ハーメルンの誘惑者(ラッテンフェンガー)


オスライオンの黄金色と黒褐のたてがみ、メスに好まれるのはどちらの色かといえば、それは断然後者だそうだ。
なぜなら黒褐色のたてがみは、その持ち主が十分成熟している、つまり自然界で勝ち残れることができた強い個体であることを示すサインだから。
メスライオンたちは交尾の相手のたてがみの色を、生まれてくる子供たちにより高い生存の可能性を与えるための、ひとつの判断材料にしているのだ。

ある種の鳥のオスはカラフルな羽毛で着飾って、趣向を凝らした求愛のダンスを踊ってみせる。
なぜなら巧みに踊れる美しいオスは、歌やお洒落に夢中になれるだけのエネルギーが余っている、つまり強い遺伝子を持っていると異性に見なされることによって、自分の子孫を残すチャンスが増えるからだ。

選ばれる一方だと思われがちなオスだって、相手の選り好みをすることがある。
たとえばホモ・サピエンス。
いくつになっても若い女へのあこがれを捨てられない男の心理は、出産できる期間が長くて、自分の遺伝子を引き継ぐ子孫をより多く残してくれそうな相手を求めているに他ならない、と何かで読んだ記憶がある。

万物の霊長なんて威張っているけれど、人間だってほ乳類の一種にすぎない。
だから恋愛の相手として、男は若くてキレイな女に、女はハンサムだとかスポーツマンとか金持ちとかに惹かれてしまうのは、これはもう「自分の遺伝子をより多く後生に残したい」という本能に刻まれた欲求に基づいた行動にすぎなくて。だから自分が女にモテるのも、それこそ自然のなりゆきってやつだと思っている。

だけど、生物学者はこんなケースをどう説明してくれるんだろう。
オス同士のこういう行為を。

無遠慮に差し出された足にかしづきながら、ロメオ・クーパーは困惑していた。

射精とも生殖とも関係ないパーツにエクスタシーを感じるだなんて、生物学的には無意味じゃない?それとも無意味なことにも価値を見いだす、そこが賢くなりすぎたサルの特徴ってやつなんだろうか......
そんな思いをふわふわと巡らせる青年は、自分に足の爪を切らせながら、人生に対してこれっぽちも熱意を抱いていないかのような表情で雑誌を広げている、蒼ざめた月を思わせる顔を盗み見た。
とそのとたん......

「痛ぇ!気ぃつけろこの下手っくそ!」
顔面めがけて跳んできた鋭い蹴り。右手からは銀色の刃物がはじけ跳ぶ。
手加減なしの攻撃を間一髪でかわしたクーパーは、「ごめん、手元が狂った......」と素直に謝りながら、床に落ちたドイツ製の最高級ネイルクリッパーを拾い上げた。

薄気味悪いほど従順な、そんな青年の様子を薄灰緑の瞳で不審げに眺めていた男はやがて、「フン」と鼻をひとつ鳴らしてベッドに深く座り直すと、相手の鼻先にぬっと片足を突き出して再び自分だけの王国へと戻って行ったのである。


愛する人の手足がことのほか美しいことに気付いたのは、賞賛者にはあるまじきことにごく最近になってからのこと。

男どもの猥談で、女に出会った時にはまずどこを見る?顔?胸?尻?それとも足?というありがちな話題が持ち出された時には、「俺の場合はまず肌と髪かな」などとすっとぼけて、さすがは女たらしのロメオ伍長、目の付け所がひと味違うぜとはやされるクーパーだって、もちろん女性のガゼルのようにすんなりした足、たおやかで可愛らしい手が嫌いなはずはない。

そんな青年が、想い人の手足の美しさを今まで見逃していたのは、同性の手足は美的評価の対象外、という男性として当然の先入観のせいばかりとは言い切れないだろう。

お世辞にもハンサムとは呼べない、だがなんともいい知れず不可解な磁力を発している上官の存在を、胸がしくしく痛むほど強く意識するようになってから、まだ数ヶ月しか経っていない。
だから今はまだ、何を話せば歓心を買えるのかとか、下手なことを言っておそろしく気位が高い相手の機嫌を損ねないようにとか、そんな心配で頭が一杯で、たとえ幸運にもそばに近寄れることがあったとしても、馬鹿みたいに舞い上がってしまうのが常なのだ。

とはいえ、もっと身近でハーネマンを観察するチャンスー二人の人間の間隔が一番短くなる、つまり性的交渉を持ったこともないではない。
だがその度にクーパーは水銀を思わせる露わな肉体の官能や、耳元に低くささやきかける湿った声ー下水管を伝ってどこか遠くから響いてくるような魔術的な声に幻惑されるあまり、自分の体に絡みつく手とか足とかいったパーツにまで観察眼を走らせる心のゆとりは、到底持てなかったのである。



ハーネマンの手の美しさを発見したきっかけは、認めたくはないがあの忌々しいフランス人、アンリ・ゲンズブール少佐が発した一言だった。

「相変わらず女みたいに綺麗な手だなあ!」
戦友であると同時にかつて愛人でもあったらしい男との再会を喜んだ少佐が、馴れ馴れしくもテーブルの上で重ねた手!
毛むくじゃらの手の下からのぞく蒼白の指は、赤褐色に日焼けしたフランス士官の肌と鮮やかな対比をなして、その持ち主が日々激しい肉弾戦にあけくれているとは到底信じがたい、一種異様な美しさに満ちている。

無骨で男性的な手というフレームに縁取られて、始めて出現した繊細な美しさに驚くと同時に、易々とそれに触れられるフランス人には激しい嫉妬を、同時にそこに手を伸ばす勇気すらない小心な自分に対する、耐えきれないほどの嫌悪感がこみあげてくるのをクーパーは感じていた。

足についてもまたしかり。
常にリブ織りのニーソックスに隠されているふくらはぎの、絶妙な曲線の優美さをまず最初に賞賛したのは女たちなのだ。

「ねえ見てよアレ」
カフェでコーヒーを飲み干して、ブツブツ独り言を言いながら立ち去ろうとする男の猫背を、あごでしゃくってターナーが言った。
「ハーネマンの足よ。どんな生活したらあんなラインになるのかしら」
メイプルシロップのたっぷりかかったスコーンを前にした女性陣の視線が、ドイツ男のやや内股気味の足にいっせいに注がれる。

「私もそう思ってたんですのぉ〜」と甘ったるい声を出したのはナースのキャスリン。「あのふくらはぎのカーブは奇跡ですわあ!」そう言いながら、若き日のマリリン・モンローを思わせるブロンド美女はスコーンにぐさりとフォークをつき立てた。
「新兵相手に毎日走り回ってるからじゃない?」と答えたのはクールな黒髪のオデッサ。
「でも、それならポーや曹長だって美脚なはずじゃないの」
「それもそうね」
「だいいち半パンからニュッと出た曹長の足が綺麗だったらなんかイヤ」
「じゃあマシントレーニングの賜物だとか」
「そうじゃないわよ。私もマシンで鍛えてるのに、見て!変な筋肉ばっかり付いてムカついちゃう」
「あらぁ、確かにものすごいヒラメ筋ですこと!」

女性にあるまじきたくましい筋肉をナースの指先で撫でられて、「ちょっと!やめてよキャット!くすぐったい!」とふざけて拳を振り上げると、ターナーは小さくなって行く男の後ろ姿を睨みつける。
「ハーネマンが美脚だなんて無駄にもほどがあるわ」
「そうね、猫に小判ね」
「それを言うなら豚に真珠ですわぁ」
「ハーネマンのくせに!」
「ホント、ハーネマンのくせにぃ!」
「まったく、銃器フェチの変人ハーネマンのくせに!」

声を揃えて怪気炎を上げる女たちの会話に背筋がゾクゾクッとするのを感じながら、そう言われてみれば彼女らのうらやむ通り、ハーネマンのふくらはぎの曲線は存外美しいことにクーパーは驚嘆した。

俺は一体今まで何を見てたんだろう?この目はふし穴もいいとこだ......ああ!気付いてしまったからにはもっと見たい!

もっとじっくり、この手に触れられるほど近くで......


<TO BE CONTINUED>