パチン......パチン......
さっきトリだのライオンだのとつまらない考え事をしていてうっかり爪を深く切りすぎてしまい、ハーネマンの逆鱗に触れたクーパーは、今度はより慎重に銀色の刃物を操っていた。
パチン......パチン......

女性の足とは全く異なった、鹿のそれというよりはむしろ肉食獣になぞらえるべき筋肉の引き締まった野性的な足。五本の足指は日々タクティカルブーツに蹂躙されているはずなのに信じられないほど自然に伸びて、親指から小指にかけて隙のないカーブを描いている。
この、絶妙の造形で視覚を愛撫する足に触れているだけで、クーパーの性器は痛いくらいに勃起してきた。

そんな胸の内を気取られないよう、膝の上にけだるげに置かれた右足をできうる限りのさりげなさで持ち上げると、クーパーはヤスリをかけて最後の仕上げをする。
黒いジーンズの端から覗いている雪花石膏の素足を後先考えずに抱きしめたくなるが、奥歯を噛んで何とか踏みとどまった。だというのに......

「終わりました。これでいいっスか?」
その言葉に雑誌を置いたハーネマンは己のつま先をまじまじと検分していたが、珍しく満足げな微笑みを浮かべた。
「Gut Gemacht!なかなか上手いじゃねえか、お疲れさん」
そして綺麗に整えられたばかりのつま先をまっすぐに伸ばすと、ライオン色の髭に覆われたクーパーの顎を優しく愛撫するではないか。

その瞬間、クーパーの自制心は吹き飛んだ。
「サ、サ......サージャント!」

かすれた叫び声を上げて美しい足を両腕にかき抱いた青年に向かって、ハーネマンはこぼれ落ちそうに大きな目を見開いてあきれたように言い放った。
「なんだ、やりたいのか?ああ......でも悪いが今日はお断りだ。腹の傷が痛む」

でももう後には引けない。クーパーはしどろもどろに懇願した。
「いや、その......違って......セックスはいいんだ、ただ......」
そう呟くなり腕の中にあるつま先に夢中で口づけると、電流のように背筋を走った快感にあやうく射精しそうになる。

だが、初めて体験する快楽に酔いしれたのも束の間、思い切り横っ面に食らった一蹴に、椅子ごと床に叩きつけられた。
目の奥に黄色い光がチカチカまたたいているクーパーの耳には、気味が悪いほど優しい声が遠く響いてくる。
「なんだ、お前も足フェチか」

ドクドクとあふれ出してくる鼻血を腕でぬぐいながら、 「お前も」という言葉にはじかれるように顔を上げた青年は、翡翠色の目に一瞬浮かんだ落胆の色に気付くことはなかった。ただ、氷のような視線にさらされて、その冷たさに耐え切れず再びうなだれるばかりだった。

「けっこう多いもんだな、そういう変態」
ハーネマンは高慢にせせら笑うとゆらりとベッドから降りて、夢見るような足取りで近づいてくる。そして壁にもたれたままぐったりしているクーパーの股間の形を、雪白の足指でなぞりながら忌々しそうに舌打ちした。
「チッ......こんなに勃たせやがって......もうモレちまってんじゃねえか?先走りがさあ」
そう言うと同時にズボンの中でいきり立ったものをかかとで思い切り踏みつけられて、クーパーは苦悶のうめきを上げながら泥人形のように這いつくばった。

「キヒヒヒ......どう?お望みならボーヤも再起不能にして差し上げるわよぉ?背骨がバキバキ折れるくらい踏んづけてさぁ」
だが、女言葉で嘲笑されてもクーパーには返す言葉はない。股間の痛みにあえぎつつ、古代の王族のような尊大さで自分を見おろす男を、くびきをかけられた虜囚のように仰ぎ見ることしかできない。

「ありゃま、泣くほどイイの?」
情けなさと股間の痛みに思わず知らず涙を流していた青年の顔を、一体誰がこんな酷いことをやったんだという風にびっくり顔で眺めていたハーネマンは、愉快そうに微笑むと涙と血でぐしゃぐしゃになった顎をつま先で持ち上げながら言った。
「そんなにイイなら特別サービスだ、あと2,3発蹴とばしてやるよ。さあ、どこがいいか言ってみろ、ケツか?キンタマか?それともキレイなお顔か?御意のままに、足フェチのクーパー君」

そんな申し出にかぶりを振ると、自分を見下ろしている男を精一杯の気力を振り絞って睨みつけたクーパーは、息も絶え絶えに呻いた。

「フェ......フェチとでも変態とでも......どうとでも言えよ......けど......勘違い、すんなよな......俺は足フェチ、じゃない......フツーあ、足、なんかじゃ......た、勃たねえよ......へへ、へへへへっ......俺はあんたの足、だからこそ好き......」

そう言い終えるか終えないかのうちに、再度繰り出された一蹴にアルマジロのように丸くなるクーパー。一方、蹴った当人もようやく自分の傷の存在を思い出したのだろうか、包帯を巻いた腹を押さえて眉間にしわを寄せた。
「畜生......お前のせいでまた腹が痛みはじめたじゃねーか......」
ハーネマンは呻きながらベッドに上がると、ヘッドボードに上半身を預けたまま、小さな野生の肉食動物のように抜け目ない目でじっとクーパーを見つめている。


やがて、鮮血を垂らしながらガクガク震えている若造に哀れをもよおしたのか、これ以上床の血をぬぐうことになるのが嫌だったのか。
それとも何かもっと別の感情の発露を覚えたからだろうか。

本来眉のあるべき部分の皮膚をわずかに動かして首をかしげると、ハーネマンはそれが生まれもっての自分の権利であるかのようにごく自然に命じた。
「立て、ここに座れ」
そしてよろめきつつも立ち上がってベッドの隅に座った青年の方に身を乗り出すと、長い腕を優雅に伸ばしてハイ・アンド・タイト(超短いスタイル)に刈り込んだ黄金色の頭をぐいとばかりに引き寄せる。

「そういえば爪切りの駄賃をまだ払ってなかったな......」
ハーネマンは微かにビブラートのかかった、吹雪の夜に雪原の梢の間を吹きぬける風の音のような声でささやいた。「今すぐ支払ってやるからこっち寄りな......ほら、もっと近くに......」

自分を覗き込む白目が、不思議にブルーがかっていることにクーパーは今、初めて気が付いた。

背後に鬼火を従えていそうな青い影のような姿。
醜悪と麗艶と精悍とが混じり合って生まれる奇怪な調和。

「......ああ、ミッヒ......あ......」
(愛してる)と言おうとしたが、どうしてだかその言葉は彼にふさわしくない気がしたから胸の中で呟くだけにしておいた。 そして覆いかぶさってきたしなやかな体を固く抱き締めようと手を回す。

だが、口づけようと顔を近づけた瞬間、クーパーは小さな悲鳴を上げて身をよじっていた。
「ひゃははははは!」
ハーネマンは大笑いしている。「やっぱりトルコブルーの目ん玉でもトルコ石の味はしないもんだな!」
そう、今度こそ相手をよく見ようと大きく見開いた真っ青な眼球を、長い舌でべろりと舐め上げられたのだ。

その時、唐突にクーパーの脳裏に甦ったのは、学生時代にフランス語の授業で朗読させられたボードレールの詩の一節。

“眠れる獣の中で、天使が目覚める”

悪態をつきながらごしごし目をこする自分を指さして、耳ざわりな甲高い笑い声を立てている男には「天使」などという言葉は到底似つかわしくなかったし、どうして今になってそんな昔のことを思い出すのかもさっぱり分からなかった。

だが急に、全てが無性に愉快になってきたクーパーは、目の前で腹を抱えて笑っているブレーキのぶっ壊れた愛すべき誘惑者に、微笑みながら手を伸ばしたのだった。

<THE END>