蝶ネクタイと燕尾服までは要求されてはいないものの、これから向かうのはジーンズやランニングシャツお断りの小うるさい店。軍用装備にはやたらとこだわるくせして日常着にはてんで無頓着なハーネマンは、果たしてまともな格好で出てくるのだろうか? だが、そんな不安には何の意味もなかった。 いや、正確に言うならば、いつも通りの官給の黒Tシャツとオリーブグリーンのカーゴパンツの上には、彼なりの精一杯の言い訳なのだろうか、破産宣告を受けたばかりのガソリンスタンドの親父が教会のバザーで貰ってきたような、くたびれたタータンチェックのパーカーをはおっている。 「ミッヒそれって......」 「いや、それはそれでいいんだけどね......」相手を傷つけまいとひとまず持ち上げてはみたものの、それでいいわけなんぞあるはずない。 間もなく自室から戻ってきて、肩で息をする青年の両手に抱えられていたのは、ロッカーを引っかき回して選ばれた、カットやステッチに凝りに凝ったブランド物。 「ハァ......ハァ......俺ので悪いけど......」とクーパーはブラックレザーのグッチを差し出した。
「なぁミタル、あれ、一体誰だった?」
シーフードを供する店だけあって海をイメージしているのだろうか。深いブルーで統一した店内には、一張羅を身にまとった紳士淑女がささやくように会話する声や、カチン......と控えめにグラスを合わせる音が凪いだ海の波音のようにさざめいて、ハーネマンの言葉を借りるならば、全てにおいて「クソスカした」雰囲気が漂っている。 そんな店の一番奥にどっしりと鎮座した大理石のテーブルに、かっちりした黒いシルクのパンツスーツに身を包んだオデッサと、象牙色の柔らかなワンピースに、手の込んだ刺繍入りのスカーフをふわりと巻いたターナーは、シェフからプレゼントされたマティーニを並べてふくれっ面で座っていた。 「遅いわね」と、カクテルグラスの底でたゆたうオリーブを、銀のピックで暇そうにつつくオデッサに、「きっとミッヒの服装でモメてるんだわ」とうんざり顔で答えるターナー。さすが慧眼の持ち主だけあって図星である。 だがほどなく、ちょびヒゲの澄ましたフロアマスターに案内され、約束の時間よりも15分遅れてやってきた男どもを目にした二人は、思わず手にしたグラスを取り落としそうになった。 「いやー、悪ぃ悪ぃ、出る前にちょっとゴチャゴチャしちゃってさあ」 だが、スポットライトを独り占めしそうなハンサムの後ろから、仏頂面を引っさげて影のように現れたドイツ男には、ちょっとやそっとのことでは動じない女性軍人たちも息を呑んだ。 「まぁあぁあ......ミッヒ......驚いた!」 ドレープをたっぷり取った深いブルーのビロードカーテンを背景にして、どこかはにかんだ風に立ちすくんでいる、抜けるように白い肌のスキンヘッド男の奇妙な色気たるや、正にフィクション世界の住人のそれである。 前立てだけではなく、袖や裾にもジッパーがあしらわれたブラックレザーのジャンパーは、細身な体にぴったりと寄り添って一分の隙もなく、顎が隠れるほどの高さを取ったスタンドカラーは、完璧な頭の形を際だたせるフレームの役目を果たしている。 さすがにパンツは体格のいい連れの物だけあって、ややゆったりめではあるものの、裾をロングブーツにたくし込んでいるから、そのゆとりがかえってスタイリッシュな雰囲気をかもし出している。 加えて、顔全体をおおうラップアラウンド型のサングラスときたら! 「ねえ、そのジャケット、グッチでしょ?」「んなもん知るか」 そんなターナーの誉め言葉にも相も変わらず不機嫌なハーネマンは、ワイリーエックスの軍用グラスをはずしながらブツブツと毒づいた。 プンプンするハーネマンを前にして、クーパーと顔を見合わせ苦笑したオデッサが、腕時計に目をやって、「あら、もう6時半!」とわざとらしく驚いてみせた。「ミッヒの言うとおりね。そろそろオーダーしなきゃ飢え死にしそう」 一方、ターナーはといえば、事前にクーパーから聞いていた通り、ありふれた男女カップルに見えるようにと、自分の隣の席をハーネマンに指し示す。 だが、ウォートランの誇る生え抜きの女性教官は、灰緑色の視線がほんの一瞬、まるで救いでも求めるかのようにクーパーへと投げかけられたのを認めるや否や、あっさり前言撤回したのだった。
彼女はさっきのは若い女性にありがちな気まぐれだとでも言いたげに、陽気な調子で言い添えた。 女性のペアと男性のペアが二人並んで向かい合って座っているのは、ほんの少しばかり奇妙な光景だったかもしれない。だが、店側としてはドル札さえ気前よく落としてくれれば、そんなことはきっとどうだっていいのだろう。 客の人間関係なんぞには全くもって関心がなさそうなウエイターが、ほどなくテーブルに運んできたのは、金で縁取られた革張りのメニュー二冊。 手渡されたメニューを気乗りがしない様子で開いたハーネマンは、紙面に印刷されたもったいぶった筆記体を、こぼれ落ちそうに大きな瞳で見つめている。 だが、上から下、ページからページへと視線が移動するにつれて、その表情が夕立ち前の空のようににわかにかき曇るのを認めたクーパーは、喉から心臓が飛び出しそうな思いでスーツをまさぐると、ポケットに忍ばせたカレー粉の小瓶をしっかりと握りしめたのだった。 <TO BE CONTINUED> |