気分をだしてもう一度(前編)


ごりごりごりごりごり・・・
娘は思わず耳をそばだてた。

風にざわつくアカシアの葉音、可愛らしい小鳥の鳴き声。
遠くからは交代の番兵が同僚と交わす挨拶や、悪さをして痛い目にでもあっているのだろうか、きゃんきゃんという犬の情けない悲鳴が聞こえてくる。

そんなありふれた物音に混じって、先ほどから主人の寝室あたりから聞こえてくる違和感一杯の音に、彼女の好奇心はこの上なく強く揺り動かされる。

今度はいったいぜんたい何をお始めになったのかしら?



ここは砂漠と海とナイルの急湍(※1)とに守られたオリエント最強国・栄光満ち溢るる大エジプト王国。


そのエジプトにあって、世界の調和を守り神々と人間との橋渡しをするべく地上に降臨なされた現人神ファラオ。
現人神の宮殿は、世界の始まりで身をうねらせていた原始の波涛を模した擁壁に四方八方を囲まれた広大な敷地の中心で、日干し煉瓦製とはいえ他からは群を抜いて壮麗な姿を見せている。
さらにその壮麗なる宮殿から歩いて五分、アカシアの木立に隠れるように建っている慎ましい・・・とはけして言えない邸宅の奥のまた奥の間では、数時間前から一人の爺が一心不乱にすりこぎを手になにやら額に汗して必死の作業を続けている。
爺の手元のすり鉢のなかには得体の知れない半固形の赤い物体。



「セシェンや、ちょっと聞きたいことがあるんじゃが」(※2)
彼女が主人に呼び止められたのはすこし前のこと。
何か不手際があったのかしら・・・とどぎまぎしながら跪いた彼女に、主人は思いがけない事を問うた。

「唐突なようだが・・・お前の口紅はどこで手に入れているのだ?」
「・・・・・・・・・・は?」
問い直すのは無礼なことと知りつつも、意外な質問に思わず娘の口はぽかんと開いたまま。

「いや・・・お前の使っている口紅はどこで手に入れているか知りたいんじゃが」
「は・・・はぁ。ネフェリの店でございますが」
主人は照れ隠しのように威厳溢るる咳払いを一つすると、しゃんと背筋を伸ばして言った。
「ごほん、ならば今から走って一瓶、いや、二瓶買ってきてくれんかの」
「は、はい、承知いたしました」
娘は首をひねりつつも一礼するとその場を去る。


城下に店を構えた雑貨屋のネフェリは、練り口紅を軟膏入れに移しながら好奇心に輝く茶色の瞳で娘に尋ねた。
「おやおやお前さん、王宮のお給料はずいぶんといいもんなんだねぇ!前買ったばかりなのにこんな高級品を今度は二瓶も!」
娘は慌ててかぶりを振った。
「違うの。ご主人様のお使いなの」
「ふーん、お前さんの主人なら王宮御用達の商人から買えばいいようなものを・・・」
「そんな事知らないわよ。私の使っているのをと仰るんだから」
とふくれる娘に、ネフェリは笑いながら石灰岩の容器を手渡した。
「そうだな。ま、俺としちゃあ高いもんが売れて有り難いことだけどな、ほい、毎度あり」

小走りで帰った娘から、小さな軟膏入れを受け取ると主人は手放しで喜んだ。
「そうそう、これこれ!王宮の商人はこの色を持っとらんでの」
そして主人はさも嬉しそうに微笑むと、娘に小瓶の一つを差し出した。
「ほれ、これは駄賃じゃ。取っておくがよい」
高給取りの彼女にとってもなかなか手の出ないような高級化粧品を、ちょっとひとっ走りしただけで手に入れられた娘が大喜びしたのは言うまでもない。


セシェンが今の主人に仕えるようになったのは三ヶ月前のこと。
遠い親戚の紹介とはいえ、一介の指物師の娘である自分がこんな大物の女官に採用されるなどという幸運は、まかりまちがっても自分の一生に起こるべくもないこと、とはなから諦めていた彼女のその時の喜びはいかばかりのものだったか。
両親などは喜びの余りつい勢いで、最高の出来の取っておきの衣装箱を神殿に奉納してしまい、納品を急かす注文主のナクトの顔をあせりに歪ませたものだった。

上エジプトの宰相であり幼いアテム王子の教師そして周辺国にも名高い魔術師でもある彼女の主人。
思わず青ざめるような不手際があっても折檻を加えるでもなし、かといって下心一杯で折に触れて尻を撫でようとするわけでもない寛大なこの老人のもとで働けることに、セシェンは心から満足していた。

ちょっとした好奇心を抑えさえすればここはこれ以上望むべくもない好待遇の勤め先。
そう、ちょっとした好奇心を抑えさえすれば。

あんな化粧品どうなさるのかしら。
お年からいってもう枯れておしまいなんだと思ってたけど・・・
ひょっとして女性への贈り物?老いらくの何とやらなのかしら。
覗き見したい気持ちを必死で押さえている娘は、思わず駄目駄目と頭を振った。

あのお方は高貴な、ましてやファラオと直々にお話しされ、魔法まで操ることのできる方。
そんな方がなさることが私たちごとき庶民に理解できるはずない。さ、仕事に戻りましょう。
こう自分自身を納得させるたセシェンは、尻を振り振り夕食に添える花を摘みに向かうのだった。


うーむ、なかなかあの色は再現できぬものじゃのお。
セシェンの雇い主、名宰相の名高い老シモンは、思わずすり鉢を壁にたたきつけたくなる衝動を抑えながらうめいた。
色はかなり近くなってきた。だがどうしてもあの輝きには近づかぬ。

先ほどからセシェンに買いに行かせた口紅に、彼女が知ったならばその場でばったりと倒れ伏すような高価な・・・紫貝や粉末にした紅玉随、果てはもっと貴重な石榴石(※3)を混ぜたりしてはみたりしてみるが、どうしても記憶通りの色にならないことに爺は苛立っていた。

記憶の中で鮮やかに花を咲かせる、数日前彼の弟子の唇を彩っていたあの色に。



あれは久方ぶりに催されたファラオの宴席のことだった。
ありきたりの演目にはもう飽き飽きされたであろうアクナムカノン王に、何か趣向の変わった出し物をと考えたシャダとアイシス。
普段であれば人前で芸人の真似ごとをするなど御免被る、と眉根に皺を寄せるような高貴な血筋の彼らではあったが、他でもないファラオがお喜びになるならば・・・と一肌脱いだのである。

シャダとアイシスが何かやらかすとは聞いてはいたものの、宴たけなわになった頃ティロスの染め物の影からしずしずと姿を現した彼らの姿に、列席者一同のあんぐりと開いた口が再びふさがるのにはしばらくの間を要したのだった。

いつものたおやかなアーモンドの花色した衣装を脱ぎ捨てたアイシスが身にまとっているのは、エジプト軍兵士の甲冑。
房飾りのついた縞模様の革製兜をいただいた元・ブバスティスの女祭司は、まるで戦いの女神サクメトの如く近寄りがたい気品に溢れ周囲を圧倒するのだった。

一方シャダ。
小さな竪琴を手に現れた彼が身につけているのは、男装のアイシスとは反対に古典的な女性の衣装。
深紅に金糸で凝った刺繍の施された筒型のドレスは胸から足首までを覆い、男の割にほっそりした体躯をより華奢に見せている。
そして何よりも列席者の目を奪ったのは、小さな卵形の顔の中心に据えられた唇の鮮やかさだった。

女性のように赤く彩られたシャダの唇。
それが綺麗に剃髪された頭とその中心に踊る不良じみた入れ墨と相まって、何かこう・・・異様ともいえる色香を醸し出しているのだ。

汝のカァの なんとかぐわしきことよ
汝は喜びの心をもち 王たる神のくもりなき面に歌いながら 神に従い行く
汝の鼻孔に差し出されしシストルムとメナトを受け取られよ
汝 神に近き者たちの一人よ 
神が汝の鼻孔に 日々 新しき息吹を与え給わらんことを

銀の戦斧をかかげ宴会場の隅々まで通るような澄んだ声で歌う男装のアイシスの隣に座して、竪琴をつま弾く女装のシャダ。
高貴な者が楽器演奏のような下々の者の芸を拾得することはエジプトでは滅多にないことながら、洒落好きなシャダはどこかの芸人に教えて貰いでもしたのだろうか、その技巧は素人芸としてはなかなかに流麗である。

老シモンは、斜め下座に座した若い戦車隊長がまるで阿呆のように口をぽかんと開けたまま、自分の弟子を熱に浮かされたように凝視しているのを目にして、内心誇らしい気持ちで一杯だった。
そんなシモン本人も、今まで自分に見せたことのない類のシャダの色香に、嬉しいような、でも他人に見せるのが腹立たしいような、何とも言えない複雑な気分に駆られるのであった。




「できたできた!やっと出来た!まさにこの色じゃ!」
セシェンの口紅との数時間の格闘の末、最後に鳩の血を加えて得られた色にシモンは喜びのあまり我を忘れて小さな子供のように躍り上がった。

忘れられないあの夜に、シャダが見せたあの妖艶な姿を今度は自分だけの前で見せて欲しい。
これが彼がここまで口紅の再現にこだわった理由だった。
では何故本人に、あの口紅をもう一度つけてくれと言わないのか?

いや、シモンはもうとおにあの口紅を使った本人であるシャダに、恥を忍んで頼み込んでいた。


「のお、シャダや」
「はい、何でしょうかシモン様?」
にっこりと微笑んで明るく返事するシャダの卵形の小さな顔に、あの夜の異様な姿を重ね合わせたシモンは思わずぐっと言葉を詰まらせた。
彼の可愛い弟子はいつもと同じ少年じみた表情で、まるで主人の命令に耳を澄ます犬のように老師の次の言葉を待ち受けている。

「・・・シモン様、どうなさったのですか?」
何も言わずに押し黙ったままの師を見て、不安げな表情を浮かべたシャダにシモンは思いきって尋ねた。
「シャダや、おぬしあの、く、く、口紅はその・・・あれからどうしたんじゃ?」
「ああ、あれですか。いつものシリア商人が見本にと持ってきたのですが、わたしにはもう用がないし王宮の女官には派手すぎる色なので、オーボエ弾きの娘にやってしまいましたが」

なんというもったいない事を!
こともなげなシャダの言葉にがっかりしたシモンは、努めて平静を装いながらなおも食い下がる。
「うーむ、ならば今一度手に入らないものかのぉ」
「そうですね、まだ持っているならばすぐに注文しておきましょう」

そしてシャダは微かに口角を上げると言った。
「でもシモン様が化粧品なんて珍しいですね、セシェンにでも贈られるんですか?」
軽口めかしたシャダの言葉に、ついつい本心を口走ってしまうシモン。

「いや、若い娘ではなくての、シャダや」
「はい?」
「・・・おぬしもう一度紅を引いてみる気はないかのぉ」

にっこり微笑んだままスフィンクスのように固まったシャダは、やがて重々しく口を開いた。
「・・・・・・・あれはファラオの御前で披露するためだけに企画したあの日限りの余興ですから」
「でも今一度見たいんじゃ!」
「そこまで気に入って頂けて光栄ですが・・・残念ながらわたしは女ではありませんので」
「そこを何とか!」
「申し訳ありませんが、敬愛する師のお言葉とあっても、わたしは二度と女装はいたしかねます・・・・・失礼します!」

ひらひらと衣を翻して駆け去るシャダの後ろ姿を呆然として見送るシモンの胸中には、その時ある決意がたしかに芽生えていた。

<後編へつづく>


※1・・・岩の多い早瀬のこと。船で移動するのが困難なこの急湍(カタラクト)は、上エジプト・ヌビア地方に6カ所ある。
※2・・・古代エジプトの女性にはありふれた名前。「睡蓮」を意味し、現代名スーザンの元だと言われる。シモンの女官セシェンは「ラクダのウインク酔っぱらいオヤジ」の娘という脳内設定。
※3・・・石榴石=ガーネットはインド周辺から運ばれてきた貴石であるが、これが頻繁に装飾品に使われるようになったのはヘレニズム以降であって、18王朝にエジプトに輸入されていたか否かは未確認です・・・