RUN FOR YOUR LIFE


「待て…待てよ…ほら行けえっ!」
日光に照り映えるマホガニー色の被毛をなびかせてアイリッシュセッターは弾丸のように飛び出した。その目が捕らえているのは空中に浮かぶプラスチックの円盤だ。

思いきり土を蹴ってジャンプ!見事にキャッチ!

得意げにフリスビーをくわえて戻った犬の頭を、たくましい青年はくしゃくしゃと撫でた。
「よーしよし、いい子だ、よくできたな」綺麗に並んだ白い歯がきらめく。

「オッケー、じゃ次はロングディスタンスでお願い」
青年の背後で腕組みして、じっと犬を見つめていたポニーテールのブロンド美女が言った。
「分かってると思うけど、思いっきり遠くまで投げてね。手加減はいらないから」
青年はうなずくと、蛍光ピンクのディスクをバッグハンドスローで思い切り投げた。フリスビー協会のテキストに載りそうな完璧なフォームだ。

大きな猟犬が次々に繰り出す妙技に目を丸くしていた少女が、木陰のベンチに座る母親のもとへ駆け寄った。
「見てママ!あのワンちゃんすごいの!あたしもジミーとフリスビーで遊びたい」
少女の背後からは、さっきまで一心不乱に草むらをかぎ回っていたボディガード――小さなコッカースパニエルがあわててついてくる。

母親はスクリーンから抜け出したかのような完璧なカップルと、きびきびと働くその愛犬をまぶしそうに眺め、それから自分の娘と太ったスパニエル犬に向きなおって言った。
「すごいワンちゃんね。でもジミーには無理よ、あんなジャンプするにはでぶっちょさんだもの」

「ほら、これで遊んでらっしゃいな」
母親に黄色いテニスボールを差し出された少女は、不服そうに鼻にしわを寄せた。だが、ボールを欲しがって後足でぴょんぴょん跳ねている愛犬を見て、こっちもそこそこ面白そうだと気を取り直したらしい。ボールをぎゅっと握りしめて駆け出した。


前につんのめりそうなほど体重をかけて思いきり遠くへ放り投げた。
「ほらジミー、とってこーい!」

きれいな放物線を描いて飛ぶボール。だが、ボールは少女の思惑とは逆の方向へ――沿道のポプラ並木に向かって飛んでゆき、縁石にぶつかってあらぬ方向へ転がった。

ころころころ……意表を突かれたスパニエル犬は太った体に似つかわしくない鋭いターンを見せてから、黄色い目標物に向かってまっしぐらに走る。そして古びたオイルレザーの靴の前ではあはあと舌を出しながら、ボールを拾い上げた人間をじっと見上げてお座りした。


口を閉ざしたまま見つめあう犬と人。鋭い目に見おろされて固まっていた犬が、沈黙に耐えかねて短いしっぽを弱々しくぴこ…ぴこ…と振ってみせた。男の口の端がゆがんで引き上げられる。
「ふーん、お前のボールか」
その時、甲高い声で犬の名を呼びながら、巻き毛を青いリボンで結んだ少女が息を切らして駆けてきた。
「ジミー!」


少女はボールが人相の悪い男の手中にあるのを認めておそろしさに息を呑んだ。あの人、悪い魔法使いかしら?
だが、男の前でちょこんとおすわりしている犬を見て気を取り直した。でも…ジミーがいるから大丈夫。ジミーが守ってくれる!
「おじちゃん、そのボールあたしのよ」
勇気を奮い立たせて手を差し出した。


犬と少女に見つめられた男は、大きな目をぎょろつかせながら口ごもった。「ああ、ほらよ…」
待ってましたとばかりに前足を浮かせて、新雪の色の手から獲物をもぎ取るスパニエル犬。だがそのまま焼け付くような熱いまなざしで男を見つめ、どっしりお座りして動こうとしない…もっと遊べという意味だ。

初対面の犬に懐かれた男は、困り果てたようなあいまいな笑顔を浮かべると、首をおかしな角度にかしげて小さな主人に向き直った。「投げてもらいたがってるぞ」
その首のかしげ方はテレビアニメに出てくる異星の科学者そっくりで、その科学者はクルーで一番信頼に足る人物だったから少女はうなずいた。「うん。うんと遠くに投げてね」


スロー&キャッチ、フェッチ&リリース!いつもならめくらめっぽう走り回ってボールを取り逃がす鈍重な犬が、今日は見違えるばかりだ。
「グッドボーイ!ジミー!」
少女は愛犬の精鋭ぶりが嬉しくて、飛び上がって手を叩いた。男が犬の能力を慎重に観察しながらボールを投げていることには気づかないまま。

「ぼちぼち終わりにしよう」そう言われた時にはがっかりしたものの、へたり込むジミーを見て納得した。
「…ほらよ」
無愛想に突き出されたボール。犬の唾液で濡れたそれを受け取り微笑んだ。「ありがとう」
男の顔には驚きがよぎったが、すぐに曖昧な微笑を浮かべて腰を折り、犬の頭をくしゃくしゃとなでた。


だが、無垢なる者たちとの幸福この上ない邂逅は長くは続かないものだ。おそろしい叫びがポプラの梢を震わせる。
「クレア!来なさい!はやく!」
見れば赤毛を振り乱し、脱げそうなサンダルにつっかかりながら母親らしき若い女が猛然と走ってくるではないか。
「なにしてるの!」彼女は血走った目で誘拐犯をにらみつけた。

「なんだなんだ」「どうした?」
母親の取り乱しぶりに驚いて男たちも駆け寄ってきた。

目の前には母親に抱きしめられた幼い娘と小さな犬、そして見るからに胡散臭い風来坊じみた男。疑う余地はない。どこか素人離れした雰囲気を漂わせる男に内心たじたじしながらも、野次馬たちは固く拳を握りしめた。

怒れる大衆を前にして、男はあきれ顔で肩をすくめた。
「はぁ?どうした?俺は犬と遊んでやってたたけだぜ」そのしれっとした態度は人々の怒りにますます油を注ぐ。
「ウソつけ!」「この変態め!」
母親にしっかり抱きしめられた少女が何か言おうとした。だが人々のきついまなざしにおびえて押し黙ってしまう。

だがその時、垂れ込める暗雲を蹴散らす能天気な声。
「みなさーん!何さわいでるんっスかぁー?」

見ればさっきまで妙技を披露していたフリスビードッグと、主人らしき若い男女がいた。
神の愛を一身に受けたかのような美しい外貌。誰にも後ろ指を差されることのない、正しく信頼のおける市民の姿。

ハンサムな青年はスキンヘッド男に歩み寄ると、軽く敬礼して言った。
「サージャント、どうかなさったんですか?」
「いや、別に…たいした問題じゃない」
男はつぶやいてその場を離れようとする。その背後で母親を見上げながら少女が訴えた。「フリスビードッグごっこしてたの。おじちゃん、すごく上手なのよ」

大股で歩み去る男を青年たちはあわてて追いかける。
アーミーだったのか…ぽかんとした野次馬たちはつと振り返った青年に、「バッカじゃねーの?」と大声で悪態をついて中指を突き立てられても、誰も何も言い返すことはできなかった。
そんな中、太ったスパニエル犬は名残惜しそうに男の後ろ姿を見つめていた。


「災難だったわね。ほんっとムカつく奴ら!」憤然とするポニーテールの美女。「でも、女の子は喜んでたわよ」
スキンヘッド男は早足で歩きながらぶつぶつ言っている。
「チッ…こんなことなら銃の手入れしてりゃよかった」振り返って背後を睨みつけた。「あいつの言うこと聞いたらいつもろくな目にあわん」

憎々しげな視線が突き刺さったのだろう、スケートボードに片足をのせてすべりながら後をついてきていた青年は、タン…とボードの端を蹴って小脇に抱えると、男のもとへあわてて駆け寄った。その熱意に満ちたまなざしはフリスビー犬にそっくりだ。尻尾があればバサバサ振っていたところだろう。

「なあミッヒ、そう怒るなよ」「……」「なんなら戻ってあいつらボコってこようか?」「るせえ、やるときゃ俺がやる」「でも今日は外に出て正解だぜ?」「……」
「見ろよ、お空は青くて風はさわやか!こんな日に銃の手入れなんかしてちゃケツにカビがはえるな」
とうとう男の堪忍袋の緒が切れた。「あーっ!ウゼえーっ!」

「畜生!いつもいつも引っぱり出しやがって!」
容赦なく尻を蹴り上げらた青年がずさっ…と土ぼこりを立てて派手に転び、はしゃいだセッター犬がその上に馬乗りになって顔をべろべろなめ回した。
「やっ…やめろ!気持ち悪いーっ!」
青年の悲鳴はさわやかな風に乗って、青い空に吸い込まれていった。



<THE END>