小心者には向かない職業


ゆっくりとまぶたを開くとアメジスト色の瞳にシェンのヒエログリフが映った。
永遠を意味するその印は黄褐色の空に舞うハゲタカのかぎ爪に掴まれている。
ハゲタカの神・ネクベト。上エジプトの守護神、王権の象徴。
シャダは黒檀の寝台の上で跳ね起きた。

猫のような目を見張って周りを見回したシャダは、それがどこなのかは定かではないものの、とてつもなく贅を尽くした部屋に自分がいることに気付いた。
鮮やかなネクベト模様に彩られた天井、「守護」のヒエログリフに手を掛けて咆哮しているアラバスター製の獅子型香油入れ、ベッドの足板に透かし彫りされたロータスはまばゆいばかりの黄金張りである。

「やっとお目覚めでございますか」
その時、凝った織りの仕切り布の向こうから耳慣れた声が聞こえてきて、シャダはあわてて振り返った。
「アイシス!」
何がなんだかさっぱり分からないところへの美しき救世主の出現。自分でも驚くほどに嬉しげな叫びをあげてしまったシャダは、照れくさそうに小さな咳ばらいを一つすると問うた。
「アイシス、一体・・・ここはどこなんだ?わたしはどうして・・・こんなところに?」

だが、いつもの金の鳥のヘッドドレスの代わりに、ネクベト女神とウアジェト女神を並べまるで王妃のような冠を戴いたアイシスは、さも不審げに眉間にしわを寄せた。
「まぁ!夢からまだ覚めていらっしゃらないのですね。でもゆっくりしている時間はありません、一刻も早く準備をなさってくださいませ。大広間ではかなり前から裁判の準備が整っておりますゆえ」
そしてパンパンと手を叩いたアイシスは信じられないような言葉を口にした。
「カリム!カリム!王のマニキュア師よ!」
「はい王妃様!お呼びですか」
「ファラオがお目覚めですから一刻も早くお召し物の準備をなさい!」

・・・なんだって?・・・今なんて言った?
シャダは驚きのあまり気が遠くなった。
ファラオ?王妃?王のマニキュア師・・・
さっぱりワケが分からない!

混乱したシャダは、部屋に入ってきた筋骨隆々とした恋人にばたばたと駆け寄った。
「カリム、よかった!アイシスの気が狂って・・・」
だが、召使いのような素朴ないでたちの男は、シャダにしがみつかれても困惑したように目をしばたたかせるばかり。
「ファラオよ、私なぞにそのような・・・勿体のうございます。とても悪い夢をごらんになったようでございますね。今夜わたくしが悪夢除けの護符を準備いたしましょう。ともかく王妃様はかなり前からご準備がお済みですので、どうぞ今は朝の準備のお手伝いさせてくださいませ」

カリムは首周りにまきついた両腕をやんわりとはがすと、シャダをずるずると風呂に引きずって行った。
「カリム・・・悪い冗談はよそうよ、ね?」
「お湯をおかけいたします」
「お願いだよカリム、意地悪しないでくれよ」
シャダは哀願するように孔雀石色の瞳を覗きこんだ。だが、カリムの口からはよそよそしい言葉が返ってくるばかり。
「ちょっと失礼してここもお洗いいたします」
「ねぇ、僕がどうしてファラオなんだよ!・・・あっ・・・ああっ!」
敏感な部分をすべる厚い手のひらの感触は、愛しい恋人のそれであることは間違いない。
だが、何を尋ねても他人行儀な口調のカリムは黙々と職務を遂行した。
慣れた手つきでシャダの全身をくまなく洗い香油を塗り込めると、太い指で化粧道具を器用にあやつり、細い指先にはマニキュアを、アーモンド型の目には方鉛鉱のアイラインをほどこしてゆく。


しばらくののち、胸の前で牧杖と殻竿とを交差させ、頭には二重冠をかぶされたシャダは、豹の毛皮を敷いた王座から、一段下方に座したアイシスと共に大広間で平伏する廷臣たちを見おろしていた。



「それではこれより王宮裁判を開廷する!」
胸から大きな生命の鍵を下げたセトが高らかに宣言した。
「罪人をここへ!」

だが、縄をかけられよろめきつつ広間に引っ立てられてきた薄汚れた少年をみたとたん、シャダは牧杖と殻竿を放りだして立ちあがった。
蹴倒された黒檀の玉座がシン・・・と静まりかえった大広間に異様な反響音を立てる。一斉に壇上に集まる不審げな視線。


驚きに見開かれたシャダの瞳に映っているのはあの特徴ある・・・赤毛に一部金髪が混じって逆立った髪の毛であった。
後ろ手に縛られてうなだれていた少年は怒りに満ちた顔を上げた。
そこで炯々と輝いているのは紅玉随のように赤い瞳。

「・・・ファ、ファラオ?!なぜ・・・?!」
カラカラになったシャダの喉から悲鳴のような叫び声が上がった。

「・・・ゴホン・・・」
後方の陰に控えていたマハードが、凍り付いた空気に耐えかねたように大きな咳ばらいをひとつするとシャダに歩み寄り、パピルスの巻物を手渡しながらささやいた。
「ファラオよ、こちらが罪状でございます」
ヒエログリフで簡潔な文章が書かれたパピルスを開きながらシャダはどもった。
「・・・ざ、罪状・・・?」
「はい、罪状でございます」
一体こいつは何を考えているんだ?とでも言いたげな表情を一瞬浮かべたマハードだったが、すぐに元の生真面目な表情に戻って繰り返した。
「このようなゆゆしき事件については、最終的にファラオご自身によって裁きがくだされるのがきまりでございますから」
「ファラオ、早くお読み上げ下さい!皆しびれを切らしております!」
王妃アイシスの大きな瞳に睨みつけられて背筋が寒くなったシャダは、意味が分からないままにつっかえつっかえパピルスを読み上げはじめた。

「・・・テーベの大工アクナムを父、主婦ネフェルを母とするア、アテムは・・・氾濫季二の月第七日の夜中に先王シモン王をし、刺殺・・・した大罪により・・・アメン広場にて百叩きの上・・・こ、公開処刑に処せられるものである・・・なお、死体は永遠に復活で・・・きないように城門から・・・吊し・・・ハゲタカの餌に供され・・・る?
・・・って・・・これは一体どういうことなんだ!?」

「ファラオよ、どうもこうもございませぬ」
アスワンの空のように青い目をすがめたセトが、ふふんと鼻を鳴らした。「こやつが先王暗殺の下手人ということには間違いございませぬゆえ」
「バーカ!バーカ!」少年は憎々しげに叫んだ。
「殺すならさっさと殺せよおっ!死体はこま切りにしてハゲタカでもワニでもハイエナにでも食わせたらいいんだっ!でもシモン王は死んでよかったぜ!あんなヤツ、殺されて当然なんだ!」
少年は恐ろしいほどに大きな瞳を燃え立たせながら、玉座のシャダを挑戦的に睨みつけた。
「お前も油断してるうちに首から生命の鍵下げてるそいつとか、マニキュア師あたりに寝首かかれるぜ!あははははっ!」

「な、なんということを!」拳を怒りに震わせたセトが言った。
「ファラオ!神をも恐れぬ不届き者に一刻も早く死をお与え下さい!」
「早く犯人に永遠に続く死と呪いをご宣告下さい!」とあせり顔のマハード。
「お父上を西岸の住人となした下手人なのですよ!」とあきれたようにアイシス。
「少年だからといって同情の余地はありませぬ!」と怒ったようにアクナディン。
「ファラオ!早く!」
「ファラオ!どうなさったのです!」
「ファラオ!反逆者に永遠の死を!」

その時、狼狽する人々の声に押しつぶされそうになりながらもシャダは大声で叫んでいた。

「・・・うるさいいっ!黙れえっ!!」
日頃は声を荒立てることなどないシャダ。それは彼が生まれて初めて発したほどの大音声だった。

シャダは肩を震わせ壇上に仁王立ちして言った。
「これが悪夢か現実かなんてもうどうでもいいっ!ただひとつ確かなことは、上下エジプトを統べる王はこの私ではなく目の前にあらせられるアテム王だということだ!そして私はマアトに仕える者として何があろうともファラオをお守りする!そんなにハゲタカが餓えているというなら、わたしが代わりに餌になって城壁からぶら下がってやるよっ!」


大広間にしん・・・と水を打ったような静寂が広がる。
だが、その静寂を最初に破ったものは背後から聞こえてきたカリムの忍び笑いだった。
それにつられるようにして小汚い腰布一枚の少年もたまらず吹き出した。
後ろ手に縛られた少年がさっと立ちあがると、背後に控えていた兵士があわてていましめを解く。

彼は大きな赤い瞳をくりくりさせながら言った。
「すまない、シャダ・・・ぜんぶオレが仕組んだことなんだ」
「・・・ファラオ・・・?」
「けど、さすがのお前でもここまで見事にひっかかるとは思ってなかったぜ!」
「ばれる方に賭けたわたしの一人負けだな!1,2,3,4・・・8人分も昼食をおごらなきゃならないんなんて!」セトは唇を噛んで実に悔しそうである。
「オホホホホホ・・・ごちそうさま!」アイシスはシストルムを振るような涼やかな声で笑った。「貴方を『偽王』に仕立てたりなんかしたら最初の5分で気付いたことでしょうけどね。素直なシャダを選んで大成功だわ」

「これで今年の我が国の繁栄も約束されたというものですな」
口をぽかんと開けたままのシャダは、白いヒゲをしごきながら現れた老師を認めてどもった。
「シ、シモン様!・・・い、生きてらしたんですか?」
「バカもんっ!なんでワシが殺されにゃならんのじゃ!」シモンは笑いながら言った。
「ま、なんというか、一種の祭りじゃよ」
「・・・ま、祭り・・・?」

「そうだ。バビロニアの王宮で年に一度、王の生命力を取り戻すために行われているという『偽王祭』だよ」
マニキュア師の格好をしたままのカリムが澄まし顔で説明をした。
「誰か一人を王に仕立てて一日だけ王として崇めたてまつるんだ。その間本当の王は平民の格好をして皆にこき使われる。まぁ本家本元のバビロニアでは次の日に『偽王』は殺される運命らしいから、本来はおだやかな祭りじゃないんだがね」
「・・・こ、殺される?」シャダはぞっとした。

「カシュテリアシュ王から聞いたんだぜっ!」
得意げに小鼻をふくらませたアテムは少年らしく勢い込んで言った。「『偽王を殺す』ってところ以外は面白そうだからオレもやってみたくなったんだ。オレだけじゃなくってナイルの水を飲むすべての人々の生命力も戻ればいいなって」
「かついで悪かったですね、シャダ」マハードが申し訳なさそうに言った。「でもしっかり期待に応えてくれるのが貴方のいいところですよ!」
「まったくそうじゃな、お前が適任だというので皆の意見が一致してなあ!」と愉快そうなアクナディン。

「さあ、これから王宮主催の宴会を開くぞ!」
汚れた腰布一枚の裸足のファラオは壇上に上がると片手を上げ高らかに宣言した。「今日一日だけは堅苦しいことは抜きにしておおいに楽しんでくれ!」
大広間に控えた廷臣たちは歓声を上げた。
その歓声を合図として召使いたちがばらばらと大広間に入ってくると、次々に葦マットや小机や料理が盛られた大皿やあらゆる種類の飲み物やらを運んできた。
手に手に楽器をたずさえやってきたお抱え楽師たちも、真剣な顔で調律を始めている。

目まぐるしく変化した状況にぽかんとして棒くいのように突っ立ったままのシャダ。
だがすぐにはっと我に返った彼は、頭から紅白の二重冠をぬぐと壇上のアテム王に歩み寄った。

シャダは玉座に座したアテムの前に軽く膝を折ると、うやうやしく捧げ持ったそれを少年の頭に載せながら言った。
「・・・ファラオよ、まずはこれをお返しします」
「意外と重いもんだろ?なっ?」
アテム王は朗らかに笑った。
「そうですね」シャダは微笑み返すとゆっくりと答えた。「ええ。色々な意味でとても重いものですね」

頭には重い二重冠、背中にはこの世界の調和の守り手としての重責を負った少年王とその忠臣は、しばらく口を閉ざしたまま眼下の光景を見つめるのだった。

<了>


眠いっ!エイプリルフール用に1日夜になって書き始めた極短編ですが、自分が文章書くの遅いのを忘れてました。急げば急ぐほど筆が進まなくなり、最後なんかどうシメるべきか集中力が途切れたもんでものすごくいーかげんですみません。

なお、バビロニアの「偽王」という風習ですが、フィクション小説では確かに読んだことがあるものの実際にはどういう形で行われたのかについての資料を、手元のどの本で見たのかを忘れてしまいました。
・・・けど調べているとエイプリルフールに間に合わないのでとりあえず詳しい説明はスルーさせといてください。週明けにでも調べまふ。
それにしても当家では「王子」時代しか書いたことがないアテム王。ファラオの扱いはやっぱりむつかしいなぁ!