マンドラゴラ(その1)

シャダは知っていたのだ。
あの黄色い実の秘密を。
「毒だから絶対に食べてはいけません」
両親からそうきつく言い渡されていたけれども。

シャダはとっくに気付いていたのだ。
あの丸々と太った実には
なにかとてつもなく不思議な力が隠されていることに!

「おお!おお!まったく貴方っていう方は!」

矢車菊、ヒナゲシ、アイリス……季節の花が咲き乱れ、人造の大きな蓮池には赤や金の魚が悠々と泳ぐ庭園に、草木も驚いて花びらを閉じるほどのヒステリックな叫びが響き渡った。


「あたくしがお願いしたのはこんなありふれた布っきれじゃございません!ウガリトのスィナラヌしか扱っていない深紅の布、そう何度も申し上げましたでしょう?」
それに答えるのは、おろおろとうろたえきった中年男の声。
「すまん、すまんキヤ……私はまたベンテシナの扱いだと思いこんでいたものだから……」
「ああそうでございましたわね!あちらに三ヶ月もいらっしゃる間には、さぞお綺麗な異国の方々にちやほやされたことでしょうから!あたくしのようなこんなお婆さんのことなぞどうでもよくおなりになる男の方の気持ち、そりゃよーく分かりましてよ?」
「誤解だ、キヤ。異国の女性になぞ目もくれなかったよ、信じてくれ、私にはお前だけなのだ」

「そんな言い訳なさらないで!」
かん高い声はさらに容赦なくトーンを上げる。
「もしあたくしの事を心から愛して下さってるならば、お願いした品を取り違えたりするはずありませんもの!私はこの三ヶ月というもの、ずっと楽しみに待っておりましたのに……おおおお……」
「おお、お願いだわが妻よ!頼むからもう黙ってくれ。頭がガンガンしてきたよ。私は疲れているのだ。
スィナラヌの布地は今度あちらに行く商人に頼んでおくから、どうか機嫌を直しておくれ」
「またそうやって誤魔化そうとなさる!もうあたくしのことなんかどうでもいいとお思いなのでしょう?そうしてもっとお肌がぷりぷりして、メロンみたいな胸がはちきれそうな若い妾をもらおうとしてらっしゃるのね!ああ、情けなや……年を取るってなんて恐ろしいこと!」
「そんなじゃない、そんなじゃないよ……もういい加減にしてくれわが妻よ……」

小さなシャダは邸宅のパピルス柱の陰から、口喧嘩する両親をこっそりうかがっていた。
シリアから戻ったばかりの父親が、自分にもなにか素敵なお土産を持って帰ってくれたに違いない。そう思って喜びいさんで子供部屋から飛び出してきたのはいいものの、いつまでたっても終わりそうにない喧嘩にシャダはいいかげんうんざりしていた。

ちょっとした喧嘩はいつものこと。
だけどお母様もたかが布っきれの事くらいで、疲れているお父様にそこまで噛みつかなくっていいだろうに……なんてお気の毒なお父様!
「若年の髪房」を下げた小さな頭をふり立てながら、シャダはうなった。
このままじゃあいつまでたっても終わりそうにない。今日のところは諦めるしかないのかなぁ……

大きな溜息をついた少年は、忠実な犬や美しい異国の姫、恐ろしい怪物が登場するお気に入りの物語、「運命を定められた王子」を読んでもらおうと、パピルスの巻物を抱えてしぶしぶ姉の部屋へと向かったのである。

「だいたい貴方ときたらいつもいつも……」
そんなシャダの背後からは、いつ果てるともしれぬ金切り声が聞こえていた。

さて、その次の日の朝のこと。
いつものように召使いがふるいを通して浴びせかける水でシャワーをつかい、ナトロンを溶かした水で口をガラガラ音を立ててすすいだシャダは、手の込んだ編み込み模様の葦マットの上に並んだ皿の数を見て目を丸くした。(※1)
「朝からこんなご馳走だなんてすごいや!何かの記念日なの?」

平たいパン、山形のパン、渦巻きパン、動物型のパン、蜂蜜とナツメヤシたっぷりのケーキに山盛りの果物、コリアンダーとスモモのソースがかかった大きなスズキに、ほかほかと湯気を立てる鴨や鳩のロースト。
傍らにはなんと、ビンテージ物のウガリト産ワインまでが封を切られて酒杯に注がれるのを待ちかまえている。

「『なんの記念日』って……ホホホホ……お前はおかしな事を言う子だわねえ、シャダ!」
薔薇色の頬をした母は上機嫌で笑った。
「もちろんお父様が出張から無事お帰りになったお祝いに決まっているでしょう?」と母は隣に座する父親にしなだれかかる。
その顔からは、昨日までのつんけんした角が取れてしっとりと優しげなのは、子供の目にも一目瞭然。
そして、まんざらでもない様子の父はさも満足そうに妻を抱き寄せると、微笑みながら子供たちに言った。
「さあ、みんな、食事を始めよう。今日も我々にプタハ(※2)のご加護あらんことを!」

それを見たシャダはピンときた。
あれだ!あの実のせいだ。
少年は気付いていたのだ。口にすることを固く禁じられている果実のことに。
父の寝室に丸々と太った黄色い実が運び込まれた次の日は、決まって両親そろって上機嫌であること、そして食卓に並ぶ料理がご馳走づくしであることに。

このこと、お姉さまたちも気付いていらっしゃるのかしら……ふとそう思ったシャダはもりもりと食事する年の離れた大柄な姉たちをそっと盗み見る。
だが、サクメト女神(※3)のような四人の姉たちは、両親の変化になんぞてんで興味のない様子で、両手につかんだ鳩の丸焼きにむしゃぶりつくばかりであった。

あの実の正体はいったいなんなんだろう?
真っ赤に熟したスイカを手にしたままシャダは考える。
ひょっとすると人の気持ちを楽しくさせる力があるのかな?それとも食べたら人に親切にしたくってたまらなくなるとか。
……ならボクもあれをお父様にこっそり食べさせたらどうかしらん。
そしたら、イリネフェルの持ってるのと同じ、オモチャのヌビア傭兵セットを買ってもらえるかも!

「ほらほら、お行儀の悪いこと!そんなに汁を垂らして。ほらナナクト、シャダの口をふいてやってちょうだい」
口にスイカをほおばったまま空想にふけっていたシャダは、真っ白な腰布をぼたぼたと垂れた果実の汁で赤く染めて、また母親に叱られるのであった。

※1・・・当時ダイニングテーブルのようなものは存在せず、料理は床にそのままか、一人用の小さな卓の上に置かれた。もちろん箸もナイフもフォークもない。人々は手づかみで料理を口に運んだ。
※2・・・メンフィスの創造神。剃った頭に縁なし帽を
かぶったミイラの姿で表される。メンフィス神学ではプタハの思考と言葉によってこの世界が生じたとされた。
※3・・・雌獅子の頭に人間の体を持ったプタハの妻。嵐と疫病の女神であると同時に病気を治癒する魔法使いの女王でもある。

それからしばらくたったある日の昼下がり。
「ほらっ!持ってこーい!」
ミツバチがぶんぶん飛び回る花盛りの庭園、シャダは革のボールを力一杯遠くに投げた。
待ってましたとばかりにボール目がけて矢のように飛んでいくのは、小さなシャダよりふた回りも大きな二頭の黒犬。
頭上のアカシアの葉の陰では、タゲリたちが枝から枝へと飛び移っては、ミャーオミャーオと特徴のある声で啼いている。

「おいお前たち。ボールをどこにやっちゃったんだ?」
植え込みの向こうでふさふさと揺れるばかりで、ちっとも戻って来ようとしない二本の黒い尻尾に、シャダは大声で叫んだ。
木の陰になって分からないのかな。犬は鼻がいいはずなくせにだらしないヤツら!
そう呟きながら黒く波打つ毛皮に近寄っていく。

その時、ふとシャダの目に留まったのは、花壇の隅に隠れるように植えられたあの謎の植物。長い葉っぱの影につやつやと丸い大きな実がいくつも光っている。
興味津々でしゃがみ込んだ主人を見て、犬たちもあわてて駆け寄ってきた。

……これだこれだ!
シャダは辺りをきょろきょろ見回した。
もいじゃいけないって言われてたけど、こんなに沢山あるんだから少しくらいなら別にかまわないよね!
ごくりと唾を飲み込んで、黄色い果実にそっと手を伸ばす少年。
逞しい二匹の黒犬は、小さな主人の一挙一動を、ピンと立った三角の耳をぴくぴくさせながらじっと凝視している。

「静かにしてろよ、ネセル、セテウト!」(「炎」と「光線」の意)
犬たちに小声で命じると、息をころして丸々とした実を慎重にもぎ取り、じっと眺めてみた。
傍らでは犬たちが不安そうに鼻をひくつかせる。
手の中の果実は太陽みたいにてかてか光って、なんともいえず美味しそう。

ぜったい食べちゃいけないって言われてたけど……
ちょっとくらいなら、いいよね……だってお父様たちも食べてらっしゃるんだから、きっと大丈夫だよね?

だが、顎がはずれそうなほどあんぐり開けた口で、黄色い実にかぶりつこうとした時。
「ウー……ワンワンッ!ワンッ!」
尻尾に火がついたように犬たちが激しく吠え立てた。
「うるさいっ!黙れっ!」「ギャワーン!ワンッ!ウワンッ!ワンッ!!」「静かにしろったら!」
手をぶんぶん振り回して犬を叱りとばすシャダの手から、ぼとりと落ちる果実。近くで鼻歌まじりに花を摘んでいた母親も驚いて飛んできた。

興奮して吠えたてる犬たちと、びっくり顔のまま固まっている小さな息子。
そして足元に転っているのは、あの黄色い果実。
「シャダああぁっつ!!」
犬と息子と果実を見くらべていた母親の顔は、次の瞬間怒りで真っ赤になった。
「マンドラゴラをいじっちゃダメだってあれほど言ったでしょう!」

「ごめんなさい!ごめんなさぁい!」
「これは子供にはとても危ないものだと何度言えば分かるのです!」
「ごめんなさい!ごめんなさぁい!」
「今夜お父様にお話して叱っていただきます!こんな聞き分けのない子は、今度こそ棒で背中をバシバシ叩いてもらいますからねっ!」
「イヤだ、イヤだよぉ!ごめんなさい!お母さまごめんなさあい!」
美しく手入れされた庭園に響き渡る少年の情けない悲鳴。

結果的に小さな主人を窮地に追い込んでしまった二頭の黒犬は、顔を見合わせると悲しげに耳をふせ、ふさふさした尻尾をだらりと垂らしたたまま葡萄棚の向こうにこそこそと姿を隠したのだった。



(2)につづく