2016年12月30日(金)

ヘボピーになすがままにされるマヤ。

2016年も残すところあと1日と12時間。マヤハウスに帰る時間が刻一刻と迫っている。

前に書いたような気がするけれど、今年の正月休みはマヤと一緒にハウスに引きこもり。映画「ラサへの歩き方」に感化されてチベット行きを検討したけれど、足の具合が悪いことに加えて、友人の「今年のお正月はヘボピーさんとマヤちゃんと一緒にいて日本のお正月をした方がいいと、なんとなくだけど思うよ」という何気ない一言に心のツボを押されたものだから、海外行きはスッパリ取りやめたのだ。

いつもはまとまった時間が取れないけれど、6日間も休みがあったら読めるだろう、と図書館で文学書をどっさり借りてきて、TSUTAYAでは今一度レイア姫の勇姿を拝もうと、スターウォーズのエピソード4から6を借りてきた。

食べ物だって途中で買いに出なくていいように、たっぷり準備した。焼き豚をまるまる一本と、数の子一箱、食パン一斤、チーズもたっぷり。会社が毎年正月前になると社員のために買ってくれる、一本1500円もする高級かまぼこだって5本もあるし、お酒も各種取りそろえて、おうち居酒屋ができそうだよ。

それでも6日間の休みの間、一度くらいは外出するかなーと思っていた。ローグ・ワンをもう一度観たいし、デパートのセールだってのぞきたい。
……なんて思っていたけれど、マヤの散歩以外では一歩も外出せずに正月を終えそうだ。
なぜならば
クレジットカードを差し止めされたからである!!!

悪いのは私ではない。私は30年間カードの支払いが遅れたことなぞただの一度もない優良顧客だ。悪いのはネットの海で他人の情報を盗んで悪用する、どこの誰だか分からないあん畜生なのだ!

でも、引き落としになる前に気が付いてまだ良かった。カード会社の請求書をチェックしていたら、「気力・アジア・マニラ」といううさんくさすぎる会社名で1万2千円あまりを利用したことになっている。
ネットショッピングの請求元は店舗名とは違うことがちょくちょくあるから、ネット利用の履歴もチェックしてみたけれど、そんな金額の買い物はしていない。

胸をドキドキさせながらJCBに電話したところ、お客様センター→不正利用デスク→セキュリティーデスクの調査を経た末に、「不正利用の可能性がありますので、該当の金額を差し引いたものを引き落としさせて頂きます。ご心配おかけして申し訳ございませんでした」との低姿勢な回答を得て胸をなでおろした。
せっかくカード情報を盗んだのに1万2千円しか使われていないのは、少額ゆえに発覚が免れることを狙っているのかもしれない。(ウェブ明細になってから、請求書を詳細にチェックしない人が増えていると聞きますからね。)

しかし被害者としては「心配と電話する手間はかかったけど、すぐに対応してくれて良かったなあ」とニコニコばかりしていられなかった……。
悪用されたカード番号は新しいものに差し替えられる。これはまあ当然のことだけど、コトが年末も28日になって判明したために、更新したカードが手に入るのは正月が完全に明けてからというじゃございませんか!

現金は極力使わない主義の私にとって、カードがないのは心臓がないのに等しい……とまで言うと言い過ぎだし、クレジットカードなら他にも7,8枚ほど持っている。だが、ポイントバック2%のメインカードが利用不可能なのは、セコい私にとってはやっぱり心臓がないのに等しいんだよ……。

まったく年末になって駆け込みみたいに嬉しくないことが起きている。
先週末はマヤのわんわんドッグの結果が悪くて、窓口で6万円という大枚を払ったばかりだというのに、一ヶ月後にまた再検査(そしてまたゼニがいる)と相成り、おとといはまたしても道で転倒、やっと治りかけていたひざにまた怪我をして、夜の11時から整骨院に駆け込んだ。
そして昨日はクレジットカードの不正利用が発覚。とどめに今日は胃腸がズキズキしており、「ひょっとして風邪?」というダークな予感が満点である。

でもちょっと考えろ自分。クリスマス前に焼け出された糸魚川の人々に比べれば、こんなトラブル、天国で早朝ランニング中の神さまの靴ひもがゆるんだレベルのトラブルに違いない。
カードが使えないのは無駄なお金を使わずに済むからいいことだし、マヤの血液検査の結果が悪かったのは、多分チキンラーメンを丸々ひとつ盗み食いしたせいだし(病院から帰ってからその事実をヘボピーから聞かされたのだ。)、ひざの怪我は先日、連続して転んだ時に比べれば軽傷だし、胃腸のしくしくだっておなかと背中にカイロを貼っているうちに収まってきた。

悪いことがあった時には「小難で大難を逃れた」となぐさめみたいに言われるものだけど、素直な気持ちでそう思うことにしよう。2016年末、悪い物はぜんぶ過去に捨てていって、新しい年にはキラキラした素敵なものが出迎えてくれると信じてる。

じゃあみんな、たのしいおしょうがつをすごしてね!!

2016年12月28日(水)

今朝、キャリー・フィッシャーさんの訃報を知った。スターウォーズでレイア姫を演じた方だ。
レイア姫は中学生の頃にあこがれたお姫様。R2−D2が映し出すホログラムの中で助けを求める姿には、ホログラムがまだ身近ではなかった時代、「遠い未来」を感じてびっくりしたのをよく覚えている。また、カタツムリヘアーをまねておばあちゃんに髪の毛をお団子にしてもらい、意気揚々と学校に行ったりしたものだ。

勇敢で茶目っ気のあるレーア姫の他にもフィッシャーさんはいくつかの作品に出演したけれど、途中薬物中毒やうつ病に悩み、その苦しみを経て昨年公開されたエピソードでは、人生の綾が織り込まれた美しい織物のような円熟味あるレーア姫として蘇ってくれた。
40年前みたいなカタツムリヘアーではないし、白い綺麗なドレスも着ていないけれど、しわを加えたレーア姫は若いときよりもっと素敵で、ああ、年を取るって怖いことじゃないんだな、私もこういう風になりたいな、と思わせてくれた。

ネタバレになるけれど、昨夜観たローグ・ワンにもレーア姫は登場する。CGで若いときそのままに蘇った姿でサプライズを与えてくれる。
「ユア・ハイネス」と呼びかけられた白いドレスの女性が振り返り、昔のままのカタツムリヘアーと気丈な表情で、たったひとこと「希望はあるわ」と言う。それは久方ぶりに出会った懐かしい友との再会のようで、「お互いあれからずいぶん年を取りましたねえ」と心の中で話しかけながら涙があふれた。

昨夜はローグ・ワンを観るつもりではぜんぜんなくて、エステと病院の予約を入れていたのだが、何となく今観ておきたくなって、予定をぜんぶキャンセルして映画館に行ったんだけど……。その翌日に訃報を聞くことになるなんて、悲しい。とても悲しい。

それでもフィッシャーさんは生前、こんなことをおっしゃっていたそうだ。
「臨終の場に付き添ったことが二度ばかりあるわ。あまり愉快そうじゃなかった。でも私が死ぬときは、私みたいな人にそばにいて欲しいわね。もちろん、私もそこにいるわよ!」

きっと彼女は今ごろ軽やかに楽しげに、遠い世界を駆け回っていることだろう。夢と希望をありがとう、レーア姫。

2016年12月27日(火)

現在22時47分。いつもならとっくに布団に入っている時間だけれど、「ローグ・ワン/スターウォーズ・ストーリー」を観てチャーシュー麺を食べて、吹き飛ばされそうな冷たい風の中を歩いて帰ってきても、映画が面白かったからだろうか、まだ気力が余っていて今夜はあまり眠くない。だからちょっとだけここの手入れをしてから寝ようと思ってさ。

それにしても「ローグ・ワン」。公開されてからまだ10日ほどしか経ってないのに、レディースデーの今日でも座席が三割ほどしか埋まっておらず、ちょっぴり心配になったわい。それも客は若い男性グループと外人グループと、仕事帰りの単独オッサンばかり。おいおい〜、今日はメンズ&フォーリナーズデーか?

「君の名は。」もファンタビ(「ファンタスティックビーストと魔法使いの旅」)も、「この世界の片隅に」の時だって館内は女性でびっしり埋まり、そこはかとなくいい匂いが漂ってたのに……。うーむ、やっぱ「ローグ・ワン」の画面の大半を占める茶・カーキ・黒というドス黒い色調と、三週間は風呂に入ってなさそうな埃っぽいメンズキャラは、いまひとつ女子の心を惹きつけないのだろうか。

まあ女子の入りは横においといて、私は「ローグ・ワン」、すごく楽しめた。2016年に観た映画のベスト2に挙げたいくらい気に入ったよ。(2016年ベスト1は「ラサへの歩きかた」)

そもそもスター・ウォーズの劇場公開第一弾(エピソード4)の公開時に中学生だった私は、映画館で合計57回も観た程度にはスターウォーズ中毒を経ている。いや、今では中学生の小遣いで57回も観るのは難しいだろうけど、当時の映画館は今のような入れ替え制ではなかったから、がんばれば50回越えも可能だったのだ。

休日になると母に作ってもらった弁当を下げて「アサヒシネマ」に通い、初回から最終回まで居座った末に、上映終了後にはお母さんかおばあちゃんに迎えに来てもらったのは、今でも思い出すと心がほっこりする甘やかされメモリーズだ。

そんな思い入れのあるスターウォーズだけれど、実を言えば4からあとのエピソードはどれも一度観た程度。それも全て映画館ではなくビデオ視聴。
……というのはエピソード5で「ハン・ソロとレイア姫がデキてまう」というハン・ソロファンの乙女にとっては地獄に叩き落とされるに等しい展開に見舞われた影響で、傷ついた心を抱えたままスタートレック世界に移動してしまったからである。

しかし、最新作の「ローグ・ワン」は少なくともあと2,3回は観に行きそうな気がする。
敵も味方も虫けらのように散りゆく悲劇的な展開は、これまでの「スペースオペラ」的な華やかさ、おとぎ話感とは一線を画して、なかなかに骨太。これまでのスターウォーズが「スペースオペラ」なら、ローグ・ワンは「宇宙戦争映画」だ。そして私は「あー、楽しかったね!」で終わってすぐに忘れてしまう映画よりも、一週間ほど胸がもやもやするような重苦しい映画が好きなのだ。

「フォース」を使いこなすジェダイがライトセイバーでチャンバラ、みたいなこれまでのスターウォーズシリーズを代表するファンタジックな絵面の代わりに、歴史の中に名も残さずに散っていった、三週間は風呂に入ってなさそうな埃っぽい人々が頑張って頑張って頑張り抜く姿は、ああ、自分は数え切れぬ死者の上に今、こうして生きているのだなあ、としみじみと我が身を省みる気持ちにさせてくれる。

来週には戦争映画好きのヘボピーを誘ってもう一度観に行くつもりだ。小学生の頃によくスターウォーズの落書きをしていたヘボピーも、懐かしいキャラクターとの再会をきっと楽しんでくれることだろう。


ぜんぜん関係ないけど、たまにはマヤちゃんをちりばめてみます。

アシカ・マヤ

こぐま・マヤ

はやく!はやくきてください!!!
いつもこの階段を転げ落ちるように走り降りてゆくんだ。

少し前までは上りもこうして自分で登ってたけれど、
今は危ないから抱っこして上がる。人間側は大変。

よいしょ よいしょ おしりが おもい

おねえちゃんだいじょうぶかな?足元がヨロヨロの主人を案じてくれる老犬。

人間様のお布団の上で寝るのは迷いゼロ

子ヤギっぽい

自分のぬいぐるみがベランダに干してあったのを見つけたマヤ。
腹立たしげにくわえるや、部屋に持って入ろうとするけどぬいぐるみが引っかかって通れない!

それでもなんとか通れて意気揚々と運んでる。
大きな獲物をくわえて運ぶ姿には、英国でハンターが撃ち落とした鳥を運んでいた先祖がだぶって見える。

へそ天で「おかお カイ カイ」しているところ。
無心で顔をかいているだけに見えるだろうが、その実かなりギャラリーを意識してるんですよこの犬!

  一体何がどうなってこういうポーズをするのだろう。

眉間にしわを寄せて悪夢にうなされる中年女性にも……。

「天使のぺろぺろ」は幸せを運びます。
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2016年12月26日(月)

断片的にしか分からない本の情報を書き込めば、親切な誰かさんがタイトルを教えてくれるインターネットの質問掲示板があると耳にしたことがある。
私にはもうずっと長い間作品名を知りたいと思い続けている小説があるのだけれど、そういう掲示板に書き込めば、あっさり分かったりするのかな。

あれは20年、いや30年前にもなるだろうか。祖母と母と私の三人でおしゃべりしていた中で本の話題になった時、祖母が話してくれたのだ。訪れた者がいつしかキノコと化してしまう島(集落だったかもしれない)の小説のこと。

今でも祖母の語り口調が心に鮮やかに蘇る。なんとも言い知れない情感を込めながら、深い霧の中、頭部からキノコになりつつある男女が小船に乗ってあてもなく、どこか遠くへ漕ぎ出すシーンの話。

「ぎーこ、ぎーこ、いうてちっさな船を漕ぎながら、だんだんとキノコになっていく二人がふかーい霧の中に静かに消えていくところが、もう、なんとも言しれん寂しゅうて不思議な感じがして、今でもよお覚えてるよ。」

祖母の隣で相槌を打っていた母は、自分もその小説を知っていると言ったのか、それとも祖母から伝え聞いただけだったのか、そこは記憶に残っていない。
そしてタイトルはおろか、作家名、祖母がいつごろ読んだ作品だったのか、雑誌に掲載されたものかそれとも単行本だったのか、短編だったのか長編だったのか、なにも分からない。かろうじて「海外幻想小説だった」と祖母と母が話していたような「気がする」ことくらいである。

この程度の断片的な情報でも、質問掲示板に書き込めば回答を得られるかもしれない、書き込んでみようかなとこれまで幾度も考えた。
でも、まだ果たせていない。祖母の心に強い印象を残した小説を自分も読んでみたいという気持ちと、長年胸に抱いてきた不思議で寂しい物語の曖昧なイメージが、予想を裏切る形で覆されるのが怖い、という気持ちの綱引きがずっと続いているからだ。

祖母も母も鬼籍に入った今となっては、持っている以上の情報はもう家族の誰からも聞きだすことはできない。そのせいで、祖母から話を聞いた時に胸に抱いたイメージはますます深化する。
意味を解する神官たちが死に絶えた後、二度と読まれることのなくなった古代文字のような、ふうっと吹くと塵と化し、風に乗って飛んでいきかねない古い紙切れのような、奇妙な存在感をもって心の内奥に定着している。

瘴気を含んだ湖の重たい霧を皮膚にまとわりつかせながら、もはや人ではなくなった寂しい二人が奏でるぎーこ、ぎーこという櫂の音。そこには深い諦観と共に、ようやっと人間世界から解放されるのだという安寧もが含まれているように思えてならない。

そして眺めているうちに船を漕いでいるのはいつしか自分自身になっているような、そんな錯覚に陥ることもしばしばの、祖母が好きだった不思議な小説の話である。

2016年12月23日(金)

この2週間ほどちょっと自分が変なのだ。「ちょっとじゃねーよ!」とか「今に始まったことじゃねーよ!」と言われそうだがまあ聞いて欲しい。

カナの死から2年4ヶ月と16日。その間、ご存知の通り七転八倒で苦しんだけれど、宗教とか哲学とかスピリチュアルとか芸術とかマッドマックスとか、そういったものの助けを得ながら自分なりにカナとの別れを噛み砕いて腹の底に落とし込み、さらにはこれからもうしばらくこの世界で生きる上での、価値観の建て直しにまで至っていた。

これまですがりついていたもの──お金とか自由になる時間とかたくさんの持ち物とか安定した生活とか、そういったものが実はそう重要ではないという発見は、長い長い坑道を抜けて目がくらむ陽光の下に頭を出したような、眩しく爽やかな感覚を与えてくれた。

これでもう大丈夫。2014年の正月、自死を決意したあの地獄みたいな正月を乗り越えて、よくここまで頑張った!よく死なずに生き続けた!と自分を誉めたたえる毎日はつい2週間ほど前まで続いていて、これからはお世話になった世間様に対して何か役に立てることを見つける、そういう新しい段階に達したんだと浮き立つような気分だった。

それがどうしたことなんだろう、このところやたらと昔の事を思い出し、眠りにつけばこれまでに会った人や犬たちがぞろぞろ出てきて、現実とはほんのちょっとだけ違った世界で、心配ごとだらけの日常生活を送っている夢ばかり見るようになったのだ。
パラレルワールドなんてものが存在するのなら、眠っている間にそういう世界に迷い込んでしまったような……妙に現実味のある夢から覚めた時には、今自分がどこにいるのか混乱したりもする。

そのくらいなら日常生活に支障はないけれど、とても困っているのが過剰な自意識。会社の人たちが自分の悪口を言っているように感じてしまったり、同僚の言葉の裏にあるかないか分からない悪意や反感を読もうとしたり、また自分が同僚に発した言葉の選び方を失敗したのでは?誤解されたのでは?とうじうじ悩んだりしてしまうのだ!

会社の人以外には何ら臆するところがないのが救いだが、23年間も勤めた会社でこれまで「みんなが私の悪口を言っている」なんてことを考えたことは一度もなかった。
そもそも人にどう思われようとも「人は人、自分は自分。思考を共有することは不可能なんだから、誤解があって当たり前。なんだって別にいーや」と意に介することはなかったのに……。それがなぜ唐突に、こんなビビリ屋になってしまったんだろう?

とはいえ、実際に悪口を言われている可能性はゼロではない。営業の女性の数が増えた上、彼女らの内で一番古株の子が加齢と共に妙に強気で意地悪になっているから、これまで評価対象外だった私に、何かがきっかけとなって矛先が向かっているのかもしれない。
それでも、面と向かって攻撃を受けたわけでもないのに、どうしてこんな風にピリピリしているんだ、自分は。

そこで、どういった原因があって嫌な精神状態に陥ってしまったのか?と自己分析してみると、このごろ「過去のことばかり思い出す」ことにリンクしているのかも……と思い至った。
というのは私は中学から高校にかけて、お約束のように「変わり者枠」でいじめを受けていたからだ。当時は「バカどもが!」といじめる奴らを内心見下して無視していたという記憶しかない。それどころか中高6年間の記憶がすっぽりと抜け落ちている。

けれど、強がる心の内奥では、怖くて悲しくていつもびくびくしていて、人からどう思われているか心配で仕方なかったのかもしれない。そして私は今、外界を捉える認識の転換点にあって、自分の心の記録のネガティブな部分を白日のもとにさらされながら、人生を軽くおさらいさせられているのかもしれない。

またこんな風にも考えた。いやいや、私は今、己の足取りをなぞっているのではなくて、カナの抱いていた悲しみを追体験させられているのかも、と。

カナは幼い頃から他界するまで、他人に軽んじられていじめられがちで、最後の方には視線恐怖症にまでなってしまって電車に乗るのも一苦労だった。
人をイライラさせないよう、無害な人間だと思われるようにカナは始終気を使っていて、「すみません すみません」となんでもかんでも謝るから、私は「そんな場面ですみません言う必要はない!堂々としとけ!」とよく怒ったものだ。

でもカナが去った今、振り返る。人間関係で憔悴するというのはどんなにしんどいことだったろう。それなのに私は「カナはそういう子だから仕方がない」と放っておいた。だって大人だから。自分の道は自分で切り開くしかないと思っていたのだ。
でもそれは違うこと、今では分かる。家族として「何があってもあんたの味方だから安心しとけ!」くらい大きなことを言ってもよかったんだ。

ああ、こうして考えていることを文字にしてみるとすこし恐怖が遠ざかった。
手がかかるからもうやめようと何度も思ったこの日記を延々とつけ続けているのは、「昔の自分はどうだったのか」を思い出すための記録としてだけではなく、考えを文字に変換して己を客観視するためでもあるんだな。(けれどそれを読まされる方は大迷惑ですな。すみません。)

いずれにせよこれでひとまず週明けは臆せず会社に行ける。このところ仕事上の会話しか交わすこともなかった営業部の古株さんに、お天気の話でもしてみようか。

長々とグレーなことを書いてしまったので、マヤちゃんでバランスを取ってみる。

犬生最高に肥えていた頃のマヤちゃん。15キロある。
15キロもあると股関節に負担がかかり、足がイタイイタイになったため、獣医さんの厳命を受けて2割の減量に挑戦。
そして力石徹もびっくりのダイエットを経て、12キロ弱のちょいポチャキュートなワンちゃんになったのであーる。

主人の靴を守ってグルルル……と低くうなる地獄の傭兵隊長。いや、「主人の靴」って、それ私(主人)のなんスけど、

2016年12月22日(木)

メイソンピアソンというブランドをご存知だろうか。創業1862年、世界中のトップヘアスタイリストに愛される英国の有名なブラシメーカーである。
熟練の職人が北インド産のイノシシの毛を丁寧に植毛したブラシを使っているうちに、髪にぐんぐん艶と張りが出てきて、やがて髪を売ったお金で夫へのプレゼントを買った「賢者の贈り物」のデラものけぞる美髪をゲットできるらしい。

どこかからそんな情報を仕入れてきたヘボピーが使い始めたメイソンピアソン。「貸して」と言っても「えーっ?!」と返ってくるのが関の山だから、ヘボの目を盗んでこっそり隠れて使ってやった。うーむ、太くて硬くてくせのある私の髪も、いつもより収まりがいいような気がしないでもない。

だが、自分用にも一本買うかとネットショップを覗いたら、ブラシにあるまじきお値段に目をひんむいた。ミニなサイズですら一万円近く。心ゆくまでブラッシングできる大きなサイズだと3万円ですって!おふざけでないよっ!

さすが女王陛下のお膝元、地味な商品でもしれっと高い。なんかもー、ドラッグストアの店頭ワゴンに山積みになってる豚毛ブラシ(1200円)でもいい気がしてきた。
でもコクミンの豚毛ブラシはマヤが使っている都合上、犬用と人間用の差別化を図り人類の威信を示すため、思い切ってネットショップのカートに入れたメイソンピアソン(ミニサイズ)。

だが、私は知ってしまったのだ……。たまたま迷い込んだアフガンハウンド多頭飼いオーナーさんのサイトで、メイソンピアソンがコート管理に最適だからと、アフガン愛好家はこぞってメイソンピアソンで犬をブラッシングしているという情報を!

風呂に入れればドライヤーを3時間もかけなくてはあの美しいコートは保てないアフガンハウンドは、手間と時間とゼニがかかるという意味ではドッグワールドの東の横綱。(個人的に西の横綱はセントバーナードだと思います)
当然ながらフリーターや独身OLやカツカツ年金生活者には飼育は不可能。そういえばこれまでにお会いしたアフガンオーナーは、お金と時間はたっぷりある高級住宅地のマダムがぞろぞろ、そっと唇をかんだ記憶があるわ。

そういうリッチマンにとっては三万円のブラシなんかへでもないんだろうし、言うまでもなくブラッシングされる側(アフガン)に恨みはない。
それでも清水の舞台から飛び降りる気持ちで買ったブラシが、「わたしお金持ちでしょう!」というイヤミでも何でもなくて、しごくナチュラルな感じで犬用おすすめグッズとして使われていることを知った時には、富裕層と中間層以下の間に流れる暗く深い溝を覗き見て、パンを求めてヴェルサイユになだれ込んだ貧乏かあさんの気分をちょこっと味わえたのであった。

2016年12月15日(木)

ついにカメラが捉えた!ぐいーんin ネイチャー!!
屋内での撮影ですら困難とされたぐいーんだが、我々マヤ撮影班はついにアウトドア・ぐいーんの撮影に成功した!!!!!!!!

ぐいーん

あ、ぐいーん

もひとつ、ぐいーん

とってもとっても いいぐいーん

ジ・エンド

……とあと5分で出社しなきゃならないというのに、どのお尻が一番いい角度か写真を吟味する程度には今日もフリーダムです。でもそろそろ出ないとヤバいので、会社行ってきます。
あ、ボーナスは円高のせいで去年の冬のボーナスよりはだいぶ少なかったけど、明細書を破り捨てるまでには至らない、まあこれで勘弁してやるか!って程度の金額でした。それにしても税金と年金で20万もさっぴかれるって酷いよね……。

2016年12月9日(金)

きょうはうれしいボーナスび。アメリカ様の好景気に乗っかって商売スーパー繁盛の我が社だけれど、「もしもこれから先円高に振れたら売り上げがガタ減るから、冬のボーナスのために利益を取っとくよーん」ということで、夏のボーナスはギャーッと叫んで明細を破り捨てそうになるほど少なかったんだ。

だから今日に向けた社員の期待の盛り上がりっぷりは半端ない。これがもし「これから先円高に振れたら売り上げがガタ減るから、決算賞与のために利益を取っとくよーん」なんてことになったら、私はスパルタカスと化して社畜どもを率い、お財布の自由を求めて反乱を起こすことだろう!(→十字架に張り付け&さらし者)

さて、ボーナス額はほっといてもあと一時間で分かるから、ひとまず横においといて、昨夜の夢に12,3年前に他界した祖母が出てきた件。
おばあちゃんっ子だった私は祖母にべったりで、ずいぶんと可愛がってもらったものだが、夢に見たのはこれまでに数回。それも会話もなくて、ああ、おばあちゃんだあ、私おばあちゃんの夢見てる、珍しいなあ……なんてぼんやり思う程度だった。

しかし昨夜の夢では祖母は私の方を見てしっかりしゃべっていた。久しぶりにはっきりした祖母のイメージに出会えたことが嬉しくて、眠りながらじっくり夢を味わっていた。
舞台は東北のどこかの村。強力な霊能者の老人たちがコミュニティーをまとめている集落があり、私とヘボピーは教えを乞うためそこを訪れるのだ。(のっけからオカルト設定ですんません)

わらぶき屋根の古民家の玄関先、ヘボピーに「こういうのって第一印象が大事だから、くれぐれも失礼のないように!」とささやくと、座敷で歓談している三人の老婆に向かって私はひざまづき、土間に額をすり付けて拝礼した。「ミキと申します。なにとぞよろしくお願いいたします」 そして顔を上げて、三人の中に自分の祖母の顔があることに気が付いたのだ。

ふさふさしたグレーの髪がとても綺麗な祖母は、茶目っ気のある懐かしい笑顔を浮かべて他の二人に言った。「この子はとてもいい子。すごくよく出来る子なんだよ」
生きていた頃もおばあちゃんはいつだって私のことを誉めてくれたけれど、すっかりおばさんになった孫のことをまだこんな風に言ってくれるんだ!

嬉しさと愛しさで胸がいっぱになって、そこで目が覚めた。目覚めてからしばらく体中が安らぎで満たされるような、素敵な夢だったよ。

そんなこんなで今日はたいそう調子がよろしいのよ。この調子の良さがボーナス支給後も継続することを願いつつ、スパルタカスは労働場に行って参ります。

2016年12月3日(土)

ぼちぼち気温が下がって本格的な冬の到来が近づいて参りましたな。……とは言ってもまだまだ本当には寒くない。なぜなら今年はまだ日常的「マヤたんぽ」は見られないからであーる!

みなさまご存知の通り(知るか!)「マヤたんぽ」とは寒い日にお布団に入ってくるマヤのこと。英国原産のイングリッシュコッカースパニエルは寒がりな犬種ではないので、地球温暖化に伴ってマヤたんぽが観察される日数は年々減少の傾向にあるとはいえ、本格的に冷え込む夜にはお布団を持ち上げるとマヤがぐいぐい入ってきて、ほかほかあったかいマヤたんぽが幸せな夢の世界にいざなってくれる。

マヤたんぽの中でもミキ家で「奇跡のマヤたんぽ」とされるレア現象は、マヤがたんぽした上であごを腕に乗せた状態をこう呼び、マヤが私とヘボピーどちらかの布団に入ってくると、姉妹で「犬のお尻は上か下か?」をさぐり合うことになる。
まあヘボピーなんかは「奇跡のマヤたんぽ」の時には犬を起こさないために腕を動かせないので、肩がこって困ると言うから、人間の側からすれば必ずしもナイスたんぽってわけではないんだけどね。

暖房器具に乏しい我が家では、山で迷子になった子供を温めて一夜を過ごし、命を救った犬のようにありがたがられているマヤたんぽだが、いかんせん犬。自分が寒くならない限りたんぽになってくれないのが、本物の湯たんぽに比べると使い勝手の悪い点である。

だが先日、寒くなくてもたんぽする事があることを発見した。大きなストレスのせいで夜中に目覚め、そのまま眠れなくなって布団の中で悶々としていたヘボピーの横に、マヤが寄ってきてすっ……とマヤたんぽしたと言うではないか!

そういえばたんぽではないけれど、私が悲しくてたまらなくて布団から起きあがれなかった時には、ずっとそばについて、くさいお口で手や顔をぺろ……ぺろ……と延々と舐め続けてくれた。だから寒くもない夜にヘボピーが経験したマヤたんぽは、群れのメンバーの不調を感じた犬が、「大丈夫?ぼくもいますよ!」という思いやりの気持ちから取った行動と捉えている。

ああ犬って可愛いなあ。犬って天使や!!と胸がいっぱいになっている私は、これから自宅を出て整骨院に行った後にそのままマヤハウスに帰るのだが、犬の腹をなでる手にもさぞ力が入ることだろう。

猫は人間のことを「変わった猫だな」と思うのに対して、犬は自分のことを人間だと思うものだと聞く。今、ミキ家は私とヘボピーとマヤの三人家族でワンユニットだ。三人のうち誰かが欠けるのはいつになるかは分からないが、それまでは全身全霊でマヤを愛そう。
向かいの肉屋のムカつくパピヨンが散歩しているのを見つけて過呼吸を起こしたり、自分を追い越したミニバイクに吠えついたり、目の前でじょじょじょじょ〜とおしっこを漏らされた時には腹が立つけど、可愛いマヤも憎いマヤもぜんぶひっくるめて愛するんだ。そしたら私の愛が伝わって、寒くなくてもマヤたんぽしてくれるかもしれない。

2016年12月1日(木)

草の上でぐりんぐりんした背中や、猫のおしっこをくんくんした鼻を人間様のお布団に押しつけながら、物思いにふける犬。

若い頃にはつやつや真っ黒だった鼻も、年と共にところどころ薄ピンクに色落ちしてきた。
私の顔にかさかさになった鼻を押し当ててくるたびに、よくまあ14年近くも生きてくれたものだ!と胸がいっぱいになるよ。

はっ?!あっという間に12月!!……なんてこの時期誰もがもらす台詞を吐いてみたけれど、実のところまったくもって「あっという間」とは思っていないあたくし。
いやー、この一年、ほんとうに長かった。色々あった……。まあこの一年に限らず父〜母〜妹が他界したこの4年間は、それ以前に生きてきた50年間に匹敵するくらいの長さを感じてるんだけど。

年を取ると日々が過ぎ去る感覚が早くなるらしいが、反対に長く感じるってお得だよね。2016年もあと一ヶ月。いつ何があろうと「ま、色々あったけどけっこう楽しかったな」と思えるように、安い焼き肉屋で出てくるミノのように、一日一日をしっかりと噛みしめて過ごしたいものですなあ。