書物の家

御身の名は高き塀を巡らせる地震の女神、君主たる女人、旋風と・・・旋風と・・・
・・・くそっ!なんだよ!ここだけかすれて読めないじゃないか!・・・畜生!」

形良く整った薄い唇から上品な風貌には相応しくない言葉を吐き出し、少年は小さな頭を振りながら憤懣やるかたないといった風に肩を怒らせ悪ぶってみせる。

アメン大神殿付きの図書館、壁の両側をパピルスの巻物(※1)でぎっしりと埋め尽くされた書写室で、少年は大きなため息をひとつつくと書写台の上のパピルスから顔を上げ、目の前に広がる中庭に視線を移した。
ずっと小さな文字を凝視し続けていたせいか、目がかすんでしくしく痛む。

庭園の向こうには視界を青と茶色に区切っている長い擁壁、その上方にはどこまでも広がる濃紺の空。
そして彼方に見えるハトシェプスト王建立の四本のオベリスクは、黄金に覆われた先端に太陽の光を受け、荘厳な面持ちをして蒼天に突き刺さらんばかりに屹立している。

・・・テーベの空の色はあんまし好きになれないな、青が濃すぎて頭が痛くなる・・・
少年はこの都に来てからというもの、何百回となく呟いてきた言葉をまたしても繰り返す。

死ぬほど暑い上に空気だってなんだか埃っぽいし・・・
そりゃ確かにここは王都だろうけどさ、メンフィスの方がずっと歴史ある古都なんだよな。
あぁ、故郷の風の匂いが懐かしいな。母上や姉上はどうしているんだろうか・・・ボクがいなくなって寂しく思ってくれてるんだろうか。

彼はしばらく外を眺めながら物思いに耽っていたが、やがてもう一つ大げさなため息をつくと、葦ペンの先をぺろりと舐めて再び巻物に視線を落とした。

女性のように白く華奢な手の中にある葦ペンの先からは鳥や波や太陽の形を取る文字たちが次々と真新しいパピルスの上にまろび出てくる。
その流れるような芸術的筆致からは、書き手がかなりの書の腕間を持っていることが見て取れる。

文字と言うよりは絵のように美しい筆記体ヒエログリフ、神に捧げられし聖なる言葉。

「若年の髪房」(※2)を切り落としているところを見ると、もう子供ではないのだろう。
かといって表情の幼さからするとまだ大人の男とも言い切れない彼は年の頃14,5歳といったところか。
品良く整えられつやつやと光る褐色の髪の毛は柔らかく波打ちながら形よい頭を取り巻いている。
卵形の顔に行儀良く配置されているのはアイリス色をした切れ長の目、優美な曲線を描く柳眉、皮肉っぽく口角のつり上がった小さな口と細い顎、そして華奢な腰回りを覆っているのは細かくひだを取った真っ白な腰布・・・
そういったもろもろから推し量るに、彼が何不自由のない生活を送ってきた恵まれた家柄の出であることは一目瞭然であろう。

「旋風と・・・えーと、『砂塵』かな?」
少年は茶色く変色した原本をそっと捧げ持つと、斜めから光を当てて欠損している部分をなんとか判読しようと涙ぐましい努力をしてみる。
ここ数日間、神官見習いの日課を終えてからずっとこの図書館にこもりきりの彼は、かび臭いパピルスの山に囲まれて写本するのにいい加減嫌気がさしてきているようだ。

「くそっ!イリの奴、先輩だからって自分のビジネスなんだったら『死者の書』(※3)くらい自分で写本しろって言いたいですよ・・・いっつも『お前は筆記体を崩しすぎだ』とか言ってるくせに都合のいい時だけ人をおだててこき使ってさ・・・
あ〜あ、もう適当かまして書いちゃおうかしらん、どうせ全部チェックしっこないんだしさ・・・」
少年はそうひとりごちると葦ペンの先をインクに浸し、ペンを握る指に力を入れた。

「そこには『嵐』が入るんだぞ」

その時背後から急に話しかけられ、少年は驚いてインクをこぼしそうになる。

「何だい、カリムか!」

彼はいつの間にかぬーっと後ろに立っている体格のいい少年の姿を認め、頬をプッと膨らませると目を三角にして噛みついた。
「いつも言ってるけど、無言でのそっと後ろに立たないでくれたまえよ!びっくりするじゃないか!」

だがカリムと呼ばれた色黒なおかっぱ頭はやせっぽちの方の立腹などどこ吹く風、といった様子で眉一つ動かさず年の割に野太い声でなおも続ける。

「それを言うならシャダ、お前の方がずっと迷惑だ。さっきから年寄りみたいにぶつぶつぶつぶつと・・・
お前の独り言は声が大きいから独り言とは言えないな、うるさくて芝居の稽古でもしてるのかと思ったぞ。イアフメス先生は『図書館では静かにしましょう』とは教えてくれなかったのか?」

シャダと呼ばれた方は真っ赤になって口をとがらせた。
「ふ、ふん、ボクだって好きでこんな湿っぽいとこでパピルスとにらめっこしてるんじゃないやい。
ホントなら部屋でアッカド語の勉強でもしてるとこなのに、神官イリ(※4)が自分のバイトをボクに押しつけてきたんだ。先輩風吹かせてほんとヤな奴だ!
あーあ、毎日毎日辛気くさい場所でごそごそするのにはもう飽き飽きだ、もうなんだか体にまでかびが生えてきそうだよ・・・」
少年は悲しそうに眉根を寄せてみせる。

そんな自分の表情を目にして、カリムの顔に微かに同情の色が浮かんだのを見逃さなかったシャダは大慌てでたたみかけた。
「そうだカリム!お前の方がかっちりした字を書くんだからちょっと代わってくれよ。ねぇ、頼むよ、トモダチを助けると思ってさぁ」
だがその手には乗らぬという風に冷たく答えるカリム。
「自分が頼まれたなら自分で始末をつけろよ。そもそもお前は何でもホイホイと安請け合いしすぎだ。達筆を見込まれて頼まれたんなら、名誉なことと思ってやり切ることだな」

大げさなため息と共にがっくりと肩を落とす少年の猫っ毛を、その時横から伸びてきた手がくしゃくしゃとかき混ぜる。

「おいおい、おしゃべりしてる暇があったら頼んだことをちゃっちゃと片付けて欲しいものだねぇ?
『先輩風を吹かせるイヤな奴』の頼みを聞きたくない気持ちは分からんでもないが」

そこに立っているのは白い長衣に身を包み、綺麗に剃り上げた己の頭をせわしなく撫でている若い男。
「神官イリ・・・様・・・」
少年たちは声の主を認めると慌てて頭を下げた。

犬に似た細面に大きなとび色の瞳をくりくりさせた神官イリは口元から大きな八重歯をちらちらさせながらなおも続ける。
「早く仕上げないとナクトの葬儀に間に合わなくなってしまう。あそこの細君はとにかく口うるさいからな、ミイラに巻き込む護符や死者の書が注文通り揃わなかったら私としてはひじょーに困るのだよ。
だからねぇ、後輩として頼まれてくれるよね、ねぇシャダ君?」
「は、ハイ・・・で・・・でも原本が・・・」
「言い訳は聞きたくないよシャダ君。君の将来性を買っている私の期待を裏切るような頭の悪い子じゃあないよね、君は」

しゅんとしてしまったシャダを横目で見ながらカリムは横で押し黙って立っている。

「それじゃあ頼んだよ、ナクトのミイラももうすぐ完成だから早急に頼んだからね!」
片手をひらひらと振りながら写本室を歩み出たイリだったが、出口で誰かにぶつかりそうになり眉を逆立てた。
「何だ?!ちゃんと前を見て・・・」

しかし次の瞬間今までの威勢の良さはどこへやら、神官イリは真っ青になって慌ててひざまずく。
その視線の先に立っているのはイリよりも遙かに背の低い中年の男。
だが彼は見る者に「小男」であることを忘れさせてしまうような威厳、そしてなにか言いしれぬ威圧感をもって回りを圧倒している。

「し、失礼いたしました!なにとぞお許し下さいませシモン様・・・」

シモン様だって?
噂では耳にしていたけれども、あれがアクナムカノン王の腹心にして若き王子の教師、そして六神官の一角をなす法官の長・・・?

二人の少年は「ファラオに一番近い」と言われる人間の突然の出現に度肝を抜かれ、ぽかんと口を開いたままひざまずくこともすっかり忘れて、体を堅くしてただ立ちすくむばかりであった。

「まぁよいよい、神官イリ。立ちなさい」
シモンは満面に笑みを浮かべ、うつむいたまま冷や汗を垂らす神官にそう声を掛けた。
「今日はお前に用があるのではないんだから。もう行くがよい」
「は、ハイッ!」
慌てて退出するイリの後ろ姿にシモンは叫ぶ。
「商売も良いが前途有望な後輩を私事で煩わせるのではないぞ〜?今後やったら裁判にかけるからな〜!」

「さて、と・・・」
白衣のすそを翻しながら脱兎のごとく駆け去るイリの後ろ姿を見送っていたシモンは、灰色のひげに覆われた顔に精一杯の柔和な笑みを浮かべ、ゆっくりと少年達の方に向き直った。
思わずびくっと体を強ばらせるカリムとシャダ。

「まぁそう堅くならずとも良いではないか。私が図書館に現れたのがそんなにびっくりする事かのお?」
シモンは少年達の緊張を解きほぐそうとするかのように出来る限りの優しげな声色で話しかける。
だがこんな強面の男に優しく話しかけられるとかえって得体の知れなさに恐怖は倍増するものだ・・・二人はますます震え上がった。顔は笑ってるのに目が、目が笑ってないよこの方は!

「なにかと言えばな、コホン、今日はな、シャダ、お前に話があって呼びに来たのだよ」
甘ったるい声色を使うのに飽きたシモンは小さな咳払いをひとつするといつもの調子に戻って話し出した。

「えっ?えっ?ボク・・・いや、私にお話・・・・・・・ですか?」
二人の少年は思わず顔を見合わせる。
カリムはかろうじていつものポーカーフェイスを崩してはいないが、シャダの方は緊張の余り今にも泣きそうな表情を浮かべている。
王宮判事長に呼ばれるようなことを何かやったっけ・・・?
シャダは頭の中でぐるぐるぐるぐる考える。
庭のザクロを面白半分にむしって回ったのがばれた?それとも家禽小屋に犬をけしかけた件?図書館蔵書にインクをこぼしたまま黙ってたから?それとも女官の猫の尻尾に結び目を作ったから?

・・・あああ、色々やりすぎだよ自分・・・
思い返すと思い当たるところが多すぎてシャダは恐怖の余り失神しそうだ。

「いや、裁判とかそんなものには何も関係がないよ、そう心配するでない」
シモンは真っ青になっているシャダの心を見抜いたかのように優しく続けた。
「確かにお前のいたずらの噂は聞くが、反面とても優秀な生徒だそうではないか、だからね、今日は色々と話を聞きたいだけなのだよ。
さあ、私と一緒に来るがよい」

シモンはそう言って手招きすると後ろを振り返りもせずに図書館から歩み出す。
雲の上の存在である最高職の高官の命。一介の見習い神官などもう言われるままに従うしかない・・・

「ボクが帰って来なかったらボクのセネト盤はお前にやるからな」
シャダはカリムの耳元にそうささやくと重い足を引きずりながらシモンの後を付いて部屋を出る。

角を曲がる時に泣きそうな顔をしてちらりと肩越しに振り返った友人に、カリムは思わず声を掛けた。
「頑張れよ!しっかりな!!」
そう叫んでからカリムは考える。
『頑張れよ』っていったい何を頑張れというんだろう・・・俺はいつでも大事なときに上手い言葉が出て来ないな・・・まぁシャダのいたずら如きでどうこうなるような事はまず無いとは思うが・・・

脳裏に生け贄に引かれる牛のように悲しげな友人の後ろ姿が蘇えって、カリムは思わず腕組みして考える。

うーん、仕方がないな、可哀想だから帰ってきた時困らないようにしておいてやろうか・・・まったくもって世話の焼ける奴だな・・・

カリムは黒々としたおかっぱ頭を揺らしながらそう呟くと、書写台の上に出しっぱなしの死者の書と書きかけのパピルスをきちんと整える。
そうしてから彼は葦ペンの先をインクに浸すと、角張った几帳面な文字でシャダが書きかけだったナクトの葬儀用パピルスの写本を始めるのであった。


※1・当時のエジプトでは書物はパピルスに書かれた巻物というスタイルだった。本がパピルスや羊皮紙を重ね合わせて綴じるという、コデックス(冊子)の形になるのは紀元前一世紀以降のことである。

※・思春期前であることを表す。古代エジプトの子供は10才をすぎるあたりまで「頭の右側に髪の房を残し残りを刈り上げる」というこのヘアスタイルを取った。遊戯王原作でもアクナムカノン王のバック、王妃の胸に抱かれた赤ん坊のファラオがこの頭をしているのにお気づきであろう。

※3・正確には「死者の書」とは19世紀のエジプト学者レプシウスが葬祭用の呪文を整理し、このタイトルで刊行したものを指し、古代エジプト人はこれら一群の葬送用呪文を「日中(現世)に現れるための呪文」と呼んだ。しかしこの文中では便宜上近代になってからの呼称を使用した。
パピルスなどに書かれた「死者の書」の多くは空欄に埋葬者の名前を書き入れるだけの画一品であり、故人の懐具合によって呪文の数や種類は自由に組み合わされたそうである。

※4・神官イリも高官ナクトも教師イアフメスも存命の時代は前後するが全て実在の人物。
イリは古王国(第4王朝)の役人?、「書記兼アメン神殿の天体観測官」の称号を持つナクトは新王国(第18王朝)の人物で、その墓に描かれた「楽器を演奏する3人の女楽師」の壁画はひじょうに有名、教師イアフメスは・・・すんません、どこで見たか忘れました。


逃げて〜!逃げて〜シャダ坊〜!(笑)

この後当然の成り行きとしてシモンに喰われるいたいけな少年・・・
「シャダが剃毛するようになったのはシモンの嗜好に合わせて」というオヨヨな脳内設定に基づいてのお話ですが、
いきなし剃毛プレイというのはいくら何でもナニなのでほのぼのチックに導入してみました。

しかしこれ喰っちゃったら鬼だよな、シモン・・・これからどう剃毛展開に持ち込むかは・・・ぜんぜん考えてません(笑)誰か考えてください。