酒場にて

すっかり遅れてしまった。
ペル・アンクの学友達はもうとっくにカマァル(ラクダ)の店に集まっている頃だろう。
太陽はつい今しがた西岸のあちら側に姿を隠し、山々の稜線をわずかに金色に浮き上がらせている。

マハードは、しわがれた声で情けを乞う老人に何もやれるものがないことを心の中で謝りながら、ようよう人一人通れるだけのゴミだらけの路地を早足で通り抜け、その突き当たりのがたつく扉を押し開けた。
年代物の蝶番がギギーッ、と大げさな悲鳴を上げる。

そのとたんムッと鼻をつく古い油で魚を揚げる匂い。
店の奥で邪魔くさそうに大瓶からビールをつぎ分けている年齢の良く分からない店主は、マハードの方を振り向いてちょっと頭を下げた。

若い頃ワニに噛まれてからというもの顔の筋肉が上手く動かなくなったというこの男は、いつも仮面を被ったような表情をしている。
口の端も引きつれて言葉が出にくいのを苦にしているのだろうか、お愛想どころか彼が必要なこと以外話すのをマハードは聞いたことがない。
だが、テーベへやって来てすぐこの店に通い初めてすでに数年。今では店主のちょっとした仕草で彼が何を考えているのか何とはなくでも分かるようになったのが自分でも可笑しい。
今日はいつも沢山飲んでくれる金持ち息子たちがぞろぞろとやって来てくれて、店主も上機嫌と見える。

「俺もビールを」
座るとすぐに黙ってテーブルのそばに立った店主に、マハードはそう告げ友人達に向き直った。

「遅かったじゃないか」
幾何学模様に彩られた素焼きのコップになみなみと注いだビールを片手に(※1)、すでに上機嫌の友人はマハードに声を掛けた。
彼だけではない、4人いる学友達はもう何杯飲んだのだろうか、皆一様に赤い顔をしてすこぶるご機嫌である。

「楽しそうじゃないか、何の話をしてたんだい?」
「ネフェリの娘のことさ」(※2)
「あのインク屋のおやじさんの?」とマハードは大げさに片眉を上げてみせた。
「あぁ、そういえばお前がいない時だったな、親父が痛風で寝込んでいるというんでたまたま娘ごが注文を取りに来たんだよ」

「ついてないなマハード!あんな綺麗な子はファラオのハーレムにもいないぜ」
でっぷりと太ってこの若さですでに頭頂が薄くなりかけた青年が溜息を付く。
「ハーレムって、お前ハーレムの女を見たことあるのか?」
と茶化すのはいかにもボンボンでございという上等の衣装を身につけた猫みたいな青年。
「・・・想像だよ想像!」
「あんな禿爺の娘ごがあの美貌とは全く驚きだ!」

『わが美女の 来るを見るは 心の中の歓びなり 我が心の幸いなること 永劫不滅の如し・・・』(※3)
と紅玉随のイヤリングをした馬づらの青年は突然詩を諳んじる。
「おっ!その歌、僕も知ってるぜ。『われ 彼女を抱き 彼女 余に両唇を差し出するとき 余は酒なしに酩酊す』だろ?」

「おーい、オヤジさん、ワインはないの?え?置いてない?じゃあビールをもう・・・えっと、三杯」(※4)
凝った編み方をしたカツラの、キザな痩せぎすはそう注文すると急に声をひそめた。
「そういえば実は僕、ちょっと前にメリト婆の娼館に行ったんだがな」
「へぇー、いいなぁ!で、首尾はどうだったんだい?」と太っちょ。
「ふふっ、僕にそんな事を聞くのは野暮だね!
もう娘が行かないでって離してくれなくってさぁ、抜け出すのに苦労したよ!アメノフィス先生の授業に遅れたらまずいからもう必死さ!」
「またまたぁ!お前の方が入れ込んでるんじゃないのか?」と猫がまたしても茶化せば、馬はひどく真剣な顔で食らいつく。「で、どんなんだ?その娘は?」
「メロン並の胸でさ、子猫みたいに甘い声で囁くんだぜ」「うおっ!たまらんなぁ!」
「いいなぁ!俺も一夜の情けをお願いしたいよ、その子猫ちゃんにさ。でも俺、メリト婆に出入り禁止食らってるからなぁ」
馬づらはどうも娼館の女将の不興を買うへまをしでかしたようである。
「お前手ぶらで行ったんだろ?そりゃ婆も怒るよ」
「今度僕がメリト婆の好きそうなものを見繕ってやるから一緒に行こうぜ!」
「ああ、僕の愛しいネフェル・ネフェル・ネフェルウよ・・・」

おのおの胸に秘めた可愛い想い人の姿を思い浮かべながら大騒ぎする同輩達の姿を、ただ微笑みながら黙って眺めていたマハードに、そのうち一人が声をかけた。

「お前も行ったことあるだろ?メリト婆のところにはさ」
突然話を振られて驚いたマハードは、しどろもどろで答える。
「ああ・・・いや・・・俺はあそこには・・・」

あそこにもなにも、春を売る女達がどういう女であるかすら知らない彼だったが、幸い友人達はマハードの面くらい振りをいい方に解釈してくれたようだ。
「まぁそうだよなぁ!お前ならわざわざうるさい婆にお願いしますと頭を下げなくっても、女達がいくらでも寄ってくるよな」
「まったくこのむっつり助平め!」
「ちぇっ!ホント、羨ましいぜ男前はさ」

あいまいに笑って受け流しながら、マハードはぼんやりと考えていた。
女というものはこいつらが言っているほどにいいものなんだろうか。

もちろん彼とて市場や畑で働く女達を目にしないではないが、どうしてそれに一々大騒ぎするのかどうもピンとこない。

彼の逞しい姿や慇懃で優しげな物言い、そして何よりも確実に約束された輝かしい未来に憧れて、マハード様マハード様と折に触れて彼に近づこうとする若い娘達は、街にも、王宮にも溢れかえっていた。
だが当のマハードはそういった女にどう答えればいいのか分からなくて、ついついぶっきらぼうに対応してしまうのだ。

甲高い声で小鳥のようにさえずる女達・・・ 弱くて柔らかくてすぐ壊れてしまいそうなもの。
正直なところ、マハードは女がたいそう苦手だった。
ましてやそんなもののことで、仲間がなぜこれだけ大騒ぎするか良く分からない。
マハードがすぐに思い浮かべられる身近な女と言えば、故郷で嫁いでいる姉だけだったが、姉の姿を思い出してもそれが友人達の大騒ぎする女性というものとはどうしても結びつかないのだった。

・・・でもこれだけ皆が騒ぐにはきっとそれなりの訳があるんだろうな・・・
そう考えたマハードは「テーベ小町」と呼ばれる娘をしげしげと見つめてみたこともある。
噂の美丈夫にじっと見つめられた嬉しさと興奮に、娘の頬は薔薇色に染まりその美しさは端から見ると輝くばかりだったけれども、マハードにはやっぱり何がいいのかよく分からなかった。

そう、彼は女よりも、神殿で自分を見下ろす典雅な姿のロータス柱、魔術パピルスで踊っているヒエログリフの不思議な脈動、風塵に削られ厳しい顔で押し黙っているネクロポリスの渓谷・・・
そういったものどもに対峙するときにこそ心の高ぶりを感じた。

はかなく弱々しいもの、泣いたり笑ったりくるくると顔色を変えて忙しいものよりも、石や樹や空や月・・・時の初めから終わりまで変わらぬ姿でそこに佇んでいるであろうものを心から愛したのだ。

「俺はおかしいのかもしれない」
友人達が言うような、相手を想うと居ても立ってもいられぬ胸の高ぶりや切なさ・・・
そういった気持ちをついぞ生身の人間に感じたことのないマハードは、自分は愛を感じる気持ちが欠けた、なにかこう出来損ないの人間なのではないかと悩みもした。

だが、どれだけ悩もうとも、相手に興味を持とうと努力してみても、結局すべてが無駄だった。
友人や、神殿の下働きの男女や、先輩神官達は、口々にマハードの慇懃さや礼節や心の優しさを褒め称えたけれども、本当のところマハードはそんなところを褒められても余り嬉しくない。
なぜなら彼自身には、そういった自分の「美点」は「人間と深く関わり合いたくない」という気持ちの生み出した、都合のいい隠れ蓑でしかないことが分かっていたから。

彼の心が本当に安らぐのは、皆の寝静まった頃たった一人、神殿の高窓から差し込む月光に照らされた神々の像と向かい合ったり、壁面に所狭しと彫り込まれた聖なる文字をそっと指先でなぞる時だったのである。
マハードの目には、どんなに美しい娘よりも、聖池の水面に映し出される大神殿の荘厳な姿の方が心地よく映った。
力強く、優雅に、果てなく続く時を軽々と飛び越えるもの。

ただ、彼とて生身の男。
自分はずっとこのまま独りかもしれない。そう考えるとふと一抹の寂しさを感じないでもなかった。
なぜなら彫像や庭園の木々に両の腕を伸ばしても、それらはけして彼を抱き締めてくれはしない。
微笑みかけてもそ知らぬ顔をして冷然と佇んでいるだけだ。
だからといって、あちらから微笑みかけてくる者にはマハードはどうしても自分の内面をさらけ出すことができなかった。

ああ、この世のなかに、風や、大地や、天空といった何か偉大なものの一部でありながら、自分の延ばした手を握り返してくれる者はいないものか?
そんなものに出会えたならば、自分はすぐさま命だろうと何だろうとも捧げるだろうに!
そう床の中で報われぬ想像をする夜もあった。だがそれが一体何であるのかに思い至ると、いつもそれ以上想像が働かないのだ。

人間を越えなお人間であるもの、そんなものがあるはずはないとマハードは諦めていた。
そう、あの日までは。

跪いた視線の先に「彼」の姿をみとめるまでは。


※1・・・古代エジプトのビールについては、ここで説明するよりもキリンビールの「古代エジプトビール再現プロジェクト」 http://www.kirin.co.jp/company/news/08/030806_1.html に詳しく取りあげられている。
※2・・・18王朝に実在した文具屋? 職人村デル・エル・メディーナから「ネフェリの店に走って、パピルスとパレットを届けさせてくれ」という書簡が発掘されている。
※3・・・「古代エジプト恋愛詩集」(ボリス・デ・ラケヴィルツ編 谷口勇訳)より。
※4・・・ワインは上流階級の飲み物であって、一般人は老若男女ビールを愛飲していた。


ロードトゥファラオ ロードトゥホモ(笑)お堅いマハード様が身も心も捧げた相手は・・・

スマン!!なんか途中から脱線・・・というか、後ろから先に書きはじめるとこういう事態になってしまいました。

自分のマハード観を整理するつもりで書いたんですが辛気くさくて申し訳ないです。
やっぱネットSSの王道はエロとスラップスティックですな。でも会社の昼休みにはさすがにエロ書く気になれんからなぁ(笑)第一私はエロ下手だし。

この「彼」とは言うまでもなくファラオ・アクナムカノン。この続きーマハとアク王の謁見室での出会いのシーンまで書くつもりだったんですが、疲れてきたんで一旦切りました。

こうやって書いてみると、あれこれ紆余曲折を経ても、やっぱり私のマハード像は超ストイックなナルシスト、「ファラオというシンボル」に殉じた王家の猟犬、という辺りは初めの頃のマハード像とあんまし変わってないのかもなぁ、と思いました。
ただ最近加わったのは「隠れたる凶暴性」「本能に忠実」というファクター。
初めは単に「控えめな苦労人」って思ってたんですが、本当は誰よりも強くて誰よりも冷たいのではないかと。ファラオの命ひとつで相手を噛み裂くブラッディ・ハウンド。慇懃な物腰の裏に隠した意外なほどの野生・・・
こういう見方ってホントにアウトサイダーなんだろうなぁとは思うんですが、まぁここでは許してくださいなv