「なんということだ……」
カリムは愛するマハードを前にそう……呟いた。
カリムはテーベで生まれ育ち、貴族の次男として何不自由なく生活していた。魔力の強さもあって、王宮付きの神官として重用されている。元々が家を出て神官として一生を神に捧げることは、カリムが次男として生まれ落ちた時から決まっていることだった。
そこに……マハードが入ってきたのは三年前。
地方にファラオが遊山に行った折り、見つけて連れ帰ってきた。
美しい眼の純朴な若者。
「栄華きらめくファラオの御為に、わたくしめのつたない身ひとつでございますれば、砂漠の砂と返るまで、ナイルの底に沈むまで、すべて捧げさせていただきます。
我がファラオに永遠の栄光あれ」
朗々とした声だった。
「私はマハードと申します。若輩者にございますが、今日より神官の末席に列する栄誉をいただきました。
何とぞ、よろしくお願い申し上げまする」
輿は低いけれど、どこにもこびた色のない黒い瞳がいならぶ重鎮をまっすぐに見る。
カリムは一目で恋に落ちた。
女性に目が向かなかったのは戒律のせいだけではなかったのだ、と。マハードと会って初めてカリムは気付いたのだ。
慣れない王宮勤めにマハードはあっと言う間に憔悴していって。カリムは心配でしょうがなかった。
上位神官のセトに毎日いびりたおされているのだ。
長老大神官アクナディンとファラオに気にいられている神官セト。
ファラオが連れてきたマハードが気に食わないらしく、重箱の隅をつつくかのようにマハードはセトに毎日毎日叱責されつづけた。
セトの前で身を小さくしているマハードが本当に可哀いそうでカリムはしょうがない。
毎日ぐったりしているマハードをなぐさめている内に…………そういう関係になってしまったのは自然な成り行きだったのだろう。
自分の腕の中で声を殺して喘ぐマハードがカリムはかわいくて愛惜しくてたまらなかった。
最初は……そう。
夜のナイル……だった。
カリムは寝つけなくてナイルの畔を散策していた。
ナイルの水面にきらきらと月が反射する…………満月。
泳ごうかな……
カリムは思った。
夜は冷えるけれど。心身の鍛練はできている。ここで寝不足で明日……もう、今日の職務に支障をきたすぐらいなら、泳いで疲れて眠った方が良いと思ったのだ。
衣を落としてナイルに入る。
冽たい水。(気温摂氏一〇度ぐらい)
今日もマハードが非道くセトに怒られていたな…………と、カリムは思い出した。
セトは元々が傍若無人だけれど。実際に実力もあり、長老の次に強い魔力を持つことから誰も逆らわない。
けれど……誰か一人を狙っていじめたおすことなど今までなかったのだ。
それはたんに、マハードの純朴な所と、ファラオに連れてこられた、という現実に苛々しているだけかも知れなかったけれど。
何度カリムはセトの、マハードへの容赦をファラオに願い出ていたか。セトに対するファラオの執心も周知の事実。カリムの言葉などファラオには届いていないだろうけれど、カリムは願わずにはいられなかった。
「そう心配するものではないぞ?カリム」
ファラオは端正な顔を少し笑みに歪めてそう言うだけ。
現人神であるファラオの顔を直に見れるのは、カリム達王宮の神官のみ。
大きな瞳が印象的な若いファラオ。
執政は確かに美事なのに。傀儡ではなく、あの年齢で国を動かしている。それはカリムも判っているけれど。
他の者に対してはかなり細かな気遣いをするファラオが、こと、マハードにだけはなんの手も差し伸べない。
「マハードを連れていらっしゃったのはあなたさまではありませんかっファラオっ!!あのままではマハードは本当に躰を壊してしまいますっ!!」
失脚を覚悟してそう、言ったカリムにも、ファラオは薄く微笑むだけ。思わず宰相のシモンが止めに入ったけれど。事態は何一つ改善していない。
カリムの敬愛する王だった。
こんなことで落胆などしたくはないのに……
自分の恋人であるからと言って、セトのすることを野放しにされてはたまらない。人間としてセトの性格が破綻していることは、王宮の者ならば誰でも知っている。セトこそが王宮の狂犬だった。
今でもマハードは心労で真っ青な顔をしている。
月が雲に隠れてしまった。
神殿にはあかあかとたいまつが炊かれていたけれど。カリムのいるところはちょうど木陰で真の闇だった。
闇に慣れているカリムはふらふらと泳いでいて………………
月が……
差した。
カリムの目の前に月光が降り注ぐ。
どこまでも暗い水面はきらきらとさんざめくだけの筈なのに。
白く……浮かび上がる……
それは波頭ではなかった。
赤銅色の肌でさえ白く浮かび上がらせる……月の……光。
短く切った黒い髪が闇夜に紛れて艶光っていた。
カリムが焦がれた黒真珠がきらり、と月の反対側で光る。
「マ……ハード……」
カリムは愛惜しいその名をくちびるに乗せた。
それは……きっと……
月光が見せた幻なのだ……と。カリムは後になって思った。
「カリム……」
低い……声。
どう聞いても色気などまったくない、澄みとおった純粋な音……なのに。
それが夜の闇に消えてしまうのがもったいない……と、カリムは思った。
うっすらと闇に開いたそのくちびるを……己のそれで塞いだ。
決して華奢ではない。
マハードは神官だけれど。剣を持たせれば鬼神の技を見せる。
ファラオの御前での奉納舞で剣舞を踊ったことがあったけれど。
そのマハードに見とれたのはカリムだけではなかっただろう。
女性っぽさはまったくない。
きれいな……男の、躰。
曲剣よりも直剣の似合うまっすぐな心。
いつも直剣を得意とするマハードに、カリムは風を感じていたけれど。曲剣での剣舞は炎そのもの。
荒々しくも力強い舞に、カリムはひしひしとマハードの情熱を感じる。
おおらかに山岳で育った風景が見えるようだった。 山の神をたたえる護火の守り手の家系に生まれた、とカリムは後になってマハードから聞いた。
すべての邪風を遮断して炎を守る。
マハードにカリムが感じた「風」は炎に起因するものだったのだ。
炎は夜でもみずから光を放ち、輝き続ける。
ナイルの中にあっても。闇の中にあっても。
カリムの……腕の中にあっても……
熱い……くちびる……
「カリ……ム……」
「黙って……」
吐き出される吐息までが愛惜しくて。
月光に浮かび上がったその躰を、カリムは抱いた。
そっとまわされたマハードの腕に、もっと強く抱きしめる。
夢のような……逢瀬。
気がついたらカリムは自室で目覚めて。昨日のあれは夢だったのではないかと思ったけれど。
参内して挨拶をかわしたマハードがそっと目を伏せたのに事実であることを知った。
風で舞い上がって見えたマハードの左の耳たぶ。
わずかな切り傷に赤くなっている。
昨日……抱きしめて、耳にキスしたまま勢い余って歯がかすった……跡。
痛みにだろう、ギュッ、と締め上げられてカリムは天上の快楽を得た。
太陽の光の下。そっと目を伏せるマハードは、可憐な少女のようで………… 俺が護ってやるっ!!
絶対に護ってやるっ!!
そう、カリムは決心した。
それから、カリムは何度もマハードと肌を重ねた。
闇の中、マハードの声がくぐもって響く。
カリムの鎖骨に口付けるようにくちびるが押し付けられて絶頂の声を消し去ろうとする。爪を立てかけた手を、カリムの背中でぐっと握りしめる。がたがたと震える足で、カリムを抱きしめる。
マハードのすべてがカリムには愛らしくて……愛惜しくて…………
マハードが抱きしめるだけ、カリムもマハードを抱きしめる。
きっと……相手が女性ならばここまで自分が抱きしめられるはずは無い……と言うぐらい強く……抱きしめて来るマハードの腕にカリムは至福を感じた。
剣舞の美事さに、エジプトでは作られていない鉄器をファラオから贈られたマハード。
軽い青銅の剣などとは比べ物にならないそれを、マハードの鍛えられた躰は難なく振り回す。宙に黒い軌跡を描いて居並ぶ人を魅了した。
その下げ渡された剣からも判るように。決してマハードはファラオに嫌われているわけではない。
きっと、セトの次には寵愛されている筈なのだ。
けれど。
セトがマハードに対するすべての行為をファラオは黙認している。
優しい方の筈なのに……
カリムはいつも思うのだ。
今も……
カリムは目の前の光景を茫然と見つめてたたずんだ。
俺はどうしてこんなところにいるんだろう。
カリムは思う。
ファラオの物見遊山で、ある山地に来ていた。
遷都では無いかというほどの大がかりな物見遊山を強行する何ごとも派で好きなファラオにしては随分こじんまりとした一行で。
その……理由が。
今、カリムに、判った。
呼ばれた……のだ。カリムは。
ファラオに呼ばれた。
なのに……
目の前に居たのは……セト、だった。
いつもの硬い青い官衣を身につけているセトではなくて。
夜着の緩一枚だけをまとわせた、セト。
それは……長衣だったけれど。ハッキリ言ってしまえば下着姿だ。
じゃらじゃらと異国の宝飾品を全身につけて。ただでさえ女と見紛うばかりの美貌を誇るセトはまるで光り輝いているようだった。
普通の男なら、むしゃぶりついてしまいそうな、艶姿。
その……足下。
臭い……
カリムは思わず鼻を抑えた。
男が……いた。
乞食の……男。
ファラオの道中だというのに、輿が通る真ん前でのたれ死に寸前で倒れていた行き倒れ。
二人旅で盗賊に襲われたのだ、と言っていた。
ファラオが食料を与えて保護していた……男達。
数カ月も着の身着のままの服で。とてつもない腐臭を漂わせていた。
一人は右腕がなかった。一人は傴僂だった。
切り取られた右腕には朱色の入れ墨があって……それは、隣国の罪人の印だった。
貴族から窃盗をして掴まったのだろう。腕を切られたあげくに食料も水ももたずに都払いされたのだ。
それは……見てすぐに判ったのに。
珍しくセトがその二人に食料を与えるようにファラオの指示を遂行していた。
いつもならばファラオが止まってもセトはそういう男達には見向きもしないのだ。
今。
の二人の男達がカリムの目の前にいた。
蝋燭が部屋の四隅を照らすだけの薄暗がりで。白い衣をつけたセトは闇に浮かび上がり。男達は闇に沈む。
その……間に…………
「っ…………っっっ……っ…………っ……」
薄汚れた下卑な男達の笑い声と喘ぎ。
何をしているのかなど、カリムにはすぐに判った。
間に……人間が、いる。
二人の男の間に、人間が、いた。
しかも……
どうみても…………
カリムはグッ、と自分の掌で自分の口を抑えた。
犯されて……いる……
それが、判った。
女?
カリムはその汚い男達に誰かが犯されているのが判った。
冽たい石の床に四つん這いになって……前後に男が居る。
そして……
女じゃ……無い……
闇でその人物は見えはしなかったけれど……
カリムには…………判った。
いつも感じていた……音。
自分の鎖骨の上で感じていた……音。
これは……
「っっ…………っ…………っ………………っっっっっっ!!」
この……殺した喘ぎ声は…………
悲鳴をあげそうになって、カリムはその場に膝をついて両手で口を抑えた。
激しい吐き気が込み上がって来る。
胃が裏返りそう。眩暈に立って居られない。
どうして自分が呼ばれたのか……
何か……
そんなに非道い失敗をしたのだろうか……
こんな……身をもがれるような叱責を受ける何か……
「ふん。気付いたようだな」
セトが笑みを含んだ声でカリムを見る。
その青い眼はあきらかに……嘲笑の色を浮かべていた。
助けてやらなければ……と、カリムは思ったけれど。
今なら……ひき返せる。
知らない振りができる。
彼の……尊厳を傷つけずに……済む。
抱きしめてやればいい。
口接けてやればいい。
優しく……髪を梳いてやれば、いい……
こんなことで自分の心は消えはしない。
カリムはカチカチ震える歯を食いしばってかたく目をつむった。
「見せてやれ」
セトの言葉に男が一人動いた。
「いえ、必要ありません。私は退出させていただきます」
踵をかえそうとしたカリムは入ってきたドアが開かないことを知った。外から閂を掛けられているのだ。
クククククッ……と、セトの笑い声が闇に染みる。
「こちらを向け、カリム」
「いやです」
「ほぅ……?」
いつもの……片方の眉を挙げて目を薄める。馬鹿にしたようなセトの顔がカリムにはま目に見えるようだった。
「ならば……」
バシッ!!
「あぐっ……」
激しい破裂音。
カリムはビクッ、と跳び上がって振り向いた。
セトは……手に鞭を持っていたのだ。
しなりの硬い長い……鞭。
4レメン(3m弱)もある……奴隷に使うものなどとは比べ物にならないほどの衝撃を与える……鞭。
そう。
それは、雄牛に使う以外には。
人に向けられた時には。
罪人に使う……もの、だ。
奴隷に向けられる……もの、だ。
だがしかし、それはその汚い男達に向けられたものではなかった。
「こちらに来い。カリム」
いやです。
セトの声にそう言おうとしたカリムは……目の前でセトの鞭を持った手が振り上げるのを、見た。
それは容赦なく振り降ろされ……
バシッ……
「ぐっっ……ぅっ…………ぅっ……」
薄闇なのに。鞭の先に血がしたたった。
「来い、カリム」
「やめてくださいっ!!」
もう一度手を振り上げたセトの前にカリムは身を乗り出した。
打たれた人を背にかばってセトに対峙する。
カリムの後ろに、壁の傍から臭い男が蝋燭を持ってきた。
「後ろを見ろ。カリム」
「お断りします」
くくっ……と、セトが嗤う。
「彼は罪人ではありません。
そのようなもので打っていい人間では無いっ!!ファラオの寵愛があるからと言って、いい加減にしろっ!!………………っ!!」
シュンッ……と。
カリムは目の前に風がよぎったのを感じた。
ピリピリピリ……と、頬が痛む。
セトの鞭が、先端をカリムの頬に触れて過ぎたのだ。
そして、その鞭をセトは床に投げて落とした。
自分の意見が聞き入れられたのかとホッ、と息を吐いたカリムは…………背中に、悲鳴を、聞いた。
バシッバシッバシッ!!
「っっっっっっ!!」
鞭が激しく肉を撃つ音。口を抑えた悲鳴。
セトは動いてはいない。
後ろの汚い男が鞭を取り上げて振り降ろしたのだ。
何度も……
「やっ……やめろっ!!やめないかっ!!貴様っ!!」
咄嗟にそれを止めようとしたカリムは、もう一人の男にはがい締めにされた。 臭い…………
とてつもない、臭い……垢と埃の臭い。
血の臭い……
そして……
青臭い…………
今、自分を抑えている男の股間が濡れていることを、カリムは自分の衣に感じた。
傴僂の男が鞭を奮っていた。
何カ月も磨いていないような乱食い歯がげひげひと汚く笑っている。よだれまでたらして……笑って、いた。
「こんな綺麗なヒトをこんなふうに打てるなんて…………思ってなかったぜ」
げひげひと、傴僂男は嗤う。
「腕と顔は傷つけるな。そやつはいつも腕を出した服を着ている。打っていいのは隠れる部分だけだ」
残忍に嗤うセトが告げる。
それは決して優しいのではない。
服に隠れるのならば何をしてもいい……と、言っているのだ。
「そら、見るがいい。カリム」
蝋燭が揺れる。
何かを照らし出す。
それからカリムが目をそらすと鞭の音が跳んだ。
悲鳴がくぐもる。
臭い男が嗤う。
「やめろっ!!やめてくれっ!!」
まるで自分が打たれてでもいるかのようにカリムは叫んだ。
「見ろ」
セトはただ……そう……言うだけ。
さっきから微塵にもいずまいを変えずたたずんでいる。
美しい笑みをうかべて……たたずんでいる。
カリムの顔を無理矢理上げさせたりはしない。
けれど……
カリムの意志でさせる方が残酷だ。
鞭の音が響く。
「お前が見なければ、いつまでも打つ」
「っ!!」
「どこまで人間の皮膚は鞭に耐えられると思う?そのうち骨が見えて来るぞ?
明日の朝。こやつの亡骸を抱きたいのならばいつまでも目を伏せていろ。俺はいっこうにかまわぬ。
久々に、断末魔の悲鳴を聞いてみたいと思っていたところだ」
「そっ…………それが神官の言う言葉かっ!!人間に対してそんなっ」
「人間?」
ふん、と。セトは笑った。
「これは貴様が見るも穢れと思っている腐物であろう?
元から命などあるはずもない。王宮に帰る時には、この地のこやしとなるだけだ」
「そのようなことはさせぬっ!!
汚いから見ないんじゃないっ!!」
カリムはガッ、と顔を挙げて……いつのまにか傍に連れてこられていた『彼』を間近に見てしまった。
男に蝋燭で顔を照らされている。
その顔は必死でカリムから顔を逸らそうとしているけれど。
「顔を上げよ。マハード」
セトが、言った。
その声にビクッ、と呼ばれた青年は躰を固くする。
マハード……と、言った。
マハード、と。
それは……カリムの愛する青年の、名前。
カリムには一番大事な、名前。
カリムが顔を上げたことで、後ろにいた拘束が消えた。
そして……
バッ……と。明るくなる。
部屋中の蝋燭に火が入れられたのだ。
汚い男が、蝋燭をもって壁の燭台に火を入れて行った。
「お許しを………………お許しを…………っ…………」
鞭打たれた躰を隠すように彼が身をちぢこまらせる。
マハードは、全裸……だった。
あかあかと照らされた室内で。
男達でも汚いながら服を着ているというのに。
マハードだけが、一糸もまとわず。
その清浄な肌は高貴の者でしかなかったけれど。身分を示す一切をつけず。魔封の為の化粧も施していない素の……顔。
健康的に日に焼けた肌が白く染まるほど……濡れて……血で……濡れて……
「…………お許しを…………お許しを………………っっ……」
それだけを呟いて、床に肩を抱えてうずくまる……マハード……
間違いなく。
それは、マハードで……
カリムの知っている……マハードで……
カリムの愛した……マハード……で…………
肩を抱いて躰を隠しているとは言え、全裸。
カリムの目の前。マハードは後ろに男がいるのに気付いて逃げようとしたけれど……
「かっ…………はっ……ぁっ…………」
後ろから全裸の尻を掴み上げられ、ぬれているそこに男を突き入れられた。
「やめろっ……やめろーっ!!」
カリムが駆け寄って男をマハードから引き剥がそうとする。
カリムに多少の武道の心得があろうと。
数日前まで行き倒れていたとは言え、修羅場をくぐり抜けて来た男達に叶うはずはなかった。
後ろから抱えるように犯されるマハードの胸を、傴僂男が笑いながら鞭打つ。
「やめろっやめさせてくれっ!!どうしてこんなことをするんだっ!!いつもっお前はっ!!どうしてっ!!」
「下がれっ!!」
男達にどうすることもできなくて、カリムはセトの胸ぐらをつかみ上げた。
その……瞬間。
別の声が部屋に響く。
その声を、カリムが忘れる筈が無い。
その時になってようやく、カリムは部屋の奥に御簾があることに気付いた。
「下がれ、カリム。
誰がセトに触れていいと言った」
その……声。
「ファ……」
ラオ……、と言い掛けて。カリムは神官以外の男達がいることを思い出し、口を閉ざした。
現人神が御簾の向こうにいることを男達に知られてはならない。
ファラオのお声掛かりで助かった男達とは言え。現実にファラオが手づから食事をさせたりしたわけではないのだ。
ファラオの傍にいる名誉など、こんな男達に気付かせてはならない。
今すぐ死んで砂漠の虫に生まれ変われっ!!と思う程の男達にそんな幸せを感じさせてはならないのだ。
もとより。
ここはファラオが居するような場所ではない。一応四方を壁で囲まれてはいるけれど。町外れのあばら家には違いなかったのだ。
カリム達神官とシモン、そして衛兵と女官だけはファラオの前で立っている栄誉が与えられていた。他の者は立ち上がることはおろか、地面に額をすりつけて顔を上げることすらしてはならないのだ。
「ですがっ……」
カリムはわなわなと躰を震わせて言葉を継ごうとして……
「手首を切り落とされたいのか?」
静かにファラオに言われて、カリムはセトから手を離した。
カリムの手が離れたことなど…………もとより、襟首を掴まれていたことさえおくびにも見せずセトは美しく微笑んだ。
乱れた襟もそのままに、蒼い瞳はカリムからマハードに流れる。
「心配せずともよかろう?俺は愛でているだけだ」
蒼い瞳がカリムからマハードに映る。
先程から、マハードも気付いていた。
押し殺した……その、マハードの声が……
声が…………悦楽の響きを含ませていることが。
先程見てしまったのだ。
マハードの中心が…………固く、勃ち切っていたことを。
カリムは……ふわり、とくちびるに何かが触れたことを感じて目を開けた。
否。今まで目を閉じていたことに気付いた。
蒼いセトの瞳が目の前にあった。
カリムは……今。
触れるだけだったとは言え、セトにキスされたことに気付いた。
何の香なのか。
セトの肌から甘い匂いが立ち上る。
婉然と、セトが微笑む。
「俺は、愛でているだけだ。
こやつの…………悲鳴をなっ!!」
「ぎゃああっっっっ!!」
セトの声と同時に、マハードの悲鳴が響きわたる。
咄嗟に振り返ったカリムの視線の先。
さっきまでマハードに鞭を奮っていた男がマハードに抱きついていた。
マハードの最奥に二人分の男がはいっているのがカリムに判る。
「ひぃっっ…………ぃっ…………いっ……ぎっぃっ……」
もう……マハードの口からも甲高い悲鳴はもれなかった。
息を吸い込む時に器官が出す音しか……無い。
激痛に躰がすくんで、悲鳴すら上げられないのだ。
「動け。俺はこやつの声が聞きたい」
「ひっ……ぎっぃっっっ…………ぁっ…………ギャアアアッッッッッ!!」
セトの言葉に男達が激しく動き出した。当然のように引き出される、悲鳴。ボロ屑の中でのけぞって引きつる……躰。
その悲鳴を上げるマハードのくちびるに、男達が汚い自分の唾液を注ぎ込む。臭い口で無理矢理に口接けて腰を叩きつけた。
「お許しをっお許しをっ!!」
カリムはただ……跪いた。
ひれ伏して、セトにではなくファラオに額を擦りつける。
「ぐっ…………」
その、背中にカリムは激痛を感じた。
ひれ伏したカリムの腰にセトが腰を降ろしたのだ。
足を高く組んでゆったりと腰を落ち着ける。
カリムは息もできないほどの圧迫に脂汗を流した。
もう……許しを請う声も出ない。
「やっ…………やめっ…………カリムはっ……カリムにはっ何もっしないっ……でっ……くれっぇっ!!」
悲鳴の中、マハードが叫んだ。
「何でもするっ…………俺がっ…………なんでもするっ…………からっ…………しますっからっぁっ……カリムにはっ……ぁっ。あああっっ!!むぐっ……」
男に口を塞がれてマハードが身を捩る。乳首をもって振り回されて、言葉を紡ぐこともできなくなる。
涙を流して。男達のよだれで顔中に腐臭をこびりつかせて、マハードは泣いた。
鳴いた。
涙が頬に染みる。
マハードの頬に一条の擦り傷がついていた。
先程、男達の鞭が当たったのだろう。
カリムはセトが立ち上がったのにようやく息をついた。
そしてマハードを振り返って…………
血飛沫き。
カリムの目の前が……真っ赤に、染まった。
「誰がこやつの顔を傷つけていいと言った」
冽たい、セトの、声。
マハードの全身が真っ赤に染まっていた。
セトの腕が水平に振り切られている。
マハードの前に居る男は…………
首が……
なかった。
「ひっ……」
カリムが息を呑む。
セトの無礼打ちは王宮でも何度かあったけれど。こんなに傍で見たことは初めてだった。
剣も何も持っていないセト。
手刀でかまいたちを作り出して目の前の物を切り刻む。簡単な術だけれど。それを人体に向けて行う者は少ない。
男の首から噴水のように吹き出した血がマハードの顔に吹きつけて、マハードがむせ返っていた。
「うっ…………うわぁっ……」
マハードの後ろにいた男が悲鳴をあげる。
咄嗟にセトが呪文を唱えて男の動きを止めた。
男には……触れているのだ。
今……首の無い相棒の男根が。
セトの呪文のせいで、萎える前に固定された自分の物に、死体のそれが……触れて、いるのだ。
首の無い男の躰がマハードに倒れ込む。マハードも後ろの男に倒れ込んで…………まるで、死体に犯されているかのような……
全身に血を浴びて、マハードはがたがたと震えていた。
「どうした?悲鳴も上がらぬのか?」
セトが嗤う。
「お……許し……を………………」
カチカチと歯を鳴らしてマハードが泣いた。
死体に抱きつかれて……あまつさえ…………一瞬で死後硬直した死体の男が突き刺さったままなのだ。普通なら狂っているだろう。
神官であるマハードは……常人よりも精神の鍛練ができているから狂うことはできない。
失神することも……できないのだ。
「ひっ…………ひぃっ………………………………ひっ…………ひっ…………」
ひきつるような息を吐いてマハードが震える。
カリムはもう……茫然として、動けない
蒼白なその目尻の引きつった顔にセトが満足げに微笑んだ。
「本当に………………お前はかわいい顔をするな、マハード……」
婉然と……楽しげに微笑んでセトは囁いた。
今までにカリムが見たことが無いほど…………セトは、美しく微笑んで…………
狂気に……微笑んで……
セトが欲情しているのをカリムは感じていた。
いつのまにか…………ファラオが御簾から出てきて傍に立っている。
後ろから、セトを抱きしめて、口摂け……た。
見あげているカリムにファラオが薄く嗤う。
セトに口接けながら、カリムを見て、嗤う。
「美しいだろう?」
まるで宝石を愛でるかのようにセトの躰を撫で回してファラオは言った。
「こやつは、マハードを責めているこの瞬間が一番美しい」
ファラオの……言葉。
それに、カリムは…………知った。
なぜ、マハードを責めるセトをファラオがたしなめないのか。
そして……
「あっ…………はっぁっ……………………あっ……がっああああぁぁぁぁっっっっ!!」
マハードが、叫んだ。
空気に糸を引くような……悲鳴。
死体を押し倒して、マハードが腰を振っていた。
恐怖に神経が振り切れてしまったのだろう。真っ赤に濡れたその顔は狂気に笑みを浮かべて…………
ファラオはセトと御簾の向こうに消えている。
カリムはただ…………
茫然と悦楽に濡れるマハードを、見つめて……いた。
「なんということだ……」
カリムはマハードを前にそう呟いた。
血の饗宴で失神したマハードを自分の寝所に連れ帰ってきたのだ。
泉の水でマハードを清めてはいたけれど。鞭で裂かれた傷はぱっくりと口を開けたままだ。
泉で清めている最中にマハードは目をさましたけれど。薄く目を開いたまま、一言も喋らない。
カリムはただ、マハードの躰を清めて、服を着せ、寝所に横たえた。
「何も…………お聞きにならないのですか?」
そっと部屋を出ようとしたカリムに声がかかる。
カリムは静かに振り返って……マハードが寝台の上で自分の顔を両手で覆っているのを見た。
そっと歩み寄って寝台に腰掛ける。
さわさわと短いマハードの黒髪を撫でた。
「寝なさい」
そっと囁く。
「俺……」
「何も言わなくていい。寝なさい」
「俺…………カリム……」
「マハード……」
カリムはマハードの頬にそっと手を添えた。
外では「わたしが、わたくしめが」と自分を名乗るマハード。その彼が「俺」と自分の事を言うのは、郷里の家族と友人達と、カリムに、だけ。
わたしがわたしが、と頑張っているマハードがふと、カリム相手に初めて「俺」と言った時。カリムはとてつもない愛おしさを感じた。
それは甘えてくれた証拠なのだ。
カリムがマハードの郷里の者達と列んだ証拠。
.マハードは慌てて言い直した。王宮に出入りするものとしてはその口調は確かに相応しくは無い。けれど。
「俺、でいいよ。マハード」
「でも……下品な言葉つかいでしょう?育ちが知れます…………気をつけてはいたのですが……」
「君はずっとそうだったんだろう?
俺、という君が本当なら、私はその方が嬉しいよ。
それが本当の君の言葉だろう?
ファラオに向けるためでも無い、公に言うものでも無い。
私にだけそうなら、嬉しいよ。マハード」
何度も何度もそう囁くカリムにマハードは「俺」と言うようになって。
二人っきりの時だけだ。
誰かがいれば、マハードは私事の時間であろうと「私」になってしまう。
けなげでがんばりやの、マハード。
愛おしいマハード。
あんな血の饗宴を見たからといって。カリムは彼への興味を失うことは無かった。
ただ、マハードの体が心配だっただけだ。
「君を愛してるよ……マハード」
「カリム……」
「愛してる…………愛してるよ、マハード…………
何も気にしなくていい。
何も言わなくていい。
寝なさい。
ずっとついていてあげるから」
さわさわ……
優しくマハードの頭を撫でながらカリムは囁く。
静かな声で囁く。
顔を覆ったマハードの掌の下からしずくがこめかみに流れ落ちた。
「俺……あなたに愛してる、っていっていただける資格……ありません……」
途切れる声でマハードが告げる。
「どうして?
君がここにいるだけで、私には君が愛惜しいよ」
「俺…………あなたの前にいるのが……恥ずかしい……です…………」
「どうして?
君がここにいてくれるだけで私はこんなに幸福なのに」
ぐしゃっ……と。マハードの掌が己の顔の上で拳を作った。その下から止めど無くしずくが溢れていく。
「俺…………俺………………汚い……です……」
「そんなことないよ」
「汚い……です……」
「そんなことはないよ、マハード」
「汚い……………………んです……」
「君は綺麗だよ」
「触らないでくださいっ……」
マハードがカリムの手を振り落として起き上がった。
全身の激痛に呻き、カリムが支えようとしたその腕を避けて寝台の上を逃げる。
小さな……女のコのように躰を竦めて……逃げる……
「俺なんかに触ったら…………あなたが……汚れてしまいます…………」
「マハード……」
「あなたが………………カリムっ…………」
だくだくと涙を溢れさせて、マハードはカリムを見つめた。
「俺…………セト様に………………逆らえ無い…………んです……」
「知ってるよ」
「俺…………………………俺……」
「マハード…………寝なさい。
あちこち怪我をしてるんだから。起きてるだけでも辛いだろう?」
「俺………………カリム……………………」
「セトは君の上司だからね。
君は死んでも下克上なんてできそうにないし」
「そうじゃなくてっ……」
涙を振りまいてマハードが首を振った。
自分の頭を抱えて、首を振った。
「感じてたね。マハード」
カリムは、言った。
びくっと、マハードが震え上がる。
言わせたくは無かったけれど。マハードが言いたいのなら聞いてやるけれど。
とにかくカリムはマハードに寝て欲しかったから。早く話を切り上げたかった。
マハードの躰は非道い傷を受けていたけれど。回復の呪を唱えて一晩寝れば治る。
それだけの修行はマハードも自分もしている。
セトもマハードの社会的な面を潰そうとはしていないのだから、その趣味は押してはかれた。マハードが許容しているのならば、カリムが文句を言うべきものでは無い。
とにかく、マハードの傷を癒すことがカリムには先決だった。
一晩経てば治ると入っても、今現在、傷付いたままなのは確かなことなのだ。
「凄く気持ち良さそうだったね」
カリムの言葉にマハードが硬直する。
そっと……カリムは寝台に乗り上げてそんなマハードを抱き締めた。
「もっと気を楽にしなさい。
君が気持ちいいのなら、いいんだよ。自分を責めないで。もっと楽になりなさい」
「だって…………だって……………俺…………汚い……」
「快楽に貴賤は無いだろう?」
カリムは、そっと……逃げようとするマハードの背を抱きしめて囁く。頭を撫でる。
「セトも楽しそうだった。セトの美しさにファラオも満足そうだった。君も気持ち良かった。
誰が困るんだい?誰も困らないだろう?
なら、いいじゃないか。
君は綺麗だよ。マハード……
とても綺麗だ。
自分を汚い、って言う言葉は、本当に汚い者からは出て来ないんだよ?判るだろう?」
そっと……カリムは囁く。
「私を汚したくない、と言ってくれる。
その心は誰よりも綺麗だよ」
カリムは口付けるようにマハードに囁く。
「間違い無く、君は綺麗だよ」
少しでも息を粗くすると舞い上がる羽毛の塊を撫でるかのようにマハードの背を撫でる。髪を梳く。
ふわりふわり、と。マハードの額に口接けた。
だくだくと、流れる涙を拭いもせずにマハードはカリムを見あげる。
「俺…………あなたの傍にいて……いいんですか?…………カリム……」
「君が私の傍にいるのに誰の許可がいるんだい?
君の体を縛るものは、君自身の心だけだよ」
優しくカリムは囁く。
カリムの言葉に、マハードはくしゃくしゃと子供のように顔を歪めて泣いた。
おずおずとカリムの胸に顔を埋め、カリムが抱きしめてくれたのにしがみついて泣いた。
「愛してるよ、マハード。
私はいつでも君を愛してる。愛してるよ愛してる……」
カリムの言葉がマハードをゆっくりと包み込む。あたたかく包みこむ。
「そうだね、ひとつだけ不満があるよ。聞いてくれるかな?」
少しマハードの躰を引き離してカリムはマハードを覗き込んだ。
ひくひくとしゃっくりを繰り返すマハードが、怯えたようにカリムを見る。
こつん、と。カリムはそんなマハードに額を合わせて瞳を覗き込んだ。
「君は、一度も私に『愛してる』と言ってくれたことは無いね」
「あ……」
「それだけが不満だよ」
にっこり。
カリムは目を糸のように細めて微笑んだ。マハードを見つめる。
マハードは目をぱちぱちとまばたきしてカリムを見た。
そんなマハードに、カリムはおおげさにため息をついて見せる。
「ここまで言ってもまだ君は言ってくれないんだね?
もしかして、嫌われてるのは私の方なんじゃないのかい?」
「違いますっ!!」
カリムの言葉にマハードは即答した。
「違いますっ!!そんなことっ……俺があなたを嫌ってるだなんてあるわけないですっ!!」
驚きに涙も止まってしまったかのようにマハードが言い募る。
そんなマハードにカリムはもう一度にこっ、と笑った。
「じゃぁ、言ってくれるね?」
「あ…………」
なんだかうまく言いくるめられたような気がしてマハードはくちびるを噛んだけれど。
「あ………………愛して……ます…………カリム……」
たどたどしい言葉でマハードは言った。
言って、真っ赤になって俯いてしまう。
「君は嘘を言う時に視線を逸らすね」
「嘘じゃないですっ!!」
慌てて顔を挙げてマハードは言った。
「俺は……あなたを愛してます…………カリム……」
まっすぐに、カリムを見つめてマハードは告げた。
「愛して……ます………………カリム……」
カリムの焦がれた純粋な瞳からしずくが流れ落ちた。
それは、さっきまでの嫌悪の涙ではなくて……
マハードの素直な頬にきらきらと輝いて落ちる。
「私も、君を愛してるよ。マハード……」
「カリム……」
「マハード……」
二人で見つめ合って………………口接けた。
雲が差して、二人の姿が闇に飲み込まれる。
砂漠の月さえも隠れる様なキスだった。
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