LADY LUCK
青年はまぶたを閉じて眼窩のふちを親指と人差し指で何度か押さえた。固い頭蓋骨に守られたひ弱な視覚器官とそれらを包む薄い皮膚の感触。
再びまぶたを開くとバハマの海に似た瞳が現れて、赤と黒に色分けされたボードの中心を凝視する。
ティアドロップ型の羽に飾られた小さな遊具を掲げて呼吸を整えた。だがとたんに一滴のインクをコップの水に垂らしたようなもやもやしたものが胸一杯に広がって、ダーツはあらぬ方向目指して飛び立った。
名人の美技を拝見しようと背後で固唾を呑んでいた若い女たちは、くすくす笑いながら散らばってゆく。
あとに独り残されたロメオ・クーパーは遠ざかるヒールの音を背中で聞きながら、こぶしで目をごしごしこすって椅子に腰をおろすと黒いベルベットの上着をまさぐった。
「何してる?暇だったら飲みに行かないか?」「すごく寂しい。会いたいの」
「今ノードシーノ。牡蠣食べに来ない?皆待ってるわ。10時頃までいます」「あれからよく考えたけど私たちやっぱり無理みたいね」「バンク・オブ・アメリカより入金のご案内」
「連絡待ってます。一万回のキスを・ローザ」「あなたって人でなしの冷血漢」
携帯電話のメールボックスはさまざまな送り主からの、主に女たちの思慕と怨嗟の声に満ちあふれていたが、その中に望みのものはただの一件も見あたらなくてーいや、そもそも相手は私用で携帯電話は持たない主義だから当然なのだがーすっかり気落ちしたクーパーは“受信ボックスを空にする”キーを腹立ちまぎれに押下した。
「あなたって人でなしの冷血漢」
消去したばかりのメールがちらりと頭をよぎる。同時に呼び起こされた記憶は、半日前に送信者から浴びせかけられた非難の声、疑問符の嵐。
ひどいわ、楽しみにしてたのに。仕事ならまだ我慢できるけど、どうして無理なの?誰と会うの?私のこともう愛してないの?他に好きな人ができたの?そんなのぜったい許さない。
「嘘も方便」とは恋愛関係を円滑に進行せしめる金言だとクーパーは常々思っている。
「急な仕事が入った」というのは異性の愛を一身に受ける幸運に恵まれた青年が、逢瀬の約束がかぶった時に当たり前のように使ってきた方便で、今日もそう言えば済む話だったのに。
聖人君子でもあるまいに、どうして今日に限って要らない波風を立ててしまったのか、自分でもよく分からない。
今夜会うはずだった相手は、トロイのヘレネの如く男たちからの崇拝を一身に浴びる美女。
さしもの女たらしのクーパーですら、輝ける貢ぎ物がうず高く積み上げられた祭壇にはおいそれとは近寄れなくて、あらゆる手練手管を弄し一年近くの時間をかけて女王の歓心を買った結果、ようやくプライドの鎧に守られた柔らかい心のひだに触れた感触を得たばかりたというのに……。
ここまできてすべてをあっさり放棄した挙げ句、どうして俺はこんなしょぼくれた店で3時間も粘ってるんだろう?
涙まじりの声が、うっかり消し忘れたまま寝てしまったテレビの音声のように頭に響いてくる。
私のこともう愛してないの?他に好きな人ができたの?
すすり泣く女にそう問われた時、はっと息を呑んで相手を凝視したまま言葉に詰まってしまった。
今、自分の中に芽生えつつある感情は、果たして「愛」という黄ばんだレッテルを貼るべきものなのか、クーパーにはよく分からない。
彼女のことはきっと、いや多分まだ愛している。男なら誰もがその寵愛を夢見るであろう美しく豪奢で女王然とした女のことは。
だがあの男、人とそれ以外のものがまだ分かたれていなかった先史の暗い森の中から突如として姿を現して、超然と目の前に立っているかのような男と並べると、黄金の祭壇に祀られ乳房も露わな薄衣をまとった女神の本質が、唐突に鉛の偶像に思えてしまったのだ。
腕のパネライに視線を落とすと約束の時間から3時間12分が過ぎていた。 身体の奥からは希望が刻一刻と漏れだして、代わりにあきらめが染みこんでくるようだ。
そんな自分を励ますようにクーパーは大げさな舌打ちをひとつした。
何を話しかけようと取りつく島もないドイツ人と、廊下ですれ違ったのは今朝のこと。
どうです、ひとつ飲みにでも行きませんかと半分習慣から声をかけると、つんのめるように足を止めて、浅瀬に沈んだエメラルドを思わせる大きな目で見つめられたから驚いた。
次に男は窓の外に目を移してニレの梢を数秒間凝視していたが、一体何を思ったのだろう、かすかにうなずいて「今夜なら」と無愛想に付け加えた。
その反応は思い起こせば今ひとつあいまいで、ひょっとするとあの時自分はいつもの如く「ヤー」ではなく「ナイン」と答えられたのではなかろうか?と酩酊にしびれた頭は混乱してくる。
ギギーッ、と音がしてクーパーは振り返った。入ってくる客に出てゆく客。この3時間でさまざまな人間の出入りを観察したが、自分はといえば年季が入って黒ずんだテーブルに昆虫標本よろしく貼り付けられたまま。
相手が自分を見つけるよりも先に自分が相手を見つけたくて、ドアの音がするたびに伸びあがって入り口を気にしているうちに、どんどん惨めになってきた。
本当に単なる勘違いだったのかもしれない、と疑念はどんどん膨らんでくる。苦労して取り付けた女との約束を反故にしてまで待っているのに、一体なんなんだ?この仕打ち。
普通なら連絡もなしに人を3時間以上待たせないだろう? でなけりゃよほどの冷血漢だ。
「冷血漢、か」
女からのメールに記された言葉を思い出したクーパーはジンを一気に飲み干して、自分をあざけるかのように声に出して繰り返した。「そうだよな……冷血漢だ」
ニスのはげかかったテーブルに両手をついて立ちあがり、おぼつかない足取りでカウンターに向かう。
空になったグラスを掲げ、精一杯しゃんとした声で「グロリア!もう一杯たのむ」と呼びかけると、奥のスツールに腰をおろして煙草をふかしていたカーリーヘアの女が面倒くさそうに腰を上げ、ラベルでヴィクトリア女王が微笑んでいる酒瓶をカウンターに置いた。 ボンベイ・サファイア、得難い宝石を模したブルーの瓶。カウンターに身を預けて酒臭い息を吐いている青年の目と同じ色の瓶。
「同じのでいいの?」
ルーン文字が彫り込まれた金の指輪をはめた節の高い指をグラスに延ばしながら、女は眉間に皺を寄せた。「お節介言うのも野暮だけど、もうこれ以上はやめといた方がいいんじゃない?ロメオ、あんたすごく酔ってるよ」
だが、「だいじょうぶ……あと一杯……」と乞われると客の要望を聞き入れるしかない。女はため息をつきながらうつろなまなざしをした青年のグラスを透明の液体で満たした。
「サンキュー、グロリア」
もつれる舌で礼を言い、ぞんざいなカットがほどこされたロックグラスを高々と掲げるや否や、クーパーは中身を水のように飲み下した。
かすむ目をこらして時計を見ると、約束の時間からすでに4時間が過ぎていた。彼が現れることはきっともうないのだろう。最後までしがみついていた希望が音を立てて砕け散る。
身体の力が抜けたクーパーは、カウンターに突っ伏すと頭から落とされるような眠りについた。
眠くてたまらないのに何度も頭を小突かれてむかついた。夢うつつで手を払いのけると後頭部をおもいきり殴りつけられて、テーブルとぶつかった額ががつんと物騒な音を立てる。
何が起こったかよく分からないまま顔をしかめて重いまぶたを開くと、オレンジ色の照明を背負って立つ異様なまでに蒼白な姿が目に飛び込んできた。内にこもってどこかしらシャーマンじみた顔は逆光のせいでどんな表情を浮かべているかよく分からないものの、きっといつもと同じく嫌味たっぷりの薄笑いを貼り付けているのだろう。
「よお、お嬢さん。もうねんねの時間か?」
あざけるように言われた青年は、嬉しいのか腹が立つのか、愛しくてたまらないのかそれともこの場で撃ち殺してやりたいのか、解析不能な感情に押し流されそうになりながらも思いきり皮肉で冴えた言葉を探したが、口をついて出たのは己のものとは信じがたいほど情けない声と、変わりばえのしない台詞だった。
「くそっ!何時だと思ってるんだよ……畜生!この……冷血漢……!」
だが男は眼窩を覆う薄い皮膚をほんの少し動かしてこう言った。
「は?冷血漢?それって何語だ?キヒヒヒ」
底意地の悪い言葉と癇にさわる笑い声に、ここまで取っておいた気力が一気についえた。もう何がどうだっていい。今はとにかく眠りたい。
クーパーは絞り出すように「もういい」と言ったきり、両腕で顔を覆うと再びまぶたを閉じた。
軽く小突いても「押さないでくれ……すぐ行くから」とうめくばかりでちっとも立ち上げる気配はない。 男は初めて見る昆虫を観察する子供の興味をもって、短く刈り込んだ小麦色の頭を眺めていたが、やがてふん、と小さく鼻で笑うとカウンターの女を身ぶりで呼んだ。
「アードベックのロック……」そしてふと思いついたように付け加える。「それからチェイサー」
グラスにウイスキーを注ぎ終えると、女はスツールに腰をおろして煙草に火を付けゆっくりと煙を吐いた。
グラスを鑞の色の両手に包んだ男は、背中を丸めて無言のままで琥珀色の液体を見つめている。
その隣で静かな寝息を立てている青年は、目の前のチェイサーの氷が溶けて徐々に小さくなってゆくのにも気付かないまま、幸福な夢に時折かすかな微笑みを浮かべるのだった。
<THE END>
sugio525さんから「クパハネっぽいですよー」と教えて頂いた、ロッド・スチュワートのLADY
LUCKをベースにして書いてみました。
ハネ=幸運の女神と言うのは無理があるなと思いつつ、曲名通りの題名でいきました。歌詞はこちらさまが紹介してくれていますのでどうぞ。ttp://www.lyricsmansion.com/print.php?number=28031 この歌詞によれば女をひたすら待つ間にベロンベロンに酔っぱらってしまった男のもとに、待ち人は現れたのか?それとも彼の夢のできごとなのか?本当のところはどっちだったんでしょうね。
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