今宵、彼に安らぎを


ケメトの国の建築大臣、王の左の扇持ちにしてワセトの町の総督であるカリム様はその日もたいそう怒っていらっしゃいました。

例えるなればそれは乾いた空気を震わせて咆吼する獅子王の怒り。
まだものがよく分かっていないよちよち歩きの子獅子でさえも、恐ろしさのあまり地べたにはりついたまましゃっくりが止まらなくなるような・・・カリム様のお怒りはそれほどの激しさだったのです。

けれども信じられないことに、それに気付く方はどんな時もどんな場所でも一人たりともいらっしゃいませんでした。
ましてやカリム様の心を一番よく知るはずのお方・・・今、緑に燃える視線の先で澄ましたお顔で立っていらっしゃる大法官シャダ様ですら、これっぽちも気付かれていないとは!

そう申しますのには大きな理由がひとつ。
カリム様は心の水面に立った感情の波涛を人に悟られるのを快しとせず、怒りや悲しみは外から見えない心の奥底にこっそり押し込んでしまうような方だったからなのです。
「カリム様は世間の雑音に心乱されないたぐいまれなお方だ」
「さすが王のおそばに控える方だけある」
「なんとできた男だろう!」
人々は口々にカリム様をほめたたえ、カリム様もそれに応えるようにいつも変わらぬおだやかな微笑みを浮かべていらっしゃいました。

けれどもわたしには痛いほど分かっていたのです。
ぎゅっと握りしめられたこぶしは、しばしば怒りのあまり小刻みに震えていたこと。
シャダ様がじっと見つめる先のあるものにお気付きになった時、カリム様の瞳の奥ではふいごに吹かれたように、嫉妬の炎がごうごうと燃えさかっていたことに。
ああ!なんてお気の毒なカリム様!

もちろん、わたしはまだ子供だったカリム様とシャダ様が出会われた遠い昔のことは何も知りません。
それどころか、お二人が大人のお付き合いを始められた頃のことも、人づてに耳にしただけなのです。
それでも、カリム様がシャダ様をどれほど大切になさっているか、またシャダ様がカリム様をどんなに愛してらっしゃるかということは、カリム様を存じ上げてからまだ日の浅いわたしにも痛いほど伝わってくる真実でした。
男性同士が恋人として付き合うのには、さまざまな障害もつきもの。
けれどもお二人は、思いやりと深い愛情をもってそんな障害を一緒に乗り越えてこられたはずなのに。

すべてはお二人が知り合われてからの、15年という長の年月のなせるわざなのでしょうか・・・
とにかく、最近お二人の間でなにかが不協和音を奏で始めていて、それは今のカリム様のお怒りのような形で気付かぬうちにすこしづつ地表に顔を覗かせていたのです。

わたしに言わせれば、きっかけをお作りになるのはどちらかといえばいつもシャダ様でした。
今日のカリム様のお怒りも、もとはといえば閲兵式で壇上にお立ちになったホルエムヘブ将軍のほうをシャダ様がじっと見つめられて、それに応えるように将軍が微笑み返されたからでした。
シャダ様のそれは色っぽい流し目だと言われればそのような気もしないでもない・・・といった程度のものだったのですが、なんといってもホルエムヘブ将軍はかつてのカリム様の恋敵。
カリム様からすれば、視線を投げられるだけでも腹だたしく思われれても無理がないのかもしれません。

だというのに、カリム様は瞳を怒りに燃え立たせながらも拳を強く握りしめただけで、閲兵式の後もシャダ様をとがめだてされるわけでもなく、いつもと変わらない風を装ってらっしゃいました。
はたしてそれがいい方法だったのかはわたしには分かりかねるものの、嫉妬心を露わにするのは見苦しいとカリム様がお考えになっていらしたからには仕方のないことなのです。

またそれは、お二人を乗せた輿がまっ黒に日焼けした荷担ぎ人夫とすれ違う際に、ふり返ったシャダ様がたくましく盛り上がった人夫の背中を意味ありげに見つめられた時や、ナイルに浮かべた船ですれちがった葦船の漁師ににっこりと微笑みかけられた時も同じ。
カリム様は恋人の意味ありげな視線にやきもきしながらも、その真意を問いつめることもなく、いつもと変わらない優しく思慮深い態度で接していらっしゃったのです。
そして、そんな嫌ごと一つおっしゃらないカリム様にちらりと目をやっては、シャダ様は少しばかり寂しそうな表情を浮かべられるのもまた常なのでした。

そうこうするうちに、寝所で愛を交わすときも蓮池のほとりでくつろぐ時にも、二人の間で交わされる睦言はだんだんと少なくなり、そのうちお互いの邸宅を行き来する回数もめっきり減って・・・
やがて王宮で顔を合わせても、気まずい沈黙が流れるようになりました。

でも、わたしには分かっていました。カリム様が毎晩自室でため息ばかりついていらっしゃることを。
シャダ様と別れたがっているどころか、ご自分にとってはあのお方が太陽やパンやビールと同じくらい必要不可欠なものであることくらい、カリム様にはとおに分かってらっしゃいました。
そして、シャダ様のお宅に住み込んでいる友だちによれば、それはシャダ様についても同じだったのです。

とうとうカリム様のお役に立てる日がやってきた!
悲しそうなお二人を目にしたわたしは、今こそ行動を起こして二人をもう一度結びつけるときだ、と武者震いしました。
だってカリム様には大きな大きなご恩があるのですから。
わたしはそっとカリム様のお屋敷をあとにすると、駆け足でシャダ様のお屋敷に向かいました。



「こんばんは、こんばんは!」
がっしり大きなレバノン杉の扉の外から声を潜めて呼びかけると、裏口からシャダ様にお仕えしている友だちがのっそりと姿をあらわしました。
「おや、こんな時間にどうしたの?」
相変わらずのんびりした友だちの様子にちょっと腹が立ったわたしは言いました。
「シャダ様のご様子はどう?」
「もう眠っていらっしゃるけど・・・どうにもこうにもキキテキジョウキョウみたいだね」
シャダ様にいつも親しく話しかけられるお陰で、むつかしい言葉をたくさん知っている友だちは鼻を鳴らしました。
「シャダ様はずっと元気がなくて見てられない。ねぇ、どうなんだよ?最近カリム様、構ってくれないんじゃないの、シャダ様のこと?」
「そんなことないわよ!」わたしはつい大声になってしまいます。
「ミルクを欲しがるちっちゃな仔猫みたいに構いすぎなくらいだわよ・・・ただ・・・表現はちょっと下手かもしれないけど・・・」
「シャダ様、長すぎる付き合いゆえのケンタイキだと僕にはおっしゃるけれど・・・」
「おっしゃるけれど・・・?」
友だちは満天の星を見上げながら低い声で言いました。
「僕に言わせるとだな、ボスがボスらしくしてくれないからどうにもイライラしてるんじゃないかな」

そうか、そうだったのか!
その時、わたしの頭の中では二人のいらだちの理由がやっと一本の糸により合わされました。
犬の意見もたまには参考になるものです。
目の前がすっかり明るくなったわたしは大声で叫びました。
「さあ、行くわよ!」
「え?行くってどこに?」とびっくり顔で耳をぴくぴくさせる友だち。
「ホルエムヘブ将軍のお屋敷」
「え?どうしてそんなところに?」
「詳しい説明は道すがらするから、とにかくわたしを乗せて走ってちょうだい」
勢い込むわたしを見て、友だちは目を丸くします。
「うーん、僕がシャダ様のお役に立とうとするのは分かるけど、どうして君がそこまで人間の力になろうとするの?」
「・・・ご恩がえしよ」
わたしは短く答えると背の高い白犬の背中に飛び乗って、ひんやりと冷たい夜の街に駆けだしたのでした。



しばらくたった後、わたしはシャダ様のお部屋の外で息をひそめて友だちの帰りを待っていました。

あれから人間のお屋敷に忍び込んで、将軍がいつも振りまわしている鞭と銀の腕輪を盗み出すのはけっこう骨が折れましたが、小回りがきくわたしと足の速い犬が力を合わせると何とかなるものです。
まんまとそれらを持ち出したわたしは、それをすやすや眠っているシャダ様の寝台の横に置いて・・・

「ワン!ウーッ!ワンッワンッ!!」
「おい、待てよ!リイリイ・・・」
ほら、興奮した友だちの吠え声に続いてカリム様の重低音も聞こえてきました。首尾は上々のようです。
「あら、カリム様、どうなすったんですか?」これはシャダ様の召使いの声。
「ああ、イネト。シャダの犬がわたしを呼びに来て狂ったように吠えるものだから胸騒ぎがして来てみたのだが・・・・・・シャダは部屋かね?」

勝手知ったるお屋敷、カリム様は邸宅の一番奥にある主の部屋へと一直線に向かって来られます。
そして・・・

机の上に置かれたものを目にしたとたんに、その意味するものにお気づきになったのでしょう。
カリム様はがっしりとたくましい肩を震わせたかと思った次の瞬間、怒髪天をつく形相で叫ばれたのでした。

「シャダアアァアアアーーーーーーっ!!」

空気を震わせる激しい怒りに、わたしの小さな体などはじき飛ばされてしまいそうで、怖くなったわたしはいつの間にかうしろに立っていた友だちの足にしがみつきました。
「シャダああぁぁ!!もう我慢の限界だっ!」
カリム様はそう叫ぶなり、机の上の鞭を取り上げて大きく振りかぶると、それをシャダ様の上に音を立てて振りおろされました。
ひゅっ、と空気を裂く音がして、思わず首をすくめるわたしたち。

驚いたのはシャダ様です。
掛け布の上からとはいえ、寝込んでいるところをいきなり鞭打たれてはたまりません。
「な、なんだよカリム!」と山猫のような目を見開いて飛び起きられるシャダ様。「僕が何をしたっていうんだ!」
「何をしたとはよく言うなぁ!俺が気付いてないとでも思ってんのか?あちこちで色目使いやがってこの淫売め!」
ビシーーーーーーーーーンッッ!
「ああああーーっっ!やめてえぇっ!違うっ!色目なんか使ってない!ただお前が・・・」
「 何が違うんだ誰にでもデレデレしやがって!もうお前の言い訳なんぞ聞き飽きたんだよっ!」
バシーーーーーーーーーンっっ!!
「俺を好き勝手振り回しやがって!そもそもなんだこの鞭は!なんでこんなものがお前の寝所にあるんだっ!」

あっという間に部屋の隅に追いつめられて、ぶるぶる震えながら身を縮こまらせていらっしゃる腰布一枚のシャダ様。
シャダ様はカリム様と同じくケメトの国屈指の魔力高きお方。防御魔法を使おうと思えば使えたはずなのですが、なぜかシャダ様はそうしようとはなさらなかったのです。

「誤解だよカリム!」
シャダ様は黒髪を振り乱し仁王立ちするカリム様を、アイリス色の瞳で哀願するように見上げました。
「そんな鞭知らないし浮気なんかしてない!僕はただ・・・お前に叱ってほしくて・・・わざと・・・ああぁっっ!!」
パシーーーーーーーーーンッツ!!
「うるさいっ黙れええっ!」
ビシャーーーーーーーンッッツ!!
シャダ様の淡い褐色の肌には何本もの赤い筋がつけられて、白い漆喰の壁にはりつけになったシャダ様の喉からは鋭い悲鳴が何度も何度も上がりました。

人が人を鞭打つ姿などべつだん珍しくもないこと。上下関係をはっきりさせるには一番てっとり早い方法でしょう。
でも、ずっと見守ってきたお二人の間に響く鞭のうなりはなんとも痛々しくて、わたしたちは思わず顔を見合わせたのです。
「ねえ、これでホントに問題解決なのかな?失敗じゃないの?」と友だちは不安顔。
「順列をはっきりさせるために人間が鞭を使うのはたしかだけれど・・・」とわたしは口ごもりました。
「二人の場合は、ど、どうなのかしらね」

でも、だんだん自信がなくなってきたわたしでしたが、その時聞こえてきたシャダ様の声に驚いてもう一度部屋をのぞきました。
なぜなら・・・
さっきまで恐怖一色に塗りつぶされていた悲鳴に、甘い喘ぎが混じりはじめていたのですから!
一方、息をはずませ額から汗をしたたらせるカリム様も足の間のものを猛り立たせて、シャダ様に優位を示せたことにしごくご満悦の様子です。

やがて鞭を置いたカリム様が雄牛のようにシャダ様にのしかかって、いつもより激しい営みが始まったのを確かめたわたしたちは、ほっとしてうなずき合いました。
「よかった。これでシャダ様も明日から落ち着かれるだろうよ」と大きなのびをする友だち。「犬なら一瞬で片がつく問題だのに、人間はどうしてこうも時間をかけるんだろうなあ!」

まったく、ずいぶんと危ない賭けだったけれどもこれでもう大丈夫。
そんな安堵感で胸がいっぱいになったとたん、急に睡魔が襲ってきます。
わたしは部屋の衣装入れの中にもぐり込むと、ふかふかした尻尾で顔をおおってあっという間に深い眠りに落ちていったのでした。




「あれ?こんなところにマングースが入ってるよ?」

人間の声にびっくり飛び起きたわたしを覗きこんでいたのは、見慣れた緑の目と紫の目。
わたしはあわてて衣装入れから飛び出すと、部屋の隅まで走っていってじっと二人を見つめました。
「へえ、前のやつじゃないか。首のここが星形にはげてるから分かる」とカリム様。ああ、わたしのことを覚えていて下さったのですね。
「お前がマングースを飼ってたなんて知らなかった」
「いや、だいぶ前に俺の鳥の卵を全部食べたはいいが、籠の隙間に引っかかって動けなくなってたやつだが・・・」
そう・・・大事にしていた卵を食べてしまったマングースを、黙って見逃す人間の話なんて聞いたことありますか?
けれどもカリム様はわたしをいましめから解き放った上に、怪我をした首に薬を塗ってそのまま逃がしてくださったのです。

「だがシャダ・・・そのマングースがどうしてお前の衣装箱に入ってるんだ?」
「僕が入れたんじゃないよ」とシャダ様は甘えるようにしなだれかかります。
「まぁいいが・・・前見たときよりずいぶんと毛艶がよくなったな」
「可愛いなぁ、目がブドウみたい。あ、立ちあがった。おいでおいで」
シャダ様は優しく呼びかけるとみみず腫れだらけの腕を差し出されます。
昨夜漆喰の壁に背中を押し当てて、悲鳴を上げていた方とは別人のように柔らかな空気を漂わせたシャダ様。
わたしはふらふらと近づいて頭をなでてもらいたくなる気持ちを抑えるのが精一杯でした。

「あ、逃げちゃうよ?」
「川辺の葦原に帰るんだろ。ほっといてやれ」
シャダ様の肩をしっかりと抱き締めるカリム様の夏のナイルに似た瞳は、今は昔と同じおだやかさを取り戻していて、わたしは心底ほっとしたのです。

さよなら、お二方。
ぶったりぶたれたりして愛を確かめ合うだなんて、まったく人間なんてよく分からないもの。
けれども、最後にふり返ったとき口づけを交わされているお二人を見たときに、わたしは体中が満足感でいっぱいになるのを感じました。 ああ、大好きなカリム様のお役に立ててよかったと。

小さなマングースにしては冴えたやり方だったでしょう、ね?
わたしはそうつぶやくと、もう長いこと留守にしていたあの家・・・大きな川のほとりにある葦原に向かって走って帰ったのでした。

<おしまい>


(左)サッカラにあるメレルカの墓に住んでいる古王国時代のエジプトマングース(イクニューモン)。

(右)末期王朝時代のマングース像。この時代の作品らしくリアルなお尻の曲線。

第一王朝から崇拝されていた古い女神マフデトはマングースの姿で表現され、サソリや蛇の害に打ち勝つ神、魔除けの神としてしばしば呪術に関する品物に現れていたそうです。また、来世の審判の場面では処刑を行う役回りで登場することもあるとのこと。


マングースは見た!!

倦怠期の二人をめくるめくSMの扉へといざなってくれたのは、ちっちゃなマングース。
「ダレた関係に渇を入れようとSMプレイに走る幼なじみカップル」なんてそんなレディコミにありがちなテーマ、普通に書くと生臭いなぁというわけでちょっとオブラートに包んでみたところ・・・ますます情けない二人に。(笑)

とはいえ、シャダとカリムは「強いて分類すればば属性Mと属性S」というだけで、べつにこれがきっかけでSMライフにどっぷり、になるわけじゃありませんよ。(笑)
レザーで固めたSMマスター姿が似合うのは古代編随一だとは思うんですが、カリムはシャダにピンポイントで勃つ男。他の人間にはべつにサディストじゃないですし、もし他人に鞭を使う場合は武器として相手を殺す気でいくのでは。
一方シャダは、カリム以外でもいい男に虐められるとけっこう感じちゃうタイプかもなぁ・・・(ダメじゃん)でも痛いの嫌いなので、手加減を間違えると逆ギレされそうです。

それにしても一番気の毒なのは犬とマングースに腕輪とムチを持ち出されるホルエムヘブ・・・朝起きたら「ない?ない!!くっそー!どこに行きやがったんだぁ?!」と大騒ぎ。すまんこってす。