2016年11月30日(水)

昨日の日記を読み直すと薄暗くて我ながらびっくりしたわ。この日記は自分用の備忘録という意味合いが強いから、たとえダメ日記でも後日己を分析するための資料として、削除はせずそのまま置いておくけれど。

それでもやっぱり暗くて恥ずかしいから明るくて綺麗なものを貼っておこう。インド・シッキムのどこぞのチベット寺に信者が寄進したタルチョ(風馬旗、ルンタとも呼ばれる)。五色の旗が風にハタハタはためく度に、仏法が風に乗って勝手に世界中に広まってくれるという便利グッズだよ。

昨日とはうってかわって今日はかなり元気。昨日の午後はいつもほど足が痛まなかったし、映画「ファンタスティック・ビースト」と観て気が紛れたせいもあるのかな。
今も足は全く痛まないから気分も明るい。痛いところがないってすごいことなんだな。私の抱えるトラブルなんか足のしびれやねんざの痛み程度だけど、いつもどこかがひどく痛む、死に至るほど深刻な病の人たちの忍耐強さに敬服するよ……。

今日は午後から有給を使って友達と会うからもっと元気になるだろう。でも、戦時中に生きた一人の少女の暮らしぶりを描いた「この世界の片隅に」を観に行くかもしれないから、戦争の悲惨さにやられるあまり、明日またしてもダークになってたらごめんちゃい。

2016年11月29日(火)

この一週間ほどまた調子を崩しているよ。怪我をした足は痛むし足首に力が入らないからすぐ転びそうになって、踏ん張ると体の別の箇所がぐきっとなったりして、自分がスクラップ寸前のロボットになった気分。
3年ほど前から悩まされている足のしびれはますます加速して、以前なら痛み出すのは午後からだったのに、今では午前10時頃からズキズキ、ヒリヒリがスタート。気が散って仕事に支障が出るレベルになってきたから、また無駄足かも……と思いながらも金曜日に静脈瘤クリニックの予約を入れた。

肉体的痛みもさることながら、精神的にしんどいのが一番辛い。
朝は5時頃に目覚めるのだがこれから先別れなくてはならない人と犬のことを思うと、自分はまたあの苦痛に耐えられるんだろうか?と怖くて不安で、体が水を吸った綿のように重くて立ち上がれなくて、出社するぎりぎりの時間になってようやく布団から出る。
仕事があるから何とかなっているけど、「会社に行く」という義務がなければ引きこもりの寝たきりみたいになってただろう。自分がこうなって初めてカナの辛さを垣間見たよ……。

カナとの別れをようやく乗り越えられたとホッとしていたらこのありさま。山を越えたら目の前にまた新たに山が現れた感じだ。
でも、ああ、こうして死ぬまで山を登ったり下ったりしなきゃならないのかなあ……と鬱々と考えていたたら、突然ヒマラヤの山々のイメージがぱあっと広がった。銀色に輝くこの上なく美しい姿。
これは初めてのパターンだ。超ネガティブな自分がこんなポジティブな「未来のイメージ」を抱くようになるなんて!とびっくりした。

あの美しい山々の向こうには素敵なものがあるにちがいない。そう思うと目の前に続く道を進む勇気がわいてきた。今日も一日がんばります。

2016年11月23日(水)

鬱日記を一番上に置いておくのも気が引けるので、背景色はピンク色にした上で、まやちゃんの写真を貼っていきます。
他人の犬の限りなくどうでもいい写真ばかり見せられる皆様ごめんなさい。でもこれは拙サイトを訪問下さった方がひとしく受ける試練なのです……。
∩(´・ω・`)つ―*'``*:.。. .。.:*・゜゚・*

ミキ家で「レジャー」と総称されるマヤの活動のひとつにゴミ箱あさりがあるのだが、
「レジャー」はあんましよろしくないことという認識は持っているようだ。

見とがめられてとぼけている。キュルンとしたって許されないぞ!(=´ω`=)

背後からの「ぐいーん」の撮影は比較的容易だが、前からぐいーんは「カメラを構えている時にたまたまぐいーんする」必要があるためシャッターチャンスを捉えにくい。

「前からぐいーん」プラスあくびのレア写真!そう、あくびはぐいーんに輪をかけて撮りにくいのだ。
これまで何万枚もマヤ写真を撮った中でもあくびは10枚に満たないと言うと、そのレアさがお分かり頂けるだろう!

人間のことなんざおかまいなしだから、動物写真ってほんとにむつかしい。星野さんや岩合さんの偉大さがよく分かる。

余所の犬のどうでもいいこんな写真を見せられるビジターの皆様に申し訳ない気分です。こうして四枚並べてみると、飼い主にとってすら死ぬほどどうでもいい写真なのだから。

……と申し訳ながりつつ、さらなるぐいーんの追い打ち。

このポーズの時に、私とヘボピーで♪天より高く おちりをぐいーん 天より高く おちりをぐいーん♪と声を合わせてはやしてやるのがミキ家のルール。童心にかえりすぎ。

前足が先で、次に後足を伸ばす。それが全ての犬のぐいーんスタイルである。分かりましたかワンちゃん飼ってない人!
∩(´・ω・`)つ―*'``*:.。. .。.:*

布団を取り込むとひとまず乗っかるのがマヤ総帥のお仕事です。

できそこないのイモのよう。刻んでおこわと炊いちゃうぞ!

ぼく、あほなんです。(頭上にあるのはメロンパン型のおもちゃ)

それじゃみなさん、たのしいきんろうかんしゃのひをすごしてね!

2016年11月23日(水)

キュートな幼子のあたくしと、隣の家に住んでいた空手家のおにいちゃん。

父が他界した10ヶ月後、特養から自宅に連れて帰って介護を開始するはずだったまさに当日の朝に、「もういいんだよ」と言うみたいに母まで旅だって、それからまだ日が浅い頃。 胸にぽっかり穴があいて頭にはどんより雲がかかったような日常を送っていると、母の訃報を知ったおにいちゃんが手紙に添えてこの写真を送ってくれた。

手紙には「隣の奥さんきれいずき」と「タヌキはゆるせない」が当時の私の口ぐせで、聞くたびにおにいちゃんと母はおなかを抱えて笑ったことが書かれていた。

それを知ったとき、頭上を覆っていた雲がぱあっと晴れて眩しい光が差したのだ。頭上を照らしたその光は、あっ!この世に自分が生まれてきたのは親を楽しませるためだったんだ!という新発見となって、すとんと胸の底におさまった。

両親に対して邪魔臭がったりきつくあたったり、できることはもっとあったはずなのにそれをしなくて、二人が遠くに行ってしまった後、自分は無力で世の中で何の役にも立っていないくだらない存在。そんな思いに囚われていたけれど、この世に生まれてきただけで親を幸せにさせたんだ!という確信は私の心を軽くした。

長い間不妊治療をしていた母は、私を妊娠した時、それはもう嬉しくて嬉しくて天にも昇るような気持ちになったんだと話してくれて、老いてからも「娘たちを生んで本当によかった」としみじみ言っていた。父は私が海外での失敗談なんかをすると「お前は面白いなあ」と大笑いしていた。

そういえば「自分は世界に対してなんの役にも立っていないのが辛い」と話した親友もこう言ってくれたではないか。「ミキさんは親御さんをちゃんと見送ったじゃない。それでいいのよ」と。
時にはぶすっとしたし、とんでもない失敗をして親を心配もさせたけれど、静かに思いを巡らせると私はそこそこいい娘だった。だから自分はこの世での役目をひとまずは果たしたんだ。この役立たず!なんて自分をいじめるのは、もうやめにしよう。


医者でも介護士でも消防士でも教師でも、占い師でも美容師でもバーのマスターでもなくて、ちっぽけな会社のただの事務屋という職種のせいもあるのか、他者の役に立っている感覚がぜんぜん感じられず苦しくなることが多かった。
けれど、向き合う世界の大小で生きる価値の多寡があるわけじゃない。大は小で小は大。そこそこ長い時間をこの世界で過ごしてきたはずなのに、私はどうにも思い違いが多い。

これではいけない。自分が自分を愛さなくてどうして他者を愛せるだろう。今あるだけでかけがえのない輝かしい存在なのだと己の価値を認めてやること。どうやら私はそこから再スタートを切らなくてはならないみたい。

初老になって見つけたテーマが「自分をたいせつにしましょう」って何だかアホみたいだなあ……と思いつつも、重要なことは単純なものの中に隠れていることが分かっただけでもちょっとは利口になったねえ、50数年間たいへんだったね、よくがんばりました(花丸)と自分をいたわる、そういえば今日は勤労感謝の日でしたね。

それにしても幼時の口ぐせ「タヌキはゆるせない」って一体なんのことやら……。こんどおにいちゃん(現在はスピリチュアル系の先生なさってる)に電話して聞いてみるか。

2016年11月19日(土)

 きれいなまやちゃん。

珍しく土曜の朝に自宅にいたのに、メインマシンのMacが死亡するリスクに備えて窓機にホームページビルダーをインストールしてたら、あっという間に整骨院に行く時間。コンピューター回りをさわり始めると、知らない間に時間が飛んでいくよね……。
そんなわけで服を着替えて足をみてもらいに行ってきます。階段から落ちて二週間が経過した今、足の痛みがぶり返していて年を取るとそう簡単には治るもんじゃないなーとしみじみしています。

2016年11月18日(金)

一ヶ月ほど前からはっきりくっきりした夢をたくさん見る。それも世界が滅んだりゾンビに追いかけられたりする非現実的な夢ではなくて、舞台はあくまで自分が生きている世界。でもちょっとだけ現在の環境からスライドさせた世界。

これまでなら登場する人物も知らない人ばかりだったけれど、今は見知った人や犬がどんどん出てくる。夢でもいいから会いたい!と願っても会えなかった父母とカナとイリさえも、連日のように登場するから有り難みが減ったりしてる。

昨夜はタイかマレーシアで財布の中身を盗まれる夢を見た。あろうことかパカッと口が開いたままで休憩所の片隅に置いていたバッグの中から、財布に入れた日本円をゴミみたいな額面の外国紙幣にすり替えられて、「誰かにお金を盗られた!千ドルも盗られた!」とわめいていた。
こちらを見ながら決まり悪そうにこそこそ話しているレストランの女性従業員たちが犯人だなとピンと来ながらも、「わたしがやりました」なんて名乗り出るはずないよな、財布を放置した自分が悪いよな、とぼんやり考えていた。

それから近所の軒先に作られたツバメの巣から、一番発育の遅いひながいじめ抜かれて落っことされて、巣から出た糸に足をひっかけてぶら下がっていた夢も見た。
あわてて糸をはずして巣に戻してやると、いじめていた大きなひな達が「よけいなことを!」って憎々しげな目でじーっとこっちを見るから、あっ、自然の摂理に逆らってしまったかな、とドキッとした。

でも、しばらくして見るとみんな仲良くあおむけになってディズニーアニメの鳥みたいにすやすや寝ていたから、可愛いなあとほっとすると同時に、ツバメってあおむけで寝るんだ!知らなかったあ!とびっくりしていた。(もちろん現実では寝ませんよ)

やがてひな達は成長して、シェットランドシープドッグの子犬になっていた。ふかふかした毛皮をまとって駆け回る子犬たちを眺めながら、「この毛色はブルーマール?いやセーブルマールか。ずいぶん珍しい色だな。でも日本人受けはしないから、同じ毛色の子犬がこれだけいたら、全部の行き先を決めるのはむつかしいだろうな」なんて犬マニア全開で考えていた。いやそこはツバメが犬になった点を突っ込めっよって感じだけど。

その他にも母がおばちゃん向けの下着とナイトウエアを商う店をやっており(現実の母は主婦だったけど)、毎月1日に行われる、すごく忙しくなる全品半額の日に手伝いに行かなかったことを、店で雇っているパートのおばちゃんに怒られたり(母は何も言わずにこにこしていた)、「どっかに出かけようよ」と誘ったカナは「えーっ、しんどいなあ」と家でダラダラしていたりと、死者たちの登場スタイルも以前のような緊張感を欠いており、せめて夢の中でくらい現実では叶えられなかったことをさせてくれよ!と思ったりする。

でも、下の日記に書いたような、世界の終わりとゾンビ(とストリッパー)が出てくるような夢で覚えた、寝ている間に誤って舌を食いちぎりかねない焦燥感やら、全身全霊をもって愛していた誰か(全く知らない男性だったが)が、高圧電線をくわえるという形で自死して、その遺骸が荼毘に付され、炎に包まれて燃えてゆくのを目にした時の、足元の地面が崩れ落ちるような絶望感に比べると、ツバメがあおむけでスヤスヤ眠ってたり、カナが家でダラダラしている最近の夢は、なんてお気楽なんだろう。

ただ、ここしばらく見る夢がこれまでとは違っている点は、夢の中で起こる事象の実感が強い点である。夢を見ながらひとつひとつの行動を意識して行っている感があって、目覚めた時に、実際にその空間に行って体験したことのような、奇妙な感覚を伴うのだ。

ひょっとするとパラレルワールドというものがあって、私のたましいは寝ている間、いろいろな世界の間を飛び回っているのかな?なんてSFチックな想像をしたりもするけど、ひとまず軸足を置かなくてはならないのは、2016年11月18日午前8時30分の、もうすぐ出社しなきゃならない日本だということを、しっかり自分に言い聞かせている。

2016年11月15日(火)

夢をメモした紙片が出てきた。9/9とあるから、部屋で倒れているカナを見つけた一ヶ月と一日前に見た夢だ。枕元に置いていたメモ帳に殴り書かれた文章だから乱雑だけど、こんな夢。

「小高い丘の公園、マミ(ヘボピーのことね)とマヤと三人で散歩。マヤは他の犬たちと歩き回って楽しそう。つかの間の幸せ。
その時、沈む夕日が急に姿を消し、まだ出てすごいスピードで頭上をめぐり始める。世界の終わり?と空を見上げる人々。カナは先に逝って良かったかなあとふと思う。皆で滅ぶことを覚悟した時、マヤがいないことに気付く。

ビルの下の階に降りてゆくと、小さな隙間から白い手が出ており血がついている。マヤは食い殺されたんだ!直感して手にかぶりつき、指を食いちぎり階上へ戻り、下にゾンビが!と言うと、ゾンビが追いかけてきていつの間にかサイボーグ戦士に変化、私の顔を握りつぶそうとする。しかし耐えて反撃しようとする私。

その時誰か?格好いい男(彼氏か?)。一緒にマヤと移動していると、風俗嬢たちのいる場所へ迷い込み、彼がストリップを披露することになり待っていると、可愛い犬やねえ、彼にこれ渡しといてと五万円を手渡される。
どうすればいいか分からないと言うと、アンタなんの仕事?と。普通のOLと答えると、足、痛いの?と。静脈瘤をもんでくれる風俗嬢。ストレートのロングヘアで倖田 來未っぽいタイプだった」

……って、途中までは妹を喪った悲しみで頭がおかしくなりかけていることが垣間見えるストレスフルな展開だというのに、「ストリップを披露することになり」って、さっきまでの悲壮感はどこ行った?!

でも、メモを読み直すとあの時の恐怖が鮮明に蘇ってくる。ものすごい勢いで昇ってまた沈むことを繰り返し頭上をぐるぐる巡る太陽を、なすすべもなく見上げた時の絶望感と、この恐ろしい光景をカナは見ずに済むことに対して、ほっと胸をなで下ろす安堵感。
こいつにマヤを食い殺された!と激怒に身を任せてゾンビに食らいつき、指を噛みちぎった時のゴリッと歯にあたった骨の感触。

あの頃は朝起きるといつも体ががちがちに凝っていた。恐ろしい夢に追いかけられて眠りながら全身が緊張していたからだ。
下手すると夢に引き込まれて、そのままベッドで死んで発見されたかもしれないとすら思う。そして優しかった風俗嬢のことを思い出し、
倖田 來未のアルバムを聞いてみたくなったりするのだった。

2016年11月10日(木)

人間様のお布団の上で何やら物思いにふけっている。
物思いにふけるのはいいが、近頃横になるとチビチビおもらしをするせいで、人間様は気が抜けない。

よかった……。今日も生きて目が覚めた……。目を開けるといつも通りの部屋が見えて、手足が動いてベッドから立ち上がれてトイレまで歩けた……とこんな風に昨日と同じ今日が続いていることに感謝を重ねる、人が変わったように慎ましいスタンスの管理人です。

いやー、いきなり何だけど、ホモ・サピエンスの寿命って本来60年くらいなんじゃないですかねえ。あとの人生は医学の進歩を通じて付与されたおまけみたいなもんじゃないのん?と思う今日このごろ。猛烈な勢いで肉体の劣化が進行している影響もあって、これまでになく生きてることの有り難みを痛感している。

この手のぼやき、何度もここで書いてるから「またかよ……」と思われるだろうが思う存分にぼやかせて頂きたい。
若い頃は50才なんてまだまだ「おばさん」の範疇で、「老人」の仲間入りするのは65才くらいからだと思ってたんだけど、こんなに老化が進行するなら公共交通機関の割引も映画のシニアデーも年金受給開始年齢も、ぜんぶ55才スタートに引き下げて頂きたいわ。

……と年金支給開始年齢が70才にまで引き上げられそうな日本で考えるだけ無駄なことを考えてしまうくらい肉体的スペック劣化が激しくて、あれよあれよという間に不自由になってくる己の肉体を、口をぽかんと開けてただ呆然と眺めている。

なんせ自転車や家の鍵を鍵穴に差したり、紙をめくったり、バッグの中をまさぐって何かを取り出したり、そういうレベルの日常的動作からしてびっくりするほど不自由になってくるのですよ?体だってしょちゅうぶつけるし、たったの50過ぎであたし一体どうなっちゃってんの?!

そんな中、さらに悪いことに「何もないところで転倒」「その三週間後に一段の階段からマヤごと落下」とダブルで怪我をした影響で、一気に老人化が加速した。全く同じ場所を再度怪我したのみならず、足首を思いっくそ捻挫した影響で、ひざから下が石膏で固められたみたいになっているのだ。

まあマヤはピンピンしていることと、自分の痛みもすでにないのが不幸中の幸いながら(でも体をかばう影響か、一時間前からひじが猛烈に痛くなってきたYO!)、関節が伸びないから階段が降りられない、椅子や布団や便座から立ち上がる時に何かにつかまらなくては立ち上がれない、と自分の体が思うように操れないことに発狂寸前。

これまでお年寄りのこと、「年金をフルでもらえる逃げ切り世代め!(怒)」って批判的な目で見てたけど、肉体を動かすだけでこんなに大変だったんだね……これからは60才くらいの人にでも「自分はまだ若いと思ってそうだから傷つくかな」なんて気を回すのはやめて、何気なく席を譲ってあげよう。

貴重な有給を使って整骨院に行かなくてはならないし、交通費と治療費と科学のバンドエイド代でけっこうお金を払っており、これからも使い続ける必要がある。足を使えないからヨガも一ヶ月はお休みで、精神を整える場が減った等、怪我して得したことはない。
これも劣化する一方の己の肉体を甘く見ていたせいだよね。これからは「歩く時には歩くことだけ考える」等、日常的動作においてこれまでとはレベルの違う注意を払うようにするわ。

そんな状況下にあって必死でポリアンナのよかった探しをしてみても、「駅にエレベーターが少ない」とか「トイレは和式ばかり。ひざが曲がらないからしゃがめんっつーの!」とか怒りの矛先しか見つからない。

あ……でもたったひとつだけいいことが見つかった。それは「足をひきずりながら電車に乗ったら、人は意外と席を譲ってくれる」という体験をしたことだ。

老若男女、100%譲ってくれたから、人って思ってたよりやさしい……(=´ω`=)と、これまで都会で人間に蹂躙され続けた樹木の精みたいなささやかな感動を抱いている。
まあ、100%の席譲り率を叩き出したのは、白髪のせいでパッと見の私は「足の悪いおばさん」ではなくて、「足の悪いおばあさん」に見える影響もあるのかもしれないけどね!

2016年11月8日(火)

管理人、先日めでたく誕生日を迎えることができました。誕生日の3日前に階段から落下、ようやく治りかけていた足の傷がまたしてもぱっくり開いて感染症を起こす寸前までいってしまったり、楽しい誕生パーティーはマヤがヘボピーに襲いかかって腕にかぶりつくという驚愕のフィナーレを迎えたりで、外から見るとぜんぜん平穏無事なじゃなかったバースデー。

でも、心はこれまでになく穏やかです。小さな病気や怪我はたくさんあったし、辛いこと悲しいことこれまで色々あったけど、こんなに長い間生きてこられてそれだけでもう、ものすごくラッキーだったね、よくがんばったね!と自分を抱きしめたい気持ちです。

誕生日とはもう一つのお正月のようなものだそうですね。新たな日々への門出、人生に記された句読点。
これから先、どんな未来が待ち受けているのか、それは人智では計り知れないことですが、きっと明日は今日より良くなるのだと信じて、次の一年間、じっくりと人生を味わいながら生きていきたいと思います。

2016年11月5日(土)

ハズレブの飾り棚が「あるとき」

「ないとき」

メラーデザインのサイドボードが「あるとき」

「ないとき」

……と関西人にしか分からない551の豚まんCMを引用してしまうくらいに、今、私の気分はフリーダムである。……というのは大塚家具に買い取り依頼していた家具がようやく運び出され、一件落着と相成ったからだ!

いやー、作業の邪魔にならないように台所でケータイいじってたんだけどさ、ドアの向こうから「ちょっとこれは……。」「無理だからあっちに振ってみようか」「あー、ダメダメ」というひそひそ話とか、若手が思わずもらしたであろう「むっちゃ重い!!」という嘆きに近い声が聞こえてきて、「これは家から出すのがちょっと無理ですから、クレーンを準備して日を改めてうかがいます」とか、最悪「お買い取りは白紙に戻させて頂きます」なんてことにならないかと、生きた心地がしなかったよ……。

結果、途中で作業員二人ではおっつかないことが判明。マンションの下に車を停めて待機していた応援の二人がかけつけて、大の男4人が苦心惨憺の末、無事に部屋から搬出、というより無理矢理引きずり出して、私のテリトリーから二つのバカでかい家具が運び出された時には、五体投地でラサに到達したチベット仏教の信者もかくや、というくらいの達成感を覚えたわ。いや、自分はなんもせずにケータイいじってただけなんだけどね。

素人考えでは写真上段のハズレブの飾り棚の方が搬出に手こずるのかと思っていたけど、メラーデザインの方にものすごく苦労していた。
というのはこれ、ぶあつい高級一枚板でできており、分解不可能だから丸ごと出すしか手がないんだけど、家具を運び慣れた大塚家具の配送スタッフにとっても、相当なウエイトだったみたい。
作業後にサインする際に「なんだかすごく重かったみたいですねえ。お手数をおかけしました」とおべんちゃら言うと「あはははは、そうですねえ」と否定しなかったから、プロを唸らせるその重厚さ、さすがドイツの職人の作品だけある!と手放した家具なのに妙に見直したわ。

それにしてもモノがないって素晴らしい!壁が見えるって素晴らしい!とまっ白い壁に影絵を写して遊びたいくらい浮き浮きしている。
大塚さんが来る直前は、見慣れたものが日常から消え去ることが急に寂しくなってきて、売却する家具をなでながら「長い間目を楽しませてくれてありがとう。新しいオーナーに可愛がられるんだよ」と涙をこぼさんばかりに話しかけていた。

またツイッターでも「物を手放すとき、人と別れるときはいつでも寂しさがつきまとう。寂しさから逃れるためには執着の源との関係を断ち切るしかないんだろうけど、それもまた寂しい気がするんだよね」なーんてポエムなツイートしていた自分が信じられんわ。お前はおセンチな吟遊詩人か!と突っ込みたい気分である。

マジで白い壁ってサイコーだ!作業料金タダで持っていってくれた大塚さんありがとう!買い取り価格千円ぽっちだったことは忘れてあげる。
メラーデザインのサイドボード、買い取り価格2千円ぽっちなら、売らずに置いておいてヘボピーと二人で移動させて模様替えしようかなあ、なんて考えていたんだけど、素人って恐ろしい……。
男四人がかりでやっと部屋から出せた家具を自分たちで動かせるはずないっつーの。捨てようとしたって家から出せなくて、最悪室内でノコギリで分解した上で廃棄、という手しか取れなかったにちがいない。

気に入って大枚ははたいて購入して、引き取られる直前までおセンチになる程度にはなじんでいたモノだというのに、手のひらを返したようなこの解放感!私は今、手品師のふところから飛び出したハトの気分である。モノを所有することの面倒くささは想像以上に自分の肩に重くのしかかっていたのだと発見したわ。

さて、あとの問題は引き取られた家具に入っていた小物ども。山となって積み重ねられて部屋の半分くらいを占領していて、これを片づけるための家具は必要なんだよね。
でも移動に困るような家具は買わない。人生のゴールが視界に入ってきたこれからは、「軽・薄・短・安」を基準に、執着とは縁のないモノ選びをするのだ。もう、ニトリやイケアですらめんどくさい。会社で段ボール箱をもらってきて積み重ねてもいいくらいに思っている。