謁見の間


マハードは独り王宮の廊下を急いでいた。

今朝、神殿への奉納品の数を記録したパピルスを、大先輩である神官シャダのもとへ持って行った時のことである。
下エジプト宰相の息子であるシャダはマハードとはさして変わらないであろう年頃ながら、マハードより一足早く書記への道を歩みだし、父の後ろ盾のみならず彼自身のずば抜けた能力にもより、一足飛びに高級神官としての輝かしい人生を歩み出していたのだ。

一礼して執務室を退出しようとするマハードに、思索的で繊細な容貌のシャダが声をかけた。その風貌や落ち着いた話しぶりから、彼は実際の年よりもかなり上に見える。
「マハード、この神殿に来てからどの位になるかな?」
唐突な問いにいささか面喰らいながらもマハードは姿勢を正してはきはきと答えた。
「はい!来月で二年になります」
その余りに真面目くさった様子にシャダは思わず心の中で笑いを噛み殺してしまう。
どうしてこの男はこんなにクソ真面目なんだ...同じ年頃の神官同士だというのに、まるで大将軍の閲兵に緊張する一兵卒かパン焼き釜の前からファラオの前に引っ張り出された下女かといった面持ちだ!まぁ、神に仕える者としてあまり怠惰なのも困るが、この男を見ていると何かもっとこう困らせてやりたくなるような...

そんな思いを露ほども見せず、シャダは続けた。
「この大神殿に仕える上級神官候補達は、一度は必ずファラオにお目通り願い、問答に答えなくてはならないのだ。そしてマハード、今日が定められたその日なのだよ」




踝まで隠れる亜麻の衣がマハードの広い歩幅の邪魔をし、裾が足下に絡み付く。神官の正装とは何とずるずると邪魔なものだろう。いっそ衣の裾を指先でつまみ上げて走りたくなる。
そんな時フルートやリュートを手に笑いさざめきながら廊下を下ってくるのは若い娘の一団。娘たちは王宮では見慣れない美丈夫の姿に一瞬目を丸くし、そして興味津々といった様子で雀のようにかしましく喋りながらマハードの後ろ姿を指差していたが、もちろん先を急ぐ彼はそんな事は知るよしもない。

塵一つ落ちていない花崗岩の階段を昇り、心地よい季節を謳歌する花々には目もくれず庭園を通り抜け、青い釉薬を塗って焼いたタイルを敷き詰めた廊下をこえ...充分間に合った!
翼を広げた太陽とファラオの名を刻んだ大きな扉を押し開き、マハードは謁見の間に勢いよく足を踏み入れた。「マハード、今まいりました!」

だが、深々と一礼して頭を上げると、予想に反してそこには他の新米神官は一人もいない。代わりに神妙な面持ちで並んでいるのはマハードと同じく白装束の、しかしその地位は彼より遥かに上であるはずの五人の神官達。そしてさらにその先の階段に目をやると...玉座におわす人陰は...
ファラオその人であるはずだ。

マハードは考える前に彩色タイル張りの床に平伏していた。




「お前がマハードか。よく来たな」

その声に頭をあげたマハードの眼に飛び込んできたのは、驚くほどに年若い少年王の姿であった。

細かくひだを取った純白の腰布をまとい、 首回りにはラピスラズリと紅玉髄そしてトルコ石を配した三連のネックレス。華奢な両手にはアヒルをかたどった黄金の腕輪、といういでたちで、咆哮する獅子が彫刻された巨大な玉座から泰然とマハードを見下ろす少年。その相貌には今だ幼さが残っている。
だがその小さな姿からは、いかなる歴戦の勇者も、いかなる大神官すらも太刀打ちできない程の圧倒的な威圧感と強い精神の力が感じられ、マハードの鼓動は思わず知らず早鐘のように打ち始めるのだった。 
これが生まれながらにしての王、神と人とを取り結ぶ唯一の仲介者であるお方なのか!

ファラオを包み込む光輝はそれを目にする者誰しもを魅了する。そしてマハードもその例外ではなかった。
彼は今こうして王を間近にする幸運を噛みしめていた。
荒涼たる岩山、祖父と共に突き抜けるような青空を旋回する鷹を見上げたあの少年時代からアクナディンとの出会い、生命の家でのヒエログリフ漬けの毎日と新米神官としての下積みの日々...様々な記憶が一瞬の内に脳裏を去来して、胸に熱いものがせり上がってくるのを感じ、マハードは思わず身震いした。

ファラオは言った。
「今日お前が何のためにここに呼ばれたかは聞いているな?」
随分とくだけてまるで友達に話しかけるような楽し気な口調ではあるが、その声は奇妙な威厳と妙なる旋律をもって耳をくすぐる。

「は!新任の神官として陛下にお目通り願うのだと...」マハードは頭を垂れたまま答えた。緊張の余り手足が冷たくなってくる...
少年王はそんなマハードの緊張などどこ吹く風といった調子で続けた。
「神官として大神殿に仕える者ならば、七つの神器のことも無論耳にしているだろう」
「...は、はい...人伝てには...先代アクナムカノン王の遺された、邪を払いこの世に平和をもたらすための神器だということ・・・その程度ではございますが」

一瞬の沈黙の後にファラオが重々しく口を開いた。
「そう、その通りだ。そしてマハード、お前は選ばれた者なのだ、その神器の一つに」
その瞬間、全身の血液が逆流するような気がした。


跪いているのもやっとというマハードを見おろして、ファラオはなおも続ける。
「この神器は強大な力を秘めてはいるが、その力を正しく行使出来るか否かはつまるところ人間である持ち主にの心に委ねられている・・・千年宝物は人の心を映しとる鏡なのだ。
常に己の心と向かい合い、それを正しく保つことに心を砕くがよい。邪悪な者が神器を簒奪するならば、直ちに神々の炎によって焼き尽くされるだろう。天と地の法を正しく知る者のみがこの神器の担い手たるのだ」

そこでファラオは口をつぐんだ。一瞬の内に瞑想の世界に遊んでいるようにも見える。大広間に染み渡ってゆく完璧な静寂...その静寂に、マハードは死後の世界で正邪を審問するというオシリス神の法廷に引き出されたような思いを味わい、ますます深く頭を垂れた。
ファラオは私が正義を行使するのに足る身ではないとお考えなのだろうか?第一、果たして自分に神器を担う資格があるのだろうか?
そう考えはじめるとますます沈黙が重く肩にのしかかってきて思わず身じろぎをした。
そんなマハードの心を見透かしたように赤い瞳を煌めかせて、ファラオが再び口を開く。
「神器の選択は崇高にして絶対なのだ。 
常に神々とエジプトとその人民の誠実なる下僕たれ! 
弱き者、小さき者に思いをはせ、真理と正義そして秩序の守護者たることをここに誓うかマハードよ」

ファラオの声は静かだったが、その響きは滔々と流れる大河の力強さをもって聞く者の心に染み入るのだった。 その無言の力に押しつぶされそうで、マハードは思わず己に問いなおした。
ー自分は今まで何か大きな間違いを犯さなかったか?はたして「正なるものにして正に導くもの」マアトの法に準じてきただろうか?

...その時マハードの心の奥底で今は亡き祖父の声が響いた。小さな自分の手を引いて、空を舞う鷹を指差しながら静かに諭す祖父の声が。
「あの鷹のように誇り高く正しく生きるのだ。真実は隠されていると同時に道ばたの石のようにお前のすぐそばにもある。鷹の目をもってそれらを見抜くよう心掛けるのだよマハード。きっとお前にはそれが出来るんだから」
そうだ、小さな間違いはあったかもしれないが胸を張ってこう言える。自分は太陽神ラーの御元、今までの人生で己の心に恥ずべき行いはしていない、そしてこれからもきっとそう生きるだろう...

マハードは決然と顔をあげ口を開いた。
「真理に愛でられし神の御子ファラオよ、太陽の慈愛と厳しさとをもって二つの国を統べる偉大なる王よ。この世界の内と外におわすすべての神々のもと...」
一息つくと力強く浪々たる声で答えた。
「この命にかけても正義の忠実なるしもべたることを誓います」

若きファラオは小さく頷くと、隣に控える老神官の差し出す箱に手をのばした。
ロータスの象眼細工を施したその箱に納められているのは六番目の神器ー破邪の力を秘めたホルスの眼を中央に配した黄金に輝く千年環。
ファラオはそっと慈しむように箱の中の物を取り上げると玉座から立ち上がり、跪くマハードの前までゆっくりと歩み寄る。そしてその首に鎖を掛けると千年環は恭順の意を示すかのようにチリン、と幽かな音を立てたのだった。

それを確かめた少年王は高らかに宣言した。

「マハードを第六の神官にして千年環の担い手としてここに任ずる」





マハに魅せられたのがきっかけで遊戯王サイトをオープンした直後・・・生まれて二番目に書いたSS。ちなみに生まれて初めて書いたSSは「輿に揺られながらあれこれ思いを巡らせるアクナディン爺の独白」でした(笑)

今こうして二年半ぶりに読み直すと、当時は自分こんな熱いマハ観持ってたんだよなぁとしみじみしてしまいます。今でも「高潔でストイック」という部分は変わってはいませんが、今の私のマハード像はかなりクールな孤高の人なんですよね。

それから王様を登場させる時にいつも困るのがあの特徴ある話し方。さすがにこの場で「だぜ」はむつかしいなと思ったものの、元気良く「○○なんだぜ!」と言って頂かないと、なんかアテムんらしくなくてね・・・このSSも最初はマハードへの呼びかけは「お前」じゃなく「そなた」だったんですが、それではまるきり別人になっちゃうので差し替えました。

それにしても自分が遊戯王はまりたての頃に書いた話を読み直して、いつも驚くのがシャダ子の恐るべき変身ぶり!
初期の「軽やかでゴージャスでカッコいい洒落男」から今の「尻軽でゴージャスな可愛いズッコケ男」に至るまでには紆余曲折がございました。
でも、こうやって一番最初からシャダがコンスタントに登場しているのを見ると、シャダさんとも長いわよねぇ・・・あらこの秋でもう三年になるかしら?月日が経つのって早いわよねぇ、お互い年もとるはずよね、ふふふっ・・・などと笑いながら熱燗をつける小料理屋のママ化して、なんだか感無量なものがありますな。