2016年8月25日(金)

マヤちゃんは今日で13才と7ヶ月になりました。コッカースパニエルの平均寿命を越えたマヤとのお別れは、明日かもしれないし来年の1月に14回目のお誕生日をお祝いできるかもしれないし、ひょっとすると東京オリンピックを一緒に見られるかもしれません。

外から見ると元気だけれど、おみみはもう聞こえないし、可愛らしいめんめも濁って白くなってきました。
この先めんめが見えなくなったなら、私を見上げて「ぴこぴこぴこ」と尻尾を振ってみせることもなくなるのかなあ、と寂しい気持ちがします。

そんなことを考えながら今はただ、13年と7ヶ月も生きてくれたありがたさを噛みしめながら、マヤが畳の上を歩く時にたてる「ぽてぽてぽて」という音や、道で側溝のふたの上を歩く時に爪があたる「チンチンチン」という音や、満足した時にたてる「ぐっぐっ ぐっぐっ」という声に耳を澄ましながら、衰えゆく命を静かに見守っているのです。

長い年月を生きたおじいちゃんワンちゃんの顔になりました。

それでも眠ると子犬の頃の顔とおんなじです。

花びらの匂いを嗅がせたら食べようとしました。

2016年8月24日(水)

父が去ってから4年、母が去ってから3年が過ぎ、ようやく遺品の整理に手を付けた。
几帳面だった父のタンスにはぴしっとたたまれ分類された服や下着が詰まっていて、刺繍が好きだった母のタンスには、刺しかけのタペストリーだとかま新しい布や刺繍糸なんかが無造作に押し込まれている。

父のタンスを開いて中身を取り出すと、一枚一枚にまつわる思い出が蘇ってきて、持ち主はまだ台所にいて、もの欲しげに見上げるマヤを足元に置いてご飯を食べているみたいな気分になる。

これはずっと昔、私が父の日にプレゼントしたセーターで、すっかりカビてしまったこちらは燕尾服。父は冠婚葬祭になるとこの燕尾服を着たがっては、そんな仰々しい恰好じゃなくて普通のブラックスーツでいいのに、お父さんは何もしないのにこだわりばかりが強い!と母に文句を言われていたものだ。
でも今なら父の気持ちが分かる。父はええカッコしいだったから、ここぞという場所ではダンディーにしたかったんだろう。実際けっこうハンサムだったから、お父さん、カッコいいねともっと言っていい気分にさせてやればよかったなあ。

母のタンスを開いて中身を取り出すと、私と一緒に選んだ服や、やりかけの刺繍作品がどっと出てきた。
母はよく、自分が死んだら未完成の刺繍の処分に困るだろうから、死ぬ前にちゃんと仕上げなくちゃねえと言っていたものだけれど、どれもこれもやりかけばっかりじゃないと話しかけながら、目をつぶって全てを燃えるゴミの袋に入れた。

そして母が気に入っていた茶色いウールのコート──古着屋で見つけて「いい買い物した」と着るたびに喜んでいたコートを取り出してポケットをまさぐったら、ちゃりちゃり音を立てたものは50円玉と10円玉。
母はアルツハイマーの進行と共に、一人で出かけることはもとよりお金の存在すら認識できなくなってしまったから、これは母がまだ自分で買い物なんかに行けた頃、ポケットに入れたままにしていたお金だろう。

故人の魂は今どこにあるのか。青い空の彼方で楽しく暮らしているのか微少な粒子となって宇宙に拡散したのか、それとも魂なんてものはなくて死と共に無となったのか、私にはよく分からないけれど、父と母がこの世に置き忘れた残滓のようなものたちを次々に燃えるゴミの袋に入れることは、この世に生を受けて親子として共に暮らした40数年間をさかのぼる、懐かしく愛に満ちた旅みたいな作業だった。

2016年8月23日(火)

まやちゃんは元気にしていますよ!

不思議な学校の夢を見ていた。そこでは人種も年齢も種族すらもばらばらの生徒たちが学んでおり、肌の黒い6,7才の子と頭に角の生えた大男が廊下ではしゃいでたりする。

知らない間に私はその学校に入学することになっていたのだが、入学初日から道に迷って遅刻した。数時間ほど遅れたものだから他の生徒は授業を受けに教室に入ってしまっており、私はジャニス・ジョプリンみたいな先生に空いた教室に導き入れられ、簡単なテストを受けさせられた。

先生が抱えたテキストの束の中には"MATH"という文字が見えたものだから、理数系落ちこぼれの私はあせってしまって、実を言うと私、小学生レベルの数学しかできないんですと打ち明けたら、心配しないでいいのよ、そういうテストはしないからと先生は微笑んだ。

それから様々な音を聞かせられた。この音楽は三次元だとどんな形をしていますか?とか色々。それから二人の男がぼそぼそと話している音を聞かされて、この人達が話している言語は何だと思いますか?と尋ねられた。

どこか遠くから聞こえてくるような、どこかで聞いたことのある言葉に耳を澄ますと、話者の背後にうっそうとした深い森のイメージを見た。だから自信がないままに答えた。よく分からないけどウルドゥー語でしょうか?なんとなく南アジアの言葉みたいな気がするんですけれど……。

そしたらちょっとびっくり顔になった先生。どうしてそう思ったんですか?……背後に森がある気がします。とても深い森。

これはボノボの会話です。静かに先生は言った。高い知性を持つものは人間だけではないということを忘れないで。偉いのは人間だけだと考えてはいけませんよ。

それから教室に迎え入れられた。あっ!新しい子が来た!とニコニコ屈託のない笑顔を浮かべているクラスメイトはとても感じがよくて、教壇に立っている先生は犬だった。ああ、なんていい学校に来たんだろう!喜びが胸にわき上がってきた。

中学、高校と私は学校にうまく馴染めず、「普通であること」を求められて怒りを覚えることの方が多くて、学校生活の記憶は消去してしまってほとんどない。でも夢の中の学校は「個々は違っていて当たり前」ということを大前提に置いた上で、知らないことを知り、成長するにつれて知性に磨きを掛けてゆく。
そんな子供達の顔は知を探求することの喜びに輝いていて、何か限りなく眩しいものを見ている気分になった。

2016年8月19日(金)

ブータンから無事に帰国しております。敬虔な仏教国であるかの地で生と死についてあれこれと思いをいたし、何かの尻尾をつかんだ気分になりました。
旅の疲れが癒えたらフリーズしまくるパソコンをだましだまし、ここも更新したいと思っております。

2016年8月4日(木)

ハッと気付くともう8月。相変わらず会社が終わると通勤で最後の体力を使い果たして風呂の中で寝てしまう毎日です。8月は父とカナが他界した時の記憶がよみがえって精神的にもキツくなる苦手なシーズン。日々慎重に自分をメンテしながらなんとかかんとか平常心を保ってます。

そんな中、「この日までに飛行機の席が取れなければ諦めてください」と言われながらずっとキャンセル待ちをしていた、まさにその最終日、奇跡的にすべり込みセーフしたブータン旅行、来週はそいつに行ってきます。仏教にはぜんぜん興味がないけれど、なにか新たな死生観を見いだせることを期待しつつ。

マヤちゃんともひと夏ひと夏を「これがもう最後の夏かもしれない」と思いながら過ごしています。

そう思うこと13回目の夏。元気いっぱいのマヤの様子を見ると14回目もありそうな気がしてきました。