ひとこと言わせてもらえるならば


ぼくの目はまだ見えない。

まぶたを通して外の明るさがぼんやり分かるだけだ。

眠って、起きて、お乳を飲んで、また眠って・・・ぼくの一日はおんなじ事のくり返し。
明るくなって暗くなってまた明るくなって・・・
もぞもぞ動いてクンクン鳴いて一日はあっという間に過ぎていく。

だけどバカにしちゃあいけない。鼻はもうちゃんときいてるんだから。
体の下のリンネルのにおい、顔を埋めた時のお母さんのほんわかしたにおい。
大きなお父さんの強そうなにおい、時々ぼくをお母さんから引き離してぐーんと持ち上げる「人間」のにおい。

おなかが一杯になるとせいいっぱい足を踏んばりながら、ぼくは鼻を高く上げていろんなにおいをかいでみる。
そうすると風に乗ってもっと色んなにおいがしてくるよ。

砂ぼこりの、土の、遠くから流れてくる大きな河のにおい。
草の、木の、 甘くて鼻がむずむずするような花のにおい。
ぼくはもう色んなにおいを知ってるんだよ。


だけどある日のこと。
目をさますと色んな花のにおいがいっぺんに鼻の奥に入ってきて、ぼくはびっくりした。
鼻がヒリヒリしてくしゃみが止まらない。
何の花のにおいだろう。
いつもみたいに高く上げたぼくの鼻には、花に混じって「人間」のにおいが流れ込んできた。
ぼくの知らない種類のにおい。

「これは何のにおいなのお母さん?」ぼくはくしゃんくしゃんとくしゃみをしながら聞いた。
「これも人間のにおいよ」
「でも花のにおいもすごくたくさんするよ」
「人間にも私たち犬と同じように色々な種類があるの。
 いつもにおっている人間は『犬係』という種類、これは『貴族』という種類の人間のにおいなのよ」
「『キゾク』って何?」
「群でボスの手助けをする二番手の犬のようなものです」
なるほど。ぼくはすごく納得した。

「・・・・・・・・へえ・・・へえ・・・目が開くのももうじきでしょうが、母親から離せるのはまだしばらく先のことでごぜえますな」
あ、いつもぼくをつかみ上げる人間の声だ。
「そうなのか、ならば仕方ないな・・・」
これは花のにおいをプンプンさせた「キゾク」のがっかりしたような声。
「では目が開く頃にまた出直すとするか」
そうして軽い足音といっしょに花のにおいも遠ざかっていった。


それから何度も寝たり起きたりしてたある日のこと。
いつもと同じように目を覚まして、あくびをして・・・
それからゆっくり目を開ける。
・・・・・ん?・・・目を開ける?

固くくっついて離れないはずのまぶたが今日は動くんだ。
まぶたをぴくぴく動かして、それからこわごわ開けてみた。

うっすら開いたまぶたの隙間からは、これからぼくが生きていく明るい光に満ちた世界と・・・・
・・・ぼくをじっとのぞき込んでる紫色の目が見えた。

「・・・ほっほっほっ、母ではなくおぬしの顔を最初に見たか。不幸な犬じゃて」

ゆっくりとあたりを見回したぼくの目に入ってきたのは、前から知っていたにおいの元。
足元のリンネル、土の壁、お母さんに兄弟たち・・・なるほどあれが「犬係」と「キゾク」か。
それからあれは初めての・・・ぼくにはよく分からないけど多分、別の種類の「人間」だ。

「不幸だなんて・・・でもシモン様よりは良かったでしょう」
花のにおいをさせた人間はちょっと怒ったふりをしながらぼくの頭をそっとなでた。
「ね、お前もそう思うだろう?」
甘いにおいで鼻がくしゃくしゃして何度もくしゃみが出る。

「ほら、こんなにくしゃみをして。クレタからの輸入品か何か知らんが、おぬしの新しい香油は匂いがきついと犬も言うておるわ」
「そ、そうかなぁ。やっと手に入った珍しい品なんですが・・・」
そうだそうだ。「人間」か「花」かどっちかはっきりさせた方がいいとは思うねえ。
不満顔で犬みたいに鼻をひくひくさせてる「キゾク」に、ぼくもそう言ってやったよ。

ところがぼくの言うことを聞いてキゾクは後ろを振り返った。
「これはキャンキャンよく鳴く犬だな。どうだフイ、鳴く猟犬は良くないと聞いたことがあるが」

真っ黒な顔した「イヌガカリ」はあわてて答える。
「いえいえお言葉ではございますが、まだ目の開いたばかりの仔犬がどうなるかっちゅーのは、犬と歩んで幾星霜のこのフイにもなかなか分かることではございませんがな。
兄弟達と暴れるようになってやっと、良し悪しがすこーしははっきりするものでして」

「ほれ、おぬしが急かすものだから儂もこうして一緒に犬舎に来てはみたが、やはり早すぎたであろう?
フイもああ言っておるではないか。鳥のことは鳥さし、魚のことは漁師、犬のことは犬係に聞けというやつじゃて」
もう一人の人間はくるりと踵を返すとキゾクに言った。
「そして法のことは法官に聞けじゃよ。
 明日の裁判の準備もあるゆえいつまでも犬と遊んでいるわけにも行かんぞ、シャダ」

「ああっ、シモン様!」
すたすたと歩いていく「シモンサマ」のあとを追おうと、人間でキゾクのシャダは慌てて立ちあがる。
「フイ、親から離せるようになった頃にまた来る!」

「いえとんでもねえことでごぜえます!
 こんな汚ねえ場所に何度も足をお運びいただくわけには参りませんで、わっちめが仔犬を連れてお屋敷に参ります!」と両手をばたばたさせて慌てるイヌガカリ。
「いや、屋敷では犬の本当の姿が分からないだろうから・・・とにかくまた来る!」
それからちょっと首をかしげて紫の目でなごり惜しそうにぼくらの方を振り返ると、シャダはパタパタと外に出ていった。

あとに残されたのは花のにおいと人間のにおい。
「あらあらまあまあ驚いた!あんなに落ち着きのない貴族は初めて見るわ!
「ファラオ」や「貴族」は「犬係」や「弓係」に比べるとどっしり構えていばっているはずなのだけれどね」とあきれ顔のお母さん。
でも急に眠くなったぼくは、お母さんのお乳のにおいと、シャダの残していった甘ったるい花のにおいに包まれてゆっくりとまぶたを閉じたんだ。


日が昇って沈んでまた昇って・・・それが何度も繰り返された。
ぼくら5匹の兄弟は毎日ぐんぐん大きくなる。

どんな動きも見逃さないアーモンド型の目と、ちょっとした物音でもピクッと動く三角の耳、いくら走っても疲れない長い四本の足とくるんとカーブを描く長い尻尾。

最初の一頭が初代のファラオと出会ってからというものほとんど変わっていない、ぼくら一族に受け継がれた流れるようなかたち。
犬係はそんなぼくらをニコニコしながら楽しそうに眺めていた。



そしてその日がやってきた。

はしゃぎすぎた熱い体に心地いい北風が、さらさらとアカシアの木立をそよがせていたある午後のこと。

知っている人間の声が聞こえたような気がして、ぼくは弟に噛みついてた口を離すと鼻をぴくぴくさせた。
でも・・・なにか変だな。知ってるはずなのににおいがちがう。
この声は忘れようたって忘れられない、あの花のにおいをプンプンさせていたキゾクのシャダの声なはずなのに・・・

「ほお、ずいぶん大きくなったものだな」
ああ、やっぱりキゾクのシャダだったよ。
だけど今日のシャダからはくしゃみが出てたまらない花のにおいじゃなくって、鼻につんつんくる何かの実のにおいがする。
「おや、今日はくしゃみが出ないようだね。レモンの香りは大丈夫らしいな」
どっちも好かないけれども、少なくとも前のやつよりはまだずっとマシだよね、とぼくはシャダに言った。

「相変わらずよく吠えるやつだな」
身をかがめたシャダはぽんぽんとぼくのお尻を叩くと、あとからついて来た犬係、それから知らない二人の人間を振り返る。
「マハード、カリム、これが私の話していたサルーキだよ」

ふんふんふん・・・ぼくは鼻をひくひくさせる。
この二人からもほんの少しだけ花みたいなにおいがするから「キゾク」という種類なのかな。
でも・・・花のほんのりしたにおいに混じって、おかっぱ頭のごついやつからはなにかかび臭いにおい、白い布をかぶって顔に模様が入ったほうからは・・・乾いた血のにおいがした。
すっかり困ってお母さんに駆け寄るぼく。
「お母さんお母さん、キゾクにも色々いるの?」

ちょっと困り顔のお母さんは言った。
「・・・そうね、人間の世界は犬のよりずっとずっとややこしいからねえ。
 花のにおいがしても『ファラオ』や『貴族』『官僚』とか色々だし・・・
 だけどきっとかび臭い方は『貴族』で『学者』か『書記』なんでしょう。
 血のにおいがするのは・・・そうね、『軍人』か『警官』もやってる『貴族』だと母さんは思いますよ」

そしてちょっと怒ったようにお母さんはぼくらに向かって大きな声を出す。
「犬にはそこまで詳しく人間の事情を知る必要はありません!誰が上か下か、それさえ分かれば十分です。
 人間と快適に仕事をするために大切なのは、人間をこの目でよく『見る』ことです。分かりましたね!」

「ふぁーい、わかりまちたー」
舌っ足らずでいつも鼻水を垂らしている下の弟がふざけたみたいに返事する。
ちょっとイラっときたぼくはうなりながら弟の首に噛みついて・・・また取っ組み合いが始まった。

「どうだフイ、この中ではどの仔犬が一番良くなりそうかね?」
その時すぐそばでシャダの声がして、ぼくは思わず弟の首根っこを押さえてた口を離した。

「そうですな、この上に乗っかっとるやつはちっこいけんど気が強いですな。だけんど猟場ではいっとう始めにあわてて駆けていって野牛の角に突かれるクチですな」
「それは困る、せっかく育てた犬に死なれるのは嫌だからな」
「組み敷かれとるでけえのはのろまですんで猟にはあんまし・・・茶色いメンタははしかい奴ですし、あっちの耳黒はけっこう気が荒いですわな。
一番訓練が入りやすうて、度胸もありそうなのは・・・あすこで離れて枝をかじっとる黒いやつですわ」

シャダとイヌガカリと・・・シャダが「マハード」「カリム」と呼んでたキゾクはぼくらをしげしげと見つめてる。
だからぼくもじっと見返してやった。そう、大事なのは人間を「見る」ことだったよね。

ぼくらを見ながらごちゃごちゃ何か話してる四人の人間を、きちんと姿勢を正して観察してると、この群の上下がだんだん分かってきたんだ。

イヌガカリが一番下っぱなのは一目で分かった。
耳がついてたらきっとずっと伏せっぱなしだっただろう、気の毒なくらい目がうろうろおどおどしてぜんぜん落ち着かない。

反対に一番偉いのは、さっきからほとんど喋らないカリムと呼ばれてる体のでっかいキゾクだと思う。
犬でもうちのお父さんみたいに強い犬はどっしりしてほとんど吠えないんだよ。
ほら、カリムがたまーに口を開くと他の三人はいっせいに口を閉じて、カリムがどう言うかじっと待ってるみたいだ。
それに・・・シャダもマハードとかいうケイカン?もそれとはなしにカリムの方をちらちら気にしてる。
特にシャダときたら・・・茶色いチビの弟がぼくを見る時みたいなあこがれの表情、っていうのかな、そんな顔しちゃってるよ。

シャダとマハードはどっちが偉いか良く分からなかったけれど・・・うん、とにかくこれはカリムが群のリーダーで決まり。
「お母さぁん!ぼく誰が人間のリーダーか分かった!」
ぼくが大声で叫んで立ちあがったその時、人間たちがザッ・・・とひざをついた。


「ほっほっほっ、こんな所でまで堅苦しい挨拶は不要じゃ」
視線の先に現れたのは・・・よく覚えてる。ぼくの目がやっと開いた時にちょっとだけ見た人間だ。

イヌガカリやマハードやカリムから見ると可哀想なくらい体が小さくて弱そうなやつ。
けれど、いつもみたいに鼻を高く上げて風に乗って届くにおいをかいだとたん、ぼくの頭はくらくらしてたまらずに尻もちをついちゃったんだ。

赤ん坊の時にはよく分からなかったんだけれども・・・
そいつからは古くなった人間のにおいや「キゾク」のにおいや「ガクシャ」のかび臭いにおいも確かにしてるけれど・・・
だけども、それ以外のなにかよく分からないすごいたくさんの・・・血みたいな怖いにおいがするんだ。
それが何なのか分からない、だけれど頭の中で何かが「危険!近寄るべからず」と叫んでて、ぼくの心臓は信じられないくらいばくばくした。

その時お母さんが叫んだんだ。
「みんな!よくこのにおいを覚えておくように!
 どんな場面でもこのにおいのする人間にはできるだけ愛想良くしなくてはなりませんよ!
 愛想良くしておけば取りあえず犬には危害は加えません。でももしこの人間が敵なら・・・・・命を捨てる覚悟で奇襲すること!よく分かりましたね!」
お母さんがあんまり真剣な顔だもんだから、いつもはふざけてばかりの舌っ足らずの弟も、さすがに怖そうに肩をすくめて黙ってた。

「シモン様、今日のこの時間はまだ王宮にいらっしゃると伺っておりましたが」
マハードが「危険な人間」シモンにおずおず話しかける。
「その通りじゃ。本来ならばまだアテム王子にアッカド語をお教えしておる時間なんじゃが・・・
 王子はまだあんなにお小さいというのに、大人も舌を巻くほど頭脳明晰なお方じゃの。
 今日一日かけてお教えするはずだった分を午前で済ましてしまわれての、もう今日はこれで十分とばかりにセトと一緒に船遊びに出かけられてしもうたわ」

シモンはそこで一息つくとちらっとシャダの方を見て続けた。
「そこで儂もおぬしらが騒いでおった『未来の名犬』とやらを今一度見てみとうなったんじゃが・・・迷惑だったかのお?」
「迷惑だなんてとんでもありません」シャダが間髪を入れず答えた。
・・・うーん、どうもこの中で一番強いのはシモンで決まりとして、一番のお調子者はこいつみたいだね。

「どの犬が良くなりそうかフイに選別させようと思いまして。フイは黒いのが良くなると言うのですが・・・シモン様も一頭お飼いになるのですか?」
「いや、儂には仔犬を育てるゆとりはないのお。犬係に預けるにせよ頻繁に犬舎を覗きに来ねば犬との信頼関係は築けぬからの」
「カリムはどうする?」
「わたしも犬にかける余裕はないな。コッコちゃんで手一杯だ」
「ああ、あの凶暴なニワトリね・・・あんなのがかわい・・・いや失敬。じゃあマハード、お前は?」
「そうですね。バセンジーが生まれるのを待ってたんですけどまだ先のことみたいだから・・・サルーキを持って帰ろうかと」
「じゃあどの犬にする?」
「フイもああ言っていることですし、黒は豊穣の色で縁起も良さそうですからあの黒いやつにしようと思います」
「・・・そうか・・・・・・実はね、わたしも黒いやつがいいなと思ってるんだ」
シャダとマハードの間でパチパチと火花が飛ぶのが見えたような気がした。

なんだよシャダ、ぼくを選ぶんだと思ってたよ。
別に羨ましかないけど、二人ともよりによって無口で愛想なしのクロを選ぶなんて・・・見る目がないね。
ぼくはなんか胸がくしゃくしゃして大声でシャダを呼んだ。
だけど「これも気になるんだが・・・ちょっと落ち着きがなさすぎるな」とシャダは言ったんだ。

・・・あーあ、やっぱり犬の気持ちは人間には伝わらないんだね。
ぼくは心底がっかりした。
第一ね、「落ち着きのないキゾク」に「落ち着きのない犬」だなんて言われたかないよ。

その時、カリムがのっそり近づいてきて重々しく口を開いた。
「二人とも黒いやつがいいんなら、どうだ?犬のほうに主人を選ばせるというのは」
「犬に選ばせる!?」と声を揃えてシャダとマハード。
「そうだ。二人一緒に黒いやつを呼んで、あいつが自分から寄ってきた方が新しい主人ということにすればいい」
「なるほどね、それなら恨みっこなしだね」と腕組みをしたシャダは言った。
「そうですね。それなら納得できます」と感心したように頷くマハード。
「それでは見届け人は儂がするかの」とシモン。

そしてシャダとマハードは一生懸命クロのやつを呼びはじめた。
おいでおいでと優しく手招きしたり、チチチ・・・と舌を鳴らしてみたり、ワンワン犬の鳴きまねをしてみたり・・・
偉そうなキゾクが綺麗な服が汚れるのもかまわず、地べたにしゃがみ込んで小さな犬ころの気を引こうとしてるありさまは、ぼくらの目から見ても相当おかしかったよ。
イヌガカリなんか、ザクロの木の影に隠れて必死で笑いをかみ殺してた。

一方そこまでさせてるクロときたら、人間の都合なんか知らぬ存ぜぬで、つまんないアカシアの枝をがじがじ噛んでる。あんな枝のどこがいいんだろうねえ。
前からマイペースだとは思ってたけどこれほど図太いやつとは思わなかったよ。

でもいい加減シャダとマハードが飽きてきたとき。
クロは突然立ちあがるとアカシアの枝をくわえたままポテポテと歩いていって・・・
マハードの足元に枝をぽとんと落として尻尾をぱたぱた振ってみせた。
感激の面もちのマハード、悔しそうに唇を噛むシャダ。
意外にやるなぁ、クロのやつ。あそこまで引っ張っておいて・・・なかなか上手いね、見直した。

「それじゃあこれはわたしの犬ということでいいですね?」
マハードはシャダに言った。
必死で平静を装っているけれども、言葉の端に勝ち誇った様子が見え隠れする。
「くっ・・・・・・約束だからね、仕方ない」
悔しそうにうつむくシャダの紫の目には、ちょっとだけ涙が浮かんでるみたいだった。

「残念だったな、シャダ。だけどお前は色白だから・・・黒い犬は色黒のマハードの方に親近感を持ったんじゃないか?」
とカリムにわけの分からない慰め方をされてシャダはうめいた。
「それは絶対ない!あれの両親も兄弟もみな淡色だ!」
「それじゃあ毛深い犬の目から見るとツルツルのお前よりふさふさのマハードに親近感を・・・」
「もういいっ!ならわたしは『生まれて初めて目が合った』縁で、やっぱりこのシロにするっ!」
シャダはずかずか近づいてくると、腹立ちまぎれにぼくをぐいっと抱き上げた。
シャダの指輪が柔らかいおなかにこすれたのがすごく痛くて、ぼくは思わず大きな悲鳴を上げた。

そのとたん・・・
お母さんが立ちあがるより早く白い固まりが風のような早さで一直線に飛んできて・・・
シャダめがけて襲いかかった。
「ぎゃあああああっ!」

空中に放りだされたぼくを、太い腕でがっしり受け止めてくれたのは・・・カリム。
シャダのお尻に食らいついているのは・・・ぼくらのお父さん。

「こらぁ!やめんかイリ!こらぁあ!」
棒を持って走ってくるイヌガカリを、それから無事なぼくを見てお父さんは口を離した。
そしてハァハァ舌を出したままシャダをにらんでる。

「シャダ!大丈夫かシャダや!」
さっきまでの威厳はどこへやら、みっともないほどおろおろしてシャダに駆け寄るシモン。
「あ痛たたた・・・」
シャダのお尻には白いリンネルを通してうっすら血がにじんでる。
あの程度ですんでるなんて、お父さんも本気で噛みつかなかったんだろう。

耳を澄ますと、シモンに抱き起こされたシャダが何か言ってるのが聞こえた。
「おお!おお!血がこんなに出て・・・」
「・・・くっ・・・大丈夫ですよこのくらい」
「でもこんなに血がにじんでおるではないか!どれ、衣をめくって尻をよう見せてみい」
「何を言ってるんですかこんな所で!冗談も休み休み言ってください!」
「しかしお前の体に傷をつけるとは・・・なんたることじゃ!」
「でも仔犬を驚かせたボクの方が悪いんです」
「じゃがしかし・・・」
「ええいしつこいですよシモン様!大丈夫と言ったら大丈夫なんですっ!」
「そうは言うが・・・とにかくすぐ医者を呼ぼう」
「大丈夫ですってば!」

おやおや、シモンというやつは一番偉いはずなのに、シャダにあんなに気をつかって。
この様子じゃあカリムより下のシャダよりも、シモンはまだずーっと下っぱみたいだ。

人間の世界はよく分からないもんだねと鼻を鳴らしたぼくを、カリムはそっと地面に下ろした。
ぼくはお尻のケガが気になって、一目散にシャダの方に走って行く。

痛そうに顔をゆがめていたシャダだったけれども、ぼくを見るとにっこり笑って立ちあがった。
「痛くしてすまなかったね」そう言いながらぼくを抱き上げるシャダ。

目が開いて一番はじめに見えたもの。
シャダの紫の目は思ってたよりずっと優しくて綺麗だった。

シャダはぼくを抱いたままお父さんとお母さんの方へ歩いていって・・・そうして話しかけたんだ。
「イリ、リラ。仔犬はちゃんと責任を持って育てるから安心しろ。すぐに猟場で会えるから寂しくないだろう?」
そしてイヌガカリに振り返る。
「フイ、この犬は取りあえず連れて帰るよ。何かあればすぐに使いを出すのでよろしく頼む」


「シャダの家はここから遠いの?」ぼくはシャダに聞いた。
「どうした?親と離れるのは悲しいか」
・・・やっぱり犬の言葉は分からないんだな。

だけど・・・分からなくってもぼくはひとことだけ言わせてもらいたい。

「ねえ、ぼくは君と一緒に行くけど、家来じゃなくってトモダチとしてだから。
 それをよく覚えておいてくれよね、ねえシャダ」

人間の耳にはきゃんきゃんいう声にしか聞こえなかったはず。
だけどシャダは優しく微笑んでそっとぼくに頬ずりしたんだ。
「ああ、分かってるよ、分かってる。よろしく頼むよシロくん」

ああ・・・これからぼくの前に待ち受けているいろんなこと。
そのぜんぶが急に楽しみになってきて、ぼくは新しいトモダチの額の模様をぺろぺろなめた。

シャダに優しく頭をなでられるぼくの、いつものように高く上げた鼻には大きな河のにおいが流れ込んでいた。

<おしまい>


「困ったときには子供と動物」という映画屋さんみたいなノリでもって、私にとっては一番楽に書ける「動物モノ」に逃げてしまいました。
世界の崩壊が訪れるとは思ってもみなかった平和な頃の王宮の一幕。すごいオリジナル設定で申し訳ないです。

だけれど動物や草木を心から愛した古代エジプト人。神官もファラオも盗賊も、古代編の面々はみな動物好きだったと思っています。
現代に残された古代エジプトの壁画やパピルス、さらに墓やミイラにおいても、そこに古代エジプト人の、家族や動植物に対する限りなく愛に溢れた優しい視線を感じるからこそ私は古代エジプト文明が好きなのです。

文中の「ぼく」はサルーキ種。エジプトからアラビア半島を原産とする最も古い犬種のひとつで、古代エジプトでも王族や貴族に愛されたその優雅な姿は絵やミイラとして残されています。
なお、「ぼく」が鼻を高くかかげてクンクンやる動作、あれは実際にはセントハウンド(嗅覚で獲物を追う犬)や鳥猟犬のやる「高鼻」という動作であり、サルーキのようなサイトハウンド(視覚で獲物を追う犬)は滅多にやらない動作です。←こんなところで犬豆知識(笑)

それからカリムの「コッコちゃん」ですが、18王朝には外国から入ってきたばかりのニワトリが存在していました。しかし食用ではなく愛らしい姿を愛でるための愛玩用の鳥であったようです。