アウト・ザ・ブルー(前編)



それはいつからだったのかもう覚えてはいない。

でも、ずっと見つめていた。
砂漠から吹いてくる風にそよぐ髪、くっきりとした稜線を描く横顔を。
それは手を伸ばせばすぐそこにあると同時にまた、
一番遠くにあるものだということくらい分かってたはずなんだけれど。


書写室の高く取った窓からときおり吹き込んでくる風は、庭園で枝を広げる棕櫚やアカシアやらのざわめきを運んでくる。
ひんやりとした収穫季の風に首筋をなでられて、少年ははっとしたように頭を上げた。
ベヌウ鳥を思わせる長い首に支えられた完璧なフォルム。
緑に濁った原始の水面から、はじめてほの暗い世界を見渡した清廉なロータスの花に似た頭部。

優雅であると同時にいかにも神経質そうな指先に握られた葦のペンから、真新しいパピルスの上にまろび出るのはメドゥ・ネチェル。神の聖なる言葉。

讃むべきかな、御身、悪魔の背を無事に漕ぎ渡りここに到りたるものよ
願わくは平穏裡に帆を上げ船を進ましめたまえ

横に走った草の繊維の上をなめらかに滑ってゆく葦ペンは「日の下に現れ出るための書」呪文125章・オシリスの法廷での「罪の否定告白」にさしかかってふとその動きを止めた。
青銅のピンで古いパピルスに留められたアイリスの視線。

真理の主なる大神よ、我、汝に来れり、我、汝の美を見んがために導かれたり
我は汝の名を知り、真理の広間にて汝と共にある42神の名を知れり・・・

我、神の厭える悪をなさず
我、人をして餓渇せしめず
我、神殿内の供物を掠めず
我、殺人を行わず
我、姦淫をせず
我、男色をせず
我 神苑の魚鳥を掠めず

「おい、シャダ」
じっと手を止めたまま微動だにしないシャダは、蜂蜜色に変色した古文書を見つめていた緑の目が自分に向けられたのに気がつかない。
「おい、シャダ!どうかしたのか?」
もう一度呼びかけられてやっと我に返った。
「あ・・・う、うん・・・なんでもない」顔を上げて葦ペンを置いた。「ちょっと目がかすんだだけ」
取ってつけたような大きなのびをしてみせたが、相手と目が合うなりあわててパピルスに視線を戻して言い添える。
「早いところ済ませなきゃならないから大変だ」

自分と目を合わせようとはしない親友の様子に、物静かな鉱物の瞳には一瞬不思議そうな色が浮かんだが、それはすぐに消え去ってカリムは言った。
「ナクトの叔父さんの葬儀はいつだっけ」
「二週間後」
「ならもうちょっと余裕があるじゃないか。あんまり根を詰めすぎてもよくないぞ」
アカシア材のふるびた机に両手を置いて立ちあがるカリム。
「手伝ってやろうか?筆跡が違っても章が違えばさして問題ないだろうし」
彼はシャダの後ろに回ると膝の上に広げられたパピルスを覗き込んだ。「ああ、125章まで済んでるのか」

肩に届くか届かないかの長さでぱっつりと切りそろえた黒髪。
それは持ち主の心と同じくしっかり固くまっすぐで、息を止めて一気に引いた墨の線のよう。
「あと何章が残ってるんだ?まだかなりあるの?」

流れる毛先が頭に触れたとたんに信じられないほど激しく心臓が踊りだして、シャダは息ができなくなった。
「ああ、ごめん、カリム・・・」
苦しい。
頭がくらくらする。
「僕・・・ちょっと気分悪くて」
そう言ったきりうなだれてしまった。
「おい、どうした?大丈夫か?」
驚いたカリムは真っ青な顔をのぞき込んで心配そうに言った。
「今日はもう切り上げて家に帰れよ、送って行くから」

肩に伸びてきた手のひらは大きくて暖かくて・・・とても力強い。
小さな時から幾度もつないだ手。
ふざけたように頭を撫でられた手。
だのに今日はどうしても触れられたくない。

さわらないでくれ。
心の中で叫んだが声にならないそれはもちろん相手に届かない。
むき出しの肩にカリムの熱を感じて体が硬直したと思ったとたん、書写室の景色が暗転した。


シャダのぼんやりとした意識は、揺れる輿が刻む規則的リズムと背中に降り注ぐ収穫季の太陽の熱、そして背中に回されたカリムの腕の重みを捕らえている。
薄く目を開くとじっと前方を見つめる精悍な横顔が飛び込んできて、またゆっくりとまぶたを閉じた。

涙がこぼれそうだ。
どうして友達を見て涙なんか出てくるんだ。

意味が分からなくて無性に腹が立ったけれど涙は構わずあふれてくるから、シャダは仕方なく天を仰いだ。



カルナック大神殿に付随した「生命の家」の図書室。
「書物の家において長となる婦人」女神セシャトの所領では今、幾人かの書記が固く唇を結んだまま魅せられたように筆を走らせている。
葦ペンの先が紙を滑る微かな音以外は何も聞こえない。ほぼ完璧な静寂。

固い黒髪に横顔を隠して、浅黒い肌の少年は友達が広げたままにしていった「日の下に現れ出るための書」を見おろしている。
淡い褐色に変わり果てたパピルスの上を流れゆく力に満ちた赤と黒の文字。
それらをじっと見つめていると、心の奥から底知れぬ畏敬の念が沸き出してくる。

我、神の厭える悪をなさず
我、人をして餓渇せしめず
我、計量を紛らわさず
我、殺人を行わず
我、男色をせず
我、死者の食饌を奪わず・・・


ふと気付くと目は「罪の否定告白」の部分を繰り返しなぞっていた。
その途端になにか苦いものが胸にこみ上げてきて、 思わず眉間に皺を寄せたカリムは手荒にパピルスを取り上げると、くるくると巻き上げて書棚に戻したのだった。





東の空は薄紫から淡い金色に、ナイルのさざなみは濃紺から鈍い銅へと色を移した。
ぴんと張りつめた夜明けの空気を切り裂くのは、時折聞こえてくる鋭い鳥の声。

だが、分厚い花崗岩によって外界から隔絶された大神殿の最奥には、朝も夜もやって来ない。窓一つないここには、暁光も鳥の声も柳の葉擦れの音も届くことはない。
ただ、息を殺し耳を澄ましてみるならば、外界のそれとは異質な時間がしたたり落ちる微かな音が聞こえるかもしれないけれども。

一歩前に進み出たシャダは小さな咳払いを一つすると、薄い唇をゆっくりと開いた。

ヌンより来たれる九柱神は汝を見て集まる
汝、栄光いと高き者、主のなかの主、みずかりをつくりなせしもの
二女神の主、かれは主なり


真っ白い小さな歯の間からこぼれ出るのは、供物台の上のパンやワインや香油と共に神の滋養となる言葉。

神官として神殿奥部への出入りが許されたばかりの少年が経文を朗唱するなど前例のないこと。
だが群を抜く彼の美声は神々を楽しませると確信した大神官アクナディンは、まだ子供のようなシャダを特別にケリ・ヘベト(朗唱神官)に任じたのであった。

眠りたるものどものためにかれは輝く
新しき姿にて、その顔を照らさんがために


けして大きな声ではない。
けれども闇を伝い一面に聖なる文字が彫り込まれた壁に染みいるシャダの声は、時に高く、時に低く、流れるような調子で神への讃歌を詠い上げた。
それは堅苦しい経文というよりもむしろ美しい歌のようで、背後に立った当直の神官達は身じろぎひとつせずじっとその声に聴き入っていた。

カリムもまたしかり。
両手で香炉を捧げ持った彼は灯明にぼんやりと浮かび上がる横顔を凝視していた。

神の家でこの声を耳にするといつも胸が震える。
カリムはロータスの蕾のようなシャダの頭部、妙なる音を奏でる白い喉の動きを貪るように見つめていた。
目を逸らそうとしてもどうしても視線が離れてくれない。
その時急に両腕に甦ったのは、あの日書写室で自分に預けられた滑らかな肌の感触。

・・・これは一体どういうことなんだ?
カリムはひどく混乱して香炉を取り落としそうになった。
なぜなら、親友の体の重みを思い出した途端に、股間の物が痛いほどに勃ち上がっていたから。





アカシアの木立に守られた質素な官舎の一室、闇に沈む寝台の上でシャダは目を閉じた。
寝付けない彼は深く呼吸をして、かつて受けた退屈きわまりない書記試験の問題を記憶の奥から引っ張り出そうとする。

ピラミッドを作るために必要な石の個数、いにしえの賢者が残した言葉神への賛歌。
人夫の一隊に割り当てられるべき食料の量、土地測量の報告書。
パピルスを滑る葦ペンの音、試験官の咳払い、窓の外から聞こえてきたタゲリの鳴き声、風の音。

そして試験場の外で待っていてくれたカリムが自分を呼ぶ声。
シャダ、遅かったね。上手くいった?シャダ。

その途端に腰を中心に燃えるような熱が全身に広がって、知らず知らず指先が裸の胸に伸びていた。
小さな木の実のような乳首を爪でなぞると腰はもっと火照ってくる。
たまらず股間のものに手を添えて強く握りしめると、ひんやりと冷たい感触に全身が総毛立ってシャダは淡褐色の体を震わせた。
「・・・ああ・・・カリム・・・」
その名を口にした瞬間、頭の隅をよぎるのはひどい罪悪感。

だが、もう罪悪感だけでは抑えきれなかった。
肩に回された熱くて大きな手の重み、寄りかかった時にふっと鼻腔をくすぐったほのかな体臭。
黙って笑いながら自分を覗き込む、不思議な色を帯びたナイルの瞳。
あの瞳でじっと見つめられながら浅黒い指先で全身をまさぐられたら・・・
そう想像すると体がもっと熱くなってくる。

・・・カリム・・・カリム・・・
左手は指での歓びを知る後門を、右の指先では露をしたたらせる幹を愛撫しながらシャダはなにかに憑かれたように愛しい名を唱え続けて、やがて平たい腹の上に白く粘る飛沫をまき散らした。


荒い呼吸が収まってくるにつれて、頭も徐々に醒めてくる。
焦点の合わない目でぼんやりと天井の花模様を眺めていたシャダは、汚れた腹に手を伸ばして呟いた。

最低だ。
自己嫌悪で胸がむかむかした。





「あの・・・イアフメス先生。妙な質問をすることをお許し頂けるでしょうか」

何百体もの雄羊姿のアメン神像が並ぶ参道の石畳を踏みしめながら、シャダは隣を歩く老人に問いかけた。
「妙な質問とは?どんなことかね、シャダ」
一瞬の間があって、少年は思い切ったように口を開いた。「あ、あの・・・あ、『愛』についてなのです」
「『愛』についてだと?」 老いた書記は歩みを止める。
「は、はい。愛するとはどういうことなのか先生のご意見を伺いたいのです」
「それはまたえらく漠然とした質問だのお」
再び歩き出した老人は言った。
「お前の求めているのが神学的見地における意見なのか文学的な答えなのか、それとももっと俗っぽい意見なのかが分からんことには答えようがないな」

シャダはすこし口ごもった。
「強いて言えばさ、三番目かと思いますが・・・友情もあ・・・愛の一種なのでしょうか?」
「もちろんそうじゃ」老書記はうなずいた。「男と男、女と女、同性の友が交わす愛が友情と呼ばれるからの」
「では友情以外の同性間の愛はあるのでしょうか?」と勢い込む生徒。
「もちろんある。子が父に捧げる愛、ファラオが臣民に注がれる愛、兄弟の愛、師弟の愛・・・」

「・・・では相手に触れたいと思う種類のものは?」
片眉を上げた老人は雄羊の足元で庇護された小さなファラオ像を見つめながら答えた。
「それこそが男女の愛だ。愛欲というやつだよ、シャダ。同性に感じるたぐいの愛ではないわな。
・・・まぁ中にはそういう手合いもおろうが、そんな輩はオシリスの法廷で厳しく裁かれるのだよ・・・男女の愛とは時に身を破滅させ、いにしえの賢者も説いておる通り・・・」
それ以上の質問がためらわれたシャダは、老書記の言葉に耳を傾けながら黙って参道を歩き続けた。


「愛?ははっ、今頃なに言ってんだよ」とスミルナ(現代のキプロス)からの留学生は答えた。「美しい娘に寄り添い人生を楽しむことさ」
「そうだなぁ、結婚して奥さんとたくさんの子供達に囲まれて暮らすことかな」と穀物倉庫長の息子メンナは言った。
「まぁ、坊っちゃま。ずいぶんとむつかしい質問をなさること!それは家族と神様を大切にすることですよ」とは老いた召使いのイネト。
「愛ですって?そうね、惜しみなく与える心かしら」とアイシス。
「愛ですか・・・答えは千差万別だと思いますが、私にとってはこのエジプトとファラオに捧げる誠心のことですね」ときっぱり答えたのはマハードであった。

誰に聞いても満足のいく答えは得られなくて、シャダはもう人に尋ねるのはやめにした。





眠れぬ夜もこれでもう七夜目。
これ以上の悪あがきはよそう、そう思ったシャダは寝台からのろのろと起き上がった。
高窓からぼんやり差し込む月光に照らされた水時計をのぞき込むと、まだ思ったほど夜は深くない。
無性に人恋しくなったシャダは手探りで衣装入れのふたを開けると、中から柔らかな蜂蜜色をしたチュニックを取り出した。

明日は学校も神殿でのお勤めも休みだから、今からちょっと下町まで足を伸ばしてみようか。
頭からチュニックをすっぽりとをかぶり長い袖に手を通して、首回りをアカシアの花の黄色に染めた布でふわりとおおうと、シャダはしんと寝静まった屋敷町に歩み出した。


花咲ける王都テーベの歓楽街は夜を知らない。
時折吹き抜ける風が河の匂いを運んでくる港にほど近いこの場所、あちらこちらの扉の向こうからは時折楽しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。
そんな店の一つの前で足を停めたシャダはしばらくじっと何かに耳を澄ましていたが、意を決したようにパピルスを模した青銅の取っ手に手を掛けた。
古びた扉の上げる耳障りな悲鳴を聞き流しながら一歩屋内に足を踏み入れたとたんに、店のあちこちで明々と灯された光が目に飛び込んできて、少年は眩しそうにぱちぱちと数回目をしばたたかせた。

「あら、お久しぶり」
客の姿を認めた給仕娘が人なつこい笑顔を浮かべて出迎える。
「珍しいわね、こんな時間にお一人だなんて」
「こんばんは。メリト」
シャダは首回りにゆるく巻きつけたスカーフをほどきながら軽く会釈した。
「どうしても眠れなくてね、ちょっと気分転換に来てみたんだ」
「今日はいつも一緒にいらっしゃる・・・ほら、あの目元に魔除けのお化粧なさった方や、おかっぱ頭の大きな方はご一緒じゃないの?」
「あ、ああ・・・彼らはいまごろ夢の中だと思うよ」
店の隅に広げられた凝った柄入りの葦マットに腰をおろしながら答えるシャダ。
そういえば最後にこの店に来たのは、まだ畑の麦が青々と茂っている頃だったな、と思い出す。

シャダはまだ完全には大人ではないとはいえもう小さな子供でもなかったから、こういう場に出入りしても誰にとがめだてされるわけではない。
成人と同じ行動をすることを許されたばかりの少年にとって、夜の街に足を踏み入れることすなわち自分が大人になったことを証明されたようで、どこかわくわくした気持ちを味わえるもの。
マハードやカリムもまたしかり。
誰から言い出すでもなく彼らは時折誘い合っては、この店で濁ったビールや店主推薦の得体の知れない強い酒を舐めてみたりして大人の気分を味わっていた。
ただ、坊ちゃん育ちのシャダは、時に酔っぱらい同士の喧嘩が起きたりするこういう場所がどうにも怖くて、一人でこの店の扉を叩こうとは夢にも思ってみなかったのではあるが。

「何をお飲みになる?」
給仕娘に問われて一瞬考えたシャダは思い切って答えた。
「それじゃあ『鰐の尾』を」
店で一番強い酒の名を聞いた娘の顔には意外そうな表情が浮かんだが、酩酊を求めてやって来る客の腰を折ることはこの商売ではタブーである。
間もなく淡い緑に濁った液体がなみなみと満たされた酒杯を捧げ持った給仕娘は、シャダのかたわらの小机の上にコトリ、と音を立ててそれを置いた。
「さあ、ご注文の『鰐の尾』ですわよ。けっこう強いからお水と一緒に飲んでちょうだいね。それじゃ、ごゆっくり」
彼女は感じのいい微笑みを浮かべると、他の客の注文を取ろうとシャダに背を向けた。


手の中で緑にたゆたう水面をじっと見つめていた少年は、ごくりと唾を飲み込むとおそるおそる青いファイアンスの酒杯の縁に唇をつけて一口・・・飲み下した。
その途端に強い酒に喉が焼かれて激しく咳込んでしまう。
隣で飲んでいた無精髭の男が小馬鹿にしたような顔でちらりと振り返ったものだから、すっかり恥ずかしくなったシャダは懸命に咳をおさえると二口目を飲み下した。
今度は心構えが出来ていたからもう咳は出なかったけれども、今度は全身が火照って心臓が激しく鼓動を始める。

やめとけよ、これ以上飲んだら無事じゃいられないぞ。
頭のどこかで誰かが叫ぶ声が聞こえた。
けれども、いっちまえよ、嫌なこと忘れたいんだろ・・・と囁きかけるもう一つの声の方が強く胸に響いてきて、シャダは一気に酒杯を干した。


<後編につづく>