2013年7月31日(水) ちかごろこの日記の誤字脱字単語の重複が多くてはずかしい。以前なら気付いてすぐに訂正してたんだけど、今はどこが間違ってたのか5分経つと忘れてしまうので、もういいや……とうっちゃりっぱなし。 そうなんだ。逃げの王道「疲れてるから」と「更年期障害」はできるだけ使わないでおこうと思いながらも、口を開けば「疲れた・しんどい・ホットフラッシュが辛い」と言ってしまう自分がキライになりそうな今日このごろ。 そんな中、引き出しの整理をしていると、懐かしい写真が出てきてちょっと元気が出たような。 淡路島のホテルが六本木・J men's TOKYOのショーをやった時に、ヘボピーに誘われて行った母がダンサーと撮った写真だ。 J men's TOKYOとは、15年ほど前の筋肉さわりたガールの間では、知らなきゃモグリと言われたショーパブというか、おしゃれストリップ小屋というか。 はるばる海を越えてYENを集めにやってきたムキムキマッチョの美丈夫たちが、ちんまいステージ狭しと踊り狂い、インターバルではなんと!もっこりパンツ一丁で客席の間をチョウのように飛び回り、あまつさえ汗まみれのビキニにお札(現金をお店の発行するチップに交換してもらう方式)を突っ込ませてくれるという、思いだしただけでも微笑みがもれる夢の国。実際、若い娘さんを連れて行った時には「パラダイスですねぇ……」と半分魂がぬけた状態であった。 そんなJ men's TOKYO、関西地方でも外貨をかせごうと各地のホテルなどでショーをやっており、そこに母とヘボピーと叔母が三人で乗り込んだのだ。 そもそも『ターミネーター2』のシュワちゃん大好きという母、半裸の殿方が舞い踊るショーが嫌いなはずはない。パンツにお札はさみタイムでは、興奮のあまりどんどんチップを買おうと、万札を振り回し黒服を呼ぼうとしたため、叔母に「ねえちゃん……やめときぃな……」と半泣きで止められたらしい。 そういえば、母は自分の葬式プランも立てていた。もちろん冗談なんだけど、「私が死んだらお棺は4人のムキムキマンにかつがせて、赤じゅうたんの上を歩いて欲しいなあ」と言っていたものだ。きっと頭の中にはシュワちゃんとか、J men's TOKYOのダンサーたちの姿があったのだろう。 その台詞はヘボピーも覚えていたようで、葬儀の日に「ゴールドジムでマッチョを4人調達してきて、お棺を運んでもらうとかどうよ?」と言ったのは、あながち冗談ばかりってわけでもないと思う。 こんな写真がひょっこり出てきたせいだろうか、昨夜、夢に母が出てきた。 それなのに、口を開いて何か言おうとするから必死で耳をすましたら、もつれる舌で「いい じんせいだった」。 そうかな、いい人生だったのかな。母は幼い頃に苦労したし、末の妹が荒れた時にも筆舌に尽くしがたい苦労をした。 マッチョではじめたのに結局は湿っぽくなって申し訳ない。それでもこの写真を見ていると、あの世の母が「ああ!面白かった!」と言っているようで、私の気持ちもほんのすこし安らいだ。 |
||||||||||||||||
2013年7月29日(月) 今年のバーゼルコレクションで発表されたヴァン・クリーフ&アーペルの新作。 「8時位置のボタンを押すと、バレリーナのチュチュが上方に開いて、左側では時間、右側は分を表示、4秒間停止した後に元に戻る」と、普通の文字盤に慣れた目には不親切な気がするこの時計は1312万5000円。いらんわ。 昨日は久々に活動的だった管理人。というのは10時から5時まで豚っこ大将をわんわん美容院・夏の丸刈りフェアに参加させたため、その間は犬のことを気に病まずにすんだからだ。 マヤは父が亡くなってからこちら、平日の日中はずっとひとりぼっちで留守番しているのが哀れで哀れでもーたまらなくってさ……。罪滅ぼしといってはなんだが、休日はできる限り家でいっしょにいてやるんだけど、これがけっこう束縛されるのだ。 そんな中、昨日は突如として自責の念にかられたらしいヘボピーが「マヤちゃんを迎えに行ってやろうか?」と殊勝なことを申し出てくれたので、犬を預けてからそのまま外出、自宅に戻って寝るまでずっとフリーダムを満喫。 10時に犬を預けて、電車に乗って明石まで行って、あさっぱらから明石焼きをアテにビールをグビグビ。食べ終わるとまた電車に乗ってマッサージショップでありえないほど大奮発、一万円もはたいてリフレクソロジー(足つぼマッサージ)とハンドマッサージとヘッドマッサージをしてもらったよ。 それから向かったのは下町の名画座。チューハイとスルメを買って行こうと映画館の向かいのスーパーにダッシュしたら、つぶれていて絶望した……。 しょーがないからUCCの缶コーヒー(関西人的には貧乏くさいイメージらしいが、缶ドリンクでこれが一番好きなんだ)を片手に見たのは『ナバロンの要塞』。1961年公開の映画をフィルム上映してるってすごい話だ。 映画鑑賞後は、戦争映画の興奮を胸にラウンドワンへ。前に行った時には照準むちゃくちゃでゲームにならなかったウォートランは、見事に調整され不死鳥のごとく蘇っていて喜びを感じた。 あとは一枚2千円の服を3枚購入してから、ラーメン屋で豚足をアテにまたビール。おなかいっぱい!と思いつつも、ラーメンが食べたくなって追加したら、案の定食べ過ぎで胃がキリキリ、大後悔。 まあそんな感じでちょっとはリフレッシュできた感じです。 |
||||||||||||||||
2013年7月27日(土) 鏡を通り抜けて向こう側の世界に行ってしまった少年たちと、あちらとこちら、二手に分かれて鏡の割れ目から空き缶をパスし合う遊びをするという、夢分析的にはいかがなものかって感じの夢を見ていたよ……。 目覚めると枕元から射し込む日の光。ちょうど朝日が昇る時間だ。起きあがってカーテンを開けると、雑居ビルの間にしずしずと昇りゆく太陽はいつもより赤くて、エジプト・カルナック大神殿で見た朝日を思いだした。 ふと足元に目をやると、あらま、クローゼットに太陽が映っているじゃないの。この家に住んで10年以上になるけれど、今の今まで気付かなかった。 年に2回、冬至と夏至に日の出の光が奥の至聖所まで届いて四体の神像の顔を照らすという、アブシンベル神殿ほどのレア度ではなかろうが、今日は太陽と窓とクローゼットの角度がちょうどいい日だったんだろう。代わり映えしない日常にも、ささやかな発見はあるものだなぁとしみじみ。 鬱の源はまたしても父への後悔。我ながらしつこい性格だ。すでに納得のいった話だと思っていたのに、死去から一年未満くらいでは、そう易々とは逃がしてもらえないらしい。 意志疎通が不可能だった母とは違って、父は最期まで頭だけはしゃんとしていた。目がよく見えなくて足も萎えていたけれど、記憶力はすごいものだった。だからこそ自分が更年期のヒステリーなんかおこさず繊細にケアをしていれば、ゆったりと豊かな老後を過ごさせてやれたのに!という後悔が、来る日も来る日もチクチクと私を苛む。 それでも、うじうしたってもう遅い、と気持を盛り経たせるため、綺麗でハッピーな昔のミュージカル映画ばかり選んで見ているのだが……。これがまた鬱を引き起こす。 父はDVDの再生だけはボタンを手探りしてできたものの、若者でさえ迷う音声・字幕の設定は無理だった。(あの設定画面はなぜあそこまでややこしくデザインするのか!もうちょっと年寄りのこと考えやがれとオバちゃん思うの) だから父のために借りてくるDVDは古い邦画ばかり。黒澤明も岡本喜八も木下恵介もDVD化されている作品の数はしれているから、同じ映画を何度も何度も見せていた。 だからこのところ昔の映画を見るとき、感動とは別の涙が流れることが多い。 モンローの『紳士は金髪がお好き』では、こんなに可愛くて楽しい映画、お父さんが見たらさぞ喜んだろうなあ!と思って泣き、ディズニーの『101匹わんちゃん』では、デブで食いしん坊の子犬の「おなかがすいが、ほんとだよ」という台詞をマネする父の裏声を思いだして泣き、ヘプバーンの『パリの恋人』を見ては、ロマンチックな画面を見つめたであろう父の、老いて小さくなった背中を想像してまた泣いて……と、涙が枯渇しそうな勢い。 それでも人の記憶はいつか必ず風化する。父の声や表情の記憶は年月の経過と共に漠然としたものになり、やがて時折想い出すだけになる日が来るであろうと想像すると、それはそれで悲しいものだ。 だから、たとえ憂鬱と戦うことは辛くとも、父の姿がまぶたの裏にありありと蘇る今のうちに、ありったけの記憶を引っ張り出して悲しめる間は悲しんでおこう。
|
||||||||||||||||
2013年7月24日(水)
|
||||||||||||||||
2013年7月21日(日) ふと思い出したこと。私が中学生の頃、NHKの海外ドラマ「大草原の家」をみんなで見るのが好きだった。 ──私が死んでも微笑みの中で思い出してください。涙でしか思い出せないのなら、いっそ思い出さないでください──はっきりとは覚えていないがこんな台詞だった。 この場面で母はオンオン声を上げて泣きながら「私が死ぬ時も同じ事を言うと思う。お前、覚えておいてね」と言ったのだ。死は遠い未来のことだったとはいえ、私にとってもこの手紙はひどく悲しかったので、涙を流しながら母の言葉に耳を傾けた。 母が去った今、あれは正確にはどういう台詞だったのだろうと調べてみた。すると……。 「思い出」Remember Me (part1 & part2) ジュリア・サンダーソン未亡人にはジョンJr、カール、アリシアの3人の子どもたちがいます。けれどもある日、余命いくばくもないとベイカー先生から知らされ、勇敢にも死ぬ前に子ども達を引き取ってくれる家庭を探しはじめます。 遺言は「私のことを笑顔で思い出して。私もあななたちの笑顔を覚えているんですからね。 そうだ、これは正に母の言いたかったことだ。いや私の母のみならず、すべての母親の心を代弁する言葉だと思う。 今はまだ母を想い出す時、tearsとsmilesが半々くらいだけれど、微笑みの中で想い出せる日はやがて来るだろう。 |
||||||||||||||||
2013年7月20日(土) 喪失の哀しみがじわじわきている。お別れまでに9年以上の猶予をもらえた母の場合、予想だにしていなかった死が突然訪れた父の時に比べれば、精神的なダメージは少なくて、なんだかあっけないなぁと思っていた。 確かにそう。父が去った時には後悔に殺されそうで精神科の扉を叩く寸前までいったけれど、今はそこまで追いつめられていない。心は凪いだ海のように静か。 母がアルツハイマーと診断された日のことを時々振り返る。「この病気の平均余命は10年です」という医師の言葉。 また同時に、私がお母さんのことあまりにも好きすぎて、もしもガンや事故での死別なら後追いするのは確実だから、10年という長い時間を与えられたこと、これは、別れは誰にでも訪れるものだけれど、10年あげるからゆっくり心の準備をなさい、という天の差配なのか?と自分勝手に思ったこともよく覚えている。 でも10年は先にあっては遠い未来だが、過ぎ去ってみるとあっという間だった。 古いメモ帳を取り出して繰ってみると、2004年2月25日の欄に「母 アルツハイマー宣告」と書かれている。
振り返ると、嫌なこと、苦しかったことはよく覚えていない。覚えているのはひたすら強く優しく、愉快で涙もろくて、時々イジワルで可愛らしい母の姿だけだ。 アルツイハイマー末期には何も認識できなくなると言われるけれども、深いところでは元のままの母が残っていたに違いない。そう確信するほど、家族とホームのスタッフ双方の後悔を最小限に収める、気遣い屋の母らしい最期だった。 昔から「尊敬している人は?」と問われた時には母ですと即答したものだ。己の親に対してなんのてらいもなくこう答えられることは、この上ない幸せだろう。 でも母はもういない。意志疎通が不可能になってから長かったとはいえ、語りかけるべき肉体が地上にないことがこれほどまでに虚しいとは!
これは、未来に希望を託せる子供がただの一人もいない家庭構成ゆえの感傷かもしれないけれど、家族の物語を共有するメンバーが舞台のすそから次々と消えてゆくことは、予想をはるかに超えて辛いものだと思い知った。 だから言いたい。親御さんと仲がいいなら一緒にいる時間をできるだけ持つべきだと。また今あまり仲が良くないとしても、可能ならば関係を修復して欲しい。 生まれたばかりのあなたを胸に抱いた喜び、成長する幼子の姿を最も濃く記憶に残しているのは父母に他ならない。 親との別れはいつか訪れるもの。それでも私は父母と話し足りなかったという後悔で胸が痛い。 だから親御さんが元気な方々には、ちょっとだけ時間をさいて話を聞いて、成人の目で家族の歴史を解読してみることをお勧めする。 |
||||||||||||||||
2013年7月20日(土)
|
||||||||||||||||
2013年7月19日(金)
|
||||||||||||||||
2013年7月17日(水) 長い文章を書く気力がないもので、ビデオレター代わりに写真でもアップして、そこそこ元気ですよとお伝えします。
|
||||||||||||||||
2013年7月14日(日) うぁあぁああぁぁあ!!!『進撃の巨人』、アラームかけてたのに眠気に負けて見逃してもたぁああぁあ!第2シーズンでオープニング画像が変わってたってのに!ブサメン(オルオ)見逃したぁあ!! あーあ、やっぱ疲れてんのかな……。昨夜は久々に十三のバーJに行ったんだけど、お勘定を忘れて出てきちゃった。帰宅後に「あれ?お金払ったっけ?」とはたと気付いたものの、払ったか否かあやふやだったもんだからオーナーのTさんにメールしたら、「もらい忘れてました」って……どっちもどっちや、とか言ったら叱られる。 話かわるが昨夜、バーに来ていた女装子さん(PCエンジニア)から聞いたんだけど、CDやHDに保存した画像データは記憶媒体の劣化と共に消えてしまうものだから、定期的にコピーを作り直さなきゃ駄目!ぜったい!なんだってね。 いや、私もCDーRは頼りにならんもんだとは以前から知っていた。はじめてそれを知った時にはもーびびりまくって、それ以降50枚入りタワーの安いCD−Rを使うのはやめ、太陽誘電社製の高いやつに切り替えた上でコピーを二枚づつ作り、さらに外付けHDにも焼くようにしていたのだが……。それでもまだ甘いらしい。 女装子さんはどうしているかというと、5枚のHD上にデータを移しているそうだ。でも普通はなかなかそこまでできないよね。どうすればいいでしょうと尋ねると、異なるメーカーのCD−Rに2枚、外付けHD二つに焼けば、安心度はかなり上がるよと言われたもんで、早急にHDをもうひとつ買ってくる。 それでもデータ保存においてより安心なのは、より原始的なものだから、紙に焼くのが一番だと聞いてなるほどー!と思った。 でも、「写真はプリントアウトして保存するのが一番安全」と言われても、すでにある何万枚もの写真をプリントしようと思ったら、いくらお金がかかることやら。なにより置く場所に困る。 それでももう二度と撮り直すことのできない家族や犬たちの写真は、お金がとか場所がとか言ってないで、とっととプリントアウトしなくては……と思いながら写真をいじってると、あらっ!もうでかける時間。なんかこのところ時間の感覚が鈍い。この日記も誤字脱字同じ単語反復が多いし、やっぱ疲れてんのかな……。 さて、これから親戚の墓参りの手伝いに、電車に乗っていってきます。親がいなくなったからって残された親戚孝行にいそしむ自分、すごい寂しんぼさんみたいで恥ずかしいんだけど、優しい叔父叔母はそのあたり分かってくれてるので、素直な姪はせこせこ通います。 ←「紙に焼けかぁ……」と思いながらデジタルカメラが登場する前──フィルムカメラの時代のアルバムを開いてたら、恐ろしい写真がぞくぞくと。 これはその一枚、バブルまっさかりの頃の管理人。ピンキー&ダイアンの白スーツにブルーのブラウス。シャネルのフーシャピンクの口紅に眉ばっちり。今なら白スーツなんぞUSJのイベント進行役しか着てそうにないが、当時はこれでも地味すぎるほどだったんだぜ!
|
||||||||||||||||
2013年7月12日(金) 徐々に日常モードに戻りつつある。母を喪った寂しさもさほど感じなくなった。姿を変えて自分の中にいる気がするからだ。 ただ、しょっちゅう父母に話しかけているせいで、傍目に見ると独り言が多くて危ない人に見られそうなのが問題だ。まあブツブツ言うTPOを選ぶくらいの判断力はまだあるから、きっと大丈夫……だろう。
末妹はパチンコに明け暮れているみたいだし、ヘボピーに至ってはやることなさすぎて教会に通うようになったらしい。数年後には洗礼を受けてるんじゃないか?と予想させるほどの方向転換だけど、対象が何であれ心の支えを見つけるのはいいことだ。 私は信仰という方向には行かないだろうけど、情熱を注ぐもの、守るべきものを早急に見つけなきゃならないとは思ってる。カレでもカノジョでもいいから探してみるか、いやむしろ結婚して老いた旦那の世話をする方が、「守るべき対象」という意味ではガチガチに堅いかもしれない。mっs堅すぎて途中でイヤになりそうだけどな……。 ……なんてうつらうつら考えながら、相変わらず気力を欠く日々。ベッドに寝ころがって携帯でツイッターやら2ちゃんまとめスレを見たり、同じ漫画を何度も繰り返し読んだりする怠惰な毎日。 漫画といえば、軽くマイブームがきてるのが『進撃の巨人』。以前から原作コミックは読んでいたけど、アニメ化をきっかけに腐女子界に嵐を巻き起こしているようだ。 進撃で同人しようかなあとも思ってみるものの、ブームのジャンルにつき描き手がものすごく多いせいで、人様の作品を見るだけで満足してしまうんだよね。 |
||||||||||||||||
2013年7月8日(月) 昨日、真夜中に目が覚めたとき、ベッドに眠る私を父母がのぞき込んでいるような気がした。それと同時に赤ん坊だった時の、 完全無欠の保護下にある安心とでも呼ぶべき感じが不意によみがえって、親の愛とは有り難いものだなあとうつらうつら思っていると、いつの間にかまた眠りに落ちていた。 新しい一週間がはじまった。 母が旅立って丸二週間。心にあるのは澄んだ寂しさとでも呼ぶべきものだけで、自分でもあっけなく思うほど悲しみは少ない。後悔に苦しみ悶え毎日泣き暮らした父の死の時とは大違いだ。
悲しみが少ない理由には、最後の一ヶ月、時間と気力と体力の限界までホームに通ったこと、そして息を引き取るまでの12時間、一睡もせずに話し続ける機会が持てた満足感もあるだろう。 そしてなによりも、さまざまな場面で「私にとっていいことは母にとっていいことで、母にとっていいことは私にとっていいこと」とひとかけらの疑いもなく言い切れる、母との間にあった絶対的な愛と信頼ゆえなのだろうだと考えている。今は私がこれでよかったと思っているから、母も「娘がよかったと思っていることに満足している」と信じられるのだ。 人生において「絶対」と呼べるものは滅多に手に入らないだろうが、母との信頼関係が絶対的であったと思えるのは、とても幸せなことだろう。
痰が喉に溜まってガラガラとうがいをするような音を絶え間なく立て続けた12時間は、苦しみを取り除いてやれないという意味で絶望的だったと同時に、不思議な静けさともう駄目かもしれないという諦念と、昔、いっしょに刺繍をしながら延々とおしゃべりをした時のような、なんともいえない楽しさにも充たされていた。 大好きな大好きなお母さん!あの時は楽しかったねえ。──ほら、イリを連れて山に登ったときのこと覚えてる?イリちゃんは可愛い犬だったね。今頃お父さんと散歩してるだろうね。 真夜中、ますます状態が悪化してきた時には、末妹と二人、本気で叱った。 夜が明ける頃にはのどが枯れて、話すこともなくなったから歌を歌った。ぜいぜいいう呼吸が今にも途絶えそうだったから、朝9時に看護士さんが来るまで、それが無理なら8時にヘボピーが到着するまでは、なんとしても気力をもたせて欲しかった。 夜が明けてからはひたすら神に祈った。常日頃から神社に参拝はしているけれど、あれほど必死で祈ったことはなかった。どうぞ母をお救い下さい、母の苦しみを取り除いてやってくださいと大きな声で願う自分の声が、がらんとした部屋に響き渡って頭がくらくらした。
智恵子抄の「亡き人に」の一節が心に染みいる日々である。 <ご連絡> このところスパムメールが激増しているため、メールソフトのフィルターレベルを上げています。 メールしたのに全く返信が無いなあという方は、お手数ですがサイトトップのメールフォームからご一報いただければ幸いです。 |
||||||||||||||||
2013年7月3日(水) どうもやる気が起こらない。当然だよね、まだ葬儀から一週間しか経っていないんだから。やらなくてはならないことは沢山あるのに、何にどう手を付けていいか分からなくてぼんやりしている。 ガルシア・マルケス、ユルスナール、ダニエル・キイスあたりを手にとって開いたものの、目に飛び込む文字の小ささに頭が痛くなったから、児童文学コーナーで子供の頃に読んだ本──『冒険者たち』『ドリトル先生航海記』『ながいながいペンギンのはなし』を選んでから、詩歌の棚に行って『三好達治詩集』を借りてきた。 夕食はサイゼリア。一週間に二度は来てるものでいいかげん飽きたものの、ワインが安くて長居できるからつい足が向く。 三好達治の作品では「花のたね」(「たまのうてなをきづくとも けふのうれゐをなにとせん はかなけれどもくれなゐの はなをたのみてまくたねや」)くらいしか好きじゃなかったのだけど、少女の頃には読み流していた詩の数々が、老いつつある今、ことのほか心に染み入った。 なんだかなあ、これが長く生きるってことなのかなと思うと同時に、自分よりもさらに数十年の年を重ねた父母は、己の歩んできた道をふと振り返った時、一体何を思ったんだろうか、とぼんやり考えたりした。
でもなをゑさん、入居者だったんだ。母の介護でホームに泊まり込んだ時(夜中の特別養護老人ホームを見られるなんて貴重な体験だった)なをゑさんの部屋があったから、ああこの人だと思って次の日に廊下で話しかけた。 そしたら交通事故で下半身不随になって入居はしているけれど、頭も口もいたって元気で。まだ自分の足で歩けていた頃の母のことも覚えていて、「お母ちゃん元気か?」と案じてくれたから、「ええ元気にしてますよ」と答えた。 そのなをゑさん、母が去った朝、私が葬儀社を待っている間のこと。「ねえちゃんねえちゃん」と呼ぶから何かと思えば、「これ、やるわ」。 これを眺めながら老いやら幸福やらについて、しみじみと考えている。 |
||||||||||||||||
2013年7月2日(火) 病気になるずっと前からやりかけのままほっぽりだしていて、「私が死んだらあんたら処分に困るね」と気にしていた刺繍とパッチワーク。道中一人では寂しかろうと、お供にクマのぬいぐるみ、お弁当にはところてんと御座候(回転まんじゅう)。 愛読書の『赤毛のアン』は書店で買えたけれど、限られた時間では山岸涼子の『妖精王』も小沢 真理の『世界でいちばん優しい音楽』も見つけられなかったから、代わりに『エロイカより愛をこめて』の7巻──少佐と伯爵とジェームス君はもとより、ロレンスもミーシャも白クマもサバーハもみんな登場して、一番楽しかった頃の巻を選んでお棺に入れた。 お気に入りだった白と黒の矢羽根模様のツーピース(親戚は一人残らずこの服を覚えていて「ああ!これこれ!覚えてる!」と笑った)をかけ、指には小さなビーズの指輪をはめた。
その間中CDプレイヤーから聞こえていたのは、マリア・カラスの『カスタ・ディーバ(清らかな女神)』。朗々たる歌声。 それでも不思議なほど私の心は静かだ。山の頂でひんやりした空気を肺いっぱいに吸いながら、眼前に広がるパノラマを一人眺めているような、そんな気持でいる。 この世で一番愛する者を失った時、泣いて泣いて立てなくなるほど気が抜けて、しばらく普通の生活すらままならなくなるのでは心配していたけど、涙すら思ったほど出なくて自分でも驚くほどだ。それはきっと母が長く病に苦しんだせいもあるのだろう。お母さん、やっと楽になれたね、もう体は羽毛みたいに軽いでしょ?と話しかけている。
何という長い9年間! それに死の3日前の血液検査では、血中蛋白濃度を示す数値が信じられないほど低下していたそうだ。「三木さんは丈夫だったんだね、こんな数値で生きている人を僕はこれまで見たことはない」と死亡を確認しに来た医師が言った。 それほど危うい際にあっても、20日木曜日に「状態がよくない」と連絡を受けてホームに飛んでいって、そして「搬送途中で死亡するリスクがあることも了承の上で、なんとしても火曜日にうちに連れて帰る」ことを決意してから4日間、母はがんばった。 最後の夜は私と末妹が一睡もせずにそばに付いていただけではなく、家に帰っていたヘボピーも始発のバスで飛んできて8時に到着。三人の娘が揃ったその15分後に息を引き取ったから、がんばってくれたんだなあ、としみじみ思う。友人が言った「お母さん、最後までカッコよかったね」と。 最後の息は私ではなくヘボピーの胸の中で引き取った。ヘボピーが顔をのぞき込みながら髪を撫で、「赤とんぼ」を聞かせている時に、ぜいぜいいう息がふっ……と止まったらしい。 「お母さんが死んだ!」
|