる前からすでに決まっているのだ。 小さく愚かしいものよ、今や生きるもののなす事すべてが無駄だと悟るがよい」
・・・「『しるし』でさ」
耳に蘇る船頭の恐怖に震える声。
強烈な悪寒と目眩に襲われ、マハードは思わず拳を強く握りしめた。 掌にはじっとりと冷たい汗をかいている。このまま倒れ伏してしまいたい。心臓は躍り上がり、息ができない。 彼は丘に上げられた魚のように空気を求めて口を開く。
二、三度空気を呑み込むとマハードはやっとの思いでかすれた言葉を押し出す。そしてそれは悲鳴に近い調子をもって空へと放たれた。
「そんな事は分かってる!だが!」
その瞬間マハードは自分の叫びで我に返った。
目の前にはいつもと変わらず蕩々と流れるナイル、そして心配そうに自分を覗き込む船頭の顔。
「・・・神官さまにはわっしらには見えないものが見えなさるに違いねぇ」
しばらく押し黙っていた男は、心に取り憑いた恐ろしい考えを追い払うかのように二、三度頭を振ってぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
「わっしは今日見たものを誰にも言わねえんで。ええ、かかぁにも黙っとりますがな。ですんで今日神殿に戻られましたらば、マハード様、どうぞわっしらみなの代わりにアメン神にご加護をお祈りしておくんなせぇ」 そこまで言うと男はすがるような眼差しでマハードを見た。
マハードと船頭はそれきり口を閉じたまま、ゆっくりと川面にたゆたうもの、赤黒い巨大な肉の固まりを凝視する。
彼らがじっと見守るなか、かつて生きていたが今や腐臭を放つ一個の物体と化したそれは、ゆらゆらと揺られながらやがてゆっくりと波間へと消えていった。
あ〜れ〜!(悲鳴)私の頭の中ではマハがどんどん「超克する人物」「苦悩の人」と化してます・・・ どこからこうなったかと申しますとやはり「わたくしめに裁きを!」の回の最後のコマ(うなだれて苦悩するシーン)とバクラとの決戦に向かう王家の谷でのシーン(谷に立って空を見上げる)からなんですけどね。 「恐るべき深読み」の結果、今やうちのマハ像は「思索的マッチョ」、そんな感じ。「来世の存在」にすら疑念を持ちかねない勢いで。
※1・"The literature of Ancient
Egypt"(Edited by Simpson・Yale University Press)よりハリス・パピルスに記された恋愛歌。実際にはこのように節を付けて歌ったものではないと思いますけれども。
※2・ウアス笏・・・「力と支配」を象徴し、標章として王や神々の手に握られた。頭の部分が動物型のセト神の形を取ることが多い。なお、エジプト人はテーベを「ワセト」「ウアセト」と呼びましたが、これはウアス笏に由来するそうです。
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