DON'T LET ME DOWN
ド、レ、ミ、ファ、ソ......
なんて下手くそな奴なんだろう。
音感なんぞこれっぽちもないってのに、何かの手違いで音楽課に配属されたのだろうか。不運なひよっこが奏でるホルンの音が、どこか遠くから風に乗って聞こえてくる。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ......
あーあ、またしてもフラット気味によろめいた。
基本中の基本からしてこの調子では、音楽課の教官・ハマノフも奴を一人前に仕立てるまでにさぞかし苦労するに違いない。
だが、クーパーはそんな調子っぱずれな管楽器にも、今日に限っては寛大だった。
ぎごちなく奏でられるホルンやチューバの音と、頭上の楡の木の立てるざわざわ優しい葉音、そして演習場から遠く響いてくる、ありとあらゆる種類の銃声。
それらが絡み合って奏る奇妙なハーモニーをBGMに今、すっきりと整った青年の面に浮かんでいるのは、舌ビラメのムニエルを腹一杯食べて、暖炉の前でくつろいでいる猫のように平安に満たされた表情。
彼の目の前には、ティーパックが突っ込まれたまま冷めるにまかせたアールグレイの紙コップ。
そしてイスラム風のバラ模様に飾られたイラン製のコーヒーカップを、仏頂面で傾ける男。
緑に囲まれたこのカフェで、好きな人を眺めながらお茶を飲むのはクーパーのささやかな夢だった。
戦地での兵隊同士の色恋沙汰は御法度である。
だが、ここは戦地から遠く離れたアメリカ本土にある対テロ組織の教育施設。そこまで神経質になる必要はなかろうにとクーパーは思うものの、決まり事はひとまず尊重する国民性だからだろうか。
自分と一緒にいるところを、人に見られるのをひどく嫌がる相手を説き伏せて、ようやくここに呼び出すまでにはかなり手こずった。
今日は天気がいいですね、ちょっと外でお話ししませんか?"Nein"
コーヒーがお好きなんでしょう、いいコーヒー豆が手に入ったんでどうですか?"Nein"
アイラ島で作ってるシングルモルトの珍しいやつが......"Nein"
そう、あれはもう二ヶ月も前になる。
反感しか抱いていなかった上官とひょんなことから一緒に飲みに行き、あろうことかベッドまで共にしたというのに、相手のよそよそしさは一向に失せる気配がなく、さしものプレイボーイもいささか自信喪失気味であった。
たいがいの女は難なく落とせるぜ。
そんなことを鼻高々に自慢していた自分が、今となってはどうしようもなく馬鹿で世間知らずのクソガキに思えてくる。 百人の女を口説けても、こんなオッサン一人思い通りにできない恋のテクニックなんぞなんの意味もない。
今までは有効だったどんな手練手管を弄しようとも、一向に自分のペースに乗ってくれない気むずかし屋に、色男はただ、面食らうばかりであった。
クソッ、こいつブチ殺してやる!と心の中でいったい何百回ぎりぎり歯噛みをしたことだろう。
こんなにコケにされながらも追いかけることを止められない自分がクソいまいましかったが、今さら後には引けやしない。
もっと早く降りていればよかった、とちらりと後悔の念が頭をよぎったこともある。だが、越えるべきハードルは高ければ高いほどファイトが燃えてくる自分の気質を再確認することに、どこか心地よさを感じていたのかもしれない。
俺、ブッシュの中を這い回って必死こいて獲物を追う猟犬みたいだな。
渋々ながらようやくここまで出て来たはいいが、さっきから口を閉ざしたままぼんやりしている男を眺めながらクーパーは思った。
猟犬、猟犬、それもマゾッ気たっぷりのワン公だ。
ともあれ艱難辛苦の結果、イングリッシュセッターは今ここにようやく獲物を捕捉した。
イスラエルのメーカーが開発中だという最新式の銃のことで相談があると持ちかけると、あっけないほど簡単に返ってきた"Ya"の返事。
銃器のこととなると必死になる奴だと分かっているからこそ、プライドにかけてこの手は使いたくなかったものの、悠長に駒を進めるほどの忍耐力はクーパーにはこれ以上残っていなかったのだ。
ここから一歩でも先に関係を進めたいがあせりは禁物。今はこれだけで十分だ、とクーパーは柄にもなく少年じみた陶酔感で一杯になる。
だがそんな感慨は、不意に背後から投げかけられたフランス訛りのバリトンによって打ち砕かれた。
「よぉ、ミッヒ。久方ぶりだなあ!」
彼をミッヒと呼ぶのは、ウォートランでは今のところブッチョとターナーとオデッサしかいない。
ブッチョとターナーは、警戒心を持たせずに人と接することが出来る生来の気安さによって、そしてオデッサは同国人同士というささやかな親近感ゆえだろうか。
とにかくこの三人を除くとーもちろんクーパーすらもーハーネマンを馴れ馴れしくファーストネームで呼ぶことについては、断固とした拒否を示されていた。
だが、このバリトンの声の持ち主は、なんの遠慮もなくミッヒと呼んでいる!
クーパーは怒りを込めた目で振り返った。
するとどうだろう、自分の頭の上を通り越しハーネマンに熱い視線を注いでいるのは、年の頃は40過ぎだろうか、燃えるような赤毛頭をスクウェア型に刈り込んだひげ面の大男。
いや、大男とはいっても身長はクーパーよりも拳ひとつ分ほど高いだけだから、ブッチョほどの巨漢というわけではない。だが、鍛え上げられてくっきりとカットの入った筋肉と、荒々しい原野のような雰囲気のせいだろうか、その姿は実物よりもはるかに大きく獰猛に見える。
本人も自分のセールスポイントを知ってか知らずか、古いハリウッド映画に出てくるローマの剣闘士のような素晴らしい肉体を際だたせる、ボディアーマーのぴったりした黒いTシャツに大きな銀のバックルの付いたベルト、そして黒いジーンズというワイルドないでたち。
加えて、シャツの襟回りや袖からのぞく胸元や腕は、頭髪と同じく燃えるような赤毛の体毛に覆われて、ヒトというよりはむしろクマ族の首領と呼んだ方がふさわしい。
それはまるで、一般人が「特殊部隊」と聞いてまっさきに思い浮かべそうな、両肩から給弾ベルトをたすきがけにして、テロリストのアジトに単身殴り込みをかけるような、アクション映画のヒーロー。
もしくはヒストリーチャンネルで見たことがある、CGで甦った古代のヴァイキング像そのものだ。
男は不審げなクーパーの存在を空気のように無視して、空いた椅子にどっかと腰掛けると、さも懐かしそうに身を乗り出してハーネマンに話しかけた。
「元気してたかミッヒ?お前がウォートランにいるって聞いてはるばる来たんだぜ、っていうのは冗談で......いや半分ホントだがな......どうだい、馴染めてるのか?お前みたいな武闘派がこんなヌルいとこでさあ」
だが、全身で再会の喜びを表現するヴァイキングに対して、ハーネマンは相変わらず眉間に皺を寄せ、固く唇を閉ざしたまま。いや、横から見ていると、綺麗なスキンヘッドの中では必死に記憶の糸がたぐられていることが見て取れたが、どうかこのまま思い出さないでいてくれ、とクーパーは願う。
「おいおい頼むぜ......ミッヒ、ミッヒ、ミッヒよお!」
一方、綺麗さっぱり記憶から消去されたらしいタフガイからは、頑健な容貌には似つかわしくない情けない声が上がった。
「あんだけよろしくやっといてそりゃねえだろ?ホンマに忘れちまったのかい?」
「......ああ、誠に申し訳ないが......分からん」とあっさり謝るハーネマン。
「ほら、アフガニスタンで一緒だったじゃねえか」
「............?」
「ほら、カブールでだよ、あのクソ熱くてクソ寒い街!」
「............?」
「ワジリスタンのアジトの掃討作戦とか『イブラヒムの道』のアレとか......なあ、マジで分かんねえのか?」
「......わりぃ、覚えてねえな」
「クソッ!信じられねえ奴!けどこれ見りゃ分かるだろ?」と言うや男はホルダーからハンドガンを抜き出してゴトン、とテーブルの上に置いた。
その途端、夢の中で手探りしていたかのようなハーネマンの顔に生気が戻る。
「ワルサーP5......カブール......ああ!分かった!おフランス野郎のアンリか!」
「そうだ、やっと思い出してくれたか!」 ヴァイキングは満面を歓喜に輝かせ、戦友に抱きつかんばかり。
「男の顔は忘れても銃の顔は覚えてるたぁ、まったくヒデェ奴だわ。ガハハハハ」
「何年ぶりになるかなあ、7,8年は経ってるかな。どうだ?他の奴らは。まだ生きてんのか?」とハーネマンも珍しく興奮を隠そうとはしない。
「生きてる奴もいりゃ生きてない奴もいるがな。まぁ天使様に会うのが早いか遅いかのちょっとした違いさ」
「ああ、アフガニスタンか、懐かしいな。あそこには時々猛烈に帰りたくなる」
思い出話に花を咲かせる男たちに、独り置いてけぼりにされたまま、しばらくはじっと我慢していたクーパーだったが、ついにたまりかねて口を挟んだ。
「あのさ、アンタが一体どこのどなたか存じ上げないんですけどね、失礼にもほどがあるんじゃないスか?」
同時に、今初めて青年の存在に気付いたとでも言いたげに振り返った赤毛男。 「俺か?名前か?アンリ・ゲンズブール少佐だ。GIGN(仏国家憲兵隊介入部隊)から6ヶ月間の派遣命令を受けて着任したばかりだが」
「失礼しました、少佐殿」 クーパーはさっと椅子から立ちあがると形ばかりの敬礼をしてみせる。「ロメオ・クーパー伍長です」
「ああ、君があのクーパー君か」
男はごわごわしたヒゲに覆われた顎をなでながら、興味なさそうに言った。
「噂には聞いてるぞ、機甲科の天才児だってな。そのアクセントからするとなんだ、あれか?スコットランドヤード出身か?」
ポリス呼ばわりされたクーパーは思わずグッと息を呑み込んだが、怒りを抑えて静かに言った。
「お言葉を返すようで誠に申し訳ありませんが、私は軍人であって警官ではありません。英陸軍特殊空挺部隊から派遣されました」
男はひゅーっ、と口笛を吹くとさも愉快そうに肩をすくめてみせる。「へええ、SASだとはね!優男と見えて意外とやるんだな」
そこまで言うと、お前の出番は終わったとばかりに、くるりと背を向けてハーネマンの手を取る赤毛。
「お前、趣味変わったのか?あんまいい趣味とは思えんが」
一方、ハーネマンはといえば、人前で体に触られたことにかなり気を悪くしたらしい。重ねられた大きな手をさも嫌そうに払いのけながら言った。
「懐かしいのはやまやまだが、馴れ馴れしく触らないでくれ。俺はアンタの男めかけになった覚えはないぜ」
「ふん、相変わらずだな。その冷たさにはシビれるがねえ」と言うや男はガタン、と音を立てて椅子から立ち上がり、クーパーに向き直ると舌なめずりをする虎のように目を細めて言った。
「まぁ、お前さんも苦労するがいいさ、こん畜生とのお付き合いでよ。取りあえず幸運を祈ってるぜ、天才児クーパー君」
そして腰をかがめるとハーネマンに何かを耳打ちする。その刹那、さっと赤みがさした白磁の顔。
それはほんの一瞬の出来事ではあったが、目ざといクーパーは見逃さなかった。
「じゃ、またな、ベルリンドール」
赤毛男は右手を挙げてひらひらさせると、現れた時と同じくらいの素早さで歩み去り、あとにはなんともいえず居心地の悪い空気だけが残された。
つかの間の沈黙の後、クーパーは勇気を奮い起こしておそるおそる尋ねてみる。
「あの......『ベルリンドール』って......?」
すると無表情のまま答えるハーネマン。
「はぁ?ああ......中東での俺のあだ名だ。肌の色がビスクドールみたいだってことらしいが......まぁ名前なんてどうだっていいしな、何と呼ばれようと興味ない」
だが、口では「興味ない」と何気ない風を装ってはいるものの、内心かなり混乱しているのだろう。
心ここにあらずといった様子で、自分でも気付かないうちに手に持ったボールペンでコーヒーをかき混ぜている男を目の当たりにして、クーパーの胸はキリキリと痛んだ。
聞きたいことは山ほどある。疑心暗鬼で一杯の胸は張り裂けそうだ。
だが、それらを言葉に出して全てを失うことを恐れた青年は、ようやく一つの問いを唇から押し出した。
「あの......もう一つだけ聞いていいスか?」
「............」
無言のまま目で先をうながすハーネマンにクーパーは問うた。
「あいつと付き合ってたんスか?」
だが、返ってきたのはそれ以上の詮索を拒む冷たい返答のみ。
「付き合ってたがそれがどうかしたのか?」
その途端、胸に苦いものが上がってきて吐きそうになる。
砂と岩だらけの国で共に闘ったらしいあのフランス人とは違って、自分は目の前の男とは、記憶も、経験も、そしてひょっとすると愛情すらも、ほとんど何も共有してはいない。
「へっ......なんだよそれ......チクショ、ぜんぜんワケ分かんねーよ......」
ようやくそこまで言うと押し寄せてくる感情の波に抗えず、クーパーはテーブルに肘をついて両手で顔を覆った。
「おいどうした、なんだよお前泣いてんのか?おいおい、なんで泣くことなんかあるんだよ......アホだなぁ......ワケ分かんねーのはこっちだよまったく......そら、もういいじゃねえか、タンク乗りがそんなにめそめそすんな。来いよ、俺でよけりゃ多少は慰めてやるからさ」
なにが起こったのか理解できなくて、戸惑ったような微笑みを浮かべることしかできないハーネマンを前にして、自分が一体どうしたいのか、どうしたらいいのかもうさっぱり分からなくなったクーパーは、ただ顔を覆って静かにむせび泣くばかりだった。
<THE END>
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