2015年2月27日(金)
今日は目覚めるとまたしても気分が重たくて、家族がもうほとんど残っていないことを思い出すと、悲しみに押しつぶされそうで呼吸がつらい。 休むことなく会社に行けて、このサイトもちょこちょこいじれている。そこだけ見るとノーマルな状態に戻りつつあるみたいだけれど、掃除ができない、ベランダにたまったゴミ袋すら捨てに行けない(マンション一階にいつでも捨てられるゴミロータリーがあるのに)、来る日も来る日も同じ服を着ている、頂いた手紙の封を切る元気がない、そういう自分の状態を眺めると、ああ、まだぜんぜん本調子じゃない、と痛感する。 それでもさっきゴミを捨てた。45リッターの大きな袋を三つ。これが夏ならハエがわいて大変なことになっていただろうが、冬だから助かった。 このサイトも「更新しなきゃ」と思うのがストレスで、もう閉めようと何度も考えた。でも、ある方が手紙に「サイトが更新されているのを見て嬉しいです」と書いてくださったことが励ましになって、もう少し続けることにした。 ほんとうに、なんでもない一言がすごい助けになることってけっこうあるものだ。だから落ち込んでいる人がそばにいたら、「こんなタイミングで声をかけちゃまずいんじゃないかな」なんて思わずに、どんどん気持ちを伝える方がいいと思うよ。(ただ「がんばって」という言葉は取り扱いがむつかしいのだけれど……。) こんな感じで、まずは身の回りの小さなことがらから少しづつ再開中。「前はもっと気力があったし能率もよかったのに」なんて以前の自分と比べずに、できるだけ無理をせず「自分に優しく」を心がけてやっていくつもりだ。 |
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2015年2月24日(火)
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2015年2月23日(月) 携帯電話のメモ帳を整理していると、万一のためにと、カナから聞いた銀行の暗証番号が出てきた。 昨年8月の発信履歴もそのままにしてある。通常、古い履歴は流れてしまうので、新しい方から定期的に削除して、あの日の記録が消えないように慎重に管理している。 着信履歴については、生前、カナの方から電話をかけてくることは皆無に等しく、最後の着信は覚えていないほど前だったので、残念なことに履歴は流れてしまった。それも会話したわけではなくて、渋々かけてきたワン切りが最後だったな。 電話をかける気力すらないと言うカナに、「今のままでは部屋で倒れてても分からないから、毎日一度は履歴を残して。ワン切りでいいから。それなら生存確認だけはできるから」と幾度繰り返したことだろう。 でも、本当にこんな結末を迎えるなんて。 また、着信履歴に名前は残っていないけれども、携帯電話の電話帳からカナ宅の番号を削除することもできないままでいる。 時折、発信履歴を見直して、2014年8月10日――カナが倒れているのを見つけた日の記憶を取り出してみる。 発信履歴にはこう残されている。 (一定数を超えると古い履歴から消去されることを以前は知らなかったため、8月10日以前の履歴は残っていない) こうして並べてみると、カナ宅のドアの前に立った時から、小雨のそぼ降る中、黒い納体袋が葬儀社のワゴンで運び出されるまでの情景が、まるで他人事のように、DVDを眺めているかのように鮮明によみがえる。 警察と救急への発信に6分もの間があるのは、アパートの住所が分からず、警察への説明に手間取ったからだ。 おまけに、ショックのためにガンガン痛む頭を押さえながらアパートの住所を調べ、119に電話すると、「そんなアパートも路地も住宅地図にない」と言われたものだから、怒りで血管が切れるかと思った。消防は細い路地の載っていない、粗雑な地図を使っているらしい。 8月10日の15時を境として、私の「日常」はいかに変わってしまったことか! 14:06。これからファックスを持って行くから、それを付けてからごはんとカラオケに行こうよ、と告げようとしていた。 それなのにカナは電話に出ない。木曜日の昼からこちら、4、5回かけたがずっと「話し中」だなんて。 カナの死亡日は8月7日の夕刻。警察の推測を基にして決められた、死亡証明書に記されている(推定)の日とは異なるけれど、以前ここで書いたように、霊能者の告げた日が「これが正解だ」と直感的に私の腹におさまったから、命日は8月7日に決めた。 それにしてもほんとうに、どうしようもなく無駄なことだと知りつつも、時間が8月6日以前に巻き戻らないかなあ、と繰り返し考える。 8月7日の午後。理由は忘れたけれどもカナに電話した。その二日前に家をのぞいたばかりなのに、日をあけず電話した自分の動機は分からない。ただ、その時は「話し中」になっており、電話する友達もいないのにどうしたのかな、とちょっと不審に感じたのを覚えている。 8月8日。昼と夕方の二度、電話した。相変わらず受話器からはツーッ、ツーッと話し中の音。 ......だというのに、その日に限って仕事もないのにだらだらと会社に残り、社屋を出たのは7時半。 その後、さて、カナの家に行くかと会社を出ると同時に、叩きつけるような激しい雨。タイミングが悪い!とムカついた。 だが、この雨は翌日に京阪神を襲った強力な台風へとつながったために、悲しい発見をする10日午後に至るまで、一歩も家を出ることはなかったのだ。 本当に、考えても無駄だし、自分を追い詰めるだけの行為だということは、重々承知している。 最初に電話したあの時に、どうせまた寝ているんだろう、と私は「楽な方の選択」をした。 ただ、こうして後悔の周りをぐるぐる回る一方、頭の片隅にはこんな思いもある。 カナの直接の死因は「熱中症」だった。 遺体の劣化が進んでいたために内臓組織の詳しい分析が不可能で、当初は「死因:心臓疾患」とされていた。解剖しても死因が明確ではない場合、おおざっぱに「心臓疾患」とするものらしい。 それを聞いてからは毎日、インターネットで「熱中症」について検索した。 生卵に熱を加えればゆで卵になる。簡単に言えば熱中症とは、卵と同じことが脳細胞に起きる事態だ。一度熱を加えられた脳のタンパク質はいったいどんなトラブルを引き起こすのだろう。 検索の結果、比較的軽い熱中症でも、ひどい耳鳴りや日常生活に支障をきたすほどの記憶力、注意力の低下(高次脳機能障害)、偏頭痛、その他さまざまな後遺症を残すことがあり、また、重篤なケースにおいては、24時間の介護を必要とする寝たきりになった方も少なからずいる、ということを知った。 そうなのか。もしあの時、電話がつながらないことを不審に思ってすぐにアパートを訪ねていたら、カナは今も元気に生きていたかもしれない。だがその一方で、寝たきりや植物人間になっていた可能性も少なからずあったのだ。 こんな風にあの週末のことを振り返っているといつも、友人が発した言葉を思い出す。 8日の夜、誰に気兼ねすることもなく定時で退社できたのに、不必要に長々と居残ったこと。その結果、会社を出た時にはタイミング悪く大雨に見舞われたこと。 その時私は「そっかー。そうかもね......。」と答えただけで、「何に『邪魔をされた』の?」とまでは問わなかった。きっと「神仏かなにか、超自然的な力のことを指しているのだろう」と思ったからだ。 しかし今ではこう思っている。もしあの日の状況が、偶然ではないなにかの力が加わった結果ならば、「邪魔をした」のはカナ本人ではないだろうかと。 また、死亡に至った状況(特に死亡日)を知りたくて訪れた東京の霊能者、Rさんの言葉も忘れがたい。 そうかもしれない。もう一度会いたい、どうして死んだと来る日も来るも嘆いている私だが、寝たきりの母を見送って、今はもう介護に費やす気力も体力も、資金力も残っていない。 そういえばヘボピーが言っていた。8日の夜、マヤを散歩に連れて行った帰り、マンションの階段で誰かがあとからついてくるような感じがあって、ものすごく怖くなったそうだ。 数え切れないほど多数の、大小取り混ぜた決断の結果、自分は今ここにいる。いくら選択肢が多かろうとも、進める道はただ一つしかない。 分かっているけれども、ああでもない、こうでもないと振り返って後悔してしまうのはもう、どうしようもない。 カナが死に至ったわけ、悩み苦しみぬいたであろう心情。中学生の頃から死ぬまで続いた父との確執。 もちろん、衝撃的に悲しいできごとを振り返ることが楽しいはずがない。一週間に2日くらいのサイクルでうつが加速、あらゆることに疲れ果てて「もうそろそろ限界かもなあ」と自死について考えることもある。 あの日、ゴミだらけの部屋で腐敗を始めていた肉体を目にした時の衝撃が、夜中に突然蘇って息ができなくなり、これがPTSDというやつか、と納得する羽目になるなんて予想もしなかった。 それでもいつも思い直す。一度たたまれた記憶をこうしてもう一度広げてみる作業は辛いものだが、この経験について未熟な思考に手が届く狭い範囲内であれ、納得のいくまで考えることが、自分なりの慰霊のスタイルで、そしてまた自分自身にほどこすグリーフワーク(※)の一過程でもあるのだと。 ※grief work 身近な人と死別して悲嘆にくれる人がたどる心のプロセス。悲しみから精神的に立ち直っていく道程。喪の作業。癒しの作業。(小学館 デジタル大辞泉) そういえば先日、霊能者のRさんの言葉が脳裏に突然よみがえった。 いったい何を「する」ことが死者を「ことほぐ」ことだと言われたのか?そこが思い出せないのだが、「ことほぐ(寿ぐ・言祝ぐ)」の意味を調べてみると、「言葉で祝福する。祝いの言葉を述べて、幸運を祈る」とある。 そういえば、「○○をすること」は、死者のことを懐かしく思い出す、話題に上らせる、そういう意味合いのことだったっけ。そんな気がする。 まったく、たまに更新があったと思ったらうっとうしい語りばかり。読まされるほうはたまったもんじゃなかろうて......と申し訳ない限りだ。 そして何よりも、友人もおらず、ごく少数の人間にしか知られることなく一生を終えた者に対する「ことほぎ/言祝ぎ」。それらに耳を傾けてくださる方々の存在は、この上なくありがたい。 長々と書きましたが、ここまで読んでくださって感謝しています。香苗と共に、心からのお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。 |
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2015年2月20日(金) 昨夜は妹の死後はじめてくらいに気力が出て、焼き肉なんかを食べたりした。ずっと悩まされている足のしびれもいつもより軽くて、やったー!って気持ちだったのだが、残念!夜が明けると元の木阿弥。またしてもカナのことが頭に貼り付いて、胸が痛くてたまらない。まったく、昨日の気力は一体なんだったんだ?って感じである。 それにしても、どうして気持ちがガラッと変わったんだろう?と、昨日は自分でも不思議に思うほどだった。 少なからぬショックを受けたヘボピーからそんな悲しい話を聞いて、自分の気力がなぜ多少なりとも復活したのだろう。 はじめはこう考えた。世の中には自分以外にも肉親の突然の死に向かい合わされる人々がいる、ということに安堵したのだと。 何というのだろう、上手く言語化できないのだが(最近こればっかりですみません)、44才で死んだカナの人生は短かった、もっと面倒を見てやればずっと長生きできたろうに、というのが私の後悔の大半を占めているけれど、「44年しか生きられなかった」と悲しむのはちょっと違うのでは?という思いが芽生えたのだ。 44年間だろうと、ヘボピーの会社の人のように61年続いた末だろうと、人生はいつか必ず終わりを迎える。「弾の弾道が目標で終わるように、人生は死で終わる。死は人生の目標なのだ」とユングが言うように、私たちは死に向かってまっしぐらに進むのみだ。 ……とは言っても今日はまたダウナーだったら意味ねえじゃん!と思いながらも、こうやって死別の悲しみの回りをぐるぐる回りながら、だんだん中心部から離れていくものなのかなあ、と考える朝。では会社行ってきます。 |
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2015年2月16日(月) 子供の頃に持っていた動物図鑑には、「犬は人間の100万倍もするどい鼻を持っていますが、目はあまり良くありません」とあった。 「犬の目はもともと近視で、ピントを合わせる力が弱いといわれていますが、動くモノを見る、動体視力はすぐれていると思われます。 思い起こせば我が家のサルーキたち。ハルもキナもナチもイリも、空を飛ぶカラスを見上げて憎々しげに追いかけたり、数十メートル先に檀家回りのお坊さん(イリは一時僧侶に預けられていた)を見かけてはしゃいだりするものだから、さすがサイトハウンド(視覚に頼って猟をする犬種のグループ)だけある。他の犬種ではこうはいかないだろう、と感心したものだ。 しかし今回、初めてサルーキ以外の犬種、コッカースパニエルを飼ってみて、サイトハウンドに限らず犬って目がいいんだと実感。 犬を置いて出かける時、四階のベランダからお見送りするのはマヤのお約束なのだが、下の道路までかなり距離があるというのに、ヘボピーの姿が視界に入るや否やちゃんと見つけて、見えなくなるまで眺めている。 それに視力だけではない。記憶力も馬鹿にできないと見た。 父と最後に合ったのは2年半も前のこと。それでも「あれれ?お父さんかな」とか「あっ!カナちゃんだ!」と知らない人を見つめるマヤには「死」の観念がなくて、犬の中では、すでにこの世にない人たちも変わらず生きているのだ。 他にも、犬の記憶力と認識能力の高さに驚いたことがある。あれはマヤを散歩させていた時のできごと。 滅多に通らない道を歩いていたマヤ、路肩にエンジンをかけたまま駐車している乗用車を目にしたとたん、猛然と突進! 母が亡くなってドライブに行くことがなくなってから後もしばらくは、自宅前の道路に停まっている車には、乗用車はおろかヤマト便のトラックにすら乗り込もうとしていたから、「この道路に停まっているのはぼくを乗せてくれるぶーぶー」と認識しているのだと思っていた。 しかしここは自宅からは数キロ離れた、風景も道路の様子も全く違う場所である。またこれまで、家から離れた場所でよその車に乗り込もうとしたことは無いし、「黒いクラウン・アスリート」にも「白いけれどアスリートじゃないクラウン」にも興味を示したことはない。 足音や自動車のエンジン音を判別して、主人が家のドアを開ける前から犬が騒ぎ出す、という話はよく耳にするが、記憶の中にあるものと同じ車種まで見分けられるなんて思ってもみなかった。 いったい何がマヤの記憶を呼び覚ましたのだろう?「クラウン・アスリート」を小さな仕様の差で他のクラウンと見分ける芸当は、ぶーぶーマニアの5歳児ならいざ知らず、ワン公にはさすがに無理だと思う。 「おすわり」と「まて」しかできないマヤちゃんだけど、ほんとは天才かも……というのは親バカにしても、認識能力においてかなり秀でているのかもしれない。この記憶力と認識能力を生かせば、マヤちゃん麻薬捜査犬になれたかもしれないね、とヘボピーと想像をめぐらせたりする。 「麻薬捜査犬」と書かれたチョッキを着てスーツケースベルトに飛び乗り、怪しい荷物をクンクンする、むくむくしたコッカースパニエル。 だがいかん。私たちは忘れている。いかに能力が高くても、マヤには「すぐキレてマジ噛みする」という恐怖の悪癖があることを......。関空のアイドルどころか、麻薬を見つけるより先にキャビンアテンダントに噛み付いて、あっという間にクビだろう。 そういえば、この無駄に能力が高い犬は先日またしても、ヘボピーに飛びかかって噛み付いた。「流し台の下からしょうゆを取ろうとしただけ」なのになんて可哀想なヘボピーさん!(幸いなことに牙は入らなかったけれど、腕にすごい青あざできてました) 犬は鼻もいい、目もいい、耳もいい。そして思ってるよりずっと頭もいいことはよく分かったる。 ![]() |
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2015年2月9日(月) 法事がすんだ。いとこのマー君の7回忌。心臓が悪くて何度も死にかけた叔母は、一年前から「正浩の七回忌までは生きとかなあかん」と頑張っていたので、さぞかしほっとしたことだろう。 生き続けるためにバクチみたいな心臓バイパス手術を経て、幸いにも一命を取りとめた叔母は、今ではびっくりするほど元気になって、「次は13回忌!」なんて言っているのがとても嬉しい。 私は親戚のことが大好きなのに、父も母もきょうだいが少なかったせいで、昭和30年代生まれの人間にしては叔父と叔母を合わせても6人しかいない。そのせいだろうか、一人一人が愛しくてたまらないのだ。 だから須磨子おばちゃんにも13回忌といわず、23回忌や33回忌も見届けて欲しい。
そういえば父は年を取るにつれて法事が好きになってきて、「お前も一緒に来いや」とよく誘われたものだけれど、お父さん、香典ばっかり包んで!と当時はそんな父を冷たい目で見ていたものだ。 古い記憶を共有する血のつながった人間と、次はもう会えないかもしれないと感じながら、今はひとまず元気で集えたことを喜び合い、故人をしのびつつ昔話に花を咲かせる。死はひとごとではないことをひしひしと感じるからこそ、法事は楽しくてちょっと寂しい。 葬儀や法事に際して年寄りが口癖のように言うのを聞いたことがあるだろう。「こういう時でないと会えないからなあ」と。 あちらで酒を酌み交わしている遠い親戚たちも、こちらで昔話をしている老いた5人姉妹も、きっと皆、若い頃は親戚付き合いなんてうとましいだけだっただろう。 やがて会食もお開きとなり、参列者は一人、また一人と去ってゆく。楽しい日々の記憶を共有する人々を見送りながら、あの人もこの人も、顔を見るのはこれが最後かもしれないと考えるとそこはかとなく寂しい。 今、私が会社のパソコンの壁紙に設定している画像をごらんください。☆ ヒマラヤマーモットだそうです。お尻がマヤちゃんにそっくり! |
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2015年2月7日(土) 出勤前、自転車にまたがりマンションから外に出るドアを開けようとすると、入ってくる人がドアを押さえて待っていてくれた。 私とヘボピーは顔のつくりも近いし、声は電話では聞き分けがつかないくらい似ているのに対して、カナだけは顔は丸顔、声もぜんぜん違っていたのだが、やはり姉妹、音質は近かったのかもしれない。 そうなんだ、気の弱いカナはすぐに「すみません、すみません」と言うものだから、母も二人の姉も「こんな場面であやまる必要ないよ。ぺこぺこしなさんな!」とよく叱ったものだ。 でも、あやまりぐせは最後まで変わらなかった。私たちはそんなカナが卑屈に見えて腹が立ったのだけれど、外の世界が怖くて仕方のない者にとって「ごめんなさい」は、攻撃から身を守るせめてもの方策だったのだろう。 それに、自己防衛のためにまず噛みつく人よりも、あやまってしまう人の方が私ははるかに好きだ。 それでも今、身が引きちぎれるほど悲しくて、カナに会いたくてたまらないことは、死んだ後になお嫌悪を残されるよりもはるかに幸せなのかもしれない。 いとこのマー君は自動車で単独事故を起こし、ほぼ即死に近い状態で逝ってしまった。 それでもどうだったろう。叔父も叔母も一番可愛がっていた息子に先立たれたれるくらいなら、お金なんか要らなかったと言うに違いない。でも借金を遺したカナよりはずっとマシだと私は時々カナに怒りたくなる。 2,3日空きますがまたお会いしましょう。ひとます精神的には少しましです、私のことは心配しないでください。 |
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2015年2月5日(木) (すみません、精神状態最悪です) 昨夜は夜中に目覚めてそのまま眠れなくなるパターンだった。この一ヶ月間ほどよく眠れていたのに久々のことだ。こうなると精神状態が一気に悪化する。眠れないとどうしてもカナのことばかり考えてしまって、発狂しそうになる。 あの時、少しでもお金を渡していれば死なずに済んだのでは?あの時、家をのぞいていればカナはまだこの世にいたのでは?あの時、無理に実家に連れて帰っていれば……。 今日はこれから会社だが、正直辛い。行きたくない。何度「体調が悪いので昼から行きます」と電話しようと思ったことか。 この程度の状態を「生き地獄」と呼ぶのは間違いとは分かっているけど、そう呼ばせてくれよ!と、誰に対してでもないけれど、怒りたくなる。 でもまあ、がんばれる限りがんばってみるしか方法はない。まだマヤを見送るという仕事が残っているからがんばるしかない。
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2015年2月3日(火) 夢の中で科学者の助手になっていた。そして「先生、霊界なんてものは本当にあるんでしょうか?私にはどうしても信じられなくて」と問うていた。 すると先生、余裕しゃくしゃくの微笑みを浮かべるのだ。 そして私に傘を開かせると空を見上げる先生。ぶ厚い雲に包まれた空は、今から何かとてつもないことが起こりそうな、不穏な雰囲気をかもしだしている。 真っ黒な雲が渦巻く中、たった一カ所のみ光が差している部分を先生は指さした。 言われるがままにピンクの傘を天に向かって、私は思い切り突き上げる。「わっしょい!わっしょい!」 「しゅうぅうううぅう──っ!」 「せ、先生……?」驚きのあまり二の句が継げない私に先生は微笑む。「まあもう少し待ってなさい」 そしてしばらくの後、嘘のように雲が消え失せたまっさおな空の向こうから、ピンクの傘が主人のもとに走り寄る忠犬のように、まっしぐらに私に向かってすっ飛んできたではないか! 運動神経ゼロの私は感動よりも「上手くつかまないとささるーっ!」という恐怖心で一杯だったがそこは夢。運動オンチの手の中に、時速100キロで飛んできた傘はすぽっと入った。 ああ、霊界は本当に存在していて、カナもきっとそこにいるんだ!そんな小さな希望が胸の奥に芽生えたところで目が覚めた。目覚めると傘の振りすぎて腕がずきずきして、スワローズファンって大変だなと思った。 |