2015年2月27日(金)

石屋さんの自宅玄関でワンちゃん発見!

まるっとしてちょこんとすわってる。かわいーっ……。

……くないねん!!(怒)

<花街……芸妓屋、遊女屋が集まっている区域を指す名称>
今では民家にまじって居酒屋やスナックがぽつぽつ並ぶさびれた地域だけど、昔はめかし込んだお姉さんが「おにいさん、遊んでいきなよ」と声をかけていたのかな。

それにしても直球で「花街」を投げてくるとは。それも少なくとも5つあるなんてなんか豪奢だ。

今日は目覚めるとまたしても気分が重たくて、家族がもうほとんど残っていないことを思い出すと、悲しみに押しつぶされそうで呼吸がつらい。
やっとマシになってきたと思ったのに、やっぱりそう簡単に行くもんじゃないよね……としばらく布団の中で悶々。でも、えいっ!と起きたら意外と大丈夫だった。

休むことなく会社に行けて、このサイトもちょこちょこいじれている。そこだけ見るとノーマルな状態に戻りつつあるみたいだけれど、掃除ができない、ベランダにたまったゴミ袋すら捨てに行けない(マンション一階にいつでも捨てられるゴミロータリーがあるのに)、来る日も来る日も同じ服を着ている、頂いた手紙の封を切る元気がない、そういう自分の状態を眺めると、ああ、まだぜんぜん本調子じゃない、と痛感する。

それでもさっきゴミを捨てた。45リッターの大きな袋を三つ。これが夏ならハエがわいて大変なことになっていただろうが、冬だから助かった。
今日はアメリカの犬友達がくれた手紙も開けてみよう。英語を読むのがしんどくて一ヶ月くらい放置していたのだけれど、30年近く続いた縁は切らない方がいい。がんばって返事も書こう。

このサイトも「更新しなきゃ」と思うのがストレスで、もう閉めようと何度も考えた。でも、ある方が手紙に「サイトが更新されているのを見て嬉しいです」と書いてくださったことが励ましになって、もう少し続けることにした。

ほんとうに、なんでもない一言がすごい助けになることってけっこうあるものだ。だから落ち込んでいる人がそばにいたら、「こんなタイミングで声をかけちゃまずいんじゃないかな」なんて思わずに、どんどん気持ちを伝える方がいいと思うよ。(ただ「がんばって」という言葉は取り扱いがむつかしいのだけれど……。)

こんな感じで、まずは身の回りの小さなことがらから少しづつ再開中。「前はもっと気力があったし能率もよかったのに」なんて以前の自分と比べずに、できるだけ無理をせず「自分に優しく」を心がけてやっていくつもりだ。

2015年2月24日(火)

このいれものはあんましすきじゃなかったのに、ヘボピーねえちゃんがはいるまねをすると、「だめ!ぼくのはこだ!」とおおあわてですっとんできました。

まやちゃん、ひとがほしがるものはなんでもよくみえるようですね。

ふとったいぬにはちょっとむりじゃないかしら。

おねえちゃんのかばんをふんずけてもへいきのへいざ。

あーあ。かばんはまやちゃんのつめできずだらけ!

つるつるすべりながら、おしりのおちつけどころをさぐっています。なんというぼうじゃくぶじんなふるまいでしょう!

やった!すわれました!でも、そうぞうしたほどにはたのしくなかったようです。

なぜ箱にはいるのか? そこに箱があるからさ。

2015年2月23日(月)

携帯電話のメモ帳を整理していると、万一のためにと、カナから聞いた銀行の暗証番号が出てきた。
0719。「どうしてこの番号なの?」と尋ねると、「マッチの誕生日やねん」とへへへと笑ったのを思い出す。カナは10代の頃、近藤真彦の熱烈なファンだったのだ。
「えー?まだマッチ?!」と驚いた私に、「いや、なんとなく変えられなくて」と答えた妹の口座は二度と使われることはないけれど、「0719」と記したメモは削除することができなかった。

昨年8月の発信履歴もそのままにしてある。通常、古い履歴は流れてしまうので、新しい方から定期的に削除して、あの日の記録が消えないように慎重に管理している。

着信履歴については、生前、カナの方から電話をかけてくることは皆無に等しく、最後の着信は覚えていないほど前だったので、残念なことに履歴は流れてしまった。それも会話したわけではなくて、渋々かけてきたワン切りが最後だったな。

電話をかける気力すらないと言うカナに、「今のままでは部屋で倒れてても分からないから、毎日一度は履歴を残して。ワン切りでいいから。それなら生存確認だけはできるから」と幾度繰り返したことだろう。
結局のところワン切りルールは一週間も守られることなく、私も面倒くさくなってもういいや、人間そうそう死ぬもんじゃなし、とがみがみ言うのはやめにした。

でも、本当にこんな結末を迎えるなんて。
私には妹の死に対する予感めいたものがあったのだろうか?いや、カナは昔から体があまり丈夫ではなかったから、ただ心配だったからにすぎないのだろう。

また、着信履歴に名前は残っていないけれども、携帯電話の電話帳からカナ宅の番号を削除することもできないままでいる。
ヘボピーも同じだと言っていた。もう二度とこの番号に電話することも、かかってくることもないんやなあと思いながら、整理することができないんだと。


時折、発信履歴を見直して、2014年8月10日――カナが倒れているのを見つけた日の記憶を取り出してみる。
それは己に少なからぬダメージを与えるマゾヒスティックな行為だと思いながらも、「驚天動地」としか言いようのない日の経緯を振り返ることで、「自分が当時、何をして、何をしなかったのか」「カナを救うためにできることがあったのに、何故しなかったのか」、を繰り返し噛みしめないと落ち着かないのだ。

発信履歴にはこう残されている。 (一定数を超えると古い履歴から消去されることを以前は知らなかったため、8月10日以前の履歴は残っていない)
8月10日
14:06 カナ
15:08 110
15:14 119
15:24 M叔母
15:48 S氏(会社の上司)
16:37 K叔母
(ヘボピーと須磨子叔母にかけた履歴が残っていないのは不思議だが、メモリへの書き込みエラーのようなことが起きたかもしれない)

こうして並べてみると、カナ宅のドアの前に立った時から、小雨のそぼ降る中、黒い納体袋が葬儀社のワゴンで運び出されるまでの情景が、まるで他人事のように、DVDを眺めているかのように鮮明によみがえる。

警察と救急への発信に6分もの間があるのは、アパートの住所が分からず、警察への説明に手間取ったからだ。
加えて、どう見ても救命措置は無意味なのに、まずは警察ではなく救急の仕事だから救急車を呼ぶように、と無慈悲なくらい事務的に(そう感じられた)言われたことに混乱して、やりとりが長引いたせいでもある。

おまけに、ショックのためにガンガン痛む頭を押さえながらアパートの住所を調べ、119に電話すると、「そんなアパートも路地も住宅地図にない」と言われたものだから、怒りで血管が切れるかと思った。消防は細い路地の載っていない、粗雑な地図を使っているらしい。
一本上にある大きめの道路と、近所の有名ラーメン店を基準になんとか説明したものの、昔からある路地がなぜ把握されないのか。不動産屋でも使っているありきたりの情報を、消防が持っていないとはひどい話だ。


8月10日の15時を境として、私の「日常」はいかに変わってしまったことか!
発信履歴に「14:06 カナ」とある時点では、それまでと同じ日常が続いていたのに......。いや、とうに激変していることを知り得なかっただけなのだが。

14:06。これからファックスを持って行くから、それを付けてからごはんとカラオケに行こうよ、と告げようとしていた。
何を食べさせてやろう。中華街に行こうか、ファミレスにしようか。受話器がはずれていることに何日もの間気がつかないくらいだから、しつこいものよりあっさり系がいいと言うかもしれない。喜ぶ顔を想像して楽しい気分だった。

それなのにカナは電話に出ない。木曜日の昼からこちら、4、5回かけたがずっと「話し中」だなんて。
かすかに不安が募ったものの、きっとまた抗うつ剤のせいで寝込んでいるんだろうと思い直して、台風一過、まだ小雨がぱらついている中を、ファックス機の重みでよろめきながら、西へ向かって自転車をこいだ。

カナの死亡日は8月7日の夕刻。警察の推測を基にして決められた、死亡証明書に記されている(推定)の日とは異なるけれど、以前ここで書いたように、霊能者の告げた日が「これが正解だ」と直感的に私の腹におさまったから、命日は8月7日に決めた。

それにしてもほんとうに、どうしようもなく無駄なことだと知りつつも、時間が8月6日以前に巻き戻らないかなあ、と繰り返し考える。

8月7日の午後。理由は忘れたけれどもカナに電話した。その二日前に家をのぞいたばかりなのに、日をあけず電話した自分の動機は分からない。ただ、その時は「話し中」になっており、電話する友達もいないのにどうしたのかな、とちょっと不審に感じたのを覚えている。
でも、きっと受話器が外れていることに気づいていないんだろう。

8月8日。昼と夕方の二度、電話した。相変わらず受話器からはツーッ、ツーッと話し中の音。
これは確実に話し中ではなくて、受話器が外れているせいだ。いつも薬でぼんやりしているから気づいていないのだろう、と思いながらも心配になってきた。
会社が終わってからのぞきに行こう。ちょうど会社で分けてもらったお中元の中に、スィーツがたくさんあったから持って行ってやろう。

......だというのに、その日に限って仕事もないのにだらだらと会社に残り、社屋を出たのは7時半。
自分の仕事がなかろうとも、誰も帰らない場合は帰り辛くて付き合い残業をすることが多いのだが(日本リーマンの悪習ですね)、その日は上司も同僚も、申し合わせたように6時前にいっせいに退社したから、珍しいことがあるものだと驚いた。
驚きながらも残り2,3人の同僚と、なんとなく7時半まで会社にいて、なんとなくメールの整理などをやっていた。

その後、さて、カナの家に行くかと会社を出ると同時に、叩きつけるような激しい雨。タイミングが悪い!とムカついた。
外れたままの受話器は気になったものの、自転車に乗るのは無理な雨量だったから、明日行けばいいや、とまっすぐに自宅へ戻った。

だが、この雨は翌日に京阪神を襲った強力な台風へとつながったために、悲しい発見をする10日午後に至るまで、一歩も家を出ることはなかったのだ。


本当に、考えても無駄だし、自分を追い詰めるだけの行為だということは、重々承知している。
それでも、ほんのわずかな選択の違いで、「うちの妹は泣き言ばかりで困ったものだ」と同僚は友人たちにぼやくありきたりの日常が、今も変わらず続いていた可能性のことを、どれほど「思い出さない方がいい」と自分に言い聞かせようとも、繰り返し考えてしまうのだ

最初に電話したあの時に、どうせまた寝ているんだろう、と私は「楽な方の選択」をした。
その代わりに、わずかにあった不安感を頼りに、カナのアパートをのぞきに行っていれば......。

ただ、こうして後悔の周りをぐるぐる回る一方、頭の片隅にはこんな思いもある。
もしも私が8月の7日か8日にカナのもとに駆けつけていれば、そして倒れているカナを発見して救急車を呼んでいたなら、今とはまた異なった未来――ただし、あまり喜ばしいものとは呼べない未来があったかもしれない。

カナの直接の死因は「熱中症」だった。
健康で判断力のある44歳の女性なら熱中症にはなり得ない状況下、「たかが熱中症」で命を絶たれた背景には、100均のパンやコンビニ飯ばかりの粗悪な食生活が引き起こした内臓の機能不全と、向精神薬と睡眠薬による深睡眠があった。
それでも妹にとどめを刺したのは、ヒートアイランド現象に見舞われた古いアパートの、耐え難いほど高い室温だった。

遺体の劣化が進んでいたために内臓組織の詳しい分析が不可能で、当初は「死因:心臓疾患」とされていた。解剖しても死因が明確ではない場合、おおざっぱに「心臓疾患」とするものらしい。
しかし、大学病院での解剖が終わって一週間ほどして、担当医師から電話があったのだ。
「当初、『心疾患』としていましたが、尿内のミオグロビンが正常値の約千倍の値を示していましたので、死因はまごうことなく『熱中症』です」、と。
「千倍」という数字の異常さに体が震えた。

それを聞いてからは毎日、インターネットで「熱中症」について検索した。
体力のない幼児や老人ではなく、青年から中年の年齢層の人間が、熱中症で死に至ることは多いのだろうか?また、重篤な後遺症はいかなるものなのか?
「たかが熱中症」で落命する確率を知りたかった。

生卵に熱を加えればゆで卵になる。簡単に言えば熱中症とは、卵と同じことが脳細胞に起きる事態だ。一度熱を加えられた脳のタンパク質はいったいどんなトラブルを引き起こすのだろう。

検索の結果、比較的軽い熱中症でも、ひどい耳鳴りや日常生活に支障をきたすほどの記憶力、注意力の低下(高次脳機能障害)、偏頭痛、その他さまざまな後遺症を残すことがあり、また、重篤なケースにおいては、24時間の介護を必要とする寝たきりになった方も少なからずいる、ということを知った。

そうなのか。もしあの時、電話がつながらないことを不審に思ってすぐにアパートを訪ねていたら、カナは今も元気に生きていたかもしれない。だがその一方で、寝たきりや植物人間になっていた可能性も少なからずあったのだ。
ましてや栄養状態が元から悪かったために、重篤な後遺症を残す可能性は、健康な人間に比べてはるかに高かっただろう。

こんな風にあの週末のことを振り返っているといつも、友人が発した言葉を思い出す。

8日の夜、誰に気兼ねすることもなく定時で退社できたのに、不必要に長々と居残ったこと。その結果、会社を出た時にはタイミング悪く大雨に見舞われたこと。
もっと早く退社していれば、空は晴れていたから何の問題もなく妹の家に行けたであろうこと。
そう後悔する私に友人は一言だけ、「邪魔されたね」と言った。

その時私は「そっかー。そうかもね......。」と答えただけで、「何に『邪魔をされた』の?」とまでは問わなかった。きっと「神仏かなにか、超自然的な力のことを指しているのだろう」と思ったからだ。

しかし今ではこう思っている。もしあの日の状況が、偶然ではないなにかの力が加わった結果ならば、「邪魔をした」のはカナ本人ではないだろうかと。

また、死亡に至った状況(特に死亡日)を知りたくて訪れた東京の霊能者、Rさんの言葉も忘れがたい。
「妹さんは『迷惑をかけたくない』、この思いが非常に強いですね」。
一時間半のリーディングの間、Rさんの口からは何度も「迷惑をかけたくなかった」という言葉が繰り返された。

そうかもしれない。もう一度会いたい、どうして死んだと来る日も来るも嘆いている私だが、寝たきりの母を見送って、今はもう介護に費やす気力も体力も、資金力も残っていない。
もしも妹が寝たきりとなって一生介護しなくてはならないとなると、「10代の頃からさんざ家族に迷惑をかけておいて、駄目押しみたいにこんなことに!」と恨んだ可能性は低くない。


そういえばヘボピーが言っていた。8日の夜、マヤを散歩に連れて行った帰り、マンションの階段で誰かがあとからついてくるような感じがあって、ものすごく怖くなったそうだ。
その上、階段に黒い影が座っているのを目にして、「お前なんか怖ないんじゃー!」と怒鳴りつけたらしい。知らない人のよからぬ霊ではと思ったらしい。
でも、ひょっとしたらあれはカナだったのかもしれないね、と言い合った。私のところには来なかったことを残念に思いながら。


数え切れないほど多数の、大小取り混ぜた決断の結果、自分は今ここにいる。いくら選択肢が多かろうとも、進める道はただ一つしかない。
それが人生だと思いながらも、「カナが元気で笑っていられた選択肢」のことを、いつまでも考えてしまう。馬鹿なことに。
人々がよく言う通りとおり、死んだ者のことをいつまでも後悔しても仕方がなくて、遺族は「生きていることに感謝」しながら前を向いて進むことが一番で、それが供養にもなるのだろう。分かっている。

分かっているけれども、ああでもない、こうでもないと振り返って後悔してしまうのはもう、どうしようもない。

カナが死に至ったわけ、悩み苦しみぬいたであろう心情。中学生の頃から死ぬまで続いた父との確執。

カナという人間は本当のところどんな人間だったのだろう?一緒に育ってきたというだけで、私はカナのことをよく知らなかったし、本心を知ろうともしなかったことに今になって気付いて胸が苦しい。

もちろん、衝撃的に悲しいできごとを振り返ることが楽しいはずがない。一週間に2日くらいのサイクルでうつが加速、あらゆることに疲れ果てて「もうそろそろ限界かもなあ」と自死について考えることもある。

あの日、ゴミだらけの部屋で腐敗を始めていた肉体を目にした時の衝撃が、夜中に突然蘇って息ができなくなり、これがPTSDというやつか、と納得する羽目になるなんて予想もしなかった。
また、もう何も考えたくない。抗うつ剤に怒りや悲しみを取り除いてもらえれば、悩むこともなくなるかなと、精神科の門を叩きそうにもなる。

それでもいつも思い直す。一度たたまれた記憶をこうしてもう一度広げてみる作業は辛いものだが、この経験について未熟な思考に手が届く狭い範囲内であれ、納得のいくまで考えることが、自分なりの慰霊のスタイルで、そしてまた自分自身にほどこすグリーフワーク(※)の一過程でもあるのだと。

※grief work 身近な人と死別して悲嘆にくれる人がたどる心のプロセス。悲しみから精神的に立ち直っていく道程。喪の作業。癒しの作業。(小学館 デジタル大辞泉)


そういえば先日、霊能者のRさんの言葉が脳裏に突然よみがえった。
「大切なのは○○をすることです。妹さんの『たましいをことほぐ』ということですね」
聞いた当時は受け流してそのまま忘れていたけれども、思い出した時、言葉が深く心に刺さった。

いったい何を「する」ことが死者を「ことほぐ」ことだと言われたのか?そこが思い出せないのだが、「ことほぐ(寿ぐ・言祝ぐ)」の意味を調べてみると、「言葉で祝福する。祝いの言葉を述べて、幸運を祈る」とある。

そういえば、「○○をすること」は、死者のことを懐かしく思い出す、話題に上らせる、そういう意味合いのことだったっけ。そんな気がする。
ならばこうしてセミプライベートな場を借りて、カナについて延々と綴っている私は、妹を「言祝いで」いることになるかもしれない。


まったく、たまに更新があったと思ったらうっとうしい語りばかり。読まされるほうはたまったもんじゃなかろうて......と申し訳ない限りだ。
それでも、悲しみや辛さを言葉で表現することは、死別の悲しみから立ち直るための大きな助けになるそうだ。

そして何よりも、友人もおらず、ごく少数の人間にしか知られることなく一生を終えた者に対する「ことほぎ/言祝ぎ」。それらに耳を傾けてくださる方々の存在は、この上なくありがたい。

長々と書きましたが、ここまで読んでくださって感謝しています。香苗と共に、心からのお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
もうしばらく思い出話ばかりになりますが、おつき合いいただけると嬉しいです。

2015年2月20日(金)

昨夜は妹の死後はじめてくらいに気力が出て、焼き肉なんかを食べたりした。ずっと悩まされている足のしびれもいつもより軽くて、やったー!って気持ちだったのだが、残念!夜が明けると元の木阿弥。またしてもカナのことが頭に貼り付いて、胸が痛くてたまらない。まったく、昨日の気力は一体なんだったんだ?って感じである。

それにしても、どうして気持ちがガラッと変わったんだろう?と、昨日は自分でも不思議に思うほどだった。
多分きっかけはヘボピーの会社の人の訃報に接したことだろう。61才で急逝なさったその方は、前日まではごく普通に元気に出社していたのに、翌朝奥さんから、階段から落ちて落命したことを告げる電話があったそうだ。

少なからぬショックを受けたヘボピーからそんな悲しい話を聞いて、自分の気力がなぜ多少なりとも復活したのだろう。

はじめはこう考えた。世の中には自分以外にも肉親の突然の死に向かい合わされる人々がいる、ということに安堵したのだと。
でもすぐに、それが理由ではなさそうだと思い直した。

何というのだろう、上手く言語化できないのだが(最近こればっかりですみません)、44才で死んだカナの人生は短かった、もっと面倒を見てやればずっと長生きできたろうに、というのが私の後悔の大半を占めているけれど、「44年しか生きられなかった」と悲しむのはちょっと違うのでは?という思いが芽生えたのだ。

44年間だろうと、ヘボピーの会社の人のように61年続いた末だろうと、人生はいつか必ず終わりを迎える。「弾の弾道が目標で終わるように、人生は死で終わる。死は人生の目標なのだ」とユングが言うように、私たちは死に向かってまっしぐらに進むのみだ。
それに、長い時の流れの中に置けば、長くても100年の人間の一生は、44年だろうと100年だろうと大差はないのでは?
ならばどんなに生きてもあと50年の私が、妹は44年しか生きられなかった、可哀想に可哀想にと嘆き悲しむのは間違いなのではないか?そんな気がしたのだ。

……とは言っても今日はまたダウナーだったら意味ねえじゃん!と思いながらも、こうやって死別の悲しみの回りをぐるぐる回りながら、だんだん中心部から離れていくものなのかなあ、と考える朝。では会社行ってきます。
そういえばこんなにしんどい時期だというのに、マンション管理組合の理事が回ってきたからさらにダウナー。もうやめてー!って頭を砂山に突っ込みたい気分である。

2015年2月16日(月)

子供の頃に持っていた動物図鑑には、「犬は人間の100万倍もするどい鼻を持っていますが、目はあまり良くありません」とあった。
だが、人間のド近眼とは異なるようで、「犬、視覚」とググってみるとこんな風に書かれている。

「犬の目はもともと近視で、ピントを合わせる力が弱いといわれていますが、動くモノを見る、動体視力はすぐれていると思われます。
 たとえば、シェパードを使ったある実験では、動かないモノなら550m、動くモノなら825m離れた標的を見分けることができたそうです。視力のいいハウンド犬や牧羊犬では、1500m先で人が手を振っているのに気づくことができるという報告もあります」
(花王 ペットサイト 犬の不思議サイエンス)

思い起こせば我が家のサルーキたち。ハルもキナもナチもイリも、空を飛ぶカラスを見上げて憎々しげに追いかけたり、数十メートル先に檀家回りのお坊さん(イリは一時僧侶に預けられていた)を見かけてはしゃいだりするものだから、さすがサイトハウンド(視覚に頼って猟をする犬種のグループ)だけある。他の犬種ではこうはいかないだろう、と感心したものだ。

しかし今回、初めてサルーキ以外の犬種、コッカースパニエルを飼ってみて、サイトハウンドに限らず犬って目がいいんだと実感。

犬を置いて出かける時、四階のベランダからお見送りするのはマヤのお約束なのだが、下の道路までかなり距離があるというのに、ヘボピーの姿が視界に入るや否やちゃんと見つけて、見えなくなるまで眺めている。
「近眼だが動体視力はすぐれている」のなら、歩き方のくせでヘボピーを見分けているのだろうか?いずれにせよ、とても「近眼」とは思えない認識ぶりである。

それに視力だけではない。記憶力も馬鹿にできないと見た。
父に似た雰囲気の老人や、カナのようにマスクをした小太りの女性を見かけると、ハッ!?とした顔をして戸惑いがちに尻尾を振ったり、嬉しそうに突進しようとして、途中で違う人だと気付いたりする。

父と最後に合ったのは2年半も前のこと。それでも「あれれ?お父さんかな」とか「あっ!カナちゃんだ!」と知らない人を見つめるマヤには「死」の観念がなくて、犬の中では、すでにこの世にない人たちも変わらず生きているのだ。

他にも、犬の記憶力と認識能力の高さに驚いたことがある。あれはマヤを散歩させていた時のできごと。

滅多に通らない道を歩いていたマヤ、路肩にエンジンをかけたまま駐車している乗用車を目にしたとたん、猛然と突進!
「のせてください!のせてください!」キュンキュン鳴きながら車の周りをうろうろしている。
車は白いクラウンのアスリート。母がまだ生きていた2年以上前、友人が1,2ヶ月に一度のペースで母の老人ホームへ私とマヤを連れて行ってくれた車種だ。

母が亡くなってドライブに行くことがなくなってから後もしばらくは、自宅前の道路に停まっている車には、乗用車はおろかヤマト便のトラックにすら乗り込もうとしていたから、「この道路に停まっているのはぼくを乗せてくれるぶーぶー」と認識しているのだと思っていた。

しかしここは自宅からは数キロ離れた、風景も道路の様子も全く違う場所である。またこれまで、家から離れた場所でよその車に乗り込もうとしたことは無いし、「黒いクラウン・アスリート」にも「白いけれどアスリートじゃないクラウン」にも興味を示したことはない。
友人の車種と同じ「白い・クラウン・アスリート」だったから、「ぼくのぶーぶーだ!」だと一目散に駆け寄ったのだ。

足音や自動車のエンジン音を判別して、主人が家のドアを開ける前から犬が騒ぎ出す、という話はよく耳にするが、記憶の中にあるものと同じ車種まで見分けられるなんて思ってもみなかった。

いったい何がマヤの記憶を呼び覚ましたのだろう?「クラウン・アスリート」を小さな仕様の差で他のクラウンと見分ける芸当は、ぶーぶーマニアの5歳児ならいざ知らず、ワン公にはさすがに無理だと思う。
ならばエンジン音?排気ガスの匂い?いずれにせよ、自宅の車でもない、2年前に何度か乗っただけの車を覚えているなんて、犬の能力ってあなどれない。

「おすわり」と「まて」しかできないマヤちゃんだけど、ほんとは天才かも……というのは親バカにしても、認識能力においてかなり秀でているのかもしれない。この記憶力と認識能力を生かせば、マヤちゃん麻薬捜査犬になれたかもしれないね、とヘボピーと想像をめぐらせたりする。

「麻薬捜査犬」と書かれたチョッキを着てスーツケースベルトに飛び乗り、怪しい荷物をクンクンする、むくむくしたコッカースパニエル。
「空港のアイドルになるね!」「女の子が『キャー!かわいいっ!』って集まってくるよ」「税関のポスターにもなるね!」「『許しません白い粉、黒い武器』の横にキリッとしたマヤちゃんの写真が載るんだね!」と、「麻薬捜査犬・マヤ」の妄想は空の果てまで飛んでゆく。

だがいかん。私たちは忘れている。いかに能力が高くても、マヤには「すぐキレてマジ噛みする」という恐怖の悪癖があることを......。関空のアイドルどころか、麻薬を見つけるより先にキャビンアテンダントに噛み付いて、あっという間にクビだろう。

そういえば、この無駄に能力が高い犬は先日またしても、ヘボピーに飛びかかって噛み付いた。「流し台の下からしょうゆを取ろうとしただけ」なのになんて可哀想なヘボピーさん!(幸いなことに牙は入らなかったけれど、腕にすごい青あざできてました)

犬は鼻もいい、目もいい、耳もいい。そして思ってるよりずっと頭もいいことはよく分かったる。
でも、人間と仲良くしようと思ったら、牙の使い方を間違えちゃ駄目なんだよ!と話しかけても、ベッドで丸くなっている犬はうるさそうに薄目を開けただけで、すぐまたいびきをかき始めた。

きゅるんとしていますがうかつに手を出しては危険です

2015年2月9日(月)

法事がすんだ。いとこのマー君の7回忌。心臓が悪くて何度も死にかけた叔母は、一年前から「正浩の七回忌までは生きとかなあかん」と頑張っていたので、さぞかしほっとしたことだろう。

生き続けるためにバクチみたいな心臓バイパス手術を経て、幸いにも一命を取りとめた叔母は、今ではびっくりするほど元気になって、「次は13回忌!」なんて言っているのがとても嬉しい。

私は親戚のことが大好きなのに、父も母もきょうだいが少なかったせいで、昭和30年代生まれの人間にしては叔父と叔母を合わせても6人しかいない。そのせいだろうか、一人一人が愛しくてたまらないのだ。

だから須磨子おばちゃんにも13回忌といわず、23回忌や33回忌も見届けて欲しい。
孫に囲まれて楽しそうな叔父や叔母を目にすると、自分の父母の小さなかけらがこれから先もこの世に生き続けているように思えて、ちょっと胸がじんとする。


それにしても因習や堅苦しい行事が嫌いで、あれこれ理由を付けて何とか逃げることばかり考えていた自分が、「法事って楽しい!」と思うようになるなんて!これも年を取って初めて分かる感覚なのだろうか。

そういえば父は年を取るにつれて法事が好きになってきて、「お前も一緒に来いや」とよく誘われたものだけれど、お父さん、香典ばっかり包んで!と当時はそんな父を冷たい目で見ていたものだ。
しかし、今は私をさそった気持ちが痛いほど分かる。一緒に行ってやればもっと楽しませてやれたのに、と後悔しきりである。

古い記憶を共有する血のつながった人間と、次はもう会えないかもしれないと感じながら、今はひとまず元気で集えたことを喜び合い、故人をしのびつつ昔話に花を咲かせる。死はひとごとではないことをひしひしと感じるからこそ、法事は楽しくてちょっと寂しい。

葬儀や法事に際して年寄りが口癖のように言うのを聞いたことがあるだろう。「こういう時でないと会えないからなあ」と。
これまでは単なる慣用句にすぎなかったこの言葉の重さを、この度はじめて理解した。

あちらで酒を酌み交わしている遠い親戚たちも、こちらで昔話をしている老いた5人姉妹も、きっと皆、若い頃は親戚付き合いなんてうとましいだけだっただろう。
それなのに長い年月を経て、法事があると何を置いても駆けつけたくなるなんて。人間とは不思議なものだ。

やがて会食もお開きとなり、参列者は一人、また一人と去ってゆく。楽しい日々の記憶を共有する人々を見送りながら、あの人もこの人も、顔を見るのはこれが最後かもしれないと考えるとそこはかとなく寂しい。
そしてその一方で、人生を静かに愛おしむ気持ちもまた湧いてきた。ほんとうに、人間とはしみじみと不思議なものだ。


今、私が会社のパソコンの壁紙に設定している画像をごらんください。 ヒマラヤマーモットだそうです。お尻がマヤちゃんにそっくり!
おばあちゃんにもぶりついてる絵がもーたまらん好きで、辛くなってくるとこれを眺めています。するとほわーんと楽しい気持ちになって、また仕事に戻れるのです。

2015年2月7日(土)

出勤前、自転車にまたがりマンションから外に出るドアを開けようとすると、入ってくる人がドアを押さえて待っていてくれた。
「ありがとうございます!」すれ違う時そう言うと、カナの声が唐突に、今まさにすぐそばで聞こえたみたいに鮮やかに蘇って驚いた。

私とヘボピーは顔のつくりも近いし、声は電話では聞き分けがつかないくらい似ているのに対して、カナだけは顔は丸顔、声もぜんぜん違っていたのだが、やはり姉妹、音質は近かったのかもしれない。
そして思い出したのは、カナのあやまりぐせ。「ありがとうございます」「すみません」ばかり言ってたなあ、と懐かしさが胸にこみあげてきた。

そうなんだ、気の弱いカナはすぐに「すみません、すみません」と言うものだから、母も二人の姉も「こんな場面であやまる必要ないよ。ぺこぺこしなさんな!」とよく叱ったものだ。

でも、あやまりぐせは最後まで変わらなかった。私たちはそんなカナが卑屈に見えて腹が立ったのだけれど、外の世界が怖くて仕方のない者にとって「ごめんなさい」は、攻撃から身を守るせめてもの方策だったのだろう。

それに、自己防衛のためにまず噛みつく人よりも、あやまってしまう人の方が私ははるかに好きだ。
私たちの妹は気が弱くて繊細な子でよかった。人をいじめる側じゃなくて本当によかった。だからこそ残された姉たちの苦しみは大きいし、ほんの少しでいいから攻撃性があれば、あんな形で死んでしまうこともなかったのだろうが。

それでも今、身が引きちぎれるほど悲しくて、カナに会いたくてたまらないことは、死んだ後になお嫌悪を残されるよりもはるかに幸せなのかもしれない。
そんな風に思いながら自転車をこいだ。青い空が目に入った時、カナがカラオケに行くといつも最後に歌ってくれた「空をみなよ」(シャ乱Q)のメロディーを思い出して胸が詰まった。


さて、今日は休日だがこれから法事。38才の若さで亡くなったいとこの7回忌である。

いとこのマー君は自動車で単独事故を起こし、ほぼ即死に近い状態で逝ってしまった。
とても愉快で親思いの優しい子だったけれど、死んでから最後の親孝行──1億近い保険金を遺して、経済的にどん底だった両親は老後の安心を得ることができた。

それでもどうだったろう。叔父も叔母も一番可愛がっていた息子に先立たれたれるくらいなら、お金なんか要らなかったと言うに違いない。でも借金を遺したカナよりはずっとマシだと私は時々カナに怒りたくなる。
いや、もう金なかくそくらえだから遺産なんか要らない。けれども借金はねえだろ、借金は。……とまとまりのないところだが、ここらで止めて準備をする。電車に乗り遅れたら大事だ。

2,3日空きますがまたお会いしましょう。ひとます精神的には少しましです、私のことは心配しないでください。

2015年2月5日(木)

(すみません、精神状態最悪です)

昨夜は夜中に目覚めてそのまま眠れなくなるパターンだった。この一ヶ月間ほどよく眠れていたのに久々のことだ。こうなると精神状態が一気に悪化する。眠れないとどうしてもカナのことばかり考えてしまって、発狂しそうになる。

あの時、少しでもお金を渡していれば死なずに済んだのでは?あの時、家をのぞいていればカナはまだこの世にいたのでは?あの時、無理に実家に連れて帰っていれば……。
どうしてあんな酷い死に方をさせてしまったのか。どうして借金があることに気付いてやれなかったのか。どんなに辛かっただろう。そんな思いで頭が一杯になるのだ。

今日はこれから会社だが、正直辛い。行きたくない。何度「体調が悪いので昼から行きます」と電話しようと思ったことか。
でも仕事で気を紛らわせないとますます酷くなるだろうから、歯を食いしばって行ってくる。

この程度の状態を「生き地獄」と呼ぶのは間違いとは分かっているけど、そう呼ばせてくれよ!と、誰に対してでもないけれど、怒りたくなる。
少なくともこれまでの人生で一番の危機なのは間違いない。毎日「もう限界だ」と思いながらもなんとか生きているのだが。

でもまあ、がんばれる限りがんばってみるしか方法はない。まだマヤを見送るという仕事が残っているからがんばるしかない。

1月25日、マヤちゃん12才のお誕生会。

毎年こうしてお肉の上に旗を立ててやる。
来年もまた立てられますように!

2015年2月3日(火)

夢の中で科学者の助手になっていた。そして「先生、霊界なんてものは本当にあるんでしょうか?私にはどうしても信じられなくて」と問うていた。

すると先生、余裕しゃくしゃくの微笑みを浮かべるのだ。
「霊界は確かに存在しておるよ。おっ、ちょうどいい時間だ。今から面白いことをして見せるから傘を一本持ってきなさい」「かっ、傘ですか?」
戸惑う私に先生は続けた。「どの傘でもいいから。そう、そのピンクのやつがいい」

そして私に傘を開かせると空を見上げる先生。ぶ厚い雲に包まれた空は、今から何かとてつもないことが起こりそうな、不穏な雰囲気をかもしだしている。
そのありさまはそう……「幽遊白書」で仙水が魔界への扉を開け放とうとするシーンとか、「ゴーストバスターズ」で大魔王が光臨せんとするシーンとか、まあ、いわゆるひとつの「地球最後の日」っぽい空である。

真っ黒な雲が渦巻く中、たった一カ所のみ光が差している部分を先生は指さした。
「私の亡き妻はあの向こうにいる。今からそれを見せてあげよう」そして命じた。「傘をあそこに向けて思い切り突き上げるんだ!」

言われるがままにピンクの傘を天に向かって、私は思い切り突き上げる。「わっしょい!わっしょい!」
「もっと力強く全力で!」
9回の裏、ツーアウト満塁でラストバッターを迎えたスワローズファンのように無心で突き上げる。「わっしょい!わっしょい!」
「ダメだ!お前の本気はそんなものか?」
容赦ないダメ出しにむち打たれ、右手がじんじんしびれてきた。
もうダメだ……。腕が上がらない……とその時。

「しゅうぅうううぅう──っ!」
傘はもぎ取られるように私の手を離れ、しゅぱっ!と閉じるや先生が指さした雲の切れ目にまっすぐに、矢のように飛んでゆき、空のかなたに消えてしまった。

「せ、先生……?」驚きのあまり二の句が継げない私に先生は微笑む。「まあもう少し待ってなさい」

そしてしばらくの後、嘘のように雲が消え失せたまっさおな空の向こうから、ピンクの傘が主人のもとに走り寄る忠犬のように、まっしぐらに私に向かってすっ飛んできたではないか!

運動神経ゼロの私は感動よりも「上手くつかまないとささるーっ!」という恐怖心で一杯だったがそこは夢。運動オンチの手の中に、時速100キロで飛んできた傘はすぽっと入った。
そして傘を開いてみるとそこに記されていたのは「徳子」の二文字。先生の亡くなった奥さんの名前だ。

ああ、霊界は本当に存在していて、カナもきっとそこにいるんだ!そんな小さな希望が胸の奥に芽生えたところで目が覚めた。目覚めると傘の振りすぎて腕がずきずきして、スワローズファンって大変だなと思った。