2014年8月28日(木) ![]() 母が亡くなった夜にもまた、空にはスーパームーンがかかっていた。 だからスーパームーンより少しだけ早いわけけれども故人が喜びそうだから、 「カナが死んだ夜はスーパームーンだった。両親と同じく、レアな月の日に旅立った」ということにしといてやろう。 道路を叩く激しい雨の音で目が覚めた。窓を開けたまま寝ていると昨夜までの蒸し暑さがうそみたいに肌寒くて、うっかり風邪をひきそうだ。 今日は燃えないゴミの日だから出社前に自転車を飛ばして妹の家まで行き、ゴミを捨てる予定だったのに、この雨足ではむつかしい。早く不動産屋にアパートを明け渡したいが、雨が邪魔して作業が進まない。
こんなストレスを抱えながら毎日会社に行ってきちんと仕事をしているのが不思議にも思えるけれど、緊張が続いている時にはミスをしないものかもしれない。使い古された陳腐な表現だが、胸にぽっかり開いた穴を風が寒々しい音を立てながら通り抜けてゆくような、そんな気持ちとは分離したもののように、これまで20年間繰り返してきた仕事を機械的に片づけてゆく身体に驚きを感じる。 それにしても……。働いて金を稼いでどうなるというのか。老後を不安がり、あわよくば自分だけではなく妹たちと一緒に暮らしてゆけるだけの蓄財したいものだと貯蓄や投資にあけくれてきた自分が阿呆に思える。全てが馬鹿馬鹿しい。見えない将来を不安視して両手いっぱいに貯めこむことは害毒でしかなかったと痛感する。 妹の死を経て、どうも私はお金が嫌いになってしまったようだ。金銭にこだわり続けた数十年間を経て、ようやくその嫌らしい執着を捨てられたのはこんなことがきっかけだとは! 妹の死因。解剖直後には「心臓疾患の疑い」とされていたけれど、あれから監察室から電話があり、尿を詳細に分析したところ、まごうことなき「熱中症」だと告げられた。 発見時には窓が5センチほどしか開いておらず、エアコンも扇風機も止まった状態だった。8月8日と9日、関西地方は台風に襲われて気温は低かったはずなのだが、それでもヒートアイランド現象の起きる都心の古いアパートの部屋は、思うよりも温度が上がったのかもしれない。 いずれにせよ、その数日前に精神科医に相談して睡眠薬の種類を変えてもらったばかりの妹は、電気代を節約してエアコンはおろか扇風機まで止めた部屋で、服薬して深い眠りに落ち、眠っている間に熱中症で死亡したのだろう。44才の健常者なら命を落とすことは考えられないパターンだが、「台風で涼しいから扇風機はつけなくて大丈夫だろう」と思ったのかもしれない。 それにしても私にとって救いがたくショックなことは、妹の財布に数十円しかなかったことである。光熱費も6月から滞納していたようで、葬儀の翌日が電気代の最終支払日。それを超えると電気を止められると分かって、あわてて支払った。 なぜ、そんなにお金がなかったのか?これまでにも数回、「ぼんやりしていて生活保護事務所から振り込まれたばかりの保護費を落としてしまった」と言われてはお金を与えたことが数回あったけれども、今回も紛失してしまったのだろうか?もう何度目にもなるからそれを私に言えなかったのか? 本人が死んでしまった今、すべては分からずじまいであるものの、お金さえあれば妹は死ぬことがなかったのではなかろうかという思いが止められない。それもたったの10万もあれば目先の問題は解決してやれただろうに。 いけない、カナが生きていれば45才の誕生日を祝って楽しく過ごすはずだった日に、こんなに暗くなっていては。さて、今日は午前中だけ仕事をして、午後からはヘボピーと合流して妹の部屋の片づけだ。 |
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今日は悲しいおしらせがありますので、少し行間をあけさせて頂きます。 まだ10日しか経っていないので、お見苦しいところがあってもご容赦いただけると幸いです。 2014年8月19日(火) ウミツバメは、手すりから軽く飛び立って、あの美しい長い翼を空中に広げました。翼は、ちっとも羽ばたきさせず、思いのままに風に乗って、その鳥は船をまわって高く飛びあがり、メイン・マストの先をかすめました。それから、一息に北を指して飛んで行きました。 「ジョン・ドリトル先生、さようなら。」とウミツバメは、空から叫びました。「さようなら、御幸運を祈ります。」 私の傍に、先生は身動きもせずに立っていました。その目は、鳥が白い波頭の上をかすめて、見えなくなっていくのを見送っていました。 「わしはな、スタビンス君。」最後に、先生はつぶやきました。「この自分自身、つまり医師以外のものになりたいと思ったことはない。だが、もし、何かの機会で、わしが何かになれるとしたら、わしは、あれになりたいと思うよ。世界じゅうのどの生き物よりも、あの嵐をつげるウミツバメになりたいよ。」 <ドリトル先生と秘密の湖より 訳・井伏鱒二>
その時、私はウミツバメに何を見ていたのだろう。 それとも、さようなら、さようならと叫びながら広々とした世界に飛び去ってゆくツバメと、小さな姿が見えなくなるまでそれを見送る先生に、妹と、自分の姿を重ね合わせたのだろうか。 末の妹が死んだ。死因も死亡時間も、死亡日すらもはっきりとは分からないままに、あっさりと44年の人生を閉じてしまった。
私はまず人をねたんだり憎んだりすることがない。すこぶるおだやかな人間だと思う。 このままでは悪しきものにつけ込まれ、「もののけ姫」に登場するイノシシの族長、乙事主のようにタタリ神と化しそうなので、必死で己をいましめてはいるものの、妹の遺体を発見した時に腹の底からわきあがった気持ち──怒りが唐突によみがえるのだ。
ひょっとするとまだ息があるんじゃないか?寝てるだけじゃないか? 金持ちの家に生まれて面白おかしく生きている人々もいるというのに、生活保護で行きたい病院にも簡単に行けない貧乏人のまま、電気代を節約して扇風機を止めたままのクソ暑い部屋で、最後は腐って終わりかよ!
だからこそ私は家族に執着して、父母の死を悼みつづけ、次に遠いところへ行ってしまうであろう老犬マヤに、ありったけの愛情と体力と時間をさいていた。 だというのに、なぜ平均寿命が90年に近い生き物が、それも自分より6才も若い人間がこんなに唐突に逝ってしまうのだ? 三回忌を目前にした今、父に対する後悔は徐々に薄れて、私はようやく前向きな気持ちになっていた。 問題が大きすぎてこれまで妹の心の病と本気で向き合うことはしなかったけれど、私にとって守るべき存在は、もうマヤとカナしか残っていない。 ならばここは腹をくくって、じっくり妹に付き合ってやろう。そう心を決めた矢先だった。ただ、寿命の短い犬に比べると、人間にはまだまだ時間はある。急ぐことはないと思っていたのだ。 けれど、急ぎすぎるくらいでちょうど良かったらしい。私はまたやってしまった! そう、今回もちょっとした面倒くささを我慢して、銀行回りのついでにあと5分余分に自転車にまたがり妹の家をのぞいておけば、ひょっとすると妹はまだ元気にしていたかもしれない。そうでなくとも、最後にもう1,2回言葉を交わすことくらいできたはずだ。 カナ(香苗)は、幼い頃からいじめられっこで要領が悪くて、いつもおどおどして人に気ばかり遣って、体が弱くてすぐに疲れて一日中寝てばかりで、おまけに心も弱くてちょっときついことを言うとすぐ半泣きになるものだから、「いい年をしてこれでは……」と、私とヘボピーはしょっちゅうため息をついていた。 それでも自分なりに一生懸命だったのは疑いようがない。 まるで小学生がそのまま大人になったみたいなところがあって、姉たちは「これでは先が思いやられるなあ」と眉間にしわを寄せたものだけれど、世間ではよく言うではないか。頭や肉体の発達が遅れたりなにかが足りずに生まれてきた者は、普通の人よりも神さまに愛される存在だと。 今になって振り返ると、カナは私たちよりずっと神さまに近かったように思える。 ファックスの設定が終わったらファミレスにでも行って、それからカラオケで私が覚えたばかりのアニソンを教えてやろう。 ただ、その数日前から、電話をかけてもずっと話し中なのが少し気にかかっていた。
スマホかパソコンを買ってやれば多少は世界が広がるだろうかとも考えたものの、月7千円近い料金を肩代わりしてやることは、手取り月収20万にすぎない私には厳しくて、与えられないままだった。 そんなわけで妹に連絡を取ろうとすれば、家まで行くしかなかったのだ。(父が急死した時などは葬儀の準備もあって忙しいのにこの子は……と情けなくて涙が出たものだが) エレベーターのない薄暗いアパートの、急な階段を四階まで上がって、踊り場に立ったとき、ほのかに昨日嗅いだのと同じ臭い──冷蔵庫に入れるのを忘れてうっかり腐らせてしまった豚肉に似た匂いがした。 だが、誰かがゴミでも腐らせたんだろうとあまり深くは考えないままに、ドアを開けて布団の上にうつ伏せで寝ている妹を目にした時も思ったのだ。どうせまた眠り込んでるんだろう、と。 おそるおそる近づいて背中に目をやると、もともとひどいアトピーでまだらになっていた背中の色が、いつもより黒い気がした。ひざをついてカナ、カナ、と呼びかけながらのぞき込むと、腕と指先が目に入った。 ただ、今思えば髪の毛がかぶさっており顔は見ることがなかったのが救いだ。私はとても怖がりなので、ちゃあちゃ(妹たちは私をこう呼ぶ)には見せないでおこう、と気遣ってくれたのだと信じている。 本人確認は、警察が現場で撮ったデジカメ写真の顔を見て、ヘボピーが済ませてくれた。 それからは数時間に渡る現場検証、検死官の調査の後、遺体は医大に送られて翌日の解剖結果待ちとなった。 葬儀はしなかった。幸いなことに腐敗はさして進行していなかったとはいえ、顔の変色がはじまっており、「最後のお別れ」ができないところへ、遠方から年老いた親戚たちに来てもらうまでもないと判断したのだ。 棺には母と一緒に写った写真、よく使っていた身の回りの小物や財布、CDなどを入れてやり、手当たり次第に花屋で選んだ花を思い切りたくさん入れてやった。 また、「もうすぐお誕生日だったんですから」と葬儀社も花束をプレゼントしてくれたのも嬉しかった。私の手当たり次第とは違い、大きくて素敵な花束だった。 焼き場では私とヘボピー二人だけで見送ることになると思っていたけれど、カナを知る私の友人I氏が駆けつけてくれて、三人でお骨あげをした。 そして今、妹は骨となって、父と、母と、イリと並んで座っている。 私たち二人の姉は、駄目な末妹が予想外に手間をかけずに去ってしまったことにすっかり脱力して、すべてが虚しく馬鹿馬鹿しく思えてたまらない。 だから今はただ、声を掛けてやりたい。 カナ、よくがんばったね!あんたは本当にがんばりやさんだった。 でも、やっと楽になったんだから、もういいよね。終わったことだ。 天国ではお父さんと和解しなきゃだめだよ。イリも、ハルも、キナも、おばあちゃんも、あんたの好きな人や犬がみんないて楽しいでしょ?もちろんお母さんもね。 時が過ぎるのはあっという間。人生は長そうで意外と長くないものだから、私がそっちに行くのもそう先のことではないよ。 じゃ、また会おうぜ! ![]() さて、長々とお読みくださってありがとうございました。 私とヘボピーは明日からもあとしばらく生きて行かざるを得ないなら、人生の無駄遣いをしないように、カナの分までびっしり生きてやるつもりです。 追伸・メールの返信はしばらくできませんのでどうぞご容赦を……。 |
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2014年8月9日(土)
アドテクノロジー(広告関連技術)の進歩はめざましい。ちょっと前までなら私の人生パターンには縁もゆかりもない、ゼクシィとか進研ゼミからの誤爆があってイラッときたものだ。 しかし最近はポータルサイトを開くと「このごろ朝がつらい……」「加齢臭、気になりませんか?」「墓のない人生ははかない人生」みたいな中年世代にジャストフィットな広告がとっかえひっかえ展開されるもので、おおきなお世話じゃ!と別の意味でイラッとくる毎日。 そんなある日、下の日記に書いた本のタイトルを特定するために、たて続けにグーグルで「いきもの」「物語」「野生動物」「シートン動物記」「忠犬」といった単語を入力したせいだろう。ついにターゲティング広告が「注目のヤフーオークション、良品です!」と牙をむきだしたオオカミの剥製をぶつけてきた。リターゲティング機能、いい仕事してますねぇ〜〜〜(#^ω^)
なになに、「アドテクノロジーは徐々に広告全体を浸食する」。 そんな力強い推奨コメントと共にGS様が強力プッシュするのは、アドテク関連銘柄のファンコミュニケーションとフリークアウト。
まあよく考えると名前(フリーク)からしてリスキーだよな。それに仮にも上場会社なら、落ち着きに欠けるにもほどがあるホームページ(☆)をなんとかせえ!……と逆ギレしてもあとのまつり。アフターリオのカーニバル。 そんなこんなで、空売りしかやらないというマイルールを破り、証券会社のハメ込みにつかまったバカな自分を恨みつつ、アドテクの進歩によって的確に表示される投資信託やらFXやら不動産経営やらの広告を、今日も涙で曇った目で眺めてます。 投資はすべて自己責任。ご利用は計画的に! さすがアドテク世界の異端児。フリークでアウト!と変に感心したのは置いといて、よければご自分でググってみてください。厨二なホームページデザインもさることながら、トップページで社長がきっちり腕組んじゃってるから。「経営者腕組みの法則」が発動してるから! なお<腕組みの法則>とは、会社のホームページやインタビュー記事などで、経営者がドヤ顔で腕を組んだ写真を載せている会社には気をつけろ!という意味の、投資の世界のことばだよ。 |
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2014年8月6日(水) 幼い頃に親しく触れあった本を読み直している。 好きだったのは実在の、または空想上の生き物が活躍する物語。小学校の図書館では動物が登場すると見るや片っ端から借りてきて、ついには読みたい本がなくなったのを覚えている。 残念なことに当時好きだった本の多くはタイトルも、おおまかなストーリーすらも忘れてしまって、記憶に残っているのは当時、ひどく心打たれた断片的な場面のみ。今はネットで「あの本のタイトル教えてください」と書き込むと親切な人が答えてくれるようだけれど、記憶の断片があまりにも小さくて聞くに聞けないのだ。 中でも今、必死で記憶の糸をたぐりつつ、ネットを駆使して調べているのが「どうぶつのはなし」という感じのタイトルの、ハードカバーの本である。 しかし振り返ってみると、どうもその本の中のエピソードが大人になった今なお、心の奥のどこかに深く根を張っているような気がしてたまらない。 そのあたりを確かめたくてたまらないのに、運の悪いことに、40年近く我が家にあったその本はつい最近捨ててしまった。 本の中で一番印象に残っているのはボンベイの遺跡から発掘された一頭の犬の遺骸(正確には石膏像)。犬はなにかを守るような姿勢をとっており、その足元に幼い主人を認めた時、発掘隊の人々は感動の涙を流したのでした……という話だった。 ボンベイのこの話はネットでも確認できたが、他にはどんな話がおさめられたいたのだろう?知りたくてたまらないのに、アマゾンや古本屋、児童書のサイトを見てもどうしても分からない。子供ですら「この本イマイチだなぁ」と感じた取るに足らない本だったから、時の流れに押し流されてしまったのだろうか。 ああ、ひもで束ねられた状態で何ヶ月もの間、台所に隅に積み重ねられていたというのに!あの時ちょっとひもをほどいて引き抜いていれば、こんな苦労をすることもなかったのに……と後悔してももう遅い。古本屋の前を通りかかると、児童書のコーナーをのぞく日々である。 厚さ約3センチ、ハードカバー外箱付き。タイトルには「どうぶつ」か「動物」が入っており、背表紙には銀色が使われ皇帝ペンギンの親子が描かれている。(それが、他の本と束ねられた状態でしか見てないので、表紙は全く覚えていないのだ!)中身は動物にまつわる短編集。 |
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2014年8月5日(火) はっ?!ぐずぐずしてるともう8月5日?!! これって一体どういうこと?と考えたら、加齢と共に情報処理能力が猛烈な勢いで衰えつつあるため、という結論に達した。 それにしても自分が30代40代の頃は、50代の人はみな元気そうで、40代とはあまり変わらない知力、体力を保っているように見えていた。けれど、みんなこんな風に己の老化におののいていたのだろうか。 こう人に話すとみんな「考えすぎだよー、ミキさんは疲れてるんだよ」と言われるのだが、今のところとりたてて疲れる理由はないのだよね。 もの忘れがひどい、言葉がスムーズに出てこない、知っていたはずの情報を頭から引っぱり出せない。このあたりまでは誰にでもある老化、しゃーないな、と思っていたけど、近頃は認知能力がものすごい勢いで低下しているのはイヤな感じがする。 ぎりぎりセーフで錠剤はゴミ箱の中から拾い上げ、会社の書類は上司に回す前にたまたま気が付いたからよかったようなものの、お高い薬や仕事のミスが絡んでくると、さすがに「これが老化、しゃーないな」なんてヘラヘラしてられない気分だ。 悪いことに2,3日前から足の静脈瘤が悪化、歩くのが辛いレベルになってきて、ますます憂鬱。 ……と相変わらずぼやいてばかりの毎日だけど、なんとかかんとかやってます。最近はドリトル先生とキルラキル(アニメな)に興味がわきつつあるので、そのあたりの話もまた折を見て。 |
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2014年8月1日(金) ![]() いつもこうして一緒に買い物に来ては、店から出てきたおねえちゃんにパンのかけらを口に入れてもらうのが楽しみなんだ。 先日、久しぶりに犬──アフガンハウンドのことを調べていた。というのはアフガニスタン大使館のスタッフが、ツイッターで「大使館のアルバムで1970年代のこんな写真を見つけたよ」とアップなさっていた写真に、遠い記憶がものすごい勢いで蘇ったからである。 そこに写っていたのはクリーム色のアフガンとハンドラーと審査員。アフガニスタン大使館協賛という背景や、審査員の持っているリボンから推察するに、アフガンハウンドの単独展(一犬種だけで行われるドッグショー)だと思われる。 この写真には確かに見覚えがある。アフガンもハンドラーも審査員も、名前が喉元まで出てくるけれど、あと一息で思い出せないのがはがゆい。 ……我ながらものすごい推理力である。そしてものすごく無駄な作業である。それでも喉にひっかかった小骨を取りたくて、一生懸命ネットをさまよった。 きっと当時の「愛犬ジャーナル」(商業誌としてはありえんほどマニアックな雑誌。当然ながら廃刊)の古い号を開けば載っているのだろうが、押入の奥の奥まで探す時間はない。 それにしても、とおの昔にこの世から去った一匹の犬のことを、35年を隔てた今、飼い主でもない、ハンドラーでもない、それどころか実物はおろか、写真でしか見たことがない人間が必死になって思い出そうとしているなんて、なんだかちょっと不思議な感じがする。 そういえば、誰が作ったかも分からない古代エジプトの小さな遺物に触れた時にも、これと同じ感じを抱くことがある。 |