閨房



「マハード、参りました」

マハードはアカシア材の扉の外から呼びかけた。
彼は今日、この部屋の主であるカルナック神殿の先輩神官、シャダに呼ばれているのである。
だが、部屋の中からは何の返事もない。

「シャダ様?マハードですが。いらっしゃるのですか?」
声を高くしてもなお答えがないのに急に不安を感じるが、耳を澄ましてみても中から不審な物音が聞こえてくるわけでもない。留守なのだろうか。

しかし几帳面なシャダにあって、約束の時間を取り違えたり忘れたりという事があろうはずがない。
マハードは意を決すると息を整え一気に扉を押し開けた。

するとそこにあったのは拍子抜けするほどに寛いだシャダの姿であった。



綺麗に整理整頓されたシャダの部屋は、マハードのそれとさして差がないくらいの簡素さである。違いがあるとすれば机の上の花瓶に生けられた純白の百合、そして色とりどりの果物が盛り付けられた篭くらいであろうか。
調度品には執務用の机と椅子、パピルスで作られた整理箱が幾つかとベッド、そして来客用の折り畳み椅子。
そのように一見シンプルな調度品らであるが、もしそれらを少し目のある者が見るならば、いずれも慎重に吟味された品々であるとすぐさま気付くに違いない。
金や貴石こそ散りばめられてはいないが、所有者の地位の高さを示す得難い材質からなるそれらの家具には、いずれも工芸家が心血を注いだノミや刀の跡が残されており、目利きならば匠を賞賛すると同時に、その持ち主の趣味の良さに感嘆してしまうような、そのような品々であった。

そんな部屋の主は今、全裸でレバノン杉のベッドに横たわり可愛いヌビア娘のマッサージを受けている。
小さく柔らかい娘の手のひらで蜜とテレビン油、レモンからなる香油を塗られているシャダは、今やっとマハードの存在に気付いたようにゆっくりと上半身を起こした。

「し、失礼いたしましたっ!」
飛び上がるようにして踵を返したマハードの後ろ姿に、ナイルの川面を渡るような涼やかな声が投げかけられる。
「まぁ待てマハード」

短い腰布一枚という官能的ないでたちをした褐色の娘から思わず目を反らしたマハードを見て、片手でヌビア人に「行け」という風な仕草をするシャダ。
それを受けて娘は優雅な動作ですっと立ち上がると、すれ違いざまにマハードににっこりと微笑みかけて部屋を退出した。

思わず肩ごしに娘をちらと振り返ってしまったマハードは慌ててシャダへ向き直った。
「...申し訳ありません。どうにもお邪魔をしてしまったようで...」

だが、シャダは「君も今度どうだ?あの娘はなかなかにマッサージが上手だぞ」と悪びれる様子もない。「ここしばらく書記部の仕事も大忙しでな、肩が凝ってたまらなかったんだが、お陰ですっかり体が軽くなった」
「...いや、私は筋肉痛とは無縁で...」
そうかぶりを振ると、繊細なひだを取った真っ白な亜麻の腰布を、細い腰回りに巻き付けている先輩の背中にマハードは問いかけた
「今日は確か私に何かお話があったと伺っておりますが...」
「まぁそんなに焦らずそこに腰かけるがいい。君にはどうにも性急すぎるきらいがあるね。どうだい?イチジクでも。それとも菓子の方が好きか?」
「は、はぁ。それではイチジクを・・・」
寄せ木細工の椅子に腰掛けたマハードは、左手にシャダから手渡されたイチジクを握りしめ、右手で所在なげに腰布のひだを弄った。小さな折り畳み椅子に居心地悪そうに腰掛ける体格のいい男の姿は、どこか体ばかり大きな子供のように見える。

「なんとも素晴らしい調度品ですね!」
悠々とイチジクをかじるシャダの沈黙に耐えかねたように、マハードはあてずっぽうで言ってみた。実際のところ、彼には家具の良し悪しなぞてんで分かりはしなかったのだけれども。
だが、それに答えてシャダは「私はこのような贅沢品は神に仕える者に相応しくないからと断ったのだが、姉上達が頑として聞かなくてな」と澄まし顔。
「私の上は女ばかり4人も続いたものでな。女ばかりのきょうだいの末というのは、どうも過保護にされるらしい。小さな頃は姉上たちの人形変わりさ」
彼は雄牛の頭をかたどった取っ手のあるクレタの花瓶を指さして言った。「ほら、そこの百合も昨日母上が贈ってきたものだ」

「早くに両親を亡くしている私にとっては羨ましい限りですな」
嫌味ではなく心からそう言うマハードを見てシャダは微笑んだ。
「そうらしいな。君の家族は姉上と弟君が二人だとか。たしか上の弟君はメンフィスの生命の家で就学中らしいが、頑張っておられるのかな?なかなかに優秀な生徒と聞くが」
「はい、アクナディン様の御配慮で医学を学んでおります。姉と末の弟は故郷が好きだということでワディ・ハンママートに留まっておりますが」
弟の話題になって急に表情をゆるめ、さも嬉しそうに答えるマハードの言葉を、シャダはタオルで手を拭いながら黙って聞いていた。



「...ところでマハード」
「はい?」
「いきなり妙な質問をするが、気を悪くしないと約束してくれるかい?」
「は、はぁ・・・気を悪くなぞいたしませんが?」
「じゃあ正直に答えるんだよ。返答がどうだろうと別にどうのこうの言わないから」
「・・・・・・?」
「...マハード、お前は女を抱いたことがあるのかい?」

「えっ?ええっ?!」
唐突なシャダの問いに息が詰まったマハードは、思わずイチジクをぽとりと取り落とした。
「...え、えらく唐突な質問ですね、は、はははは...」
慌てふためいて口元を引きつらせつつ、乾いた笑いで誤魔化そうとする長身の男になおもシャダは畳みかけた。
「ならば男は?」
「・・・・・!!!」
耳まで真っ赤になってぶんぶんと激しくかぶりを振るマハードの様子を見て、シャダの唇からは溜息が漏れた。そんなに一生懸命否定しなくてもいいんだよマハード、とシャダは心の中で苦笑した。


「やはり予想通りだったなぁ!」
「...と申されますと?」
マハードは恐る恐る尋ねる。
「いや、失礼ながら君のことをここ数週間じっくりと観察させてもらったのだがね、君にはどうも堅すぎるきらいがあるようだ。全てにおいて筋はいいし霊力も高い。だがね、私は君のその堅さが、せっかくずば抜けて高い潜在能力の発現を邪魔しているような気がしてならないのだよ」

「...し、しかしそう申されましても私は...」
肩を落としてうなだれる男の傍らに音もなく歩み寄ったシャダは、広いその肩にそっと手を延ばしながら静かに問うた。
「どうだ、マハード...私が相手では嫌か?」

それと同時に繊細なプリーツの入った透き通るほど薄い腰布が、さらりと軽やかな音を立てて床に落ちた。




幼い頃より岩と砂だらけの渓谷を走り回って大きくなり、アクナディンにその才能を見出されてテーベへとやって来るまでは、読み書きすらできなかった山育ちのマハード。
一方、下エジプト宰相の長男として生まれ、乳母日傘で大切に育てられた上流階級のシャダ。


その差違ゆえか、身長はさして変わらないといえ華奢な体躯によってシャダはマハードより一廻り小さく見える。
だが男性のみに許された美しい均整と無毛の肌の醸し出す一種異様な色香、それを目の当たりにしたマハードはむせるように小さく咳き込んで思わず顔をそむけた。

「こちらを向けマハード」
慌てて退出しようとしたマハードの手首をシャダはやんわりと掴む。
けして強く握っているわけではないのにまるで蔓草に搦め取られたようで、ひんやりとした手の感触にマハードの鼓動は早鐘のように打ち始める。
その手を振り払おうか払うまいか一瞬逡巡した瞬間、シャダがさっと身を延ばしたかと思うや否や、柔らかい唇が己の唇に重なるのをマハードは感じた。

「シャ、シャダ様、一体何を...!?」とまで言いかけて思わず口をつぐんだ。
すぐ目前にはじっと自分の顔を覗き込むシャダの瞳。
早朝の聖池の静けさをたたえたアイリス色の瞳に見つめられると、身体の中心がたまらない程に熱を帯びてきて、マハードは思わず悲鳴に近い声を上げ、蛇のように絡み付いたシャダの腕から逃れようと絶望的に身をよじる。
「...シャダ様!...」

「今は『様』はいらない」
そう低く呟くとシャダはマハードの首に両手を回した。







遠く遠く砂漠をゆき険しい山々を幾つも超えたそのまたはるか彼方に煙る最果ての地ーアフガニスタン。
その荒れ果てた地からナイルの恩恵を享受するこの黒い大地まで、ロバの背に揺られてはるばる旅をしてきたラピスラズリ。
肥沃なこの国エジプトに住む恵まれた階級の人々は、濃紺に金を散らしたかのようなラピスラズリの可憐な姿に、夜空の星々を重ね合わせてこれを珍重した。

この得難い青い石の中でもとびきりの逸品に飾られたシャダの細長い指先は、定期的に邸宅を訪れる床屋によって綺麗に切り揃えられ、琥珀色のマニキュアが施されている。
一目で良家の子息だと人に知らしめる手入れの行き届いた華奢な手・・・
シャダは今その琥珀色に染められた指先で、マハードの細面にほどこされた魔封の化粧をなぞりつつ低い声でささやきかけている。
「ねえマハード、君はこの綺麗な顔の下で一体何を考えているんだい?」

だが、そう問われてもマハードはぎゅっと奥歯を噛みしめ両足を踏ん張って突っ立ったまま、沼地に生える植物の絵で美しく飾られた壁を睨み付けていた。無言で身を固くする姿は、アシュートを守る犬頭の神の石像そのものである。

やれやれだな・・・
シャダは思わず溜息をついた。
ナイルの鰐よりはるかに鋭く並んだ牙をむき出して抗う精霊獣や、血も凍る形相で遠い昔に死に絶えた言葉をわめき立てる悪霊を目の前にしてもまったく臆することのないこの男が・・・こういう場面ではてんで愚図なのだな!まぁいきなり手練手管を尽くされても驚いてしまうが・・・


マハードの胸板の感触を楽しんでいたシャダの指は、徐々に下に降りてくるとしばらく堅く引き締まった腰を包む亜麻布の上をゆるやかに這い回っていたが、やがて腰布の打ち合わせから岩の割れ目を見つけた蛇のようにするりとすべり込んだ。
マハードの体がビクリと体を硬直する。

何て反応ぶりだ!男も女も知らないと言うのは嘘ではないらしいね、とシャダは片眉を上げてひとりごちた。
ならばますます可愛がり甲斐もあるというものだ・・・





シャダは決して男女の経験が浅い方ではない。
いやむしろ男も女も両方引き受ける彼の逸話は、遊び人の間では半ば畏怖の念を以てささやき合われるのであった。

「穀物倉庫長の娘はもう乙女ではないらしい」
「えっ?あんなにお堅い娘が?何より親爺さんのガードが堅くて、誰も彼も揃って門前払いだと聞いたが」
「いや、実はそれがな。俺の聞いたところによれば・・・」
「えーっ?親爺まで?」
「あのお屋敷のシリア人の未亡人、ほれ、旦那が大きな船を残して死んじまった小太りの若後家さんだが、今カルナックのあいつに首ったけらしいぞ」
「そういえばカデシュの手柄で戦車隊長に取り立てられたあいつもだとか・・・」
「え?戦車隊長ってホルエムヘブだろ?宴席でやたらあのイレズミの後をくっ付いて回ってると思ったらやっぱりか!」
「テーベ小町だったインク屋のネフェルも神官さまに捕まっちゃったらしいわよお」
「貴族から市場の娘まで、か・・・」
「食わず嫌いってのはないのかねぇ」
「神に仕える身のくせによくやるよ!」
「額の刺青からして遊び人でござい、だよなぁ」
「ぜひとも秘伝を伝授いただきたいよ」
「ホントねぇ、アタシも是非一度お手合わせ願いたいものだわぁ」

このように、花咲ける王都テーベで巷の艶話が噂好きの人々の口の端に上るたびに、必ずといっていいほど持ち出されるのがシャダの名前なのである。
もちろん話に尾ひれが付いている面もなきにしもあらずではあるが、シャダは良きにつけ悪しきにつけそんな噂が自分の耳にまで届くといつも、それを肯定も否定もせずに神官らしからぬ刺青の入った形よい頭をかしげ、ただニヤリと笑って愉快そうに聞き流すのみ。

「全くもってお前という奴は!」
どんな噂もどこ吹く風、と飄々とした風情のシャダに業を煮やした生真面目なカリムが、旧友に代わって人の噂に腹を立てては「生命の家」の教師よろしく眉間にしわを寄せ、シャダを諭す姿が庭園の隅で見かけられることも少なくはない。

「同窓生として一言言わせてもらうが、人の上に立つ者としてもう少し世間の目というものを気にした方がお前のためだぞ?」
「もちろん気にはしているよ、カリム。だからこそ忍んでいくのは日が落ちてから、と決めてるんじゃないか」
「いや!そこが問題なんだ!」

そして最後には弁の立つシャダに言い負かされ、艶やかな黒髪を揺らしながら憤然と踵を返すのはいつもカリムの方であった。

とはいえ、シャダを巡る男女のごたごたは、噂好きの人々にとっては日々の営みの一部のような出来事。
いやむしろ、尊大にふんぞり返って料理の出来に難癖ばかりつける金持ち女や、親の権力をかさにきて威張り散らす貴族の子弟達が、この遊び人の神官に翻弄されて恋の病に身を焦がしたり、あたり構わず泣き崩れたりする様子を見て、思わず溜飲を下げ内心シャダに喝采を送る人間もけして少なくなかったはずである。

このようにその筋では上エジプトで一、二を争う勇名を誇るシャダであったが、実のところ近頃そういった人種に飽き飽きしてきた面がなきにしもあらずだったのだ。

手の込んだ流行の編み方をした重たいかつらをつけ、今度出入りの商人が持ってきたビブロスの毛織物が素敵だっただの、だれそれが新しく手に入れたクレタの水差しが羨ましいだのと、男にものをねだることと着飾ることしか考えていない女達。
太陽に焦がされるのを嫌い、下僕の差し掛ける日傘なしでは一歩も外に出たがらないプンプンと香油の匂いをまき散らす白い顔の男達・・・

そんな上流階級の男女にいささかうんざりしていたシャダの目には、初めて王宮に姿を現したマハードの垢抜けない、それでいてどことなく品格を感じさせる姿が、まるで庭園の慣れ親しんだ花々の間に一本だけ咲いた遠い異国の花のように写ったのである。

美食に慣れぶくぶくと太った大神殿の神官や、お化粧とパーティーと恋の駆け引きにしか興味がない貴族や大商人の子息・・・
幼い頃から見慣れたそういう人種の中にあって、引き締まった体と世捨て人の如き禁欲的な表情を宿し、あれやこれやと言い付けられる雑用を文句一つ口にせず黙々と片付ける木訥な新人神官は、シャダの目には新鮮に映った。

いつの頃からだったろうか、その浅黒い姿を常に目の隅で追うようになったのは。

優しげな瞳の奥にどこかしら人を寄せ付けない孤高を隠した男。

しばらくしてマハードの故郷が荒れ果てた渓谷地帯だと耳にした時は、あぁなるほど、あれの後ろにデシェレト(赤い大地=砂漠、外国)が見え隠れしたはずだ、と妙に納得したものだ。

シャダは自分がマハードを恋うているとは信じなかったが、その姿を見かけるたびに少年の頃の様な胸の高鳴りを感じた。
もちろん彼自身はそれを単なる物珍しさから発する昂揚だと思いこんでいたのだが。

やがてマハードが自分の下に配属されることになったと知った時のシャダの浮かれようときたら・・・
いつもは流れるが如く詠唱する聖句をとちってみたり、王の犬舎で生まれたばかりのサルーキの小犬にちょっかいを出して母犬に唸られたり・・・普段はクールな男であるだけにその浮かれぶりは同輩のカリムやアイシスが驚く程であった。

「まぁ、まぁ!!貴方ったら!」アイシスはあきれ顔で叫んだ。
「後輩に余りよからぬ執心をするものじゃなくってよ?いつか痛い目に遭いたくないのなら」

だがいくら友人に諭されようとも、シャダは溢れてくる喜びを隠すことができなかった。
必ずおとしてやるぞ!シャダは口にこそ出さなかったがそう心に誓う。
彼の前ではプラトニックな愛の形は存在しないも同然だった。シャダにとって寝床を共にすることすなわち最も純粋な愛の発露であったのだ。

そんなシャダの前には、今、これから起こる事への期待とそれを上回る恐怖に縮こまっているマハードがいる。
何て可愛い奴なんだ!
これからもっと可愛い顔を見せてもらうぞ。ふふふふっ・・・

心には今夜の楽しいあれやこれやが次々と浮かんでは消えてゆき、シャダは嬉しさの余り自然と漏れてくる忍び笑いを押さえるのに必死である。

部屋の天井近くに設けられた小さな窓からは、昼間の暑さとはうって変わった冷たく心地よい北風が入り込み、綺麗に剃り上げたシャダの形の良い頭をさらさらと撫でていった。
扉の外ではランプの油をつぎ足しに回る男や、晩餐に添える花々を庭園に摘みに急ぐ女の足音が近づいてきてはまた遠ざかってゆく。

そろそろラーの船も西の空に姿を隠す頃だ。
これから夜は長い、たっぷりと楽しもうじゃないか、お互いにな・・・とシャダは心の中で呟いた。
お前のまだ知らない世界を教えてやるぞ、マハード。





シャダはマハードの熱を帯びた太股を撫で回しつつ、日に焼けた首筋に唇を這わせ耳朶を軽く噛んだ。
「・・・あっ・・・」
思わず小さな喘ぎを漏らし、辛そうに未見に皺を寄せるおぼこ娘のようなマハードの反応を目の当たりにして、シャダは己の一物までが急激に固さを増すのを感じていた。
少しでも気を緩めると暴走してしまいそうな種馬の如きはやる心をどうどうと抑えつつ、シャダは相手の足の間の茂みにじわじわと手を延ばしてゆく。
どれ、ここはどういう具合かな・・・

だがその中心に手が触れた瞬間・・・
「うぐっ!」
シャダの息は止まりそうになった。

己の耳に響いたゴクリという音はあまりにも大きくてシャダはあわてた。
しまった!気づかれてはいやしまいか?
だが、躍り上がった心臓をなだめつつ何気ない風を装って横目でちらと相手の表情を盗み見すると、当のマハードには人の顔色を観察するゆとりなぞないようである。
頬を紅潮させあらぬ方へ視線をさまよわせているだけでシャダはほっと胸をなで下ろした。よかった・・・鈍感な奴で!

「・・・ふ・・・ふーん」
シャダは内心の動揺を悟られぬよう、まるで初めて見る症状の患者に接した医者のようにさも興味深げに片眉を上げてみせた。
「な、なかなか好いモノを持ってるじゃないか」

驚いたように一瞬顔を上げたが、羞恥に堅く唇を閉じたまま再びうつむいてしまうマハードの様子に、シャダはすっかり安心して余裕たっぷりに続けた。
「これを今まで使わなかったとは、それこそ宝の持ち腐れという奴だな!」

シャダはクスクス笑いながら、壊れやすいアラバスタの工芸品に触れるような手つきで相手のものをさわさわと撫で回していたが、やがてこれ以上勃ち上がれないほどに堅さを増したそれを、突然乱暴な手つきで絞り上げた。

「・・・・・ひっ!」
予期せぬ刺激に思わず声を裏返らせ腰を引いてしまったマハード。
彼はまだ残っている正気をやっと掻き集めたという風情でシャダの細い手首をつかむと悲しげにうめいた。
「おっ、お止めくださいっ!・・・わ、私は男なんですよ?!」

もつれる舌を御してやっとの思いでそう口にすると、頬を紅潮させたままシャダの体を寝台のほうへとぐいとばかりに押しのける。
「あ痛たたっ!!」
シャダは大げさによろめくと、寝台の上にどすんと尻餅をついた。

「痛っ・・・」
眉間に皺を寄せ手首をさすりながら痛がってみせるシャダの様子にマハードは慌てた。
「・・・あ!・・・申し訳ございませんっ!」
シャダはおろおろするマハードの様子に吹き出しそうになるのを懸命に押さえつつ、憤懣やるかたないといった表情を作ってみせた。
「まったく君は馬鹿力なんだからっ!ちょっとは加減してくれないと困るねぇ。わたしは君のようにしっかりできている訳じゃあないんだからね!」
有翼スカラベがトルコ石で象眼された豪華な腕輪の位置を直しているシャダの前でマハードは思わず体を小さくした。
「・・・は、はい・・・申し訳ございません・・・」
大きな体をこれ以上小さくできないほどに縮こまるマハードであったが、木訥な青年の困り果てた様子を目の当たりにしたシャダは、急になんだか自分がとんでもなく冷血な狒狒じじいに思えてくるのだった。

そこで急に声を低めて優しく問い直してみる。
「そんなに嫌なのか?」
「・・・・・・・・」
「嫌ならば無理強いはしないが・・・」
「・・・!!」
その言葉にはじかれたように頭を上げたマハードは、ぐっと息を飲み込んで唇を噛む。

シャダは相手の世慣れない様子に思わず目をすがめると、目の高さにある逞しい腰を優しく抱き寄せた。
「相手が男だろうと女だろうと情を交わすのに何の違いがある?神々は男同士、女同士が愛し合うのを禁じているわけではないぞ?」
そう語りかけながらそっと手を取ってやると、今度は子犬のような従順さで導かれるがままに寝台のへりに腰を落とすマハード。沼地に遊ぶ鳥たちを彫り込んだ寝台がぎしり、と音を立てる。

なおも目を逸らしたまま体を堅くしている青年のあごに手をやり、そっと顔を自分に向けさせるとシャダはその両の眼を覗き込んだ。
伏し目がちに濡れて輝くとび色の瞳と、それを縁取る濃いまつげに思わず高鳴ってくる鼓動を押さえ込みつつ、シャダは先ほど拒まれたマハードの高ぶりに今一度手を添えてみる。

今度は拒否されないことを確かめ、一本づつそっと指を添えてゆき、まるで花を摘むがごとき繊細さで全体を包み込むとゆっくりと手を上下に動かしはじめた。
堅く張り切った幹を握りしめられて息を荒くするマハードの耳元に息を吹きかけ、シャダは聞こえるか聞こえぬかというほどの低い声で呟いた。
「どうだい?口ではイヤと言っても体は正直だぞ?」

そう囁きかけられた瞬間、一気にマハードの体から力が抜ける。
すでに抗うことを諦めた田舎育ちの青年にできるのはただ、呆けたようにシャダの愛撫に身を任せることのみであった。







闇に打ち勝ったその日最初の金色の暁光がナイルに降り注ぎ、寝坊な鳥たちを揺り起こすそれよりもすこし前、マハードは息を潜めてシャダの傍らから立ち上がった。


音を立てないように用心しなら衣を身につけると淡いクリーム色の漆喰に覆われた部屋を抜けだし、扉をそっと後ろ手に閉める。肩越しにちらと振り返ると、寝台の上には掛け布を体に絡ませたまま安らかな寝息を立てるシャダの姿。 

その姿を見て思わず大きな溜息を一つ漏らすと、マハードは足音を忍ばせ朝日に照らされるのを待っている長い廊下を下って行った...




マハードはどうにも居心地の悪い気分を味わっている。

ここは宮廷の大広間、裁判長であるファラオが儀式長に先導され玉座へつくのを六人の神官は今か今かと待っているのだ。
しんと冷たく静まりかえり、厳粛な空気に包まれたこの大広間に直立不動の姿勢で立っていると、昨夜の出来事は夢だったように思えてくる。

あれから自室に戻り、いったい何度昨夜の出来事を最初から最後までたどってみようとしたことだろう。
思いもよらなかったシャダの言葉、そっと自分に触れ、秘められた部分に伸ばされた繊細な指の動き、香油を塗り込めた滑らかな肌の手触り...
行為の途中からあやふやになってしまった記憶の糸をたぐればたぐる程、ますます自分が夢魔にでもたぶらかされたような気がしてくる。

...ならば頭を冷やしてみよう。
マハードはパンパンと音を立ててと己の頬を叩いくと勢い良く立ち上がり、腰回りの亜麻布を一気に脱ぎ捨てて裏庭に設けられた蓮池に飛び込んでもみた。 
しかし水の冷たさにすっかり目が覚めると同時に、恥ずかしいような体のあの痛みまでが蘇り、幻でも夢魔のせいでもなかったという実感が沸き上がって来るだけだった。

今日は王宮裁判開廷の日である。
新米の自分は失敗がないように頭を切り替えてしっかりやらなくては!気を引き締めてゆかねば、下手をすると罪人の心に棲みついた魔物に喰い殺されてしまう。 
だが、裁判の間でシャダとどんな風に顔をあわせればいいのか、山出しの不器用な男には皆目見当が付かないのだった。



その時、隣に立った青い帽子の神官がイライラした風に小声で耳打ちした。
形良く整った薄い唇から腹立たしげに刺々しい言葉を吐き出しながら、彼は金のサンダルで花崗岩の床を蹴った。
「全くどう思われる?神官マハード。いくらファラオとはいえ仮にも我らは選ばれし者。そこいらの穀物倉庫の役人あたりと同様に扱われるのもいかがなものか」
「...は、はぁ...しかし総てはファラオの御心のままに進行するのがしきたりですから...」

心ここにあらずといったところに突然声をかけられ腑抜けのような返事をするマハードの様子を目にし、これは相手にならぬわ、という風に首を振った若い神官は再び鋭い視線を扉に戻した。

一方、ありったけの勇気を奮い起こしたマハードは、できうる限りさりげない風を装って、向いに立っている刺青男へそれとなく視線を泳がせてみる。
昨夜の情事の相手の内心の動揺なぞどこ吹く風、といった様子で澄ました顏で立っているシャダだったが、目が会った瞬間、彼はほんの幽かに口角を上げニヤリと笑ってみせるのだった。

一方、傍らから見るとそわそわとまことに落ち着きのない新米の様子を、そ知らぬふりをしながら一部始終観察し、笑いで肩が震えそうになるのを必死で我慢している者が約二名。
愛と豊饒の女神ハトホルを奉る神殿の巫女であったアイシス、そして神殿内のみらず王宮に於いてすら、誰よりも豊富な人生経験を誇る老アクナディンである。

「分かる!痛いほど分かるぞマハード、その気持ち!まったくもって男とは辛いものよのお!」
心の中でひとりごちたアクナディンは、自分の年寄りじみた台詞にますます可笑しくなってくるのだった。

その時。
「ファラオがお越しになりました」 
扉を大きく開き深く一礼する儀式係長の声に、広間の空気は一気に目覚める。

一同はその瞬間まっすぐに背筋を延ばした。
王宮裁判の開廷である。



<了>


遊戯王にはまりたての頃にアップしていたけれど、その後恥ずかしくて下げていたSSを再アップしてみました。
うーむ、今振り返るとかなり無理なカップリングなものの、当時の自分の脳内はこういう感じのシャダマハだったんですね!この時にカリムも初登場、今と変わらずシャダに苦言を呈しているのが懐かしい。戦車隊長ホルエムヘブもこの時からすでに出ていたとは・・全然記憶がなかったもんでなんだか旧友に会ったような嬉しさがございました・・・

それにしても、これを書いた時にはシャダマハのつもりだったんですが、読み直すとマハシャダみたいな気もしてきました。